もし南海電気鉄道が○○だったら
ナビゲーションに移動
検索に移動
関西急行鉄道と合併しなかったら[編集 | ソースを編集]
昭和19年(1944年)、国家政策に基づいて関西急行鉄道(関急)と南海鉄道が合併し、近畿日本鉄道(近畿日本→近鉄)が発足しました。しかし戦後の昭和22年(1947年)に南海サイドが南海電気鉄道として分離し、現在に至っています。
ではもし、関西急行鉄道と南海鉄道が合併しなかったら?
- 関西急行鉄道側
- 近畿日本鉄道・近鉄という名称は生まれない。
- 南海を合併しないので、野球に興味を持たなかった。
- 近鉄パールズ→バファローズは生まれなかったかも。
- 藤井寺球場はあるので史実通り参入して、関急パールズ→バファローズは存在していた可能性も。
- 南海鉄道側
- 社名に「電気」が入ることはなかった。
- 高野山電気鉄道が箱根登山鉄道と同じく、未だに独立会社だったかもしれない。
- 極楽橋・高野山まで乗車した時の運賃は現在より高い。
- ただ沿線人口が少なく経営が安定しないので、戦後に現実通り南海に吸収合併されていたかもしれない。
- もしくは戦時中に水間鉄道も含めて南海に吸収されたかもしれない。下手すれば有田鉄道・御坊臨港鉄道・野上電気鉄道・和歌山電気軌道も同時に吸収されたかもしれない(紀北の交通は南海の独占に)。
- 和歌山鉄道(のちの貴志川線)も戦時中に南海に吸収された、その後旧和歌山電気軌道(のちの和歌山市内線)と一体化される。
- 御坊臨港鉄道は離れ小島路線のため、御坊南海鉄道とかになる。沿線の御坊南海バスも「御坊南海鉄道バス」になる。そして熊野交通と合併し、南紀鉄道とかの史実並みに壮大な名前になる。
大阪高野鉄道と合併しなかったら[編集 | ソースを編集]
東武鉄道の根津嘉一郎が経営に参加して再建し、南海鉄道に事業を譲渡したことでその一部となった大阪高野鉄道(現在の南海高野線)。ではもし、このとき事業を譲渡せずに独立会社として残ったとしたら?
終始独立会社として残る[編集 | ソースを編集]
- 汐見橋駅や汐見橋線は衰退せず、この辺りにも街が形成される。
- 大阪市営地下鉄や阪神の桜川駅は「汐見橋」を名乗っていた。
- 芦原町が大阪環状線芦原橋駅との乗換駅として注目され、大阪環状線開業時の段階で総合駅となる。
- 木津川(国道43号線)以北は新なにわ筋の地下に移設され、芦原町も地下駅となる。
- 大阪環状線芦原橋駅は快速停車駅となり、高野線の芦原町駅も優等列車が停車するようになっていた。
- 中百舌鳥で地下鉄御堂筋線に乗り換える乗客数が更に増えた。
- 高野鉄道泉北線として開通していれば、現実以上に乗り通し客が多い。
- あるいは泉北高速鉄道は御堂筋線の延伸区間として開業していた。
- なにわ筋線の計画が進み、梅田から極楽橋まで直通列車が走る。
- 特急こうやは梅田-極楽橋直通となるが、急行系統はなにわ筋線開通・橋本以北の車両大型化を機にすべて橋本で系統分割。
- 新大阪駅からJRに乗り入れ、京都―極楽橋直通となっていたかも。
- むしろ大阪市が嫌がらせとして千日前線を作ってしまい、いつになっても梅田乗り入れは実現しない。何せ史実の千日前線も近鉄・阪神の直通構想への嫌がらせの側面があった訳だから…。
- 高野山電気鉄道もそのまま独立会社として残り、高野下を境に運賃体系が変わる。当然、現実より高くなる。
- 戦後に合併していた可能性もある。
- 今宮戎や萩ノ茶屋は南海本線の普通が停車していた。
- 場合によっては難波-岸里玉出も方向別複々線になっている可能性も。
- 堺市の中心駅は堺東ではなく堺となる。
- 岸ノ里駅は南海との乗換駅として重視され、優等電車が停車。
- 南海ホークスの2軍本拠地は中百舌鳥ではなくなる。
- 南海本線沿線のどこかが2軍本拠地になる。
- 最終的に東武系列になっていた。
- 利用客数や路線規模を考えると、大手私鉄ではなく準大手私鉄になっていた可能性が高い。
- 地下鉄堺筋線が高野線と乗り換えられるように岸ノ里、あるいは住吉東あたりまで延伸していた。
- この場合地下鉄側の駅名がどうなっていたか気になる(四つ橋線に岸里駅があるため)。
南海と終戦後に統合[編集 | ソースを編集]
近鉄に南海と共に合併され、戦後に現実と同じ形で統合されて独立した場合。
- 汐見橋は戦前までは街と栄えるが、空襲の被害を受けた後に没落。
- 意外と、近鉄の現在で言う難波線ルートとして活用されてたかもね。
- 空襲被害も凄かったけど、とどめを刺したのは、貨物事業がなくなったことなんだがなぁ。
近鉄に残存[編集 | ソースを編集]
南海と共に近鉄に合併されるも、南海と違い大鉄(南大阪線)みたいに近鉄に残った場合。
- やはり汐見橋、芦原町の重要度は高いまま。
- 阪神と近鉄の境界駅は汐見橋になっていて、阪神なんば線は「西大阪線」のままになっている可能性も。
- 阪神との直通時には汐見橋駅が「大阪汐見橋(桜川)」に改名していた。
- 改軌の上で南海難波駅が移設され阪神や近鉄と同じホームに停まっていたかも。
- ターミナルを阿部野橋に統一する為にも、大阪万博に間に合わせる事を目標に阪和線に並行or上町線を買収・高規格化する形で連絡線の建設が検討される。
- 阪神と近鉄の境界駅は汐見橋になっていて、阪神なんば線は「西大阪線」のままになっている可能性も。
- 大阪阿部野橋(天王寺)に直通してるだけ長野線の価値が高まり、大阪阿部野橋~極楽橋の直通列車も走る。
- 極楽橋行き特急は大阪阿部野橋発となり、車両は吉野特急と共通運用で運転される。後には現実のさくらライナーと同じ車両で「こうやライナー」が運転される。
- 停車駅は当初橋本のみであったが、平成に入ってからは富田林・河内長野・林間田園都市にも停車するようになる。
- 長野線は全線複線化されていた。
- 現実の「こうや」とは異なり、毎時1本運転されていた。
- 特急料金も2000年以降は全区間均一料金に変更され、阿部野橋-極楽橋間の特急料金が値下げされていた。
- 極楽橋行き特急は大阪阿部野橋発となり、車両は吉野特急と共通運用で運転される。後には現実のさくらライナーと同じ車両で「こうやライナー」が運転される。
- 南海本線の特急「サザン」は全車両自由席となっていた。
- 車内はオール転換クロスシートを採用。現実には近鉄5200系が初めて採用した20m3扉オール転換クロスシートのレイアウトは南海電鉄が初採用していた。
- これに対抗するため、阪和線にも新快速が運転されている。
- 堺東駅・泉ヶ丘駅にある百貨店は高島屋ではなく近鉄百貨店となっていた。
- 泉北高速鉄道は近鉄の子会社として設立され、開業直前に近鉄に合併されて「近鉄泉北線」として開業した。運行形態は近鉄けいはんな線と同じような形態で、御堂筋線と直通する1435mm軌間の第三軌条路線となっていた。
- 三国ヶ丘で高野線から阪和線に乗り換えて大阪市内に向かう利用者が史実以上に多かった。三国ヶ丘には全列車が停車していた。
高野線が○○だったら[編集 | ソースを編集]
高野線の起点が堺駅だったら[編集 | ソースを編集]
南海高野線は現在正式には汐見橋~極楽橋間(実際の運行は難波発着)の路線となっていますが、当初は南海本線の堺駅を起点とする計画があったそうです。もし南海高野線の起点が堺駅となっていたら…。
- 高野線の電車は堺から南海本線に乗り入れ、当初から難波発着となっていた。
- 岸里玉出~汐見橋間は建設されなかった。
- 建設はされてたと思う。製鉄業や造船業の運送需要はあったから。人貨問わず。
- 難波~堺間は複々線化されていた。
- 湊くらいで分離する。次は仁徳御陵前かな。
- 粉浜~七道間で、南海本線側にホームがあるのは住吉大社駅だけになる。岸里玉出も高野線の列車しか停まらない。
- 堺東駅の位置が若干南西にずれていた。
- 堺市の中心駅は堺東駅ではなく堺駅だったかも。
- この場合高野線の優等列車は堺東駅に停まらなかったことから高野線・泉北高速線沿線から大阪市内への所要時間が現実よりも短縮されていた(天下茶屋~堺間は天下茶屋~堺東間よりも所要時間が短いため)。
- 堺市の中心駅は堺東駅ではなく堺駅だったかも。
- 高野線が堺市中心部を東西に貫くため、堺市のLRT計画は最初からなかった。
- 旧市内に汽車は通せん…大浜から松原まで路面電車が通っていたかも。
- 地下鉄谷町線は天王寺から堺東に向かっていた。
- 南海平野線は阪堺電気軌道の1路線として存続。
- 喜連瓜破から八尾南にかけては地下鉄千日前線が延長されている。
高野線の橋本以南も20m車が入線可能だったら[編集 | ソースを編集]
- 大運転の列車が削減されることはなかった。
- 南海2000系の処遇に困ることはなかった。
- 南海の車両は全て20m車になっていた。
- それでも九度山以南は急勾配があるため、オールMの専用車両となっていた。
- 11000系は「こうや」にも運用されていた。
- 30000系も20m車となり、31000系は登場しなかった。
- 「こうや」の座席定員が増えていた。
- 「泉北ライナー」用の12000系は山岳区間直通可能な仕様になり、繁忙期には「こうや」にも運用されていた。
高野線の橋本までの複線化が1980年代に完成していたら[編集 | ソースを編集]
- 史実には1995年に完成しました。
- 2000系の製造両数は現実よりも少なかった。
- その分8200系や1000系が増備されていた。
- 2000系が本線に転用されることはなかった。
- 21001系電車と22001系電車と2200系電車の置き換えも兼ねて製造されたので、少なくなることはなかったかと。(8200家電車と1000系電車は橋本以南への乗り入れができない。)
- 橋本駅は現実よりも拡張されていたかもしれない。
- 恐らく島式2面3線ホームになっていた。
- 橋本まで行く列車の本数が増えていた。
- その分林間田園都市折返しは少なくなっていた。
- 橋本から先のJR和歌山線への直通も検討されていたかもしれない。
- 御幸辻~橋本間の着工が史実よりも早まっていたら十分にあり得た。
- 小原田検車区が1990年までに完成していた。
- 1984年3月までに完成していたら、30000系電車が史実よりも多く製造されて、特急「こうや」が増発していた。
- 1989年9月に完成していたら、11000系電車が史実よりも多く製造されて、特急「りんかん」が増発していた。
- 美加の台住宅地と南海橋本林間田園都市の入居者人口が史実よりも増えていた。
- 橋本市は全国でも有数の人口増加率を誇るようになり、和歌山県内の市では和歌山市を除くと初の人口10万人を突破していた。
- 林間田園都市駅が島式ホーム2面4線を有する駅になっていた。(史実では、2面3線になっている。)
- 駅前には当初の予定通り高島屋ができていた。
野上電気鉄道と合併していたら[編集 | ソースを編集]
- 1971年までに合併が行われていた場合、南海和歌山軌道線は廃止されずに済んだ。
- 和歌山港線が海南まで延伸されていたかもしれない。この場合1985年まで運行されていた南紀直通列車は海南駅から紀勢本線に乗り入れていた。
- その場合和歌浦地区は衰退せず、むしろ関西の近郊観光地として発展していた。
- 紀三井寺へのアクセスにもなっていた。
- 和歌山マリーナシティへの利便性も高くなり、来場客も多くなっていた。
- あるいは和歌山港線海南延伸と引き換えに和歌山軌道線が廃止されていた。
- その際和歌山港線が本線に編入された可能性がある。
- 関西急行と合併しなかったら戦時統合でこうなった。
- 和歌山港線が海南まで延伸されていたかもしれない。この場合1985年まで運行されていた南紀直通列車は海南駅から紀勢本線に乗り入れていた。
- 車両は貴志川線と同じく1970年代に本線から移籍した1201系に置き換えられ、1990年代には高野線の2000系投入により余剰となった21000系または22000系を投入していた。
- 野鉄の軌道は1201系が入線できないほど軟弱だっだので軌道強化も行われていた。
- 下記のように和歌山軌道線とつながっていたらそれと共通運用だった。
- 路線名は「南海野上線」となっていた。
- 乗務員の態度は間違いなく良くなっていた。
- 乗客数も現実よりは多くなっていた。
- その結果、現在に至るまで路線が存続している。(現実には1994年廃止)
- 野鉄観光も南海グループ入りしていた。
- 大十は路線バス事業に参入しなかった。
- 現在は和歌山電鐡に移管されている。
- 連絡口~日方間は廃止され、連絡口駅のあった場所に海南駅が新設されていた。
- 南海和歌山軌道線とつながっていたら路面電車が直通、日方が海南の駅裏に移動して日方車庫になっているのでは。
- 貴志川線と接続させていた。
- おそらく和歌山軌道線経由になっている。
- 海南市が現実よりも発展している。
- 紀州路快速の終点も海南駅となっていた。
- もしくは現実の和歌山~(御坊・御坊~)紀伊田辺間の普通が紀州路快速になる形で紀伊田辺まで運行される。
- その場合紀州路快速の日根野以南は少なくとも御坊・紀伊田辺直通は速達運転が行われ、和泉砂川・紀伊・六十谷のみ停車となっていた。
- 紀勢線和歌山市~紀伊田辺間にICOCA対応改札が設置される。
- もしくは現実の和歌山~(御坊・御坊~)紀伊田辺間の普通が紀州路快速になる形で紀伊田辺まで運行される。
- 紀州路快速の終点も海南駅となっていた。
阪堺電気軌道が○○だったら[編集 | ソースを編集]
南海から分離しなかったら[編集 | ソースを編集]
- 堺市のLRT建設計画に伴い三セクへの運営移譲が検討されるも、市長交代により頓挫していた。
- 「堺トラム」が導入されていたかどうかも怪しい。
- 名鉄が軌道線を廃止した際に、こちらも廃止されるのではという噂が出ていたかもしれない。
- スルッとKANSAI参入に関しては現実よりも早かった。
- 現実には導入されなかった磁気カードシステムが導入されていた。ICカード導入についても現実より早かった。
- 住吉~住吉公園の廃止はなかったかも。
- 廃止の理由は住吉交差点のダイアモンドクロスのレールの交換費用が捻出できなかったためだが、大手なので何とか費用が捻出できたと考えられるため。
戦後南海が近鉄から分離する際近鉄側に残ったら[編集 | ソースを編集]
- 阪堺間では南海とライバル関係になっていた。
- 近鉄は対抗のため急行運転などテコ入れをしていたかも。
- 天王寺駅前~浜寺駅前の直通運転は現実よりも早く行われていた。
- 近鉄の初詣広告に住吉大社が載っていた。
- 戦後製造された車両は全て近畿車輛製となっていた。
- 「あべのハルカス」建設に合わせて天王寺駅前駅がハルカスの中に取り込まれていた。
- あるいは上町線を天王寺駅前から大阪上本町まで延伸し、奈良・大阪線と南大阪線の連絡線とする計画が浮上していた。
- 近鉄本体からの分社化は伊賀鉄道・養老鉄道と同時期の21世紀になってから行われる。
- 社名はやはり「阪堺電気軌道」。
- 戦前生まれの車両は比較的早くに置き換えられていた。
- 近鉄は堺市内にも路線を有していた時代もあった。
- 平野線は廃止されなかった。
- 近鉄は南海よりも政治力が強いらしいので。
- 平野線の八尾延伸も実現し、路面電車から高速鉄道に転換していた。車両は大阪線と共用。
- 南大阪線との交点に乗換え駅ができていた。
- 谷町線の天王寺以南はどうなっていたのだろうか?
- 阿倍野筋をそのまま南下して住吉区遠里小野まで延伸されていた。
- 瓜破・長吉などの平野区南部へは千日前線が南巽から延伸されていた。
上町線天王寺駅前~松虫間の地下化が実現していたら[編集 | ソースを編集]
上町線の天王寺駅前~松虫間は高度成長期に地下化する計画があったそうですが実現しませんでした。もしこの区間の地下化が実現していたら…。
- 地上の阿倍野筋の渋滞が緩和されていた。
- 阿倍野筋の近鉄前-阿倍野斎場間の拡幅も大阪万博に伴う交通整備と併せて昭和40年代に実施されていた。同時に天王寺駅と阿倍野駅を結ぶ地下街も建設されていた。
- 阿倍野再開発も史実よりも早く完成していた。
- 阿倍野筋の近鉄前-阿倍野斎場間の拡幅も大阪万博に伴う交通整備と併せて昭和40年代に実施されていた。同時に天王寺駅と阿倍野駅を結ぶ地下街も建設されていた。
- 天王寺駅前駅は大阪市高速電気軌道谷町線天王寺駅と一体構造となっていた。
- この場合谷町線の天王寺駅は史実とは異なりJR天王寺駅の南側に建設されていた。
- 駅間距離の関係で谷町線の阿倍野駅は開業しなかった可能性が高い。
- あべちかもJR天王寺駅南側の阿倍野筋の地下に建設されていた。谷町線天王寺駅の上部に造られるのは史実と同じ。
- ただJRの線路により南北に分断されているので、JR線の北側が北館、阿倍野筋の地下が南館となっていた。
- それでも谷町線との直通は規格の違いから実現していなかっただろう。
- 上町線が地下1階、谷町線が地下3階にホームがある構造になっていた。
- この場合谷町線の天王寺駅は史実とは異なりJR天王寺駅の南側に建設されていた。
- 日本でも路面電車が地下線を走る事例が生まれていた。
- ここ以外の路面電車でも地下化される場所が出ていた。
- 上手くいけば「富山よりも40年以上早くLRT化を進めた」と宣伝する事が出来たかもしれない。
- 既に京阪京津線があるが。
- 京津線は小型とは言え鉄道線タイプの車両なので、純然たる路面電車が地下を走っているという意味で珍しい光景となっていた。
- 大阪軌道線が阪堺電気軌道として分離独立するまで南海にも地下駅が存在していた。
- 地下化直後にトンネルへの自動車誤進入があったかもしれない。
- 防火上の観点から戦前生まれの車両は上町線で運用されず、阪堺線恵美須町口の専用車となっていた。
- 阿倍野電停で平野線への連絡線が地下で分岐するが、同線の廃止によりトンネルが塞がれていた。
泉北高速鉄道が○○だったら[編集 | ソースを編集]
最初から南海の路線だったら[編集 | ソースを編集]
泉北高速鉄道は当初南海電鉄の路線として構想されていましたが、南海側の事情により大阪府の第3セクターである大阪府都市開発が建設・経営し、南海に運行を委託する形になりました。もし当初から南海の路線として存在していたら…。
- 駅間距離が南海の既存路線並みになり、高速鉄道ではなかった。
- 駅:中百舌鳥 - 大阪府大前 - 土塔土師 - 深井 - 東山 - 深坂田園 - 泉ヶ丘 - 豊田 - 栂・美木多 - 高橋 - 光明池 - 室堂 - 和泉中央
- 大阪府大前駅は、位置によっては、南海唯一の地下駅になっていた。
- これは難しい。大阪府立大学の周りには古墳が多く埋まっており、下手に掘ると出土してしまいこれ以降の建設が頓挫してしまう(大阪府立大学の建物に地階がないのもこのため)。
- 大阪府大前駅は、位置によっては、南海唯一の地下駅になっていた。
- 泉北線内を急行運転する種別ができる。
- 停車駅:泉ヶ丘、栂・美木多、光明池、和泉中央
- 特急「いずみ」ができる。
- 停車駅:なんば、新今宮、天下茶屋、堺東、光明池、和泉中央
- 泉ヶ丘をお忘れなく。
- 停車駅:なんば、新今宮、天下茶屋、堺東、光明池、和泉中央
- 南海本線も泉州を走るのでその特急名は変えて欲しい。
- 現実には「泉北ライナー」となった。
- 駅:中百舌鳥 - 大阪府大前 - 土塔土師 - 深井 - 東山 - 深坂田園 - 泉ヶ丘 - 豊田 - 栂・美木多 - 高橋 - 光明池 - 室堂 - 和泉中央
- 「日本一高い料金」のイメージはなかった。
- ただ、京王相模原線などと同様加算運賃は設定されていた。
- 本線の岸和田辺りまで直通していた。
- 最終的に泉佐野へ延伸され、ラピートはαのみこちらを通る事になっている。
- でも距離が長くなるのでスピードアップしても結局所要時間は短縮されないのでは。
- 泉北高速鉄道が製造した100・3000・5000・7000系は存在しなかった。
- 100・3000系はそれぞれ南海6100・6200系の増備車となっていた。
- 5000系・7000系は南海1000系となっていた。
- 南海1000系は史実より2年早く登場していた。(南海1000系は1992年・泉北5000系は1990年登場)
- 南海8000系(2代目)が初めて投入されていたのは高野線となっていた。
- 南海線の走ルンですの本数があと2本増えていた。
南海高野線以外と相互直通運転していたら[編集 | ソースを編集]
現在南海高野線と相互直通運転している泉北高速鉄道ですが、計画段階では地下鉄御堂筋線や近鉄南大阪線など他の鉄道路線との直通運転も考えられていたそうです。もし泉北高速鉄道の直通相手が南海高野線以外だったら…
- 大阪市営地下鉄御堂筋線
- 当然750V第3軌条式、1435mm軌間となっていた。
- 泉北高速線の駅間距離が長いことから、第三軌条方式での最高速度100km/h運転が実現していた。
- 大阪市営地下鉄10系は史実(1973年に試作車登場)より2~3年早く登場し、しかも当初の計画であった100km/h運転が実現していた。
- 泉北ニュータウンが難波はもちろんのこと本町や梅田・新大阪と直結されることから、千里ニュータウンと同等かそれ以上に発展していた。
- 住宅地としてだけではなく業務地域としても発展していた。
- 地下鉄御堂筋線で急行運転が行われていた。
- 急行運転を行うのは天王寺―中百舌鳥間で、その間の停車駅は長居のみとなっていた。
- どこで通過待避するの?つまり無理だろ。
- 新大阪・梅田・難波・天王寺・長居を待避可能にする。快速は千里中央ー江坂ー新大阪ー梅田ー淀屋橋ーなんばー動物園前ー天王寺ー(長居)ー我孫子ーなかもずからの各駅
- 北花田~中百舌鳥のいずれかが待避可能になっていた。
- どこで通過待避するの?つまり無理だろ。
- 急行運転を行うのは天王寺―中百舌鳥間で、その間の停車駅は長居のみとなっていた。
- 御堂筋線の我孫子―中百舌鳥間は大阪万博開催と同時期に開業していた。
- 我孫子以南が高架線になっていた可能性もある。
- その場合だと我孫子以南で100km/h運転が実施されている。
- 新金岡に入庫引き込み線を兼ねた待避線が設置されていた。
- 白鷺経由になっていた可能性も。
- 我孫子以南が高架線になっていた可能性もある。
- 南海高野線の輸送量は現実より少なく、未だに南海本線の後塵を拝していた。
- 新車投入も南海線が優先されていた。
- 御堂筋線の10連化が早まっていた。
- 車庫も早い時期に中百舌鳥に移転していた。
- 和泉中央から先関西空港まで延伸されていたかも。
- 関西空港が大阪の大動脈である御堂筋線と直結されるので現実よりも使い勝手がよくなっていた。
- 大阪市営地下鉄民営化の際には地下鉄運営会社との合併が検討されていた。
- 堺筋線と乗り入れていた場合も同様。
- 泉北100系は北急2000形と同様、大阪市30系をベースにした車両になっていた。
- 1980年代後半になって大阪市20系をベースとしたVVVF車が導入されていた。
- JR阪和線
- おそらく百舌鳥あたりで分岐し、深井で現在線と合流していた。
- 阪和線の天王寺―百舌鳥間は複々線化されていた。
- なにわ筋線が早期に実現していた。
- 阪和線から大阪環状線への直通運転も史実より早く実現していた。
- 阪和貨物線の旅客化も実現し、おおさか東線に直通していた。
- 2014年にJR西日本の子会社になっていた。
- 泉北高速線に直通する快速電車には民営化後「泉北快速」とかいう愛称が付けられていた。
- 泉北快速の停車駅は堺市以北は関空・紀州路快速と同じで、堺市以南は各駅停車(百舌鳥にも停車)。
- 「泉北ライナー」は287・289系で運行されていた。
- 103系が駅間距離が長い泉北高速線を100km/hで爆走していた。
- 現在はさすがに置き換えられているだろうが、ニュータウン路線でラッシュ時は混雑するので223系や225系ではなくロングシートの321系あるいは323系が投入されていた。
- 泉北側の車両もこれに準じていた。
- 近鉄南大阪線
- おそらく河内天美で分岐していた。
- 大阪阿部野橋駅の乗降客数がさらに多くなり、近鉄ではダントツの1位を誇るようになっていた。
- 混雑緩和のため、大阪都心へのバイパス新線が建設されていた可能性もある。
- 近鉄は南海よりも経営基盤が強いので、自社の新線として建設していたかも。
- 水間鉄道
- 清児あたりで合流。
- ただし、水間鉄道乗り入れの手前の駅で前2両のみ切り離しての運転。
- 水間鉄道も早いうちにスルッと関西に加入。
- 採算があわない赤字路線。
- いや、泉北ニュータウンの通勤輸送があるので水間鉄道の経営状態は現実よりも良かったかも。あと社名も変更されていた可能性が高い。
- 水間鉄道の熊取~泉佐野市大木(さらには和歌山県打田町)への延伸計画がもうちょっと話題になった。でも計画のまま進展はしない。
- 岸和田市の山手の方もニュータウン開発が進んだ。
- 清児あたりから先、日根野までの延伸が実現していたかも。
- 関西空港までの直通電車も運行されていた。
- 大阪市営地下鉄堺筋線
- 当然1435mm軌間(1500V架線式)となっていた。
- 中百舌鳥へは御堂筋線ではなく堺筋線が延伸されていた。
- 杉本町も経由していたので、大阪市立大学への通学が便利になっていた。
- 府大と市大の統合後は杉本町と中百舌鳥の両キャンパスを結ぶようになる。
- 中百舌鳥には堺筋線の車庫も作られていた。
- 杉本町も経由していたので、大阪市立大学への通学が便利になっていた。
- 阪急河原町~和泉中央間に直通特急が運行されていた。
- それはないような気がするが、観光シーズンには和泉中央-嵐山間の臨時特急が運行されていた。
- 阪急電車が大和川以南に顔を出していた。
- 泉北高速鉄道はいずれは阪急系列になっていたかも。
- その場合、堺市内でも阪急が力を持っていた。
- 堺北花田阪急の閉店はなかったかも。
- 泉ヶ丘駅前にある百貨店も泉北髙島屋ではなく泉北阪急となっていた。
- その場合、堺市内でも阪急が力を持っていた。
- 開業当初は大阪市60系をベースにした車両になっていた。
- 但し接客設備はましになっていた。
- 1990年以降に66系ベースの車両に置き換えられている。
- 南海本線
- 湊駅で分岐し、上野芝を経由して深井へ向かい、そこから現実と同じルートとなっていた。
- 高野線よりも南海本線の方が線形が良いため、泉北ニュータウンから難波方面への所要時間が短縮されていた。
- 南海本線は湊駅以北が複々線化されている。
- 天下茶屋-石津川の高架化も史実より早く実施されていたかもしれない。
- 堺市の都心部である堺東駅周辺に行くには不便になっていた。
- その分本線の堺駅周辺が現実よりも発展していたかも。
- 大阪市営地下鉄千日前線
- ルートは南巽~平野~喜連瓜破~松原~美原~北野田~泉ヶ丘というルートになっていた。
- 千日前線は現実のように低迷せず、泉北ニュータウンをはじめ大阪府南東部からの幹線として機能していた。
- 恐らく松原あたりまでは大阪市交通局、そこからは泉北高速鉄道の路線となっていた。
- 高速運転のため千日前線は1500V架線式集電となっていた。
- 急行運転も行われていた。
- 谷町線が現実通りのルートをたどっていた場合、平野か喜連瓜破で谷町線と千日前線が合流していた。
- この場合、谷町線も架線式集電となり、京阪との乗り入れも考えられていた。
- 野田阪神以北も神崎川まで延伸し、阪急神戸線と乗り入れていた。
- 場合によっては阪急によって曽根を経て大阪空港への新線が建設されていた。
- 美原町は早くから発展し、堺市に合併される以前に単独で市制を施行していた。
- 近鉄南大阪線や南海高野線の利用客がこちらに奪われていた。
- 大阪市営地下鉄四つ橋線
- 住之江公園~大浜の計画線が建設され、大浜から南海本線からの分岐案と同じルートをたどっていた。
- 大阪市営地下鉄谷町線
- 喜連瓜破で東に曲がらず、まっすぐ南下していた。
- 八尾車庫は作られず、代わりに美原あたりに交通局の車庫が作られていた(光明池は現実通り泉北高速の車庫)。
- あるいは田辺あたりからまっすぐ南下していた。その場合南海平野線は廃止されなかったかも。
- 難波へは直通できないが、天王寺や梅田(東梅田)に直通できるようになっていた。
南海電鉄の子会社にならなかったら[編集 | ソースを編集]
- 今ごろ大阪に本社を置くどこかの企業の傘下になっていた。
- 社名も「大阪府都市開発」のままだったかもしれない。
- 3000系電車がなぜか南海に買われることはなかった。
- 南海8000系(2代)は製造中止にならず2015年まで増備が続けられた。
- 南海との直通が減っていたかもしれない。
- 中百舌鳥・三国ヶ丘を通過する泉北区急は廃止されていたかも。
- 準大手私鉄ではなく中小私鉄扱いだろう。
- 2015年4月に行われた南海との乗り継ぎ運賃の値下げはなかったか、現実より値下げ幅は少なかった。
- イベントに合わせて南海の「サザン」や「ラピート」が泉北高速線に乗り入れたり鉄道むすめに参加したりすることはなかった。
- 南海と相互にイベントをPRするヘッドマークが付くこともなかった。
- 泉北ライナーも運転されなかった。
- 中百舌鳥駅での地下鉄御堂筋線への乗り換えが便利になるよう中百舌鳥駅の改良工事が計画される。
- 9300系は南海8300系ベースの車両とならず、独自設計となっていた。
- というか、南海との車番の重複を気にしないでいいので、史実の9300系は8000系を名乗っていた。
紀和鉄道の買収が実現していたら[編集 | ソースを編集]
- 現在の和歌山線の五条-和歌山を建設した紀和鉄道は最終的に関西鉄道に買収されましたが、当初は南海への売却が有力視されてました。もし、南海が買収にこぎ着けていたら。
- 路線名は紀和線
- 紀伊中ノ島経由の旧線は存続していた。
- JR和歌山駅(旧国鉄東和歌山駅)への乗り入れは行われなかったかもしれない。
- 紀伊中ノ島には阪和線の快速列車が全列車停車していた。JRになってからは特急「くろしお」の一部も停車するようになった。
- むしろ紀伊中ノ島ができなかった可能性がある(史実では阪和電鉄開業後の設置)。出来たとしても三国ヶ丘同様、南海による阪和買収後だろう。
- 南海電鉄は奈良県内にも路線を保有していた。
- 橋本駅経由で高野線との直通も実現していた。
- 難波~五条・粉河に直通列車が運行されていた。
- 大阪市内~五条は橋本経由がメインになっていた。お陰で現実よりも和歌山県だと誤解されることが多くなっている。
- 五條市は奈良県内としては珍しく近鉄よりも南海がメインの地域となっている。
- 五條市の人口は現実より多かった。宅地開発も進んだ可能性あり。
- 五新線も開通していた場合、難波から五新線経由で新宮まで行く直通特急の運行も行われていた。
- 20000・30000系特急車はもう少し増備が行われ、喫茶・軽食を提供できるスナックコーナーも設置されていた。
- 直通特急の停車駅は新今宮・天下茶屋(2000年以降)・堺東・橋本・五条・城戸・阪本・上野地・十津川温泉・熊野本宮・湯の峰温泉・川湯温泉となっていた。
- 和歌山から高野山への直通も行われる。
- 高野線は橋本までで、高野山電気鉄道は高野口分岐になったかもしれない。
- その場合、橋本でスイッチバックを要したか、河内長野から橋本へは東から入る路線になっていた。
- 橋本から高野口までは紀和線と共用するので複線化も果たされただろう。難波からの大運転以外の急行もここまで直通した可能性あり。
- その場合、橋本でスイッチバックを要したか、河内長野から橋本へは東から入る路線になっていた。
- 電化は史実よりも早く行われていた。
- 北宇智のスイッチバック廃止も史実より早かったと思う。
- 高野線の河内長野~橋本間の線形改良及び複線化は現実よりも早く行われていた。
- 和歌山市駅が和歌山駅となり、史実より早く(旧)和歌山駅は紀和駅か東和歌山駅と改称された可能性がある。
- 後者の場合、阪和電鉄・紀勢東線の駅は新和歌山駅とでもなっていた可能性あり。
- 岸里玉出-橋本-和歌山市の三角形の内側で大回り乗車の特例が設けられていた。
- 貴志川線が和歌山市駅に乗り入れていた。
- 和歌山電鐵に経営譲渡されることはなかったかも。
- 田井ノ瀬~和歌山間は建設されず、田井ノ瀬~紀伊中ノ島~紀和が存続し、紀勢本線に属する紀和~和歌山市も南海の路線となっていた。
- 紀勢本線の列車は紀和から南海に乗り入れて和歌山市に発着していた。
- 紀勢本線の和歌山~紀和は南海への連絡線として機能していたものの、南海の南紀直通列車廃止と同時期に廃止されていた。
- 阪和線との乗換駅は紀伊中ノ島駅となっていたので、同駅は凋落しなかった。
- 南海の路線は岸里玉出~橋本~和歌山市で三角形を形成するので大回り乗車の特例が設けられていた。
- 吉野口駅で近鉄吉野線と連絡していることを利用し、近鉄と共同で高野山と吉野の観光キャンペーンをやっていた。
和歌山港線が○○だったら[編集 | ソースを編集]
本線の一部だったら[編集 | ソースを編集]
- 特急「サザン」の和歌山港行きが増えていた。
- 途中駅の廃止もなかった。
- それでも和歌山港-水軒の廃止は史実通りだっただろう。
- あるいはマリーナシティを経由して海南方面への延伸計画が出ていた。
和歌山電鐵が○○だったら[編集 | ソースを編集]
和歌山軌道線と同一規格に改修されていたら[編集 | ソースを編集]
- 勿論使用車両はそれと同一だった。
- 場合によってはそれ自体が現在も存続している。
南海の子会社だったら[編集 | ソースを編集]
- 近鉄から分社化された伊賀鉄や養鉄と同様の形だった。
- 和歌山軌道線が現在も存続していたらそれと一体で分社化され「和歌山電気軌道」になっていた。
複々線化が○○だったら[編集 | ソースを編集]
あの区間も行われていたら[編集 | ソースを編集]
住ノ江~堺間[編集 | ソースを編集]
- 準急の本数が増えていたかも。