もし長嶋茂雄が1980年代に巨人以外の球団の監督に就任していたら
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長嶋待望論は、1980年以降何度となく沸き起こった。たとえば1981年大洋監督就任説、1984年日本ハム監督就任、1985年西武監督就任説、1986・89年のヤクルト監督候補、1990年オリックス監督就任説がささやかれた。しかし、ミスターは1992年に巨人監督に就任。もしこの時、ミスターがオファーを引き受けていたら・・・(上記以外の球団でも構いません。)
全部に共通すること[編集 | ソースを編集]
- ファンが飛躍的に伸びていた
- 徳光和夫は尻尾を振ってついて行き、監督に就任した球団のファンになっていた。
- しかし、長嶋氏退役後は再び巨人ファンに戻る。
- どの球団も背番号「3」を長嶋氏の背番号とした。
- 「90」じゃないの?
- 史実の背番号「33」は実現しないと思う。
- 後に巨人の監督に再就任しない場合、松井秀喜は巨人ではなく別の球団に入っていた。
- 落合博満、清原和博の巨人移籍もなかったかもしれない。
- 広沢克己も。
- 恐らく落合は中日、広沢はヤクルトに残留し、清原は西武残留か阪神に移籍していた。
- 清原は長嶋に関係なく巨人だと思う。
- 広沢克己も。
- 松井秀喜は阪神に入団していたかも。
- 松井の場合はクジだからねぇ・・・
- 松井獲得は長嶋の意向なので巨人の監督が長嶋でなければ指名していない。
- 松井の場合はクジだからねぇ・・・
- 落合博満、清原和博の巨人移籍もなかったかもしれない。
- 史実より長期間活躍する投手が減っている。
- 現実の巨人での投手起用を考えるとね・・・。
- 岡島秀樹の巨人でのキャリアはもう少し長かった。
- 最悪巨人を離れていたとしても、2008年現在も日本の球団に在籍。
- 首脳陣はミスターの人脈をフルに使った豪華な面面に。
- 適材適所でそのポジションのスペシャリストを用意。
- これで、どんなに弱いチームでも3年以内で優勝圏内に入ることができる。
- 適材適所でそのポジションのスペシャリストを用意。
- 1年契約で12球団全ての監督を務める。
- そうなれば、ファンも適度に分散され巨人一極集中は解消!
- 監督と選手をトレードするという前代未聞の事態が起こる。
- ジャイアンツと対戦する時には長年の癖で間違ってジャイアンツベンチに入ってしまう長嶋伝説が出来る。
- 1990年代以降に巨人に有力選手が一極集中することはなかった。
- 阪神の暗黒時代も早期に解消していた。
- 王貞治が巨人の監督のままだった。
- 長嶋茂雄がパ・リーグの球団の監督に就任していた場合は、一度は日本シリーズでON対決が実現し、話題になっていた。
可能性のあったもの[編集 | ソースを編集]
大洋('81年)[編集 | ソースを編集]
- ここが一番可能性があった。
- もし大洋ホエールズ・横浜ベイスターズが強かったらに書いてあることのいくつかは実現した。
- ベイスターズへの改名前に何度か優勝出来ていただろう。
- 「スーパーカートリオ」は誕生しなかった。
- 長嶋監督ならスラッガー中心のチームになるだろう。
- じゃあ「バズーカトリオ」だね。
- よって「マシンガン打線」も生まれていない。
- あるいはマシンガン打線が史実より早く出来ていて、もっと強力だった。
- 長嶋監督ならスラッガー中心のチームになるだろう。
- 近藤貞雄の監督就任はなく、「田代富雄⇔レオン・リー」「山下大輔⇔高木豊」のコンバートはなかった。
- 新浦壽夫の日本球界復帰は史実より早かった。
日本ハム('84年)[編集 | ソースを編集]
- ハムの売り上げが倍以上に。
- 勿論、ハムのCMに出演し「ハムの人」。
- 後楽園が巨人戦並の観客動員を誇っていた。
- 札幌への移転もなかった。
- 逆に巨人が札幌へ移転する。
- 札幌への移転もなかった。
- ビッグバン打線が実史よりめちゃくちゃ早く出来ていた。
- 高田繁はコーチとして入閣し、退任後に監督に昇格していた。
- 後楽園決戦がもう1回実現したかもしれない。
- 場所柄後の東京ドーム開業が現実以上に盛り上がった。
- こけら落としも伝統の一戦の巨人対阪神ではなく王巨人対長嶋日本ハムのON対決だったかも。
- 89年に入団した、立教大学の後輩の矢作公一選手は、史実以上に盛んにPRされた。
西武('85年)[編集 | ソースを編集]
- V10ぐらいしていたかも。
- むしろ投手陣がパンクして史実より成績が悪くなっている。
- 工藤公康はあそこまで現役を続けられなかった。
- むしろ投手陣がパンクして史実より成績が悪くなっている。
- 森祗晶氏が、巨人の首脳陣に入っていた。
- 監督にもなり得たか。
- 前年に引退した田淵幸一をコーチに据えていた。
- 1987年に長嶋西武が優勝できていたら、日本シリーズはON対決になっていた。
- 鹿取⇔西岡のトレードが早まる。
ヤクルト('86・'89年)[編集 | ソースを編集]
- ここはご子息が入団した時にかなり噂になった。
- それでも、人気はあるが勝ちきれないがさらに続いた。
- 一茂が池山にオモチャにされることはなかった。
- ノムさんは、隠居したままだった。
- カツノリはプロ入りできなかった。
- 嫁は・・・なんだかんだでテレビに出てきたかも。
- 巨人のバッテリーコーチになっていたかも。ヘッドコーチになっていた可能性もある(巨人はコーチは巨人出身者以外の人も多い)。
- もしヤクルトが長嶋監督の状態で、ノムさんが入れば、長嶋監督、野村ヘッドコーチ兼バッテリーコーチの可能性が大きいかも。長嶋茂雄氏とノムさんは昔は仲が良かったみたいだし。そうしたら古田が見出されて、日本一になっていたか。
- OBだけに、西武ライオンズの監督に就任したかも。野村監督、森祇晶ヘッドコーチの体制になっていた。
- あるいは、1994年オフに古巣である南海の後継のダイエーの監督に就任していた。
- 後年に阪神や楽天の監督に就任することはなかった。
- 2008年の監督勇退後は、2020年に亡くなるまで福岡ソフトバンクホークスの会長を務めていた。
- その場合、王貞治は1993年に巨人の監督に再就任し、第二次王政権が誕生していた。
- 一茂の背番号が「33」あるいは「36」だった。
- 黒須陽一郎は入団拒否しなかった。
- 茂雄氏の退任・巨人での監督就任がない限り一茂もヤクルトに居続けている。
- そもそも一茂が現実以上に活躍できていた。
- 池山は「ブンブン丸」のプレースタイルのままだった。
オリックス('90年)[編集 | ソースを編集]
- 近鉄との合併はなかった。
- 土井正三が監督に就任することはなかった。
- コーチとして入閣した場合、イチローやパンチは二軍でくすぶったまま、田口はイップスになってそのまま引退……。
- 巨人と同じように守備走塁コーチの可能性が大きいからイチローは早い段階で一軍に挙がっていたと思う。
- その場合はイチローだけでなくパンチ佐藤や田口も現実通りだったかも。
- 巨人と同じように守備走塁コーチの可能性が大きいからイチローは早い段階で一軍に挙がっていたと思う。
- コーチとして入閣した場合、イチローやパンチは二軍でくすぶったまま、田口はイップスになってそのまま引退……。
- ブルーサンダー打線がもっと強力になっていた。
- オリックス球団初優勝が早まり、黄金時代を築いていたかも。
それ以外[編集 | ソースを編集]
南海[編集 | ソースを編集]
- ダイエーへの身売りはなかった。
- 但し、後にソフトバンクには買収されるかも。
- それでも福岡への移転はなく、現在でも本拠地は西宮。
- 南海の本拠地は当時は大阪球場。
- スマン、西宮は阪急だった。
- 阪急→オリックスが神戸移転した後にホークスが西宮移転…という線も考えられるが。
- 当初の計画では堺移転のためそれが実現。
- 南海の本拠地は当時は大阪球場。
- それでも福岡への移転はなく、現在でも本拠地は西宮。
- 但し、後にソフトバンクには買収されるかも。
- 杉浦忠氏がヘッドコーチになっていた。
- 過去(入団時、南海を袖にした)の経緯もあり、鶴岡の影響下が強く残ってた80年代に、ここの監督就任だけはなかったと思われる。
- 実現すればしたで、過去の因縁を水に流せただろうか?
- 生え抜きの蔭山和夫の末路を思うと、少なくとも一次政権でのハッピーエンドは無さそうだが…
- 実現すればしたで、過去の因縁を水に流せただろうか?
阪神[編集 | ソースを編集]
- 阪神ファンが暴動を起こすかも・・・
- さすがに暴動まではないだろうが、ホークスの監督に就任した当時の王貞治くらいの仕打ちは受けていただろうな…。
- でも、実史より早く暗黒時代から脱出していた。
- ジャイアンツファンから裏切り者扱い。
- しかし長嶋信者は、悪魔に魂を売るつもりで巨人のユニホームを脱ぎ、タテジマに袖を通すだろう。
- OB戦やファン感謝デーでの守備や打撃を見て、「さすが藤村富美男に憧れただけある」の声が現実以上にあったかも。
近鉄[編集 | ソースを編集]
- 鈴木啓示の監督就任が数年遅れていた。
- 野茂英雄のメジャー挑戦もそれに沿って遅れていた。
- オリックスとの合併話はなかったかもしれない。
- 但し本人の監督辞任と野茂のメジャー移籍で成績が下がり、近鉄本体の経営悪化に伴って結局は身売り。
- 楽天は新球団を作らず近鉄を買収して大阪楽天バファローズになっていた。
- 但し本人の監督辞任と野茂のメジャー移籍で成績が下がり、近鉄本体の経営悪化に伴って結局は身売り。
- 大阪ドームが実史より早く作られていた。
- SECOMの広告看板が東京ドームではなくここに設置される。
- デービスとブライアントの区別がつかない。
- 10.19の結果が変わっていたかも…
- 一回ぐらい日本一になれていた。
- 少なくとも、史実よりも近鉄打線はかなりえげつないものになっていたと思う。
- 中村紀洋のブレイクはもっと早く、鈴木貴久は平気で30本塁打以上は打っていたであろう。
ロッテ[編集 | ソースを編集]
- 川崎から千葉への本拠地移転が早まっていた。
- 地元のヒーローの監督就任に千葉県民は万々歳!
- カネやんをピッチングコーチに据えていた。
- バッティングコーチはハリーさん。
- レオンとレロンのリー兄弟をどっちか分からず間違える、必ず。
- 落合のトレード放出はなかった。
- 小池の入団拒否もなかった。
- 「コアラのマーチ」に長嶋茂雄が紛れている。
- 「ビックリマンチョコ」とロッテ球団のコラボが早まっていて、ミスターのビックリマンシールも存在する。
- 掛布バッティングコーチ誕生。
- ボビー・バレンタインが監督に就任することは無かったかもしれない。
- 間違いなくロッテ商品のCM起用。
- 有藤通世はミスター・ロッテと呼ばれなかった
- 日本ハムの代わりに千葉ロッテの二軍が鎌ヶ谷に来ていた。
中日[編集 | ソースを編集]
- 星野仙一の監督就任は数年遅れていた。
- まずはミスターの元、ピッチングコーチとして活躍。
- ナゴヤドームが実史より早く作られていた。
- SECOMの彼の広告看板も東京ドームではなくここに設置される。
- 4人-落合のトレードはなかった?
- むしろ落合は何としても獲りに行ったのでは? そして後年のFA流出も無い。
- 80年代の中日は谷沢、大島、宇野など強打者を並べる大艦巨砲主義のチームだったから意外とこの人の好みに合っていたかも。それに落合が加わるならなおさら。
広島[編集 | ソースを編集]
- 阿南準郎の後を引き継いで監督に就任。
- 山本浩二の監督就任は遅れる。
- いや、阿南さんは山本浩二が監督になるまでのつなぎで監督に就任したらしいから寧ろ阿南さんの就任がなかったのでは?
- 市民球場が巨人戦以外も満員に。
- 選手の年俸がケチられることもなく球場も改装、または今より早く新球場になっていた。
- 小早川の本塁打数が倍増。長嶋清幸は長嶋清と登録される。
- 長嶋清幸はマメと登録される。
- もし仰木監督の「イチロー」「パンチ」より先に登録名の命名するとしたら下の名前そのままの「清幸」もあり得たかも。
阪急[編集 | ソースを編集]
オリエント・リースへの売却より前に監督に就任していた場合です。
- 身売りはもっと遅かった。
- イチローも阪急ブレーブスの選手として活躍。
- イチローがメジャーへ移籍した後になっていただろう。
- 長嶋茂雄の監督辞任とイチローのメジャー移籍の後に起きたプロ野球再編問題に際して、近鉄とダイエーと同時期に身売り。
- なおこれに際して近鉄との合併はない。そのままオリックスが買収しオリックス・ブレーブスに。いつまで本拠地が西宮球場だったのだろう?。なお、ブルーウェーブにはならない。
- 長嶋茂雄の監督辞任とイチローのメジャー移籍の後に起きたプロ野球再編問題に際して、近鉄とダイエーと同時期に身売り。
- 福本豊や山田久志がコーチに就任していた。
- この2人のうちどちらかが後釜に。
- 土井正三、仰木彬、石毛宏典、レオン・リー、伊原春樹の監督就任はなかった。
- この2人のうちどちらかが後釜に。
- 90年代のパ・リーグは西武と阪急の二強になっていた。
- 親会社の能勢電鉄の経営権を巡る確執が忠実より多少は表面化していたかも知れない。
- 阪急と阪神の関係は忠実より更に悪化していた。
- 当然阪急と阪神の経営統合もあり得ない。
- 1982年のドラフトで、史実では抽選で外れた、立教大学の後輩である野口裕美投手の獲得に成功した場合、翌83年の開幕前に、積極的に売り出した。
ダイエー[編集 | ソースを編集]
ミスターがもし、1989年に「福岡ダイエーホークス」の初代監督に就任していたら?
- 杉浦忠氏はコーチになっていた。
- もちろん、田淵監督は誕生しなかった。
- 親会社・ダイエーの資金力をバックに、戦力補強をしまくっていた。
- ダイエーになってからは暗黒時代になることもなく、3年以内に優勝したかも知れない。
- 王貞治はダイエーの監督にならなかった。
- もしくは、ミスター退任後の二代目に就任したかも。
- ミスターの活躍によっては、球団はもちろんのこと、親会社のダイエーも違う道を歩んでいたかも知れない。
- …なんで楽天がねーんだよ?
- タイトルをよく見ましょう。あくまでも1980年代が舞台ですから…。