女子伝/日本
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独立項目[編集 | ソースを編集]
神代の女子[編集 | ソースを編集]
イザナミノ命[編集 | ソースを編集]
- 夫・イザナギノ命と共に日本の国土を産んだ、文字通りの国母。
- 火山の神ヒノカグツチを産んだ時に、アソコに大火傷を負って死亡。
- でもすぐさま黄泉の国をシメてしまい、支配者に。死んでもただでは起きない肝っ玉母さん。
- 亭主が迎えに来て、現世に帰ろうとするが、その亭主が約束を破って自分の姿を見たものだから大激怒。わが国の最初を飾るすさまじい夫婦喧嘩を惹き起こす。
- 「あんたの国の連中を一日1000人殺してやる!」「やってみやがれ、こっちは一日に1500人増やしてやる!」
- でも、夫婦喧嘩の最中でも「愛しいひとよ」と呼びかけながらやっているあたりが優雅である。
天照大神[編集 | ソースを編集]
- イザナギノ命の娘だが、イザナミとは血縁関係がないらしい。
- 日本の皇室の元祖。
- 神武天皇は彼女の来孫(6代目)にあたるらしい。
- 女だったという根拠は特に無いらしいのだが、いつの間にか女神ということになっていた。卑弥呼などの古代の女王政権が影響していると思われる。
- 弟のスサノオノ命が反逆した時は軍装で立ち向かったりして、なかなかカッコ良い。
- でもその弟が本当に暴れ出すと、びっくりして天の岩戸に隠れてしまう。何やってんだか。
- 岩戸隠れは一応、日蝕の説明神話とされている。卑弥呼の死後倭国が乱れたという魏志倭人伝の記事に関連を見る人も居る。
- アメノウズメノ命やタジカラオノ命の活躍で岩戸からひっぱりだされるが、日蝕の時の祭事の起源であると共に、新女王・壱与の即位を反映しているという説もある。
- でもその弟が本当に暴れ出すと、びっくりして天の岩戸に隠れてしまう。何やってんだか。
- 絵本などでこのお方を知った子供は、たいがい「歯医者さん」と記憶する。
- 狼ではない。
- 決して「テンテルダイジン」なんて言ってはいけない。
- お城を空に浮かべたり巨大ロボットを作るのが趣味。
アメノウズメノ命[編集 | ソースを編集]
- 天照大神を天の岩戸からひっぱり出した功労者。
- 岩戸の前でストリップをやった。居並ぶ神々は大受け。自分が居なくなったのにみんなが楽しそうにしているので、ムッとした天照大神がちょっと岩戸を開けて覗いたところを、タジカラオノ命が引きずり出した。
- 天孫降臨の時もニニギノ命に付き従い、サルタヒコノ神を降伏させる。
- なぜかこの時も、サルタヒコノ神の前で脱いでいる。露出狂かあんたは。
- サルタヒコノ神も、「うわ、やべえこの女、アブねえ」とびびって降伏したっぽい。
- その後サルタヒコノ神と結婚。選んだ決め手は「サルタヒコノ神の鼻が大きかったから」だとか。こんな神話の時代から日本人ってやつは…。
- そういや、昔から言うもんねえ。鼻の大きい人は、×××××も大きいとかなんとか。
- 日本神話の中でもいちばん活躍している女神だが、語り部の猨女(さるめ)氏(古事記を語った稗田阿礼もこの一族)の祖先神だったからだという話も。
コノハナサクヤ姫[編集 | ソースを編集]
- ニニギノ命の奥さん。神武天皇は彼女の曾孫。
- 磐長姫という姉と一緒にニニギノ命に嫁いだが、面食いのニニギノ命は美人だったコノハナサクヤ姫だけ手許に置き、不細工だった磐長姫は親元に帰してしまった。
- 磐長姫はニニギノ命の長寿を祈念して送られたらしいのだが、それを帰してしまったため、彼の子孫である歴代天皇の寿命が短くなってしまったそうな。
- ニニギノ命と一回いたしただけで妊娠したので、浮気を疑われる。神の子なのにえらく自信のないニニギ君であった。
- コノハナサクヤ姫は怒って産室に火を放つ。神代の女子はけっこうみんな勝気なのです。
- 「天孫の子なら無事に産まれるでしょうよ。そうでなきゃあたしも子供も一緒に死んでやる!」とタンカを切った。もちろん子供は無事に誕生、しかも三つ子ちゃん。
- 長男が海幸彦ことホデリノ命、三男が山幸彦ことホヲリノ命。この二人は「山幸・海幸」の物語で有名だが、次男のホスセリノ命は他では名前が出てこない。夭折したか、よほど影の薄い人だったか。
- 富士山の守護神。
- 富士山の火口に向かって立ち小便し、「我、コノハナサクヤ姫と婚したり!」と豪語したヤローが居たらしい。
- コノハナサクヤ姫=かぐや姫説あり。このところ、この説が強い。
- かぐや姫って富士市が舞台なんだとか。
豊玉姫[編集 | ソースを編集]
- 山幸彦ことホヲリノ命の奥さん。ワダツミ族の王女。神武天皇は彼女の孫。
- 正体はワニだったとか龍だったとか。
- 出産の時に本性に戻るので、決して覗かないように亭主に頼んだが、亭主は約束を破って覗いてしまう。やっぱりイザナギノ命の子孫だけのことはある。
- 神武天皇のパパになるウガヤフキアエズノ命を産むが、そんなわけで怒って実家に帰ってしまう。ウガヤフキアエズノ命は豊玉姫の妹の玉依姫に養育されたそうな。
- で、その叔母と結婚。・・・それなんてエロg(r
上代の女子[編集 | ソースを編集]
卑弥呼[編集 | ソースを編集]
- 『魏志倭人伝』に書かれた倭国の女王。
- 女王の直轄領が「邪馬台国」で、その下に30以上の国が属しており、それを総称して「倭国」と呼んでいるようだ。
- 卑弥呼というのは、「ひめみこ(女王)」もしくは「ひのみこ(日巫女)」のことであろうと思われる。名前というより称号でしょうな。
- 本名なんか、たぶん使節の難升米あたりも全然知らなかったのではなかろうか。
- 魏にはけっこうしょっちゅう使節を送っているし、魏のほうからも答礼使が何度も来ている。
- 魏としては、高句麗や辰韓が不穏だったので、その背後にある倭国を手なずけておきたかったらしい。
- 卑弥呼としても、麾下の国々に睨みを利かすために魏の後ろ盾が欲しかったと思われる。まあ、お互い様ですな。
壱与[編集 | ソースを編集]
- 卑弥呼の後継者とされる。13歳で女王に。
- 壱与たんかわいいよハアハアなHENTAI数多し。
- 「壱与はまだ13だから・・・」と言ったとか言わなかったとか。
- 名前は「台与(とよ)」説もある。
- 「壱」の旧字体「壹」と、「台」の旧字体「臺」が似ていて、魏志倭人伝では他にもこの二字を取り違えている箇所があるため。書き写す時に間違えたんだろうけど。
- そもそも「邪馬台国」も「邪馬壱国」と書かれている時があり、これは書き間違いじゃなくて本当に「やばい国」だったんじゃねーかという説もある。
- はるか後の明の記録でも豊臣秀吉関係の記述がめちゃくちゃなことから分かるように古代の魏志倭人伝の記述をまともに考えてもしょうがないのである。
- 魏の後を継いだ晋の武帝の即位の翌年、使節を送ったことが記録されている。
- 何度も送ったのに記録が残っていないのか、この一度しか送らなかったのかは不明。
- 一度でやめたとすれば、武帝があんまり頼りにならないと判断したのかもしれない。実際、ほどなく八王の乱でgdgdになるので、そうだとしたら好判断だったような。
- 何度も送ったのに記録が残っていないのか、この一度しか送らなかったのかは不明。
神功皇后[編集 | ソースを編集]
→神功皇后
飛鳥の女子[編集 | ソースを編集]
推古天皇[編集 | ソースを編集]
→推古天皇
額田王[編集 | ソースを編集]
- 天智天皇と天武天皇の兄弟両方から愛されたとされる女性万葉歌人。
- 天智天皇の後宮にありながら、天武天皇(当時は大海人皇子)に熱烈な恋の歌を捧げたとされるが、最近は単なる社交辞令だったという説が有力。
- その歌が詠まれた時、大海人も額田王ももういいトシだったらしいので。
- 天智天皇の後宮にありながら、天武天皇(当時は大海人皇子)に熱烈な恋の歌を捧げたとされるが、最近は単なる社交辞令だったという説が有力。
皇極天皇(斉明天皇)[編集 | ソースを編集]
奈良の女子[編集 | ソースを編集]
持統天皇[編集 | ソースを編集]
→持統天皇
元明天皇[編集 | ソースを編集]
→元明天皇
元正天皇[編集 | ソースを編集]
→元正天皇
光明皇后[編集 | ソースを編集]
- 聖武天皇の皇后。
- それまで、蘇我氏の血を引く皇族女性しかなれなかった皇后位に、藤原氏出身者としてはじめて就いた意義は大きい。
- ノイローゼ気味で彷徨癖のある聖武天皇に代わって、朝廷をとりしきった。男性的で堂々とした人だったらしい。
- 大仏建立も、聖武天皇より光明皇后の意志が強く反映されたという噂もある。
- 娘の阿倍内親王を強引に皇太子にしたのはやりすぎだったかも。おかげで天武系の皇統は娘で絶えてしまった。
- 皇后が書いた「楽毅論」は、強い意志と決断をそのまま表象にしたような書。
- 縦線が入っているのにいきなりタイトルから文字が盛大にずれるなど文字は不揃い、間隔はバラバラとはっきり言って構成はガタガタなのだが、一点一画まで決意と思い切りに溢れ、意識しないと不自然さを感じさせない。
- 却ってそのアンバランスさが愛おしくさえ思える。聖武天皇もそんな所を深く愛したのだろう。
- 大仏造立などの大事業を推進する知性とスケールの大きさを持つが病弱な聖武と、些事は気にせず決断力に優れた皇后が上手くかみ合って奈良時代という時代を作っていったと言えるかも。
- 知的だけど気弱な男と、強気な女性のカップリングはとても萌えるよねっ
- 縦線が入っているのにいきなりタイトルから文字が盛大にずれるなど文字は不揃い、間隔はバラバラとはっきり言って構成はガタガタなのだが、一点一画まで決意と思い切りに溢れ、意識しないと不自然さを感じさせない。
孝謙天皇(称徳天皇)[編集 | ソースを編集]
高野新笠[編集 | ソースを編集]
- 光仁天皇の夫人(皇后ではない)。桓武天皇のママ。
- 百済の王族の子孫と言われる。
- もっとも彼女が生まれたのは百済が滅びて70年くらい経ってからだし、亡命者は王族を名乗ることが多かったようなので、本当に百済王の血を引いていたかどうかは微妙。
- 今上天皇がこの件に言及した途端、「日王自身がウリナラ出身であることを認めたニダ!マンセー!」と某国で大騒ぎ。もうアホかと。大体百済とその国は、時代を隔てて同じ場所にあったってだけで、ほとんど関係ないぞ。
- ともあれ、桓武天皇がどちらかというと大陸皇帝的なありかたを目指したように見える点については、多少ママ(とその一族)の影響があったかもしれない。
平安の女子[編集 | ソースを編集]
藤原薬子[編集 | ソースを編集]
- 平城天皇に愛された女性。
- 娘が皇太子時代の平城天皇にお輿入れする時に付き添って行ったら、娘ではなくて自分が見そめられてしまった。中年の色気むんむんなおばちゃんだったらしい。
- まだ生きていた桓武天皇は、息子の醜聞に激怒、薬子をすぐ追放してしまったが、桓武天皇が没するとたちまち呼び戻された。
- 兄の藤原仲成も平城天皇の側近となる。
- 平城天皇が政務に飽きて弟の嵯峨天皇に譲位したのち、上皇となった平城をあれこれ焚きつけて政権奪還を図る。
- 焚きつけるにあたっては妹の薬子を通したことが多かったと思われるが、薬子自身が権勢好きな女であったかどうかは定かでない。
- 嵯峨天皇側の圧迫に堪えかねた平城上皇と藤原仲成はついに武装蜂起。なぜか「薬子の乱」と呼ばれて彼女が張本人みたいに思われてしまう。
- 兄を断罪するに忍びなかった嵯峨天皇が、一切の責任を仲成と薬子に負わせたためだろう。
- 薬剤師ではないらしい。
小野小町[編集 | ソースを編集]
- 三十六歌仙のひとりに選ばれている女流歌人。
- 実在を疑う向きもあったが、多くの歌人との贈答歌があるので、実在したことは確からしい。ただし複数説もある。
- 絶世の美女と言われるが、どんな風に美しかったのかを具体的に記した史料は無い。
- 後世の連中がそれぞれに妄想をふくらませている。
- ともあれ、「小町」はその美女の代名詞となり、任意の地名に「○○小町」とつけると、その土地で評判の美人を意味するようになった。
- 秋田生まれという説があるが、確証は無い。しかし秋田は小野小町の出生地であることを全力で印象づけようとしている。
- 特産のお米の銘柄や、新幹線の列車名など。
- お××こが無かったという噂がある。
- 裁縫道具の「まち針」は、穴のない針であることから「小町針」と呼ばれていたのが転じたそうな。
- 稀にそういう欠損症があることは事実らしいが、実際はたぶん振られた男どものヤッカミと思われる。
- こっちの人には、祖父の篁と合わせてこまっちゃんのモデルで知られる。
清少納言[編集 | ソースを編集]
→清少納言
紫式部[編集 | ソースを編集]
→紫式部
和泉式部[編集 | ソースを編集]
→和泉式部
小式部内侍[編集 | ソースを編集]
大弐三位(藤原賢子)[編集 | ソースを編集]
菅原孝標女[編集 | ソースを編集]
藤原璋子[編集 | ソースを編集]
- 保元の乱の遠因を作った美女。平安末期の倫理の乱れを体現した女性とも言える。別名待賢門院。
- ょぅじょの頃、白河法皇の養女のような形で扶育されるが、そのうちこの爺さん、孫娘みたいな璋子の人のかわいらしさにふらふらと惑ってただならぬ仲に。
- 白河法皇は、これはヤバいと思って、彼女を孫(のちの鳥羽天皇)に押しつける。ほどなく赤ん坊(のちの崇徳天皇)が産まれるが、白河の子であることはみんな知っていた。
- 鳥羽自身、崇徳のことを「あいつは叔父子だ」と罵っていた。祖父の子なんだから本当は叔父だという意味。
- ところが、怒った鳥羽が璋子を追い出したかというとそんなことはなく、やっぱり璋子の美肉に溺れて寵愛。何やってんだか。
- ま、よっぽど魅力的な女性だったとしか。
- ともあれ鳥羽は崇徳を毛嫌いし、圧力をかけて正真正銘の自分の子である近衛天皇に譲位させたばかりか、上皇となった崇徳に治天の君としての権力を一切与えなかった。近衛天皇が早死にすると、崇徳の子に帝位をまわさず、近衛の弟である後白河に与える。ここに至って崇徳はぶち切れ、鳥羽が没すると挙兵。これが保元の乱。
- 待賢門院は保元の乱の11年前に亡くなったので、直接の関係はないとはいえ……
平時子[編集 | ソースを編集]
- 平清盛の奥さん。二位の尼とも呼ばれる。
- 本人も平氏出身だが、公家平氏なので清盛とは別系統。
- ちなみに「平氏にあらずんば人にして人にあらず」と豪語した平時忠は時子の実弟。
- 孫の安徳天皇を抱いて関門海峡に入水。
常磐[編集 | ソースを編集]
- 源義朝の愛妾。義経のママ。
- 義朝は愛人の多い男だったが、三人も子供を産んでいるのはよほど気に入られていた証拠だろう。
- ミス京都コンクールでグランプリ受賞。
- 義朝を倒した平清盛も、興味を持って自ら引見した。
- この時常磐は、清盛に身を任せることを条件に三人の子の助命を嘆願したというが、眉唾。
- 頼朝でさえ助命されているのに、年端も行かぬ常磐の子供たちが殺される懸念は、この時にはあんまり無かった。
- これが織田信長なら常盤はともかく、幼児は斬首な!! だったであろう。
- 頼朝でさえ助命されているのに、年端も行かぬ常磐の子供たちが殺される懸念は、この時にはあんまり無かった。
- 清盛の肝煎りで藤原長成と再婚、以後はわりに穏やかな余生を送ったらしい。
- 末っ子の牛若だけはねっ返りで心を痛めていたかもしれないが。
建礼門院[編集 | ソースを編集]
- 平清盛・時子夫妻の娘&高倉天皇の奥さん&安徳天皇のママ。
- 清盛の権勢の源泉だったとも言える。
- 名前は徳子。「とくし」「とくこ」等と読まれることが多いが、当時の女性名はホントは訓読みがデフォだったらしいので、「のりこ」の可能性が高い。ママも「ときこ」だし。
- ちなみに「藤原千子」という女性がいたのだが、読み方は「ふじわらのちーこ」ではなかったかという説が。
- 壇ノ浦で入水しようとしたが、あいにくと救出される。
- 戦後は大原に隠棲。後白河法皇が訪問したというが、フィクションとの説も。
- 義経とxxxしちゃったともいうが、フィクションとの説も。
鎌倉の女子[編集 | ソースを編集]
北條政子[編集 | ソースを編集]
- 源頼朝の奥さん。
- 駆け落ちまでした恋女房だが、亭主はしょっちゅう浮気して、気の休まる時がなかった。
- 13歳まで京都で暮らしていた頼朝は、一夫多妻……というより多夫多妻の妻問い婚形式を常識としていたが、関東では夫婦が同居する一夫一婦方式がすでに確立していたらしい。頼朝が好色だったというよりも、そもそも男女関係の価値観がまるっきり違っていた。
- 浮気が発覚するたびに、政子は大騒ぎして、相手の家を壊させたりした。おかげで日本一のやきもち焼きの汚名を被ってしまう。
- 嫉妬もさることながら、北條家をしのぐ権勢を持つ氏族の出現を怖れたらしい。
- 子供が生まれると、母親の実家が子供の後ろ盾になるのが当時の常識。北條家は関東の氏族では大手とはとても言えなかったので。
- 嫉妬もさることながら、北條家をしのぐ権勢を持つ氏族の出現を怖れたらしい。
- 我が子の頼家が言うことを聞かないので殺させた……というのはさすがに冤罪かも。
- 頼家の傅人であった比企氏が、北條氏以上の権力を獲得しそうだったので、時政と義時が先手を打って亡ぼした。頼家はその象徴として死ななければならなかったわけで、政子の知ったことではなかったようだ。
- 次男の実朝を孫の公暁が暗殺し、その公暁も三浦氏に殺され……と、母親としては非常に不幸な運命に見舞われたと言わざるを得ない。
- 本当は政子という名前ではない。
- 官位を受けるに当たって公式の場での名乗りが必要になったので時政の子で政子とした。なので実名は不明。
巴[編集 | ソースを編集]
- 木曽義仲の奥さん。正室ではなく側室だったようだが。
- 正妻は巴の妹。姉◯丼ktkr!
- 日本史上屈指のスーパーヒロイン。武器を取って立ち会うと義仲もたじたじだったとか。
- 戦場でも常に義仲の傍らに居て長刀をふるった。頼もしいというかおっかないというか。
- 死を覚悟しての別れの時に、にっこり笑って「義仲さま、最後のひと働きをお目にかけますわ」と言って敵の兵を片手でむんずと捕まえて馬上に引きずりあげ、素手で首をねじ切って捨てた。怪力美女。
- ジャンヌ・ダルクと同じく、魔法少女であったことで知られる。
- ただし彼女はジャンヌのような正統派魔法少女ではなく、ナギナタソードと呼ばれる獲物を振り回す戦士であり、魔法は補助程度にしか使用しない。
- つまり上記の状況ではバイ〇ルトを使っていたということか!!
- そもそも少女じゃない、どころか木曾義仲のヨメじゃねーか、とか気にしちゃいけない。
- 江戸時代の浮世絵でもしばしば描かれる。やはり凛々しい女性武将に皆心引かれるのだろう。
- ただし彼女はジャンヌのような正統派魔法少女ではなく、ナギナタソードと呼ばれる獲物を振り回す戦士であり、魔法は補助程度にしか使用しない。
- 柔道の巴投げとは関係ない。
- そろばんとも関係ない。
静[編集 | ソースを編集]
- 源義経の愛人。
- 京都でも評判の白拍子だった。
- 白拍子というのは今で言えば芸能人。ただし水干に烏帽子という男装で舞うのが常で、いわばタカラヅカの男役トップスター。
- 従って、なよなよしたイメージではなく、颯爽とした鉄火肌のお姐さんを考えたほうが良い。
- 白拍子というのは今で言えば芸能人。ただし水干に烏帽子という男装で舞うのが常で、いわばタカラヅカの男役トップスター。
- 義経の没落後、捕まって鎌倉へ連れてこられるが、頼朝の前でぬけぬけと義経を恋う歌を歌ってのける。この辺もオキャンで反骨な性格を思わせる。
- ドラえもんのヒロインの名前は、彼女がモデルらしい。
- 苗字が「源」って、みんな知ってた?
- 当然知ってるが、あっちは「源静香」な。
- 苗字が「源」って、みんな知ってた?
阿野簾子[編集 | ソースを編集]
- 後醍醐天皇の愛妾。皇后にはならなかったが、准后(皇后に準ずる)の称号を受けた。
- 後醍醐天皇が隠岐に流された時に一緒についてゆき、献身的にお世話した。これで一挙に後醍醐天皇の信任を得たらしい。
- 信任されすぎて、一旦廟議で決まったことを何度もひっくり返したりして、世人のヒンシュクを買った。
- 護良親王を目の敵にした。
- 簾子の息子ではなかったので。
- 鎌倉幕府討滅の功労者であり、やたらと正論を振りかざして後醍醐天皇に迫るので、だいぶうざかったらしい。
- ついでに護良関係者の排除を画策。これで赤松は後醍醐天皇を見限ってしまい、後足利方の重鎮に。
- 後に楠木正成がだいぶ降格されたのも恐らくこのせい。さすがに功績がでかすぎて赤松のように適当にあしらうことはできなかったが。
室町の女子[編集 | ソースを編集]
日野富子[編集 | ソースを編集]
- 足利義政の奥さん。
- 亭主が文弱で頼りない上に浪費家なので、一生懸命お金を貯めようと苦労した人。
- 兄の日野勝光と共に、ある意味貨幣経済の先駆者とも言える。
- 実家の日野氏も、足利将軍家自体も、直轄の領地はごく少なく、土地や米で人を釣るのは無理だった。そこでゼニに着目したわけ。
- 応仁の乱では、山名方・細川方の両方に軍資金を貸し、その利子でますます稼いだ。
- 富子が山名宗全に我が子義尚の後押しを頼んだのが、応仁の乱の直接の原因だったのに……
- 額面では確かに稼いでいたみたいだが、実際に債権を回収できたのかまで見ると、結構しくじってそうな気がする。山名も細川も自領を乗っ取られて税収もなかっただろうし。
- 兄の日野勝光と共に、ある意味貨幣経済の先駆者とも言える。
安土桃山の女子[編集 | ソースを編集]
濃姫[編集 | ソースを編集]
- 実は信長とは不仲だったらしい。なので、ちょっと時代考証ができた大河ものだと幼馴染の明智と付き合っていたとかなんとか……
- だからと言って明智光秀と付き合っていたかというとそうでもないような……
- 斎藤道三が死んだ途端、いきなり消息を絶つ。
- 人知れず長生きしていたっていう説と道三より先に若死にしていたっていう説とがあって両極端だ。
- 本能寺で信長と共に自害したっていうのはフィクションの中の話に過ぎない。
江戸の女子[編集 | ソースを編集]
天秀尼[編集 | ソースを編集]
- 豊臣秀頼の娘。千姫の娘ではないが、のち千姫の養女となる。
- 鎌倉東慶寺の住職となる。縁切り寺として有名になるお寺。
- 賤ヶ岳七本鑓のひとり、加藤嘉明の家が取り潰されたのは彼女の力である。
- 時の当主は嘉明の息子の明成。家臣の堀主水を成敗したが、その妻子が東慶寺に駆け込んできて助力を求めた。天秀尼は加藤明成の引き渡し要求を頑として拒み、逆に幕府に訴えて勝訴。加藤家は取り潰しとなった。
- これが前例となり、東慶寺は駆け込んできた女性を保護することが認められた。縁切り寺の発祥。
- 日光江戸村制作のテレビドラマのヒロインになったことがある。
- なかなかトンデモでぶっとんだ話でありました。
- 彼女の結婚を禁じたことで、豊臣家の血統は完全に途絶えた。そんなに豊臣の血が嫌だったのか、徳川家は。
桂昌院[編集 | ソースを編集]
- 徳川家光の側室で綱吉のママ。
- 出自は不明。「徳川実紀」には公家の家司の娘だと書いてあるが、大奥入りするためにそこの養女になっただけらしい。西陣織屋の娘説、八百屋の娘説などがある。
- 名前が「お玉」だったので、庶民の娘が上流階級に嫁入りすることを「玉の輿」と言うようになったそうな。
- 徳川家の女性としてはじめて従一位を賜った。
- 従一位は女性の最高位で、武家の女性としては北政所以来。
- 庶民出身だし、将軍の正室ですらないし、別になんの功績も無かったのにここまでの高位に昇りつめたのは、綱吉の親孝行(というよりマザコン)と、柳沢吉保らの阿諛追従の結果らしい。
- ちなみに吉良上野介の機嫌が悪くて浅野内匠頭に当たり散らしたのは、桂昌院の昇位のために奔走していて殺人的に忙しかったからだという噂もある。
絵島[編集 | ソースを編集]
- 平成の世になっても映画化される不倫事件を起こした女性。
- この人の不倫のために1500人が責任を取らされた上に、月光院VS天英院の抗争にも影響してそれよりももっと多くの人が損をした。
- 一番損をしたのって誰なんだろ。個人的には尾張の徳川継友なんかがそうじゃないかと思うんだが……
- この人の不倫のために1500人が責任を取らされた上に、月光院VS天英院の抗争にも影響してそれよりももっと多くの人が損をした。
- 歌舞伎役者との不倫の代償が27年間のムショ暮らし。
- とはいえ、兄が監督責任云々で死罪になったことを考えたらまだマシ。
- 生島新五郎の方は拷問による自白で、絵島は最後まで口を割らなかったので本当に関係があったかは不明。そもそもの問題は歌舞伎鑑賞に出かけた後、宴会にかまけて帰城の門限を守らなかったことで、密会は遅れた理由として疑われただけである。
- オマケにこういった理由での門限破りは日常茶飯事で、普通は袖の下を渡して入れてもらうのが常だったが、この時"だけ"事案として騒ぎ立てられたんだと。
天璋院[編集 | ソースを編集]
- 徳川家定の奥さん。薩摩の小領主の娘だったが、島津本家の養女になり、次いで近衛家の養女になり、ついに将軍にお輿入れ。よほど素質が良かったのだろう。
- 19歳で家定の正室となり、21歳で亭主と死に別れ、あと25年ばかり生きた。未亡人であった期間がいちばん長い。
- 頭脳の明晰さと人柄を見込まれて、幕府と薩摩藩の調整役として送り込まれた観があるが、家定があっという間に死んでしまったので、あまり手腕を発揮する機会が無かった。
- その後薩摩藩が倒幕側に就くと、むしろ厄介な存在となった。
- とはいえ、官軍が江戸城下であんまり狼藉をしなかったのは、天璋院を保護する必要があったからとも言える。その意味では東京の恩人である。
- その後薩摩藩が倒幕側に就くと、むしろ厄介な存在となった。
- 「篤姫」と呼ばれたことがあったかどうかは微妙。
- 幼名は「一」で、島津本家の養女になった時は「篤子」、近衛家の養女になった時は「敬子」という名前になっている。将軍御台所に「姫」をつけて呼ぶことはあり得ない。「篤姫」などと呼ばれる機会が本当にあったのだろうか?
- 明治以降は大奥に仕えていた侍女たちの結婚や就職の世話をしたというから、世話好きな性格だったのだろう。
- その世話は自分の生活まで切り詰めてしていたもんで、死ぬときには所持金が3円(今でいう6万円程度)しかなかったらしく、元御台所とは思えない生活をしていたみたい。
- 皇族出身の箱入り娘だった和宮とは馬が合わなかったが、倒幕のどさくさを乗り越えて仲良しに。
- 江戸総攻撃の際に薩摩藩の西郷隆盛に嘆願書を渡して総攻撃をやめさせたと言われているが、その後新政府の対徳川処分の厳しさなどに激怒し、奥羽越列藩同盟の仙台藩などに逆賊薩長討伐を願う手紙を送っていたりしたらしい。