ざんねんな歴史上の人物事典/日本
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- 1900年以前に生まれた人物でお願いします。
- 以下は出来る限り年代順に並べていただくと助かります。
- 鎌倉を取り戻すだけに人生の全てを費やしました。ですので頭の中にあるのは鎌倉奪還だけでした。獲った後のことなんてなんも考えてません。
- 室町幕府初代将軍であるが、生きている内に乱戦を終わらせられなかったどころか、むしろ悪化させている。
- 一般的なイメージ(後述)とは異なり、尊氏は「私は早く隠居してゴロゴロしたい」という手紙を残しているくらい、めんどくさがり屋であった。
- まず建武の新政の折、弟の直義が鎌倉幕府残党に虐められていたので、尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに出兵。尊氏をウザがっていた後醍醐帝は「尊氏が関東の武士を手下にして、鎌倉幕府を復活させる気だな」と難癖をつけて新田義貞に尊氏討伐令を下す。
- これを知った尊氏は「私はそんなことしましぇぇーーーん!!」と即出家して隠居。勿論その程度で新田軍は攻撃をやめず、直義はボコボコにやられる。ヘタレか!
- 結局尊氏もボコボコにやられ、北朝を開いて抵抗。後醍醐一味に逆襲したが、鋼鉄メンタルで吉野に逃げた後醍醐帝は南朝を開き、南北朝時代が開始される。
- ところが今度は尊氏の執事・高師直が直義と政争に明け暮れ、直義は南朝に逃げて猛襲。ではここで尊氏は何をしたか!?
- はい、諸悪の根源である師直を見捨てて逃げました。人として正しいことにしろ武将としてそれはどうなのか。
- その後、心労がたたって直義共々病没。これにより更に南北朝の戦いは激化していく。
- 要するにヘタレであり、消極的な方に消極的な方に逃げて保身にばかり走ったせいでこんなにわかりづらい歴史を歩ませている。筆者も学生時代は「何がしたいんだこいつは!」と頭を抱えながら歴史の勉強をしていた物である。
- 更に、南北朝時代を作った張本人ということで、幕末~戦前にかけては「勇者」楠木正成を崇め奉るためのわかりやすい「魔王」にされ、木像が義詮(息子)・義満(孫)共々首を刎ねられるわ、教科書でも平清盛と並ぶ極悪人呼ばわりされるわ、尊氏ファンだということがばれただけで国会で訴追されるわ、日本史史上No.1の嫌われ者扱いされていた。
- ちなみに尊氏本人はむしろ正成リスペクトであり、立場上止むなく対立はしたが死後の扱いは非常に丁重だった。後醍醐天皇はずっと尊敬していたし弟の事も好きだったし、なぜかやることなす事本人の思惑とは違う方向に進んでしまう人である。
- 近年の研究や「逃げ上手の若君」の影響もあって史上最も訳がわからない征夷大将軍というイメージが固定化した。本当に訳がわからないのでそう言うしかない。
- 室町幕府6代将軍。かの有名な3代将軍義満の子(三男説が有力)。
- 元々出家していたが、5代将軍義量(義教の甥っ子)が早死にしたため、くじ引きで選ばれた。
- くじ引きで選ばれた負い目故に、部下をうんと厳しく縛り付けたため、万人恐怖とまで呼ばれた。
- 闘鶏の見物人に道を遮られたのに激怒し、都中から鶏を追放した。
- 酌の仕方が下手だっただけで侍女の髪を掴んで切り落とし、出家させてしまった。
- あまりにバンバン部下を手打ちにするため日親という高僧が説教に来たが、カッとなって灼熱の鍋を被せ、舌を切り落とした。
- こんなんだから家臣の赤松満祐があまりにビビり過ぎてしまい、「やられる前にやるしかない」と決起して嘉吉の乱を起こして殺された。厳しすぎる締め付けが逆効果となったのである。室町幕府としては初の暗殺された征夷大将軍となる(後に13代・義輝も暗殺される)。
- 室町幕府8代将軍。今でいう、オタク。
- 超口うるさい乳母や重臣たちが何でもかんでも決めてくれた(最も義政の父・義教があまりに強烈なワンマンだった反動かもしれないが)ので、「義政」という名前にもかかわらず全く政治に興味を示さず、もっぱら芸術にばかり関心を示していた。
- 銀閣を建てたのもこの人であり、日本のわびさびを含んだ文化は義政の後ろ盾あって完成されたと言える。評価できるのはここだけである。
- 当時、芸術家というのは最低の扱いであり苛烈な差別を受けていた。しかし義政はそーゆーのに全く興味を示さなかったため、身分に関係なく優秀な(芸を持つ)人は丁重に召し抱えた。
- 銀閣を建てたのもこの人であり、日本のわびさびを含んだ文化は義政の後ろ盾あって完成されたと言える。評価できるのはここだけである。
- そして「もう一刻も早く将軍を辞めたいから、子供もできないし弟・義視に譲ってやる」と言い出した途端に息子が生まれ、鬼嫁・日野富子の後押しもあって応仁の乱が勃発してしまう。
- この最中も戦争をうっちゃらかして芸術に金を使っていたため、富子は「あのバカ夫め~!」と激怒しながらも政治改革に次ぐ政治改革を行い、市民を滅茶苦茶に搾り取りつつかろうじて幕府の運営を保っていた。
- が、応仁の乱は予想以上にグダグダとなり、京都周辺は灰燼と化し、結局何のために戦争をしているのかもわからなくなって義視も降参し9代将軍は義尚となった。
- 足利義政の正妻で鬼嫁。
- 同じ鬼嫁でも北条政子の場合、武家政権確立の為にと辣腕を振るった尼将軍だったが、こちらは守銭奴といった方が良いかもしれない。
- 足利義尚と足利義視との後継者争いの体で始まった応仁の乱勃発の原因の一人であるが、この混乱に乗じて金儲けをしようとたくらむ。
- 敵味方関係なく、戦費に困った東軍・西軍の諸大名に高利貸しを行い、自分の懐を蓄えようとする。
- というわけで、親はオタクでも子は育つということで選ばれた9代将軍。
- 「緑髪将軍」と言われるほどの美男子で、女の子にモテモテであった。しかしこれが彼の悲劇を生む。
- 応仁の乱が原因で信用が地に落ちた幕府の威光を取り戻す為、六角氏征伐などを敢行。母譲りの才覚と父譲りの芸術観を持ち多くの人に慕われた。
- …のだが、あまりに働き過ぎで遂にプッツン来てしまったのか、六角征伐終了後に突如として女狂いとなり、浴びるように酒を飲んでは×××××にふけった。
- その結果、わずか25歳で早逝。父よりも先に逝く親不孝により、義政は心身を病み後を追うように亡くなった(55歳没なので人生わずか50年の時代としては大往生である)。
- 武田信玄でおなじみの甲斐武田氏の傍流にあたる、上総武田氏(真里谷氏)の祖。
- ネーミングだけ見ると、「武田」と「信長」で何かと強そうなイメージだけは湧く。
- 上総一国でおよそ10万石を有する有力な大名ではあるが、戦国時代の主戦場である畿内から離れた関東にあるので、何かと歴史の片隅に追いやられている感が強い。
- 信長の野望より、前の時代のひとなので、ゲームには登場しない。
- 僧侶の中ではかなりのスケベだった。
- 男色だけではなく女犯も平気で行い、森侍者という愛人がいたり、実の子供の弟子がいたりした。
- 更に飲酒及び肉食まで行った。
- 彼の漢詩集「狂雲集」では女性との×××××のことが多く詠まれている。
- 男色だけではなく女犯も平気で行い、森侍者という愛人がいたり、実の子供の弟子がいたりした。
- 後小松天皇の御落胤であることから墓所は宮内庁の管理下にある。
- 一言で言うならオカルトおじさん。
- 「半将軍」と呼ばれるほどの権力の座にありながら、天狗となって空を飛ぶことを夢見る修験道オタクであった。
- 度々公務をすっぽかして「旅に出ます」と書き残して失踪したり、後柏原天皇の即位式を「意味がないから」と言って中止させたりと、もうムチャクチャ。
- そのため名門細川家の当主でありながら生涯独身であり、養子を3人貰っているが、そのせいで派閥闘争が発生。
- しかし我関せずと修行にふけっていたため、風呂場で行水していた所を暗殺される。
- ちなみに、信長より先に本能寺を焼いている。
1公方に乗っ取られた。
- 信長のかなり古い家臣で、「退き佐久間」の異名を持つ重臣だが…。
- 裏を返せば「攻めには使えない」って言ってるようなものである。
- あまりに使えなさ過ぎて「もうお前いらんから、敵の城でも分捕るくらいの手柄立ててくるかサッサと隠居しろ、イヤなら腹切れ」というとんでもない命令を受けてしまった人。
- その際に19項目にも及ぶダメ出しを受けており、相当に苛立たせていたことが推察される。
- 基本的に信長は下っ端は即手打ちにするが重臣は割と大事にするので、ここまで怒らせてしまった人は彼と明智光秀くらいであろう。
- 名代のスケベさで名を遺した。
- あまりに好色すぎるため腹心の立花道雪からも叱責されている、と歴史書に残されてしまっている。
- グチグチ行ってくる道雪がムカついたようでペットの猿を嗾けて脅かそうとしたら、逆に鉄扇で一撃粉砕(物理)されてしまい猿のように反省した(創作説があるが、そういう創作が出てくるくらいざんねんな人物であったことは事実である)。
- あまりに好色すぎるため腹心の立花道雪からも叱責されている、と歴史書に残されてしまっている。
- 知名度に反して意外と敗北回数が多い。
- おまけに奥さん(重臣の妹なので無下に扱えなかった)が悪魔のように恐ろしかった、と宣教師が語っており、キリシタン大名なのに嫁さんがキリシタンを弾圧していた。
- 出自は奈多八幡宮の宮司の娘。当然、夫とは信仰で相いれない。
- 当時のキリスト教関係者は、彼女に対し旧約聖書に登場する悪女にちなむあだ名を付けていた。
- いうまでもなくチート武将であるが、重度のアル中。
- 馬の上で飲酒するためにわざわざ特注の盃を作らせていた。飲酒運転じゃん。
- しかも塩(敵に送るくらいだからたくさんあった)や味噌や梅干しといった高血圧まっしぐらメニューをつまみに浴びるように飲んでいたので、冬にトイレで気張り過ぎて脳の血管が切れて死ぬ。(まあ49歳だから早逝ではないんだが)
- おまけに後継者を決めずに何の前触れもなく突然死したので、甥の景勝と養子の景虎で大戦争が勃発してしまう。
- 生涯不犯(未婚)であり、美少年をたくさん侍らせていたという逸話からガチホモ、もしくは女性だと言われている。ホントかよ?
- そもそも女性説自体学者の勝手なる思い込みから生まれたものであってまぁまずないと思われる。(当時の学者からも酷評された)
- だが否定されながらもサブカル界隈ではいろんなところで女性版謙信が登場している。
- そもそも女性説自体学者の勝手なる思い込みから生まれたものであってまぁまずないと思われる。(当時の学者からも酷評された)
- さらに近年では、後述の弱い方のオダの城の人間を食い扶持に困るからという理由で売り飛ばしていたことが判明している。勿論、謙信以外の武将もこのようなことは当たり前のように行っていた。
- また「敵に塩を送る」の美談は、現在では「塩を有料で売り捌いた」ということが判明している。世の中そう甘くはないのである、塩だけに。
- 関東諸将に請われ北条征伐に小田原まで出向いたこともあるが、本当の目的は人狩りである。
- 通称「弱い方のオダ」。
- 小田城の城主であったが6回も奪われており、史上最も城を奪われたことが多い大名として知られる。
- 裏を返せば5回は取り戻している(最後は取り戻せなかった)わけでただ弱いだけではないのだが…。
- 最後は豊臣秀吉の小田原征伐の巻き添えを喰らって惣無事令違反で全領地を没収されてしまい、結城秀康の家来にまで零落れてしまった。
- 裏切られすぎ。
- 日本の歴史で一番たくさん謀反を起こされたのではないかと言うくらい、裏切られて裏切られて裏切られまくった。
- 最終的に一番目をかけてた奴に裏切られて死んだ。
- 最初に裏切った弟の信勝は、一度許してやったのにまた裏切ったせいで殺す羽目になった。これはまあ信勝が兄を舐めすぎたというのもあるが。
- 従わない奴はキルオブゼームとばかりに殺しまくるほど短気な割に、身内と優秀な奴には評価が甘いので、悉く裏切られ、何度も包囲網を敷かれる羽目になる。
- 日本の歴史で一番たくさん謀反を起こされたのではないかと言うくらい、裏切られて裏切られて裏切られまくった。
- 一方本人はそんなに裏切ったことはない。せいぜい足利義昭を操ろうとしてたくらいか。
- 肝心な時に限って雨がやたら降る「雨男」であり、せっかく鉄砲戦術で戦争史に革命を起こしたのに、雨のせいで火縄銃が全く使えず完敗ということもあった…。(まあ、桶狭間に関してはそれが勝因になったんだけどね)
- 食生活の内容が不健康すぎていた。40歳を過ぎたあたりから糖尿病の合併症由来と思われる体調不良の記録が多く見受けられる。
- 40前後でそうなるということは30代前半あたりで既に基礎疾患として持っているということ。それゆえ、仮に本能寺の変が無かったor切り抜けられたとしても早々に表舞台から退場となったかもしれない。
- 実際には「普段はどっしり構えていられるけどいったんキレてしまったら誰にも止められない」と言ったところだが、どういうわけかのべつ幕無しでキレまくっているような誤解を持つ人も多い。
- 織田信長に仕えた戦国武将で、茶器マニア。
- 羽柴秀吉が播磨攻めをやっている最中に、突然信長に反旗を翻す。
- 秀吉の死者としてやってきた黒田官兵衛を捕縛して、1年間土牢の中に監禁する。
- 信長に反旗を翻したまでは良いが、結局負けてしまう。
- 負けるのはやむなしとしても、平蜘蛛をかかえて爆死した松永久秀と違うのは、自分の家族や家臣を見捨てて一人、茶器コレクションをかかえて逃亡したという事である。
- 謀反を引き起こした当事者は単身逃亡中の最中、残された妻子をはじめとした一族郎党は皆処刑される。
- 妻の「だし」は当時でも楊貴妃に例えられるくらい美人との評判だったが、その美人の妻よりも自分の命と茶壷の方を優先した。
- こうして、あまりの無念さに自分の名前を「道糞」に変えてしまった。
- 結局、信長が死んで何十年も経った後秀吉に「もう流石にええやろ」と許されて「道薫」の号となる。
- 日本史上最も出世した男であるがゆえに、良くも悪くも庶民的。
- 当時男色は当たり前だったが、農民(下級武士説もあり)出身だったため一切そんなことは考えず、女を死ぬほど侍らせていた。
- おね「秀吉の女遊びが激しいのです、何とか言ってやってください」、信長「言語道断である、あの禿ネズミ (秀吉)にはあなたほどの奥方はもう得られない、奥方として堂々としていなさい、この手紙を秀吉に見せてやりなさい」
- イケメンの部下を見つけると「ねぇ~ん、姉か妹居ない~?」としつこく問い詰めた。
- あまりに美女に目が無さ過ぎるため、後述の細川忠興なんかは奥さんに「天下人に言い寄られそうになったら自害しろ」と本気で帯剣を勧めていた。
- しかも己の出自の低さ故に、高貴な身分の女性を特に好んでいたという。
- そこまでスケベだったにもかかわらず子供が出来るのが非常に遅く、2代で御家断絶となってしまった。こればっかりはしょうがないが。
- 当時男色は当たり前だったが、農民(下級武士説もあり)出身だったため一切そんなことは考えず、女を死ぬほど侍らせていた。
- 天下統一後はハッキリ言ってボケ老人である。
- 二度の朝鮮出兵、利休抹殺、秀次を一族郎党抹殺したうえに「殺生関白」の汚名を被せると、もうやりたい放題。そりゃ次の代で滅ぶわ。
- 何もかも金ピカで飾るという足利義満の猿マネに走り、千利休からも失望される。
- もっとも彼の親友である前田利家も同じようなことをやっていたのでヤンキー友を呼ぶとでも言うべきなのか…。
- ストッパーである弟・秀長が先に逝ってしまったのがターニングポイントだったのだろうか…。
- 刀狩を行ったせいで、庶民がお上に逆らわない従順な国民性になってしまった。
- 検地を行ったせいで、庶民が年貢に苦しむことになった。ちなみに江戸時代の五公五民は秀吉の検地の石高にもとづくものでその後の生産力向上は繁栄されていないので、この時代が一番きつく江戸時代は実質的に減税だった。
- ネオコンでガングラバーで高税金という現代のアメリカならもっとも嫌われるタイプの政治家である。
- 江戸時代の宗教弾圧の元祖もこの男。
- 「恐れさせた男」があまりに多すぎる。
- 何でもかんでもビビりまくるほど小心者だったからこそ、あれほど盤石な政権を建てたのも頷ける。
- 我慢強いくせに気が小さく、三方ヶ原の戦いでは「よっしゃ! 信玄の野郎ワシらに背向けよったがね! 今のうちに追撃だぎゃ!(方言間違ってたらごめんなさい)」と突撃してまんまと返り討ちに会い、×××××を漏らすほど完敗する。
- 我慢強いイメージどおり非常にケチであり、「フンドシは黄色いものを使え、汚れても目立たないから何百回も洗濯できる」と言いつけていたほど。
- また秀吉に並ぶほど助平であり、青年期によそで愛人を囲いまくったために正室・築山殿から何度も叱責されている。
- まあ子供がやたら多かったがために男は親藩・譜代に、女は外様大名に嫁がせ盤石な政権を作れたのは秀吉と真逆と言えるが。
- 自分の子供たちを見た目の良し悪しで差別していた。
- 見た目が良くないがゆえにぞんざいな扱いを受けた子と文献にもバッチリ書かれてしまったのが、次男・秀康と六男・忠輝。
- 嫁さんのオマケ。
- というか、地元以外では嫁さんの逸話しか知られてない。『功名が辻』はよくやったよ。
- その地元では長宗我部派一層の為に「親睦を深めるために相撲大会を開きます」と言って一か所に集め、全員撃ち殺して黙らせたというひどい話が残っている。
- 嫁さんの話は信憑性がないが、こっちは史実と確定している。最近は慰霊祭も行われた。
- その後も長宗我部一派は差別されまくり、一豊の死後は上士下士の制度が幕末まで残り悲惨なことに…。
- まあ長宗我部派というよりは、いつまでたっても兵農分離を受け入れない一領具足の連中は力づくで抑えるしかねえということなのだが。言うこと聞いたやつはちゃんと上士にもなれたから一豊はまだ穏便な方。秀吉とかなら皆殺しにしてたんじゃなかろうか。
- 凡人すぎる…。
- 優秀な祖父や叔父たち、人望高かった父と異なり、突出した才が無く極めて地味。「毛利輝元のやった最大の偉業は、関ヶ原の戦いで何もしなかったこと」とか言われるくらい。
- 足利義昭という負債を抱え、秀吉には散々にやられて朝鮮出兵で全体の4割もの将兵をねん出され、関ヶ原の戦いでは「何もしなかった」が故に処刑は免れるがド田舎に転封、せっかく建てた広島城は分捕られ、後継ぎ騒動は勃発し…。
- 信長の次男で、スケート選手・織田信成のご先祖様なのだが…。
- 非常に素行に問題があり、「うつけ」な所しか受け継がなかったなどと言われる。
- 「攻めるな」と言われたのに、領地欲しさに伊賀を強襲。石を投げれば忍者に当たるような戦闘国家・伊賀に無策で突っ込み、大敗。
- あまりにぼろ負けしたので「親子の縁切ってやる」と書状に残すほどキレた父ちゃん信長が総攻撃し、伊賀が一時期壊滅状態に陥る。その後家康の庇護下に入るが。
- 本能寺の変で父と兄が死ぬと、勝手に安土城に火をつけて焼いてしまう。
- そのせいで信長の後継者を決める清須会議でも誰も推薦せず、尾張一国を渡され大人しくしているように言われる。
- 賤ケ岳の戦いでは秀吉に乗せられ、まんまと異母弟・神戸信孝を敗死させてしまう。
- が、その秀吉から冷遇されたことに怒り(立て直した安土城から追い出された)、家康と結託して小牧・長久手の戦いを起こすが…。
- 途中で面倒になって家康に無断で秀吉と講和。これには家康もポカーンであった。
- こうして秀吉の手下に成り下がり、三河への転居を命じられるも、「俺の故郷だから」と言い張ったため改易を喰らう。天下人の息子がこの扱い…。
- その後、家康のおかげでなんとか大名に戻る。この恩義を感じてか、大阪の陣では西軍方でありながら最後は東軍に寝返り、5万石を得た。
- 「攻めるな」と言われたのに、領地欲しさに伊賀を強襲。石を投げれば忍者に当たるような戦闘国家・伊賀に無策で突っ込み、大敗。
- あまりに「うつけ」だったため、周囲からは「三介殿のなさる事」と呼ばれ呆れられていた。
- キング・オブ・殺人狂。
- 初陣で27個の首を挙げたのを皮切りに、数々の戦で武勲を立てまくった。
- 森家の当主なのに自ら槍を振り回して単騎で突撃し、慌てて部下たちが追いかけていくという、戦国時代なのに三国志みたいな合戦を行っていた。
- が、民間人の虐殺も率先して行っており、非常に評判が悪い。
- 「人質を無事に国境で解放する」と言っておいて、解放した直後に全員殺す、なんて序の口。
- 武芸一辺倒ではなく卑怯な手も平気で使う策謀家であり、清州会議後は神戸信孝(信長の3男)を利用するだけ利用した挙句、旗色が悪くなるや否や寝返っている。
- カッとなったら味方でも平気で殺してしまうため、小牧・長久手の戦いで戦死したら味方からも泣いて喜ばれた。
- ちなみにこの鬼を倒したのは井伊直政と水野勝成という、長可に勝るとも劣らないざんねんなコンビである。
- 初陣で27個の首を挙げたのを皮切りに、数々の戦で武勲を立てまくった。
- 何より恐ろしいのはあの超短気な信長に、1度も怒られたことが無いと言う事である。弟のコネとはいえ…。
- ある日、橋を渡っていた長可は、織田の門番から「ここは通行禁止です」と言われ、その場で殺してしまった。当然家臣団は激怒したが、信長は「橋で勝ったんだから、お前武蔵坊弁慶みたいだな! よしお前は武蔵守を名乗れ」と一笑に付したという。
- 塩の専売を「腐らないから内地でやれ」と命じるなど意外と合理的な思考を持つのだが、晩年にはすっかり政治がめんどくさくなってしまい、遺言書に「万が一にもワシが死んだら、城に火をつけて死ぬように」という恐るべき内容を書き記している。
- 非常に戦が弱い。
- 官僚タイプだったので実際の「戦術」は下手で、ほぼ負け通しであった。
- 真面目一徹タイプ故に人望が無さすぎる。(当時珍しく側室がいなかったことでも知られる。子供は6人いたが)
- 「家康を討つぞ」と大谷吉継に漏らしたら、「お前が総大将じゃ誰もついてこねえよ」と即突っぱねられて、仕方なしに毛利輝元に総大将を依頼したくらい、その人望の無さは周知の事実であった。
- なお全くの余談であるが、後述の水戸光圀公は「石田三成は主の為に心を尽くした憎めない奴だ、武士はかくあるべきだ」と褒め称えている。
- その光圀の従兄である三大将軍家光は…(以下家光の項目に続く)
- 大酒飲みだが非常に酒癖が悪かった。
- 酔った勢いで部下に切腹を命じ、翌日「おい、アイツはどうした」と聞いたら「死にました」と言われ、生首に縋りついて泣いた。
- 母里太兵衛に「酒に酔ったら黒田武士は何もできん」と挑発して盃を勧め、怒った太兵衛と飲み比べをした。しかも敗北し、日本三名槍の一つ「日本号」を奪われる。かの有名な黒田節の由来である。
- 戦場では怖いもの知らずだったが、カミさんが物凄く怖く、浮気がばれて薙刀を振り回したため背中を見せて逃げ出した。
- 台風が直撃してボロボロになった城の修理を幕府に届け出るのを忘れたため、これ幸いと旧豊臣派の一掃を図る二代将軍・秀忠にあっさり改易を命じられてしまった。
- 当時の歴史書で「戦国で一番気が短い殿」と断言されてしまうくらい、とてつもなく短気。彼に比べれば信長など「相撲大好きおじさん」でしかないくらい。
- あまりに気が短すぎて、自分の剣の兼定に「オレ、この剣で36人斬ったから歌仙兼定って名前にするわ」と言い出す始末。しかもこの36人は全部部下。
- 上記は創作らしいが30人近く殺したのは史実なんだと。
- そんな性格なのに八十三歳まで生きた。ストレスを発散しまくったから?
- 上記は創作らしいが30人近く殺したのは史実なんだと。
- あまりに気が短すぎて、自分の剣の兼定に「オレ、この剣で36人斬ったから歌仙兼定って名前にするわ」と言い出す始末。しかもこの36人は全部部下。
- 降伏した相手も完全無抵抗でも皆殺しにする。あんまり殺し過ぎるので光秀(後述)から「降伏する者をやたらめったら殺しちゃダメなんだよ」とやんわり断り書きの手紙が来るくらい殺す。
- こんな性格のせいで、自分の妹婿を躊躇なく討ち取らせたため、妹がマジギレして顔に短剣で切りかかり、死ぬまで顔に傷が残った。武士なんだから避けろよ。
- 妻は明智光秀の娘・玉。とても美人であったが、忠興は独占欲も強かったため、色目を使った(と勘違いして)庭師を妻の眼前で首チョンパしている。
- 玉はそれでも動じず「鬼のような殿には、蛇のような心の私がお似合いでしょう」と冷淡に言ったという。
- その後、光秀は本能寺の変を起こし玉は謹慎となり、細川家に戻った時には忠興は妾を抱えていた。そんなんだから玉はキリスト教に帰依して「細川ガラシャ」に名を変えちゃうんだよ。
- 玉はそれでも動じず「鬼のような殿には、蛇のような心の私がお似合いでしょう」と冷淡に言ったという。
- こんな性格だから豊臣の学級委員長こと石田三成と反りが合うわけもなく、三成の書いた記録に「なんで俺、忠興公にここまで嫌われなあかんねん」と記されている始末。そんでもって、関ヶ原前哨戦で三成は細川屋敷を真っ先に狙い、その結果ガラシャは主の元に召される。
- 要はヤンデレ。
- 古くから「もっと早く生まれていれば天下取りにも絡めていただろう」という見解が多い。
- 実際には外交の天才ながら戦にはあまり強くなかったのでかえって埋もれた可能性もあり。
- 敵軍を味方ごと後ろから鉄砲隊で蜂の巣にして白を切る、馬を煽り運転して「前田利家様のお使いです」と言われ血相を変えて謝罪する、貴重な文化財を欲しいと言われ真っ二つにして片割れを渡すなど、ざんねんな逸話には事欠かない。
- ちなみに上記細川忠興も文化財に関しては政宗と一緒に悪乗りしていた。政宗はともかく忠興、お前は当時日本最高峰のインテリだっただろうが。
- 直江兼続にシカトされキレたところ、猛烈な嫌味で切り返された。
- 「後ろ姿しか存じあげなかったもので……」→負けて逃げ回ってばっかりのところしか見たことが無い
- 関ヶ原には参戦しなかったが、家康から味方に付けば伊達郡など没収された旧領地の約五十万石を与えると約束され、西軍の上杉領への侵攻や東軍の最上軍の救援に奮闘した。しかし、この混乱に乗じて政宗の庇護を受けていた和賀忠親を利用し、南部領内で一揆を起こして領土を拡大しようとした。結局鎮圧されて、南部氏から家康に通報されたこともあり、政宗への加増は刈田郡一か所(二万石)のみとなり、百万石を棒に振ってしまった。
- 浅井三姉妹の長女で太閤秀吉の側室。
- 当時としては男よりも高い165㎝もの長身を持つ絶世の美女として知られている。
- しかし「織田一族の短気な所だけを受け継いだ」と言われるくらい気性が荒く空気が読めない。
- もう少し大局的な見地を有していれば、豊臣家は滅亡せずに済んだかもしれない。
- ちなみに息子・秀頼には大野治長や石田三成の隠し子という説もある。その位秀吉に似てなかったらしい。
- 薩摩藩初代藩主。島津義弘の息子で本名は家久(徳川家康の「家」の字を拝領した)だが、紛らわしいことに義弘の弟にも家久という人物がいるのでこちらで表記する。
- 通称「DQN四天王・南の忠恒」。親父同様に気が強く、朝鮮出兵では10倍もの兵力をひっくり返した「薩摩隼人」だったのだが、あまりに気が強すぎた。
- 性格が極めて苛烈かつ陰湿であり、気に入らない部下はすぐ殺してしまう。
- 前掲の朝鮮戦争の時も、部下が朝鮮側に寝返ったほど人望が無かった。
- 正室・亀寿(いとこ同士であり、父は義弘の兄・義久)をことあるごとにブスと罵り続けており、子が出来なかった腹いせに、叔父にして義父の義久が死んだ途端に速攻で城から追い出し、当てつけのように側室を8人囲い、×××××しまくって子供を作っては政略結婚のダシにした。
- この時亀寿のシンパを一族郎党虐殺した。
- 朝鮮のみならず琉球でも侵略を重ねたため、後々まで島津の繁栄を築いたと同時に数百年にもわたる憎悪を買うことになる。
- ただ、こんなんでも(法律で殉死が禁止されてたのに)9人も殉死者が出たので、必要最低限の人望はあったのだろう。文化的には優れていた人のようで、「錦江湾」の名も忠恒の歌に因むという。
- 言うまでもない。
- しかし関ヶ原以前から非常に問題がある人物として知られていた。
- 秀吉の正室・ねね(北政所)の甥というだけでバカボンボンまっしぐらな少年期をおくり、元服前からねねに金をせびって酒色に溺れていた。
- それでも足りなかったのか、友人からも金を借りまくっていた。
- また片倉重長の美男ぶりに惚れ熱烈に付きまとっていたなど、醜聞が絶えない。
- 朝鮮出兵ではっちゃけすぎたため、石田三成から疎まれて石高が1/2の越前に左遷。
- その後、筑前に転封となり石高が4倍にまで膨れ上がるが…。
- 秀吉の正室・ねね(北政所)の甥というだけでバカボンボンまっしぐらな少年期をおくり、元服前からねねに金をせびって酒色に溺れていた。
- 知っての通り関ヶ原での裏切りの後、たった2年後に亡くなっている。享年わずか21歳。
- その死因も「急性アルコール中毒」「大谷刑部の祟り」「裏切った罪悪感によるノイローゼ」「農民と喧嘩したら金玉を蹴られてショック死」など、どれもこれもろくな説が挙がっていない。
- まあ秀秋については育った環境が環境なので大いに同情の余地はあるのだが・・・秀吉の「養子」ってだけでもうストレスフル確定の地位だし・・・
- 1000人に一人の異相と言われるほど、顔が怖かったとされる。しかもムサシは6尺(180㎝以上)もあり、恐れられていた。
- おまけに大の風呂ギライで、メチャクチャ臭かったらしい。
- 無敵、無敗と名高いが、実の所本当に強い人とは戦いを避け……いやなんでもありません。
- イメージ通り卑劣、よく言えば策士だったことは事実なようで、一説によれば巌流島の戦いでは合図と同時に弟子と一緒に襲い掛かって小次郎を倒したという話もあるとか。
- 最後の戦いとして天草四郎の島原の乱に出撃したが、投石が膝に当たって敗走。なんと、生涯初の敗北が生涯最後の敗北となった。
- ちなみに武蔵の著作「五輪書」にも偽書説が出ている。
- 彼をメインにした大河ドラマは非常にざんねんな出来だった。序盤のあるシーンが「七人の侍」に似てると言われ黒澤プロ側から提訴され、そのときは棄却されたものの・・・
- 「芸術的な完成度が全然違うから」という理由だった。さらに「『武蔵』には『七人の侍』のような高邁な人間的テーマや高い芸術的要素はうかがえない」とまで言われてしまった。
- 同作は21世紀の大河ドラマで唯一ソフト化も再放送もされておらず、2016年に開催された大河人気投票では0票で最下位に…。
- 「誰コイツ?」と言っている読者も、「狒々退治の岩見重太郎」と言えば1割くらいは伝わるかもしれない。
- 小早川隆景の剣術指南役だった父が部下に裏切られて殺され、流浪の果てに剣の腕を極め、仇討ちを成し遂げたということで有名な豪傑で、今でも彼の名をした柔術が残っているのほど猛者なのだが、ざんねんながら脳の出来が力に追い付いていなかった。
- 大坂冬の陣では5000石の食い扶持を持つ大名として大坂方についたが、戦の最中に遊郭で飲み過ぎてその間に砦を落とされる。今川義元ですらそこまで慢心してはいなかったぞ!
- あまりのふがいなさに、「見掛け倒しで中身は食えない(役に立たない)」ということで「橙武者」という仇名で呼ばれてしまう。
- 夏の陣においては霧でウロウロしている内に豪傑・後藤又兵衛を討ち取られてしまい、「あの後藤又兵衛を討ち取ったぞー!」とテンションが限界突破していた伊達・水野連合軍の総攻撃を受けて絶命した。
- もっとも、この際に何人もの東軍兵をあの世の道連れにしており、(個人の武勇が)「強い」という最大の長所だけは発揮したまま華々しい最期を遂げられただけマシか。
- 某イギリス人歴史家の書籍で黒人侍と讃えられ、某アサシンクリードシャドウズで世界中から悪い意味で名が広まった黒人奴隷。
- 実際はどうなのかというと資料でも数行程度でしか出てこない人物で、宣教師に頼んで物珍しさに譲ってもらった武士でも何でもないただの刀持ちでしかない。
- 純然な一次資料たる信長公記や家忠日記、ルイス・フロイスやロレンソ・メシアの報告書でも武士に相当する待遇だったという記述はない。
- 弥助は侍と主張する側は信長公記の写本の一つ尊経閣文庫の信長記に書いてあると主張するが、他の写本には同じことが書かれていないことと尊経閣文庫版を写本する時に後付けで書かれたのではと指摘されている。
- 実は10年くらい昔から英語圏では大人気の人物であった。
- 逆に米国の保守派も数年前から弥助は侍だという証拠はないよと逐一いい続けてる。
- アサクリで日本で有名になったが、そのだいぶ前から米国メディアでは多く取り上げられ反発も起きていた。
- 英語で侍と武士をひっくるめてsamuraiと呼ぶのも原因だろう。他言語版wikiですら侍と武士はそれぞれ記事がある。
- 原因は前述の某イギリス人歴史家で、tottoritom名義でwikipediaで査読されていない論文を出典として英語版の弥助を編集していた。書籍が出た後に出典元を書き換えた。
- 英語版wikiの弥助は2015年にイギリス人歴史家の学術論文を出典とするよう編集が入っている。編集したのは論文を書いたイギリス人歴史家本人だった。
- 逆に米国の保守派も数年前から弥助は侍だという証拠はないよと逐一いい続けてる。
- 花山天皇とタメ張れるくらいのスケベ。
- お忍びで遊郭へ遊びに行ったり、宮中に遊女を招き入れて×××××を繰り広げた。
- 色んな女に30余人の子を産ませる。
- 56歳で出家後もお盛んで、58歳の時に識仁親王(後の霊元天皇)を産ませた。
- この霊元天皇も父親譲りのスケベ。
- 56歳で出家後もお盛んで、58歳の時に識仁親王(後の霊元天皇)を産ませた。
- 徳川秀忠の末娘・和子が中宮として入内することが確定してたが、大坂の陣やらで入内が延期になってしまい、その間に典侍・四辻与津子に手を出して子供を2人孕ませてしまった。
- 幕府側が与津子ら関係者を内裏から追放処分したので、それに激怒して退位してやろうとしたら藤堂高虎に恫喝されて辞められなかった。これが「およつ御寮人事件」。
- 幕府が禁中並公家諸法度を制定したのは、このように風紀乱れ切った朝廷を見かねてのことだった。
- 大の父親嫌いだった。
- 父・後陽成天皇は、徳川家康の意向で後水尾天皇へ譲位したことを納得しておらず、自分に対して冷たい態度で接してきたのをずっと恨んでいた。
- 父が崩御した時は、陽成天皇から採って「後陽成」と追号し、自分は陽成天皇の父である清和天皇の別名「水尾」から採った「後水尾」を遺諡にする。
- つまり、わざと父子逆の追号をするという、歴史に残る嫌がらせをやってのけたのである。
- 父が崩御した時は、陽成天皇から採って「後陽成」と追号し、自分は陽成天皇の父である清和天皇の別名「水尾」から採った「後水尾」を遺諡にする。
- 父・後陽成天皇は、徳川家康の意向で後水尾天皇へ譲位したことを納得しておらず、自分に対して冷たい態度で接してきたのをずっと恨んでいた。
- 史上最低の大名と名高い。最大にして最後の農民反乱・島原の乱の諸悪の根源である。
- ハッキリ言って「ざんねん」というか「ざんにん」な歴史上の人物であった。
- 前年度比250%という誰がどう考えても無茶な徴税を行い、年貢だけでは足りないため「死亡税」「窓税」などありとあらゆることに税金を課した。
- 勿論そんなにたくさん税を払えるわけもなく、勝家は農民に苛烈な拷問・処刑を繰り返した。
- 更にキリシタンに対しては蓑踊り(蓑を被せ火を点ける)などの処刑で弾圧した。
- その結果、天草四郎をはじめとする農民や国衆の怒りを買い、島原の乱が勃発。
- 幕府も九州のみならず日本中の兵力を集めて鎮圧する大騒ぎになったため、「どうしてこうなった」と追及した結果、勝家が苛烈な年貢の取り立てを行っていたのが主因と判明。探ってみたら出るわ出るわ、屋敷からまで刑死者の遺骸が出た。
- これを知った家光(後述)は綱紀粛正のため、松倉家を改易。そして切腹すら認めぬ斬首刑に処した。江戸時代260年以上の歴史の中で、唯一斬首された大名となってしまったのである。
- 当時の男色は珍しくもなかったが、家光はあまりにも男好きすぎて、世継ぎが出来そうにないからという理由で大奥が作られる。
- 後述の柳生十兵衛も家光の衆道相手だったとする説がある。
- 大奥から家光の枕元に女性を送る際に、わざわざ男装させ、男性名の通称を設定していた時期がある。
- ちなみに、最初の妻は石田三成の曾孫。なんとも奇縁である。
- そこまで筋金入りの同性愛者になったのは後天的な理由との説もある。母親(お江の方)との関係が悪すぎて極端な女性恐怖症になった、というもの。
- 歴史上の知名度はあるが、だいたいの偉業は親父の秀忠と、優秀な部下(知恵伊豆、土井利勝、柳生親子他)がやってくれたおかげであり、このオッサン自体は大したことをやってない。
- 3代将軍家光の弟。
- 子供の頃は美男子であり兄よりも賢かったことから父親の秀忠や実母のお江からはかわいがられていたが…。
- 祖父の家康が「次期将軍候補は長男を優先するように」と言っていたため将軍候補から除外されてしまう。
- もっとも家光も厳密には長男では無く次男であり、長男の徳川長丸が早世してしまったため実質的に家光が嫡男となった。
- 結果的に表向きは将軍家光の家来になるが、裏では将軍に対する反抗的な態度が目立ち、評価が著しく悪化した。
- 駿府の55万石を貰ったのにこれで満足できず、父・秀忠に対し「100万石が欲しい」とか「大阪城が欲しい」などの要求を出したが、却下されてしまった。
- また、この一件でかつて自分をかわいがってくれた秀忠にも愛想を尽かされてしまった。
- 家康の代から禁止されていた大井川への架橋(幕府の防衛上の問題から禁止)も独断で行ってしまい、家光の怒りを買った。
- この頃、最愛の母・お江が亡くなる。この悲しみからアルコール依存症になってしまった。
- 聖地だった賤機山(家康が元服した場所)にて猿狩りを行ったのも大きなマイナスポイント。(ここでは猿は神聖な動物である)
- 駿府の55万石を貰ったのにこれで満足できず、父・秀忠に対し「100万石が欲しい」とか「大阪城が欲しい」などの要求を出したが、却下されてしまった。
- 賤機山で駕籠の担ぎ手を自分勝手な理由で殺害したり、他にも家臣や僧、女中などにも危害を加えるなど野蛮な行為が目立ち、人望ゼロに等しくなってしまった。
- 秀忠が亡くなってからはさらに立場が厳しくなり、最終的には家光の命令で自害させられてしまった。
- とにかくひどすぎる酒癖。親父の親友である沢庵和尚から「君は酒だけは注意してくれ」と言われる始末。
- 謹慎の原因も酔って暴れたから、家光を殴ったからという説があるくらい。
- 家光の四男で第5代将軍。
- 生類憐みの令の評判がとにかく悪い。
- …が、実際には児童虐待を禁止したり、治安の改善を目指すなどの目的があった。綱吉は社会福祉の実現を目指していたのである。
- 正直、今の政治家よりも慈悲深いと思う。
- 火事だと嘘ついた夜盗テロ集団を英雄視したのが大減点。
- …が、実際には児童虐待を禁止したり、治安の改善を目指すなどの目的があった。綱吉は社会福祉の実現を目指していたのである。
- 経済面での評価も低い。
- 小判の流通量を増やしまくって質を下げたのだが、これがかえって(幕府の財政はともかく)物価の高騰を招いて庶民の生活を苦しくしてしまった。
- また、野犬収容所を作るために増税したのも痛かった。
- 好色一代男にしてやりまくり大王。
- 大石内蔵助の切腹を担当した介錯人・安場一平は頸椎を一刀両断できず、仕方なく何回も切り込んで、時間をかけてやっと落とした。そのために内蔵助は非常に苦しんで最期を遂げた。
- これが原因で「大石内蔵助の最後は非常に見苦しかった」という記録が数多く残る。(三田村鳶魚『元禄快挙別録』など)
- 若い頃の職業は『人間のクズ』でだいたいあっている。
- 昼間から酒を飲んで女を侍らせ、夜は辻斬りまで行っている。信長が可愛く見えるレベル。
- その後、司馬遷の『史記』を読んで感動して猛勉強を始め(実に日本人の好きなパターンである)、藩主の座を継いでからは改革に乗り出した。
- のはいいのだが、その結果として民にはメチャクチャ重税を敷いていた。
- 水戸藩挙げての大事業である『大日本史』編纂作業に予算をつぎ込んだため。光圀以降、明治になってようやく完成するまで、代々の藩主のライフワークとなっていった。
- のはいいのだが、その結果として民にはメチャクチャ重税を敷いていた。
- 将軍・綱吉の生類憐みの令に対し犬の毛皮を送り付けるという実に元ヤンらしい仕返しを行っている。
- ドラマでは悪者を懲らしめているが、史実では地元でめちゃくちゃ高い税を取っていた。
- かなりの食道楽で、(当時の価値観的には)ゲテモノ食いでもあった。「初めて〇〇を食べた日本人」に彼が名を残しているものが複数ある。
- 農家の長男として生まれたが、継母(相当性格が悪かったらしい)や腹違いの弟とあまりに仲が悪すぎて、父の死後、家を巡って13年にもわたってバトルを繰り広げた。
- 52歳(当時からすれば老人である)で結婚するまで童貞であったが、非常に性豪であったため、毎日×××××の回数を日記につけている。しかも年間1000回を超えるレベルで。
- 妻の夭折の原因も×××××による過労と言われている。
- 童貞をこじらせるとヤバイことになるという事実を後世に残した人。
- 6代将軍徳川家宣の息子。
- 歴代最年少の将軍であり4歳で江戸幕府の第7代征夷大将軍にするが、わずか8歳で亡くなってしまった。
- インフルエンザを拗らせて肺炎により呼吸ができなくなったと言われている。
- それで紀州の吉宗が急遽将軍として迎え入れられた。
- 年齢が年齢なだけに何もできず、功績は父の時代に新井白石が行っていた正徳の治をそのまま継承したこと…くらい。
- 徳川家宣の弟。
- 家継の叔父にあたる人物でもある。
- 素行が悪かったことや年齢が(当時としては)高齢だったことなどの理由から2度も将軍就任の機会を逃してしまっている。
- 1度目は家継に、2度目は吉宗に奪われてしまった。
- 享保の改革によって幕府の財政を立て直したことで有名な第8代将軍。
- だが過度の緊縮財政や増税によって庶民の生活はかえって苦しくなった。
- 一揆も増えた。
- 虎の尾でダンスダンスレボリューションした男。
- 過去に松平定信がやって失敗した緊縮財政を、何を勘違いしたんだかもっと強烈にするという愚行に走る。
- 前に改革を行った3人と違って水野忠邦は本当に誰からも好かれなかったというのだから、いかに天保の改革が悲惨であったかがよくわかる。
- あまりに嫌われすぎて、失脚後に家が焼き討ちに遭っている。
- そもそも己の幕政参画の野心のために領地替え関連で贈賄しまくった末に家老が抗議の切腹をしたり、以後の禍根を残しまくっている。
- 上記水野忠邦の腰巾着。通称「妖怪」「蝮の耀蔵」。
- よくロボットアニメとかに出てくる「腐敗した組織の無能なくせにしぶとい上官」をイメージしていただくとだいたいこのオッサンである。
- 極度の石頭であり、幕府軍の西洋式訓練に徹底反発。蛮社の獄を引き起こしている。
- 邪魔する奴は権力にものを言わせて左遷の嵐。かの「遠山の金さん」こと遠山金四郎も、天保の改革の行き過ぎた言論統制に文句を言ったせいで、鳥居にトばされてしまった。
- しかも風呂や便所に筆硯を持ち込むほどの勤勉さであった。何でこういう奴に限ってサボり癖が無いのだろうか。
- ところが忠邦が上知令を出すと、幕臣の腹積もりを伺い、手のひらを反して忠邦を糾弾する。
- 政敵のドンである老中・土井利位に密かに国家機密を横流しし、忠邦を失脚に追い込み、自分は元の権力の座を固持。
- しかし、江戸城の失火の責を取らされて利位は辞任。「他にいないので、
心底ざんねんだが再び水野忠邦を大老とする」と12代将軍・家慶が命じたことにより、忠邦から恨まれて職を解かれる。 私怨義憤に燃える忠邦に訴追された結果、全財産没収の末に丸亀藩に軟禁状態にされる。- その際には丸亀藩士たちから恨まれまくり、1年間一言も口をきいてもらえなかったり、私物をパクられたりした。どんだけ嫌われてたんだ…。
- 勿論市民の味方である遠山の金さんを冷遇したため、江戸の人々達からも嫌われていた。というか、好かれたという資料がほとんど残ってない。
- なお明治維新の際には「ワシに任せなかったから、日本はこうなったのだ」と言っていたという。なって良かったとしか言いようがない。
- こんな奴だが後のテレビドラマでは名優・岸田森が演じた(しかもかなりのハマリ役)。また時代劇TRPG『天下繚乱』では史実と全く異なるキャラクターになっている。どうなってんだか。
- ライバルの慶喜を抑えて第14代将軍に就任した人物だが…、能力的には慶喜より数段劣っていたと言われている。
- これは大老の井伊直弼が政敵の徳川斉昭の子である慶喜を避け、自分が操りやすい家茂を好んだことが理由。
- 「神輿は軽くてパーが良い」という感じ。
- 慶喜の方が9歳上なのに加えて二十歳そこそこで死んでるから比較するのも酷ではあるが・・・。
- これは大老の井伊直弼が政敵の徳川斉昭の子である慶喜を避け、自分が操りやすい家茂を好んだことが理由。
- お菓子の食べ過ぎによって栄養失調を起こしていた。
- ビタミンB1の不足によって脚気になり、わずか21歳で亡くなってしまった。
- 虫歯が沢山あったらしい。