天皇伝/飛鳥・奈良時代
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飛鳥時代[編集 | ソースを編集]
継体天皇(第26代)[編集 | ソースを編集]
- 武烈天皇が嗣子無くして崩御し天皇家断絶の危機に応神天皇の血をひくものとして越の国から天皇に祭り上げられる。
- そもそも天皇家の血をひいていなかったのではという説があるが血縁があったとしても前代とはかなり離れているので実質新王朝。
- そんなことで「天皇家は万世一系」とか言うと引き合いに出される人。あ、そういう議論はChakuwikiではなしでよろしく。
- なかなか大和地方に入れず、周辺であちこち遷都している。根強い反対派も居たらしい。
- 日本書紀によると地方に土着したかつての皇子の子孫は他にもいたようだが、迎えの使者が自分を殺しに来たと思い込んで逃げた人もいた。
- そもそも天皇家の血をひいていなかったのではという説があるが血縁があったとしても前代とはかなり離れているので実質新王朝。
- ここから天皇家の系譜がはっきりし始める。
- 少なくとも現在の皇室が継体天皇の血を引いているのはほぼ確実。
- 歴代天皇で唯一の地方出身者(越の国)
- 足羽山には継体天皇の石像が建っている。
- 遠く離れた場所にいる人と会話ができたらしい。
安閑天皇(第27代)[編集 | ソースを編集]
- 欽明天皇と両朝並立し内乱となったという説がある。
宣化天皇(第28代)[編集 | ソースを編集]
- 安閑天皇の跡を継いだが、引き続き欽明朝と争い、ついに敗れたのではないかと言われる。
欽明天皇(第29代)[編集 | ソースを編集]
- 継体天皇の子で、以降の天皇は皆、彼の子孫。
- 子沢山で、子供たちは皆、兄妹(姉弟)で結婚している。ものすごい近親婚・・・
- 横走りとジャンプが得意だったらしい。
- ドンとやったり、どこまでもやったり、金曜日にやったり・・・。
敏達天皇(第30代)[編集 | ソースを編集]
- 初の女帝となる推古天皇の夫。
- 異母兄妹(姉弟?)での結婚・・・
- 橘氏のご先祖様。
- 橘氏の実質的な祖は県犬養三千代という女性だが、敏達天皇の曾孫(玄孫説もあり)・美努王の妻となりその間に生まれた葛城王と佐為王によって母が与えられた橘姓は継承された。故に橘氏は敏達天皇の男系の子孫にあたる。
- 「源平藤橘」のうち神別(天津神・国津神の子孫)は「藤」だけで、残りの3つは皇別(天皇の男系の子孫)である。
用明天皇(第31代)[編集 | ソースを編集]
- 日本のスーパーヒーロー聖徳太子の父。
崇峻天皇(第32代)[編集 | ソースを編集]
- 蘇我氏によって射殺された(←歴史の教科書に書いてある)天皇。天皇が臣下に殺されるなんて前代未聞。後にも先にも崇峻天皇のみ。
- ところがこの記述は日本書紀のみ。古事記はスルー。どうなってんのか?
- 古事記の記述は推古天皇までで、最後のほうは時代が近いせいかけっこう手抜きな文章が多いから……それに武烈天皇スルーでも見られるように、あまり不名誉なことは述べないようにしているっぽい。たぶん政治的な隠蔽というより、文学的な言い落としだろうと思うけど。
- ところがこの記述は日本書紀のみ。古事記はスルー。どうなってんのか?
推古天皇(第33代)[編集 | ソースを編集]
- 東洋初の女帝。武則天よりかなり早い。
- かなり美人だったらしい。
- 夫の敏達天皇が崩御した後、喪に服していると、異母兄弟の穴穂部皇子にレイプされそうになった。推古天皇がこの時すでに30過ぎ(今のオバサーとは全然違います)だったことを考えると、相当な色香があったとしか。
- 穴穂部がレイプしようとしたのは、政治的な理由が大きかったと見られているが、彼女を味方につけようとするだけなら他の方法もあったはず。
- 穴穂部って名前からエロいから仕方ない
- 古代と現代とでは、美人の基準が大きく違うことを留意しないといけない。
- でも、「すんごい美人だったんだろうな~!」と想いを馳せるのが、古代ロマンのひとつでもある。
- 夫の敏達天皇が崩御した後、喪に服していると、異母兄弟の穴穂部皇子にレイプされそうになった。推古天皇がこの時すでに30過ぎ(今のオバサーとは全然違います)だったことを考えると、相当な色香があったとしか。
- 聖徳太子の傀儡だの蘇我馬子の傀儡だのいろいろ言われてきたが、実は相当にしたたかな政治力を持っていたらしい。
- 即位前から、キングメーカーみたいな暗躍をしていた形跡がある。用明天皇、崇峻天皇などは彼女の掌の上で転がされていた雰囲気。
- 聖徳太子を皇太子として立てていたが、推古天皇が元気で長生きしているうちに、聖徳太子が先に没してしまう。
- 推古天皇の享年は76歳。当時としては驚くべき長命。
- この生命力の旺盛さだけ見ても、芯の強い堂々たる政治家であったことが伺われる。
- 用明天皇の妹。聖徳太子は甥にあたる。
舒明天皇(第34代)[編集 | ソースを編集]
- パパとママは異母兄妹。
- 蘇我蝦夷によって立てられた蘇我氏の血が入っていない天皇。
- その息子の入鹿は舒明天皇の長男を天皇にしようとしたが、その理由は父とは逆で蘇我氏の血が入っているから。
- 「舒」の字の左側は「舎」ではない。
- 二男は天智天皇、三男は天武天皇。先述の長男は結局天皇になれずじまい。
皇極天皇(第35代)[編集 | ソースを編集]
- 舒明天皇の妻。ただし以前に結婚歴があり。その時の子が漢皇子=天武天皇という説がある。
- 乙巳の変では眼前で蘇我入鹿の首が飛び、そのショックにより日本初の譲位。
- 厳密には(少なくとも記録に残っている上では)継体天皇(26代)が史上初の譲位を行っている。第一皇子の勾大兄皇子(安閑天皇)に譲位し、その日の内に崩御した。ただ、譲位した日と崩御した日が同日であるため後世のように上皇として院政を執ったわけでもないので、あまり認識はされていない。
- 実は即位してないとか言われることもある。
大化の改新~奈良時代[編集 | ソースを編集]
孝徳天皇(第36代)[編集 | ソースを編集]
- 乙巳の変の首謀者中大兄皇子に担ぎ出されて即位。
- 近年、孝徳天皇首謀者説もある。
- しかし中大兄皇子と対立し、難波宮に置き去りにされるガッデム。
- しかも奥さんまでついて行ってしまう。まあ、中大兄皇子と兄妹相姦の仲だったらしいから仕方ないか・・・。
斉明天皇(第37代)[編集 | ソースを編集]
- 皇極天皇が重祚。重祚後の方が事歴が多い。阿倍比羅夫に命じて蝦夷と樺太の征討、有間皇子謀反、百済救援など。
天智天皇(第38代)[編集 | ソースを編集]
- 中大兄皇子の名前のほうが有名かも。
- 皇子時代はサッカー好き。カマタマーレがお気に入りチーム。
- 蘇我蝦夷・入鹿父子を誅殺し、蘇我氏に奪われていた実権を皇室に奪還した。
- ただし蘇我氏をすっかり亡ぼしたというわけではない。ここ要注意。
- 蘇我倉山田石川麻呂という、蝦夷・入鹿とは別系統の蘇我の有力者と結んで本家を倒しただけ。
- もっとも、この倉山田石川麻呂も、のちに難癖をつけて攻め殺されている。
- 政治の表舞台からは消えたが、蘇我氏の繁栄はもう少し続きます。
- 例えば、蘇我氏の血を引いている女性しか「皇后」になれない、という暗黙の規則は、のちに光明皇后(藤原氏出身)に破られるまでは確固たるものだった。
- 蘇我倉山田石川麻呂という、蝦夷・入鹿とは別系統の蘇我の有力者と結んで本家を倒しただけ。
- イルカを殺したので、反捕鯨団体から大顰蹙を買った。
- この事件を「乙巳の変」といいます
- ただし蘇我氏をすっかり亡ぼしたというわけではない。ここ要注意。
- 大化の改新を始める。
- 「大化」は日本史上はじめての元号。
- なかなか天皇になろうとしなかった。
- 蝦夷・入鹿を倒した時点で、母・皇極天皇は退位し、中大兄皇子に譲位するという話があったが、実際に即位したのは皇極天皇の弟の軽皇子(孝徳天皇)。
- その後孝徳天皇と中大兄の意見が食い違うようになり、中大兄は皇族や文武百官を引き連れて出て行き、孝徳天皇は難波京に置き去りにされ、憤死。
- 今度こそ中大兄が即位するかと思ったら、母の皇極上皇が重祚して斉明天皇となる。ちなみに天皇の重祚はこれが本邦初。
- 斉明天皇が崩御した後も、7年くらい即位せずに皇太子のまま統治を続ける。だからこの7年間、日本に天皇は不在。
- この不在期間中の年を、「天智称制●年」と年号風に呼ぶこともある。あ、称制ってわからなければ検索してね。
- 天皇になると、儀式などで忙しく、皇太子のままで実権をふるっていたほうが何かと自由でやりやすかったらしい。地位よりも権力を欲した人だったと思われる。
- 最近の新説・大化の改新は軽皇子(孝徳天皇)黒幕説だと、英傑成分が軽皇子ないし大海人皇子に持って行かれ、彼ら野心家たちに振り回された可愛そうな人という解釈になる。
- 白村江の戦いの後、古代山城を作りまくったり、大津なんて浮いた場所に都を移して引きこもった事を考えると、こうした解釈も一理あると思う。
- 小倉百人一首にもその名を連ねる歌人でもあった。
- 1番目の歌の作者。暗唱できる人も多いはず。
- ★毎年6月10日、関西地方ではニュースの時間で、この人の名前が聞かれる。
- 度々言うが、このころ母違いのきょうだいが結婚するのは禁忌でなく、むしろ奨励されていた。しかし、天智天皇は同父同母の妹、間人皇女と契ったため、変態扱いされている。一方で、姉の娘である間人皇女を妃にした孝徳天皇は、誰からも反対されていない。しきたりというものは、それが何故あるのかわからないことが多いものである。
- 両親が共に天皇である数少ない天皇。
- 漏刻(水時計)を作った。
弘文天皇(第39代)[編集 | ソースを編集]
- 天智天皇の長男・大友皇子。
- 即位したのかどうかわからず、諡号も無かったが、明治になってから「弘文」とおくりなされた。
- 大津の宮で父・天智天皇の政治改革を継承していたが、意見を異にする叔父・大海人皇子(天武天皇)に攻め殺される。世に言う壬申の乱。
- 弘文天皇が大海人を殺そうとしたので逆襲されたと言われていたが、怪しい。
- 弘文側はほとんど戦争準備をした形跡がなく、大海人の一方的な不意打ちだった可能性が高い。
- 弘文天皇が大海人を殺そうとしたので逆襲されたと言われていたが、怪しい。
- この人が壬申の乱に勝利していたら、滋賀県が日本の首都になっていたことだろう。
天武天皇(第40代)[編集 | ソースを編集]
- 天智天皇の弟。
- 実は天智天皇より年上だったという噂もある。
- ついでに父が違う、あるいはまったく血縁外など異説多数。継体天皇以降で生年不祥なのはこの天皇のみであるため。
- 実は天智天皇より年上だったという噂もある。
- 甥の大友皇子(弘文天皇)を攻め殺して即位。
- 「古事記」「日本書紀」の編纂を命じたらしい。
- どちらも天武天皇の生前には完成しなかった。
- ちなみに、「日本書紀」は世界にもほとんど例を見ないほど誠実な歴史書と言える。
- 「一書に曰く」と注記された異説や別エピソードがおびただしく挿入されている。編纂された当初からこんな形で各論併記しているような史書は他にはまず見られない。天皇家を正当化する為の政治文書だとか捏造史だとか言っているセンセイがたには、まずこのことの重みを充分に考えて貰いたい。
- 現代語訳日本書紀を読むと別に記紀を否定したがる人がよく言う皇室の正当化とか持ち上げるためとかってそんなに感じないけどな。つか淡々とした記録でしかない気がする。
- 裴松之註のついた「三国志」の影響であるような気がする。
- 「天皇」という称号を使い始めたのはこの人からだったという噂もある。
- 乙巳の変ではまるで名前が出てこない。いつの間に有力者となったのか不明。
- 陵墓は古代の天皇では珍しく、間違いなく本人の墓だとされる。理由は盗掘されて、その際の記述が詳細に残されてるから・・・遺骸は棺から放り出されて、頭蓋骨にはまだ髪が残っていたという記述も(涙)
持統天皇(第41代)[編集 | ソースを編集]
- 天智天皇の娘で、天武天皇の奥さん。
- 父や弟を敢然と見捨て、夫に従った。
- ……とされているが、なんだか天武天皇のほうが彼女にひっぱられていたように思えるのは私だけだろうか?
- 父や弟を敢然と見捨て、夫に従った。
- 日本の8人の女帝の中でも、いちばん有能だった。
- 「女帝というのは皇位の中継ぎ役で、実力者の傀儡に過ぎなかった」と言い切っているセンセイがたでも、持統天皇だけは力量を認めていることが多い。
- 皇太子だった一粒種の息子・草壁皇子が若死にしてしまったので、自分が即位。
- 草壁の遺児・軽皇子(文武天皇)はまだ幼少で、即位できない。他の妃が産んだ男子は即位させたくない。仕方なくみずから乗り出す。
- 当初から自分の意思で即位した女帝は持統天皇だけかも。
- こうした変則的な状況を正当化するために、記紀が捏造したのが神功皇后という説がある。ちょうど編集時期が被るし。
- 連載が20年以上におよぶ名作漫画「天上の虹」の主人公。
- 日本の則天武后。時代はこっちの方が早いが、死亡時期はほぼ同時。
文武天皇(第42代)[編集 | ソースを編集]
- 初めて藤原氏の娘(宮子)を夫人とした。ただし皇后ではない。
- 実は女系天皇らしい。
- 天武天皇非皇族説が正しければ、そうなる。その場合48代称徳天皇までは女系となる。
- 失礼。次の元明天皇だけは男系の女性天皇でした。
- 天武天皇非皇族説が正しければ、そうなる。その場合48代称徳天皇までは女系となる。
元明天皇(第43代)[編集 | ソースを編集]
- 天武天皇・持統天皇の息子だった草壁皇子の奥さん。
- でもご本人は天智天皇の娘、つまり持統天皇の妹。ややこしいぞ。
- 息子の文武天皇が若死にし、その遺児・首皇子(聖武天皇)はまだ幼少なので、自分が即位。
- 実は首皇子に皇位を廻したくなかったから、という真逆な説もある。
- 首皇子の母親は藤原氏出身(藤原不比等の娘・宮子)。持統天皇や元明天皇は蘇我氏系なので、藤原氏系に皇位を渡したくなかった。
- そこで、状況の変化を待つべく元明天皇が即位したというわけ。
- 実は首皇子に皇位を廻したくなかったから、という真逆な説もある。
元正天皇(第44代)[編集 | ソースを編集]
- 元明天皇の娘。
- 弟・文武天皇の子である首皇子(聖武天皇)がそろそろ成年に達しそうなのに、母・元明天皇はそれを待たずに娘に譲位した。首皇子に皇位を廻したくなかった説の根拠。
- 絶世の美女だったらしい。
- 長屋王は義弟。
- 蘇我氏系の最後のふんばりで、藤原氏の攻勢に抵抗し続けたが、呪詛をおこなったという罪状で攻め殺される。
- 現代で言う女系の女性天皇。しかし、「父方の祖父は天武天皇だから、その資格で即位できたのであり、単に母親が天皇であるだけでは即位できない」という主張がある。
- 父親の草壁皇子は天武天皇の息子でれっきとした皇族なので、女系ではなく男系である。女系天皇とは母親が天皇なのではなく、「母親だけが皇族の血を引いている天皇」ということ。ここ誤解が多い。(ただし天武天皇の出自次第ではある)
- 現代で言う女系の女性天皇。しかし、「父方の祖父は天武天皇だから、その資格で即位できたのであり、単に母親が天皇であるだけでは即位できない」という主張がある。
- 蘇我氏系の最後のふんばりで、藤原氏の攻勢に抵抗し続けたが、呪詛をおこなったという罪状で攻め殺される。
- 生涯独身だった。
聖武天皇(第45代)[編集 | ソースを編集]
- 勇ましい諡号だが、本人はややノイローゼ気味の線の細い人だったらしい。
- 正倉院宝物の聖武天皇筆の書跡は、線が細く女性的な字なのがそれを裏付けていると思う。
- 悪疫の流行や九州での謀反などのプレッシャーに耐えかね、奈良を逃げ出してあちこちに遷都。
- 実際には遷都と言っても、いちいち首都を造営したわけではない。宮殿を造っただけだが、それでも結構な物入りで、ひんしゅくを買う。
- 大仏を創建。
- 実は仏教に公然と帰依した天皇はこの人が最初。
- その意味ではキリスト教を国教化したローマのコンスタンティヌス帝に相当する。
- 勝手に出家して娘(孝謙天皇)に譲位し、周囲をあわてさせたらしい。
- その意味では勝手に出家しては連れ戻されるのを繰り返した梁の武帝に相当する。
- 実は仏教に公然と帰依した天皇はこの人が最初。
- 奥さんは光明皇后。
- 初の藤原氏出身の皇后。以後、藤原氏の繁栄が約束される。
- 雄渾な筆跡で書いた「楽毅論」が正倉院に収められている。聖武天皇と反対で、男性的で勇ましい人だったのだろう。
- 「法皇」と称される初の天皇と言われることがある。
孝謙天皇(称徳天皇)(第46・48代)[編集 | ソースを編集]
- 聖武天皇と光明皇后の娘。
- 日本史上、天皇になった女性は8人居るが、皇太子になった女性は後にも先にもこの人だけ。
- もと聖武天皇の皇太子だった弟の基王が早死に。もうひとりの皇子である安積親王は藤原氏の血を引いていないので忌避される。で、空前絶後の「皇太女」誕生となった。
- 愛子さまが二人目になるか? 現時点では微妙なところ。
- 実はけっこう有能な人だった。
- 遠縁の淳仁天皇に一旦譲位するが、言うことを聞かないので激怒、策謀をめぐらせて皇位を取り戻してしまう。
- 日本史上二人目の重祚。自分の意思で皇位を奪回したのはこの人だけ。
- 淳仁天皇と組んでいた権臣・恵美押勝(藤原仲麻呂)が乱を起こすが、あっさりと鎮圧する。
- 実権者のクーデターをこれほど鮮やかに鎮圧した天皇も他にはほとんど居ない。
- 2人が道鏡への贔屓を諌めたのに対して逆ギレしたのが乱の原因。
- 日本で初めて荘園を整理しようとしたのは、もっと評価されていいと思う。
- 遠縁の淳仁天皇に一旦譲位するが、言うことを聞かないので激怒、策謀をめぐらせて皇位を取り戻してしまう。
- 僧・弓削道鏡を寵愛。
- 巨根の怪僧みたいに思われているが、実際にはマジメな学僧だったらしい。孝謙天皇の病気の治癒祈祷に招かれたところから、信頼され政治顧問のような存在になった。
- 里中満智子のマンガ(『女帝の手記』)なんかはそのラインで描いてるね。怪僧のイメージがあったから素朴な坊さんでびっくり。
- 称徳天皇は道鏡に皇位を譲ろうとしたが、これはさすがに無理だった。
- 和気清麻呂が宇佐八幡宮に神託を聞きに行って「不可」だったというが、神託を受けるまでもなくほとんどの人は反対だったろう。
- 当の天皇は相当お冠だったらしく広虫、清麻呂姉弟を狭虫、穢麻呂と改名したうえで島流しにしている。
- 広虫だから狭虫、清麻呂だから穢麻呂(きたなまろ)って...
- 当の天皇は相当お冠だったらしく広虫、清麻呂姉弟を狭虫、穢麻呂と改名したうえで島流しにしている。
- しかしこの騒動に懲りたのか、女帝は称徳天皇を最後にぷっつりと途絶え、次は江戸時代の明正天皇まで出てこなくなる。
- 和気清麻呂が宇佐八幡宮に神託を聞きに行って「不可」だったというが、神託を受けるまでもなくほとんどの人は反対だったろう。
- 巨根の怪僧みたいに思われているが、実際にはマジメな学僧だったらしい。孝謙天皇の病気の治癒祈祷に招かれたところから、信頼され政治顧問のような存在になった。
淳仁天皇(第47代)[編集 | ソースを編集]
- 藤原仲麻呂を重用して孝謙・道鏡ラインと対立、前代未聞の皇位剥奪により淡路に流された。人呼んで廃帝、または淡路廃帝。
- 皇位についたこと自体「なし」にされた。皇位が認められたのは明治になってから。明治天皇より淳仁の諡号が贈られる。
- 流罪後、そこから逃亡しようとするも失敗、急死してしまう。葬儀が行われた記録も無く、暗殺説もあり。
光仁天皇(第49代)[編集 | ソースを編集]
- なんと65歳で即位。称徳・道鏡時の混乱を収めて息子・桓武天皇に渡す。
- 皇位が天武系から天智系に戻るきっかけとなった天皇。この時より、傍系から天皇になると諡号・追号に「光」がつくことが多くなる。