もし東京メトロのあの路線が○○だったら

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延伸関連はもしあの鉄道路線が開業していたら/地下鉄にお願いします。

銀座線[編集 | ソースを編集]

他路線と直通運転を行なえたら[編集 | ソースを編集]

  1. 渋谷側は東急田園都市線の中央林間まで浅草側は東武伊勢崎線直通であろうか
    • 半蔵門線の直通がなくなる。
    • 浅草の東武ターミナルの地下化と少なくとも北千住への乗り入れ。
  2. 少なくとも三ノ輪延伸は実現していた。
    • 三ノ輪から日比谷線・伊勢崎線に乗り入れ。
  3. 京成線が青砥~上野間を作らず押上~浅草~上野を目論む。そしてやっぱり東武と争うことになる。
  4. 新橋から品川へ向かうのが本来の計画だった。よって京成、京急との三社直通が浅草線完成よりも先に実現した?
  5. 大変人気の高いスポットを結んでいる路線のため、我も我もと乗り入れ先が増えカオス状態に。そのためすぐダイヤが乱れるというデメリットが頻発。
  6. 渋谷から井の頭線に乗り入れ。
  7. 浅草から南千住まで延伸してつくばエクスプレスと直通運転していたりして。
    • さらに井の頭線にも乗り入れた場合、銀座線は(線路がつながっている丸ノ内線も含めて)標準軌から狭軌に改軌されている。
      • 最初から狭軌だった可能性も。
  8. ホームドアは作られない(どの路線に直通するかにもよるが)

東京市に買収されていたら[編集 | ソースを編集]

  1. 都制施行後、東京都の運営になる。
    • 都営地下鉄が現実より早く誕生。
  2. 東京高速鉄道も買収。
    • 遅くとも戦時統合で都営になっていると思われる。
  3. 都営地下鉄浅草線を建設することになったのは営団だったかもしれない。
    • そもそもこの場合だと営団が誕生せず、全線が東京市営→都営になっていた可能性が高い。

新橋駅を境に別の路線だったら[編集 | ソースを編集]

虎ノ門
Toranomon
 B 
08
新橋
Shimbashi
築地
Tsukiji
 B 
09
  1. 銀座線は浅草ー新橋間の路線になっていた。
    • 新橋ー渋谷間は「渋谷線」か。
      • ナンバリングはS、H、Iが埋まっているので「B」か、あるいは渋谷線がSになって新宿線が(JはIと紛らわしいため)Uになっていた。
  2. 「銀座線」は品川方面に「渋谷線」は築地方面に路線を伸ばしていた。
  3. 東京地下鉄道の幻のホームも普通に使われていた。

東京地下鉄道の経営権争奪戦で早川徳次が敗れていなかったら[編集 | ソースを編集]

  • かつて東京メトロ銀座線の北側を運営していた東京地下鉄道は、東京高速鉄道を運営していた五島慶太による株の買占めによって経営権争奪戦が発生し、その結果経営権が東京高速鉄道へと移動したという歴史があります。もし早川徳次が経営権を握り続けていたら?
  1. 史実とは逆に東京高速鉄道が東京地下鉄道を吸収する形で営団地下鉄が発足していた。
  2. 京浜電気鉄道との相互直通が実現していた
  3. 戦時統合により営団地下鉄・京浜地下鉄道・京浜電気鉄道・湘南電気鉄道の4社が合併し、史実より5年早く京浜急行電鉄が誕生していた。
    • 五島慶太が京浜電気鉄道の株主にならないため、いわゆる「大東急」は東急・小田急・京王の3社で発足していた。
    • 当時の鉄道省の思惑を考えると、最終的に京浜急行電鉄ごと国有化された可能性も否めない。
    • 五島慶太氏は「強盗慶太」と呼ばれなかった。
    • 日比谷線とかを東急が建設したりして、京急と東急が地下鉄の事業を行っていたかも。

池上まで延長されていたら[編集 | ソースを編集]

  • 東京地下鉄道の「浅草~上野間建設工事概要」には三田付近から池上へ延びる支線が描かれているそうです。
  1. ルートにもよるが浅草線の西馬込延長は行われなかった可能性が高い。
  2. 1972年までは銀座線とは別の路線だった。
    • 「城南線」辺りの名称が使われていた。
  3. 駅ナンバリングは「Gb」。少し前は「g」だった。
  4. 蒲蒲線計画に便乗して池上から蒲田まで延長、それから京急空港線に乗り入れて羽田空港への直通を目指す案が存在していた。
    • 少なくとも川島令三辺りは唱えていた気もしなくもない。

渋谷~新橋間を東京市が建設していたら[編集 | ソースを編集]

  • この区間の路線免許を東京高速鉄道に譲渡したことが東京市は地下鉄を運営できる能力なしと判断されて営団地下鉄誕生につながったとされる。
  1. 東京の地下鉄は東京都に一元化できていたかも。
  2. 史実通り営団地下鉄ができた場合は渋谷駅に乗り換え改札はなし、新橋駅も旧高速鉄道ホーム発着になる。
  3. 東急が地下鉄経営にタッチできないので地下鉄直通に消極的になっていた。

丸ノ内線[編集 | ソースを編集]

他路線と直通運転を行なえたら[編集 | ソースを編集]

  1. 荻窪から中央線高尾まで(東西線も便乗)直通運転になりそう
  2. 方南町支線は永福町方面へ延伸、井の頭線へ直通していた。
  3. 新宿御苑前から南新宿に伸ばされ、小田急と直通していたかもしれない。
  4. アルゼンチンへの車両譲渡はなかった。
    • その代わりに地方私鉄への譲渡が少なからず行われていた。

新宿以西の路線名が荻窪線のままだったら[編集 | ソースを編集]

  • 1972年まで新宿以西は本線・支線共に「荻窪線」という路線名でした。
  1. あくまでも案内状は丸ノ内線とは別路線になるので、駅ナンバリングの調整に手間取っていた。
    • O:大江戸線同様0と紛らわしいので没、G:銀座線と重複、I:ここで使ってしまうと三田線のローマ字が全て他路線と重複してしまう…となってしまう為、「K」が使用されていた可能性大。
  2. 12号線は全線が「大江戸線」という路線名にならなかったかもしれない。
    • この場合は環状部が史実通り、放射部が別の路線名になっている。
      • 「練馬線」だろうか。
  3. 「丸ノ内・荻窪線」として案内される事もしばしばあった。

日比谷線[編集 | ソースを編集]

20m級車10両編成対応で建設されていたら[編集 | ソースを編集]

  1. 千代田線は無かったことに。
    • それはどうだろう。現状千代田線自体パンク寸前なのに。
    • そんなに千代田線と日比谷線のどっちかが必要ないと思ってるのか?
    • 常磐線が洒落にならない混雑状況に?
  2. 東急東横線が10両対応化工事を行っていた。
    • 近い将来、一部駅でこれが現実になる。
      • 現実となりました。
  3. 東急や東武との従来車両との統一ができるため、東横線内急行といった電車が登場する。もっと言うと、今の元町中華街から東武動物公園を走破する電車も登場。
    • 逆に、東武伊勢崎線は浅草始発の各駅停車と日比谷線直通の優等列車に運転系統が変更され、半蔵門線は押上止まり。
    • こんなパターンもありうる。
      • 元町・中華街~中目黒~日比谷線~北千住~久喜・南栗橋
      • 中央林間~渋谷~半蔵門線~押上~北千住~久喜・南栗橋
      • 「みなとみらい号」は東武の南栗橋か久喜、場合によっては東武日光から発着していた。
    • 史実より早く東武の車両が東横線内を走る。
    • 副都心線・半蔵門線・日比谷線・東武伊勢崎線・東武日光線・東武東上線・西武池袋線・東急東横線が乗り入れし合うので、もしどこかがおくれれば…
      • みなとみらい線開業までは桜木町行きだった。
  4. 中目黒での脱線事故がもっと凄惨なものに…。
  5. 地下鉄サリン事件の被害もさらに拡大…。
  6. 東横線は副都心線へ乗り入れしない。
    • むしろ副都心線の全列車が中目黒まで乗り入れしそう。
    • 史実通りの乗り入れもあるだろう。この場合、元町・中華街~中目黒間は2つの東武線方面行き(本線系と東上線系)があるため、迷うことも。
  7. 東急や営団(当時)は先見の明がないと批判されない。
  8. 03系に6ドア車が連結されていた。
    • もちろん20000系や1000系にも同じく連結されていた。
  9. 中目黒から東急および地下鉄を介して東上線と伊勢崎線が同じ20m車で繋がる。例えば、東上線でしか見られない9000系電車が、伊勢崎線でも走る光景が見られる。
    • 同じホームなら2013年に中目黒で実現。
  10. 東武「スペーシア」に元町・中華街発着列車が登場していた。
    • そのままでは地下鉄に乗り入れられないので、専用車両が新造されていた。
      • そしてその車両はどことなく小田急MSEに似ていた。
    • その場合停車駅は(日光・鬼怒川方面)〜北千住〜上野〜銀座〜恵比寿〜中目黒〜自由が丘〜武蔵小杉〜菊名〜横浜〜みなとみらい〜元町・中華街 となっていた。
  11. もちろん東急との直通断絶は起こらない。
    • 日比直廃止は副都心線直通に伴う東横線のダイヤパターンの複雑化を避けたのも一因なのでどうだろうか。
    • そもそも副都心線が東横線に乗り入れていたのだろうか。
    • 一部列車を渋谷、中目黒折り返しにしたりはするだろう。
  12. さすがに目黒線と相鉄線は別路線扱いされる。
    • 目黒線と羽沢線・相鉄が乗り入れしていた。
  13. 13000系の登場は現実よりも遅くなっていた。
  14. 東急7000系(初代)は20m車体で製造されていた。
    • 史実通り田園都市線に7000系(初代)が投入されていた場合、場合によっては7200系も20m車体となっていたかもしれない。
      • 18m車両の絶対数が不足する以上、現在も池上線・東急多摩川線において初代6000系が現役。下手すりゃ3450形が更新を受けて残っている。
        • 東急が前向きだった場合は90年代中に1000系に統一され、現在では後続車両として2020系ベースの新型車両の投入が決定されている。
  15. 東横線に東急1000系の8連8編成は登場せず、9000系が投入されるに代わり、1000系の形式そのものは池上線専用だった。
    • 少なくとも9000系の一部は10両編成で登場し、23編成登場していた。
      • 9007Fは大井町線に登場しておらず、8両で東横線活躍していたのかもしれない。
      • 2000系すら形式区分で登場しなかった場合、9000系は最大26編成で製造されていた。
      • いや、東横線用はすべて8両編成揃えにして、直通車両は史実通り北千住折り返しで、03系・20000系の10連は東横線内全編成急行運転を実施していた。
        • この場合、急行停車駅の中目黒、都立大学、自由が丘、田園調布、多摩川、武蔵小杉、日吉、綱島、菊名、横浜、桜木町では、03系登場時に10連化対応していた。
          • しかし、どう足掻いても渋谷駅の10連化対応は建築限界により実施できず...。
      • 本数もそれなりに多いため史実と異なり、大井町線へ転用されることもなく、日比谷線直通運転撤退後も東横線に残留していた。
  16. 13000系・70000系は登場しなかった。
    • ホームドア設置の次第では置き換えはされていたのかもしれない。

第三軌条方式で建設されていたら[編集 | ソースを編集]

  • 当初の計画では丸ノ内線と同一規格(18m車・第三軌条方式)になる予定だったらしい。
  1. 当然ながら東武・東急との相互直通は無かった。
    • 東武は千代田線への乗り入れを希望するも、結局半蔵門線開業まで史実通りになりそう。
      • 一方で緩行線側にも20m車が導入されていた。
      • 北千住駅の構造が史実より複雑でなかった。
      • 半蔵門線は現実よりも早く押上まで開業し、東武と乗り入れいてた。
      • 地下鉄直通がなく高加減速車は必要ないので2000系は登場せず、高性能通勤車は1963年の8000系からとなっていた。
    • 日比谷線も軌間は1435mm、電圧は600Vで、保安装置も建設当初は打ち子式のATSであった。
    • 東急中目黒駅の急行停車は史実より10年以上遅れていた。
    • 東急7000系が史実通りに登場したかどうかも怪しく、日本でのオールステンレス車の登場は遅れていた可能性も。
  2. 竹ノ塚と鷺沼の車庫を借りることが出来ない為、千住検車区・工場が今でもフル稼働状態になっている。
    • 一方で中野工場への回送運用もいくらか見られる。
    • 千住工場で銀座線の車両も点検できるようにするために、銀座線の三ノ輪延伸が早期に実現していたかもしれない。
  3. 02系と03系が共通設計になっていた。
    • 現在では03系のB修工事が行われている。
    • 最近になって新型車両である3000系(13000系に非ず)の投入が発表された。
      • どことなくレトロ要素が盛り込まれていた。

北千住~六本木~渋谷の路線だったら[編集 | ソースを編集]

  • 日比谷線は六本木から直進すれば渋谷を経由しますが曲がり東横線との接続駅は中目黒です。
  1. 渋谷~六本木はバスを使う人が減っていた。
  2. 半蔵門線は最初から全ての地下鉄と乗り換えできた。
  3. 学芸大学駅は目黒中央駅になっていたかも。

東西線[編集 | ソースを編集]

西船橋以東へ延伸されていたら[編集 | ソースを編集]

地上区間が東葉高速鉄道だったら[編集 | ソースを編集]

妙典
Myoden
行徳
Gyotoku
原木中山
Baraki-nakayama
  1. 開業が遅れている。
    • 開業が遅れると総武線の混雑を緩和できなくなってしまうので、営団が全線建設し運営のみ東葉高速鉄道に任せていたかもしれない。
  2. 確実に値段が上がる。
    • 西船橋まではさすがに営団並みの運賃に抑えていただろう。
  3. 東陽町が境界か?
    • おそらく都内は営団の運営になるだろうから、千葉県に入って一駅目の浦安が境界になっていたのではないだろうか。
      • 当然ながら東西線の快速は開業時点で全列車が浦安に停車していた。
    • 高速鉄道になっていた。
  4. 旧05系ベースの車両が導入されていたかもしれない。
  5. 東葉高速鉄道の車両基地は八千代と妙典の二ヶ所に出来ていた。

千代田線[編集 | ソースを編集]

全車両が東西線と共通設計だったら[編集 | ソースを編集]

  • 史実でも東西線用の5000系や05系が使われたことがありますが、最初から東西線と車両が共通していたら?
  1. 6000系が設計されない可能性が高いので、7000系が全く別の外観になっていた。
    • 05系・06系・07系が全て同一デザインになっていたかもしれない。
  2. 「国鉄乗り入れの為に設備を共通化した」と言われている。
  3. ワイドドア車などはこちらにも導入されていたんだろうか?
    • 千代田線にワイドドア車が導入されない場合は、15000系と16000系でやっと別デザインに分かれる事になりそう。
    • 導入された場合、小田急もワイドドア車を乗り入れ用に導入していた。
      • 噂されていた2000形の千代田線乗り入れが実現していたかもしれない。
  4. 営団地下鉄が路線ごとに車両形式を変えないという方針をとっていたらあり得たかもしれない。その場合史実の営団8000系まで5000系が投入される。

地下鉄による護送計画が実現していたら[編集 | ソースを編集]

  • 霞ヶ関駅に引き込み線を建設して小菅の拘置所から特別電車を走行させる計画があったらしい。(作り話という説もある) 
  1. さすがに民営化前までには廃止されている。
    • 計画された70年代当時は過激派が毎日のように大量に検挙されていたという特殊事情があったため。
    • 廃止されたとなればトンネルも埋め戻されていたんだろうか?
      • ラッシュ時の霞ケ関始発・終着列車の留置線になっていた。
  2. 見えないようにカーテンを閉めて走行していた。
  3. 運転停車した場合、その駅で「顔」を撮ろうとマスコミが殺到していた。
    • 1日2回走らせる予定だったのでダイヤが決まっていたと思われるため。
    • 運行時間帯は駅ホームに警察官が配備されて物々しい雰囲気になっていた。
    • 駅だけでなく北千住-綾瀬or東京拘置所間の地上区間に多くのメディアが殺到していた可能性大。
    • 駅にメディアや野次馬が殺到するのを防ぐため、護送列車は深夜の一般列車終了後に運転されていた。
  4. 護送車両は警視庁の私有車で、国鉄に車籍を置くという形になっていただろうか。
    • 護送車両のことを取り上げた鉄道雑誌が国鉄から抗議を受けていた。
    • 車両自体は103系がベースになっているが、内部等は廃車後も一切公開されない。
  5. 東京拘置所及び東京地裁付近までの引き込み線は専用鉄道扱いになっており、厳密に言えば営団保有の線路ではなかったかもしれない。

開業当初から3社相互直通運転を行っていたら[編集 | ソースを編集]

  1. 小田急・営団(メトロ)・国鉄(JR)の車両はは3社直通使用になっていた。
  2. 小田急の利用者は国鉄の車両を敬遠していた。
  3. 投入される形式も最小限に抑えられる。
    • 203系の後継はいきなりe233系だった?

小田急側の乗り入れが新松田だったら[編集 | ソースを編集]

常磐緩行線のE233系の試運転は新松田まで行われた

  • また、E233系と16000系の方向幕には「新松田」の行き先がある。
  1. 伊勢原同様直通列車はわずかだった。
    • 日中の新松田始発の急行を直通に回すという方法もある。
  2. 小田急側の乗り入れ距離が長くなるのでJR直通はあったかどうかは?
    • 結果北綾瀬発着になる。
    • それでも向ヶ丘遊園始発のJR直通列車はあると思う。
    • 日中の直通列車の運用は向ヶ丘遊園~代々木上原~綾瀬~我孫子、新松田~代々木上原~北綾瀬の2パターン。
  3. =もし小田急が直通運転に積極的だったらである。

有楽町/副都心線[編集 | ソースを編集]

西武有楽町線が東京地下鉄の路線だったら[編集 | ソースを編集]

小竹向原
Kotake-mukaihara
 y 
05
地下鉄桜台
Chikatetsu-sakuradai
練馬
Nerima
 y 
06
  1. 有楽町線は練馬~小竹向原~新木場間の路線に対し命名され、和光市~小竹向原~新線池袋間は「副都心線」以外の別名称が与えられていた。
    • いや、和光市方面・練馬方面の両方に「有楽町線」「副都心線」の路線名が付されていたかもしれない。
    • 和光市〜小竹向原〜渋谷が「和光市支線→副都心線」になっていたかも。和光市〜新木場は「副都心線・有楽町線直通」。
  2. 新桜台駅から池袋方面の運賃が東京地下鉄のみになるため、新桜台駅の利用客が増えていた。
    • 「新桜台」ではなく「営団桜台」になり、東京メトロになってから「地下鉄桜台」に変更。
    • 「地下鉄桜台」駅の案内表示は練馬開業後もずっと営団仕様のままで、現在では他の東京メトロの駅と揃えられている。
  3. 都営-東京メトロの連絡乗車券は練馬駅乗り継ぎでも利用できるようになる。
  4. 駅ナンバリングは丸ノ内線の支線のように小文字で新桜台が「y-05・f-05」、練馬が「y-04・f-04」。
    • 運行上の路線名(方南町支線のような名前)も「練馬支線」になっていた。
      • ナンバリング路線図が今より窮屈になっていた。
    • 「和光市〜新木場が副都心線・有楽町線直通」になる案だと、有楽町線練馬(Y-01)〜新木場(Y-21)、副都心線渋谷(F-01)〜和光市(y-08→F-16)とか。
    • 後になって「Yb・Fb」に変えられた。
  5. 折り返し線が必要になるため、練馬駅の構造が大きく変わっていた。
    • ダイヤが乱れても新桜台(地下鉄桜台)に電車が来る。
    • 東武の車両も練馬まで入線する運用が存在する。

東急東横線と西武池袋線の直通が行われなかったら[編集 | ソースを編集]

もしあの路線の直通運転が行われていなかったら#東急東横線・西武池袋線

豊洲-亀有間と新富町-新木場間が同時に開業していたら[編集 | ソースを編集]

曳舟
ひきふね
 Y 
29
押上
Osiage
錦糸町
きんしちょう
 Y 
28
  1. 江東区の鉄道事情は今より良かった。
  2. やはり東上線・池袋線の直通は来ないのか。
    • 路線距離的に良くて練馬・和光市始発だろう。
    • 押上方面も大体豊洲止まり。
    • 西武は乗り入れないで全列車新木場行きになっていたと思う。一方で東武は史実通り押上から直通できるなら積極的に使いそう。
  3. ナンバリングは和光市起点?
    • むしろ新木場の方が支線になっていたかも。
      • 例:豊洲(Y-22)→枝川(地下鉄潮見、営団時代は営団潮見)(Y-23)→東陽町(Y-24)→住吉方面
        豊洲(Y-22)→辰巳(y-23)→新木場(y-24)
        • 新木場延伸と同時期なら、京葉線開業よりも先。よって江東支線が潮見を、京葉線が新潮見を名乗っていた。
  4. ゆりかもめの歴史も変わっていた。
  5. 別の路線(港東線・お台場線など)として有明方面始発になっていたかも。
  6. 住吉〜押上(〜曳舟)も江東支線の一部となっていた。
  7. 東武伊勢崎線に半蔵門線の代わりに乗り入れていた。
    • こなたが東上線の川越まで乗り過ごすネタが存在した。なお同じ東武なので気づかないというオチ。
  8. 住吉に新宿線急行が停車していた。
    • メトロとしか乗り換えられない駅(九段下とか新宿三丁目とか)をことごとく通過しているからそれは史実通りなんじゃないかなぁ。
    • ついでに言うと半蔵門線開業まで住吉駅のホームの位置が史実と逆(有楽町線側が営業、半蔵門線側が未使用)になっていた。
  9. 系統上は副都心線のような存在になっていた可能性が高い。
  10. 駅を改良して新木場〜伊勢崎線への直通列車を運転する計画もあったかも。
  11. 豊洲駅を小竹向原駅みたいに活用して有楽町〜新木場を快速運転する計画もあっただろう。
    • 有楽町線の「急行」が池袋以西と同様に通過運転をしていた。
    • ロマンスカーの新木場行きも史実より長く運行されていた。
  12. 葛飾区にも地下鉄が通り、23区で地下鉄がないのは世田谷区のみに。

和光市~池袋が方向別複々線だったら[編集 | ソースを編集]

  • 史実では小竹向原~池袋間が二層式の線路別複々線です。
  1. 副都心線に千川・要町駅は設けられなかった。
    • 和光市方面も小竹向原から先は駅がなかったかも。
  2. 有楽町線の準急ももう少し長く存続していたかも。
    • 副都心線の急行があるとすれば史実通りかも(急行運転で地下鉄成増~氷川台間の通過率が高まって不満が高まったことが有楽町線準急廃止の原因らしい)。
  3. 史実よりも早く優等列車を運転できるので、7000系の種別表示幕が無駄にならなかった可能性大。
  4. 小竹向原駅の構造が史実よりも単純になる代わりに、池袋駅の配線がやや複雑になっていた。
    • この場合東池袋分岐になっていたのでは。

西武鉄道・東武鉄道との直通がどちらか一方だったら[編集 | ソースを編集]

  • 有楽町線・副都心線は西武鉄道・東武鉄道と両方で直通しているが、これが片方のみの直通だったら
全般
  1. 小竹向原駅の配線が変わっていた。
  2. S-TRAINが平日と休日で運行系統が変わることは無かった。
  3. 和光市~小竹向原間で有楽町線と副都心線の駅ナンバリングが共通になることはない。
  4. Fライナーの商標登録の保有企業が一つ減る。
有楽町線⇔西武鉄道、副都心線⇔東武鉄道の場合
  1. みなとみらい号が西武鉄道にも運転されていた。
  2. 東武東上線の地下鉄乗り入れが遅れる。
    • 和光市~小竹向原間の開業が小竹向原~新線池袋と同時になる。
  3. 小川町~元町中華街の快速急行が定期運行される。
  4. 西武有楽町線は東京メトロ有楽町線の一部になっていた。
有楽町線⇔東武鉄道、副都心線⇔西武鉄道の場合
  1. 練馬~小竹向原間の路線名は西武有楽町線にならなかった。
    • 西武副都心線に…なるのかなあ?
  2. みなとみらい号が東武東上線にも運転されていた。
  3. 東上線の快速急行は全て池袋発着。

都営地下鉄が建設していたら[編集 | ソースを編集]

  • 実際に測量及び谷原ガスタンク付近の車庫建設を検討していたとか。
  1. 営団が免許を取っていた池袋-小竹向原-成増ルートにはならず、計画通り中村橋経由で建設されていた。
    • よって東武東上線は三田線と直通していた。
  2. 三田線同様6000形が集中投入される。
  3. 副都心線や豊洲-亀有間の地下鉄計画が史実とは大幅に異なっていた可能性が考えられる。

東急東横線との相互直通運転が別の時期に行われていたら[編集 | ソースを編集]

  • 史実では、2008年6月に副都心線が開通し、2013年に東急東横線との相互直通運転が実施されました。
2008年
  1. 副都心線の開通と同時であった。
2009年
  1. 同年に開催された開国博Y150では、ヘッドマークも掲げられ、入場者も史実よりも多くなっていた。
  2. Fライナーは2013年頃に運行されていた。
  3. 東日本大震災の際には、相互直通運転を一時的に取りやめていた。
  4. 東京メトロ日比谷線との相互直通運転を取りやめになるのが史実よりも早まるので、東急9000系電車、東急1000系電車が余剰となり、大井町線や多摩川線や池上線に移転され、6000系電車 (2代)と7000系電車 (2代)は登場することはなかったか、史実よりも製造数が少なくなっていた。

半蔵門線[編集 | ソースを編集]

渋谷〜水天宮前間が予定通り1975年に開通していたら[編集 | ソースを編集]

  • 渋谷〜水天宮前間は1975年の開通を予定していたが、土地収用が難航し水天宮前延伸は1990年、押上延伸は2003年まで遅れた。
  1. 押上以北への延伸もあったかもしれない。
  2. 遅くとも1990年頃までに押上まで開通し、東武伊勢崎線と直通運転を開始していた。
    • それでも松戸延伸は難航してそう。
    • 東武9000系列が伊勢崎線系統にも導入、30000系は10連固定で東上線辺りに新製配置された。
      • 南栗橋工場開設が早まり西新井・杉戸工場の南栗橋統合も早まる。
    • 押上延伸時から伊勢崎線館林まで乗り入れた可能性もある。
    • 東急8500系の借り入れはなかった、勿論史実より少し早く登場。
      • 新玉川線開通も同時に早まった。
  3. 青山一丁目駅は開業しなかったかもしれない。
  4. 有楽町線亀有支線は新木場方面と同時期に開業していた。
  5. 8000系初期車の設計は7000系とほぼ共通だった。
    • 08系は恐らく06・07系ベースで1990年代前半に投入された。
      • 18000系導入が2015年頃に早まり(ホームゲート対策も兼ねて)08系は早々と引退。
      • 8000系が日本初のボルスタ無し台車の本格採用にならなかった。
      • 恐らく16000系4次車と似た設計だった。

東急新玉川線(田園都市線二子玉川以東)も半蔵門線だったら[編集 | ソースを編集]

定期列車で太田・鬼怒川温泉・東武日光まで直通していたら[編集 | ソースを編集]

  • 2010年まで太田まで直通の臨時列車が走っていた。また直通運転開始記念に鬼怒川温泉・東武日光まで臨時列車が運行された
  1. 使用車両は東武30000系による方乗り入れになっていた。
    • おそらく東武動物公園で分割併合がおこなわれた。
    • トイレ・ボックスシートの設置が計画されるが、東急の反発で中止。
  2. 直通が広大になるため、東武日光線内は快速(伊勢崎線太田方面は準急A)として運行された。
  3. 500系リバティはこの列車置き換えのため地下鉄直通も考慮された。
    • 史実での快速廃止後は渋谷(東急乗り入れは難しそうだが)まで有料特急が乗り入れていた。

南北線[編集 | ソースを編集]

埼玉高速鉄道も南北線だったら[編集 | ソースを編集]

千代田線・有楽町線よりも先に開業していたら[編集 | ソースを編集]

  • もともと南北線は千代田線・有楽町線より早く計画されていました。では、もし計画通りに千代田線・有楽町線よりも先に開業していたら?
  1. 6000系を名乗る車両はこちらに投入された。
    • のちに06系・16000系も投入される。
      • 千代田線の車両は7000系、有楽町線の車両は8000系、半蔵門線の車両は9000系を名乗った。
  2. ホームドアはなかった。
    • 車掌も乗っていた。
    • 2010年代も後半になってやっとホームドアが設置されるが、もちろんフルスクリーンではない。
  3. 目黒から目蒲線と直通していた。
    • 赤羽岩淵発蒲田行きなんて運用が出来ていた。
    • 史実通り目蒲線は分断されている気がする。
  4. 10両編成で運転されていたかもしれない。
  5. 埼玉高速鉄道は蓮田まで延伸していた。
    • 開業時がバブルまでもつれ込んでしまい、初乗りが300円ぐらいになる。
  6. 白金高輪は当初の計画通り「清正公前」を名乗っていた。
  7. 三田線の延伸も早まっていたが、おそらく合併まで白金高輪止まりになる。また直通したとしても、ホーム及び改札は別となる。
    • そして猪瀬知事に「バカの壁」呼ばわりされ、九段下と同時期に乗換えが可能になる。

東急池上線に乗り入れていたら[編集 | ソースを編集]

ホームが全駅10両対応だったら[編集 | ソースを編集]

  1. 埼玉高速鉄道もホームが10両対応になっていた。
    • それでも東急目黒線は急行停車駅しか10両にしない。
      • と言うか構造上奥沢がドアカット駅になってしまう。
  2. 都営三田線も10両にすべきという声が上がっていた。
    • 輸送量や都営側のホーム容量を考えると、南北線も三田線も8両化が限界だったのでは。