皇族伝
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- 天皇伝
- 天皇伝/上代(1~25代目)
- 天皇伝/飛鳥・奈良時代(26~49代目)
上代[編集 | ソースを編集]
ヤマトタケル(日本武尊/倭建命)[編集 | ソースを編集]
- 日本の上代を代表するスーパーヒーロー。景行天皇の皇子。
- 実在は疑わしい? いいんだよそんなことは。
- 上代に活躍した「皇子将軍」たちの事跡を、ひとりの英雄に仮託したと見るのが妥当らしい。
- とにかく、この人が居たおかげで、日本には数少ない「英雄叙事詩」を持つことができた。これがあるのと無いのとでは、民族としての誇りがだいぶ違ってくる。
- パニくって叔母さんに泣きついたり、ダメだってわかっててメンス中の女と交わったり、英雄としてはけっこう失点が多いのも、人間的で親しめる。
- ただし「古事記」の記述によります。「日本書紀」ではもうちょっと綺麗事になってます。
- 人間臭い逸話があった方がまだ信憑性は高いです。
- 伊吹山の神に「あとでボコったるでそこで待っとけ、たわけぇ」と暴言を吐いて逆にボコられて薨去。愛すべき英雄である。
- 静岡県焼津市の名の由来。
- 静岡市草薙の名の由来も作った。
- 千葉県木更津の由来もそうだっけかな。
- 群馬の峠で「あづまはや…」と嘆いたらしい。
- 長野県歌「信濃の国」では碓氷峠っぽくなっているが、実際のところは鳥居峠。
- これぞ「東=あづま」の由来。
- ちなみに「あづま」の当初の当て字は「吾妻」、つまり「わが妻」。東征の旅の途上で命を落とした嫁さんを偲んでのこと。
- この嫁さんはオトタチバナヒメ。東京湾で嵐にあったため、海神を鎮めるために入水。涙。
- ちなみに「あづま」の当初の当て字は「吾妻」、つまり「わが妻」。東征の旅の途上で命を落とした嫁さんを偲んでのこと。
- 本名はオウス。ヤマトタケルというのは、最初に討伐した熊襲の首長・クマソタケルから貰った名前。
- ちなみに「ミコト」とつけられるのは死後です。現在でも神道の信者が死んだ場合は名前に「~のミコト」とつけられます。
- 女装すると少女のように美しい、とのこと。元祖「男の娘」ってこと?
- 某予備校のシンボル。
- ヒゲを生やしたり、ピコ太郎になったり、カッパになったり、口紅を塗ったりしていた。2020年はヤマトタケル・ジュニアが登場。
- 伊勢国で亡くなったあと、遺体が白い鳥となって西へ飛んで行ったんだとさ。
- これが大鳥(鷲)信仰の始まり。
- 父親に嫁ぐ予定だった女を自分のものにした上引きこもるようになった兄・大碓命を惨殺したりもしている。
- 父からは「キッチリ話をしてくるように」言って兄説得の使者になったが、上述の通り惨殺した上「キッチリOHANASHIしてきました」と報告したとか。
神功皇后[編集 | ソースを編集]
- 日本の上代を代表するスーパーヒロイン。仲哀天皇の奥さん。
- 実在は疑わしい? だからいいんだってそんなことは。
- 夫の遺志を継ぎ、戎装に身を固めて三軍を叱咤し三韓征伐。萌えます。
- しかもその三韓征伐の帰途に現在の福岡市近くで応神天皇を産んでいる。なかなかパワフルな生きざまである。
- しかも三韓征伐中に子供が産まれないよう、大きなおなかに石を巻きつけて鎮めていたそうな。Oh!God Mother!
- しかもその三韓征伐の帰途に現在の福岡市近くで応神天皇を産んでいる。なかなかパワフルな生きざまである。
- 実際には「崇神王朝」と「応神王朝」の交代があり、その政権交代を自然に見せるべく創作された人物だ……という説が有力なようです。
- 王朝交代が事実だったとしても、その時に大きな役割を果たした女性が居たということは考えられますね。
- 実は卑弥呼のことじゃないかという説もあったりする。
- 夫の遺志を継ぎ、戎装に身を固めて三軍を叱咤し三韓征伐。萌えます。
- 実は日本の紙幣に最初に印刷された人物。
- エドゥアルド・キヨソネというイタリア人がキャラデザインを担当したので、古代日本人のコスプレをしている白人女性みたいな感じになってしまった。
- 卑弥呼と同一人物説もあるが、ちょっとむりやりかも。
飯豊青皇女[編集 | ソースを編集]
- いいとよのあおのひめみこ。古事記では飯豊王。履中天皇の娘または孫。
- 清寧天皇崩御後、顕宗天皇即位までの間の執政。陵もれっきとした天皇陵扱い(飯豊天皇陵)。
- 日本書紀に「飯豊皇女 於角刺宮 与夫初交 謂人曰 一知女道 又安可異 終不願交於男」とある。妄想はご自由にどうぞ。
飛鳥・奈良時代[編集 | ソースを編集]
聖徳太子(厩戸皇子)[編集 | ソースを編集]
- 用明天皇の皇子。推古天皇の甥に当たる。
- 推古天皇の皇太子に立てられたが、オバハンが丈夫で長生き過ぎたため、皇位に就くことなく先に死んでしまう。
- 馬小屋の前で生まれたので厩戸皇子と名付けられた。
- キリストの降誕に酷似したこの話は景教(中国の唐の時代に伝わったキリスト教の一派)の影響によるものである。
- 宇宙人と交信してた説、超能力者だった説、両性具有者だった説など、いろんなトンデモ説が囁かれている人。
- それだけ時代を突き抜けた先進性を持っていたということでしょうかね。
- 同時にしゃべる10人の話を全部聞き分けたというのは、確かに尋常ではない。
- 本当は順番に10人の話を聞いてそれぞれにちゃんと答えるという記憶力がすごかったよという話だったらしい。
- 五島勉の著作ではノストラダムスと同様の予言者扱い。彼の著作ではアインシュタインもイソップも予言者だけれど。
- それらのトンデモ説を生かした山岸凉子の著作は法隆寺に事実無根と否定されたがそれが事実無根だった。
- 隋の煬帝にケンカを売る。
- 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや云々」という手紙を送った。
- 「天に二日無く、地に二王無し」という中国の建前からすると、ほとんど宣戦布告書ととられても仕方ない書き方だったりする。
- 幸い、煬帝は外国の使節にはいやに鷹揚な態度をとりたがる皇帝だったので、さほどのお咎めは無し。
- しかしやはり面白くはなかったようで、
「蛮夷というヤツは手紙の書き方も知らんようだ。もうこんな無礼な手紙は取り次がんでよろしい」と言った。 - 「煬帝は激怒した」と、日本人の著書にはよく書かれているが、史書には別に激怒したという記述は無い。「悦バズ」とあるだけ。
- しかしやはり面白くはなかったようで、
- 中国でもその直前に五胡十六国時代やら南北朝時代やらがあって、あちこちに皇帝や天子を名乗る連中が居たので、後の時代よりはその辺がゆるかったかも。
- 高句麗と戦争中で敵を増やしたくない事情もあったという。聖徳太子もそれくらいの国際情勢はよんでいたのだろうか。
- 是非はともかく、今の政治家にもそのくらいの気概は持って貰いたいものだ。
- 因みに次の手紙には「東天皇敬白西皇帝」と書いた。「天皇」号の初めをここに持ってくる説もある(現在はさほど有力ではないが)。
- 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや云々」という手紙を送った。
- 高額紙幣の常連。
- 今はなりを潜めているが、将来5万円札とかできたら復活するかも。
- なお紙幣で使われた肖像は別人という説もある。
- また、後世になってヒゲの植毛…もとい加筆が行われたことが判明している。
- 十七条憲法の発布、冠位十二階の制定など聖徳太子の業績は多いが、後世にとっていちばんの功は、神と仏を同時に拝むのを可能にしてくれたことだと思う。
- おかげで、その後の日本には、深刻な宗教戦争がただの一度も起きず、どんな外来宗教が入ってきてもたちまち骨抜きにできるようになった。
- 戦国時代や幕末・明治初頭は宗教戦争よく起きてるけど。
- おかげで、その後の日本には、深刻な宗教戦争がただの一度も起きず、どんな外来宗教が入ってきてもたちまち骨抜きにできるようになった。
- 昨今は「厩戸皇子」と書かれ、従来の業績否定説も盛り上がっている。
- 隋に国書を送ったのも、九州当たりの豪族だったとかね。そんなことを言いたがる歴史学者って居るもんです。
- 記紀に記された業績を検証してみる研究は江戸時代からあったものでいわゆる「九州王朝説」とは全く位置づけが異なる。
- 小学校の授業では飛鳥時代はスルー。中学、高校の教科書では厩戸皇子(聖徳太子)と聖徳太子が括弧書き。
- 原因はやはり後世の人が過度に神格化しすぎたことか。
- 隋に国書を送ったのも、九州当たりの豪族だったとかね。そんなことを言いたがる歴史学者って居るもんです。
- 大の仏教ヲタクだった。
- 2歳の時に東を向き、合唱しながら「南無仏」とお経を読んだ。
- これ絶対ウソやろ!
- あちこちに寺を建てまくった。
- しかし、寺の鎮守のために神社も建てていたので、神道を完全に蔑ろにしてたわけではない。
- 2歳の時に東を向き、合唱しながら「南無仏」とお経を読んだ。
長屋王[編集 | ソースを編集]
- 奈良時代初めに活躍した政治家で父は高市皇子、祖父は天武天皇。
- 推定年俸4億円。
- 屋敷にはプライベートの氷室があり夏に氷を食すことができた。
- 世が世なら皇太子になっていてもおかしくなかった。
- 推定年俸4億円。
- 藤原氏にあまり頼らずに政治を進めた。
- だが政界での活躍のきっかけを作ったのは藤原不比等。
- 最終的に藤原氏により権力拡大のために邪魔になるとみなされ自害に追い込まれた。
- なぜか里中満智子の漫画では切腹したことにされた。
- その後長屋王を死に追いやった藤原氏の四兄弟が疱瘡でやられた際には人々に「長屋王の祟りだ」と噂された。
- 平安時代なら菅原道真ばりに神社ができていたはず。
- 屋敷の跡には奈良そごう→イトーヨーカドーが建っている。
- 現在の建物が建設された際には莫大な量の木簡が出てきた。
- 遺跡を生かす造りになっていないため遺構は結局消滅してしまった。
平安時代[編集 | ソースを編集]
在原業平[編集 | ソースを編集]
- 色男。
- 伊勢物語とかいうの平安版バチェラー・ジャパンシリーズのモデル。
- 業平橋駅(現在のとうきょうスカイツリー駅)の駅名の由来。
以仁王[編集 | ソースを編集]
- 後白河天皇の第三皇子だが、建春門院の妨害のせいで親王宣下すら受けられなかった。
- しかもその後の挙兵失敗後皇族ですらなくなり、戦死。ある意味崇徳帝より不遇。
- 一応皇族でなくなると同時に源の姓を与えられ「源以光」(みなもと の もちみつ)の名が与えられた(いわゆる後白河源氏)。でも以仁王の男子は全て出家したため後白河源氏は1代で滅亡。
- しかもその後の挙兵失敗後皇族ですらなくなり、戦死。ある意味崇徳帝より不遇。
- 人物としては優秀すぎるほど優秀。
- 建春門院の妨害にあったせいか平家を恨んでおり、後に源頼政とともに挙兵、そして失敗。
- しかし、実際に妨害にあったかどうかは不確かだったりする。
鎌倉時代以降[編集 | ソースを編集]
護良親王[編集 | ソースを編集]
懐良親王[編集 | ソースを編集]
- 後醍醐天皇の皇子。
- 子供の頃に九州へ向かうが、たどり着くまでに数年かかり、多感な時期を水軍の中で過ごした海賊王子。なにこの漫画キャラ。
- 南朝方として九州で独立政権を作り上げる。
- そのうち足利尊氏や義詮と反目した直冬も合流。なかなかの勢力に。
- 明からは当初、彼が「日本国王」だと思われていた。
- 「明史」に「日本国王良懐」として登場している。
- 胡惟庸の乱の時、洪武帝に反抗した重臣・胡惟庸から助力を求められ、400人ほどの武者を送ったらしい。
- 到着前に胡惟庸が逮捕されたので、武者たちはそのまま引き返したそうな。
- 間に合ったとしても、400人ばかりでどの程度の助力になったかは不明。圧倒的強さで洪武帝をやっつけてしまったりしたら面白いが。