ざんねんな歴史上の人物事典/日本/大正時代~太平洋戦争
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大正時代~太平洋戦争[編集 | ソースを編集]
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東郷平八郎[編集 | ソースを編集]
- 鹿児島出身の海軍軍人。日露戦争において戦艦「三笠」の艦長を務め、ロシアのバルチック艦隊を撃沈させた英雄と名高い人物。
- しかし晩年は神格化され過ぎて、かえって悪影響を与えたと言われている。
- 世界的には軍縮の流れだったのに東郷やその影響を受けた若手将校は軍縮に反対しており、むしろ大艦巨砲主義を強力に推進していた。
- なお井上成美、山本五十六など東郷の神格化に反対する海軍軍人も少なくなかったのだとか。
- 海軍大臣財部彪がロンドン軍縮会議に夫人を連れて行ったことに「戦場にカカアを連れて行くとは何事か!」と激怒した。
床次竹二郎[編集 | ソースを編集]
- 内務官僚だったが、原敬の引きで政友会に入り、原内閣の内務大臣を務めた。
- 首相の原の暗殺後は引き続き高橋内閣の内務大臣となったが、首相の高橋是清と対立、閣内不統一により総辞職となった。
- その後、床次は政友会を離党し、政友本党を結成、この時点で第一党となり、清浦内閣に接近したが、政友会は憲政会と革新倶楽部手を組み清浦内閣に対抗、総選挙では憲政会が第一党となり、政友本党は議席を減らし、第二党に転落、政権交代となった。
- 野党転落後、政友会の切り崩しが始まり、鳩山一郎らが離党し、復党した。
- 床次は政友本党と憲政会を合流させ、立憲民政党が結成。しかし、党内対立で離党、政友会に接近した。
- 床次は衆議院の選挙制度を小選挙区に変えようとしたが、区割りが政友会に有利だったために民政党や貴族院から反発を受け、廃案となった。
- この区割り案は床次が作ったため「床マンダリング」と呼ばれた。
- 政友会では総裁の田中義一が死去、床次は復党したが、総裁の座は犬養毅に回った。
- 五・一五事件で犬養が暗殺されたが、総裁の座はこの時も床次にこなかった。
- 岡田内閣の逓信大臣に就任したが、政友会は岡田内閣に反対、政権に不参加の方針を取ったが、床次は閣内に留まったため、政友会を除名された。
- 岡田内閣の閣僚のまま死去した。
- 床次は政党を渡り歩いたため、戦後の学者から「政権亡者」と批判を浴びることとなった。
- しばしば「床次竹次郎」と誤記される。
松岡洋右[編集 | ソースを編集]
- 東条英機と並び「大東亜戦争で最も責任が重い重要人物の一人」と言われている。
- リットン調査団が満洲国を認めなかったため、松岡は国際連盟脱退を宣言。これにより日本の孤立化を招いた人物。
- また、国際連盟では日本が常任理事国であったにもかかわらず抜けてしまったため、実質的に機能しなくなってしまい後の第二次世界大戦を防ぐことができなくなってしまったのである。
- しかし意外にも当時のマスコミや国民は松岡を英雄として称えたのである…。
- 第二次近衛内閣では外務大臣として悪名高い日独伊三国同盟を締結した。
- また、独断で日ソ中立条約を結んでいる。しかしナチスドイツが独ソ不可侵条約を無視してソ連に侵攻した際には、自分が結んだばかりの日ソ中立条約を無かったことにしてソ連侵攻を主張するというメチャクチャぶり…。
- ちなみに第三次近衛内閣は暴走した松岡をクビにするためのだけに成立した内閣である。(戦前は首相が国務大臣をクビにすることができなかったため)
- A級戦犯として逮捕されるが、判決の直前で病死してしまう。
- もし仮に病死していなかった場合、確実に死刑になっていただろうと言われている。また、もし松岡が死刑になっていたら広田弘毅は終身刑止まりで済んだのでは無いかと言われている。
- 罪状認否の際、英語で無罪を主張した。
- 一度喋り出したら一晩中喋り放しで、聞く方にしてみれば堪らなかったという。
- ある時陸軍大将の荒木貞夫も話が長いと言われ、松岡と荒木のどちらかが話好きかと二人を会わせたところ、松岡が喋り始めると、荒木は一言も話すことなくその場を去ったという。
木戸幸一[編集 | ソースを編集]
- 大正〜昭和時代戦前にかけて活躍した政治家。
- 長州の志士、木戸孝允(桂小五郎)の妹の孫でもある。
- 第1次近衛文麿内閣に入閣していた際、1940年に開催予定だった東京オリンピックの開催権を返上してしまった。
- 第3次近衛内閣が崩壊した際に次の首相を決めることになったのだが、ここで東条英機を推薦する。
- 「毒を以て毒を制す」の論理でアメリカと戦争したがっていた東條を指名したが、これは東條は昭和天皇の命令に対しては忠実だった(と思われていた)ため、昭和天皇が戦争に反対だったことを知れば急に考えを改めて開戦を避けてくれるだろうという考え方から。
- ところがこの期待は大きく外れ、太平洋戦争(大東亜戦争)が起こる。そして、大日本帝国は崩壊し、310万人もの日本人が亡くなってしまった。
- そして東京裁判で検察官から「天皇の秘書でありながら平和主義者の天皇の意向を汲まなかった不忠な男」と厳しく糾弾された。
- 「毒を以て毒を制す」の論理でアメリカと戦争したがっていた東條を指名したが、これは東條は昭和天皇の命令に対しては忠実だった(と思われていた)ため、昭和天皇が戦争に反対だったことを知れば急に考えを改めて開戦を避けてくれるだろうという考え方から。
- 敗戦後、自身が東條首相を推薦したことを後悔しており、「あれは失敗だった」と言っていた。国が潰れてから言っても手遅れだ。
- 戦後はA級戦犯として逮捕された。
- 東京裁判では死刑をギリギリ回避したが、終身刑となってしまった。
- でも健康上の理由から仮釈放された。その後、1977年に87歳で亡くなった。
- 天皇の戦争責任回避と自らの無罪の証拠として提出した「木戸日記」は軍人の被告らに対して非常に不利な証拠となったため軍人の被告らからメチャクチャ嫌われていた。
- そして軍人の被告らから護送車内で散々罵声を浴びせられ「こんな奴、締め上げてやる」とまで言われた。
- 東京裁判では死刑をギリギリ回避したが、終身刑となってしまった。
山本五十六[編集 | ソースを編集]
- 名前の由来が悲しすぎる…。
- 生まれたとき父親の年齢が56歳だったことから名付けられた。
- ちなみに母親も45歳。高齢出産である。
- 余談だが突撃!隣の晩ごはんのヨネスケの本名・小野五六も父親の年齢が56歳だったことから名付けられた。
- ちなみに母親も45歳。高齢出産である。
- 生まれたとき父親の年齢が56歳だったことから名付けられた。
- 本当は軍人ではなくギャンブラーになりたかったらしい。
- モナコのカジノで勝ち過ぎて出入りを禁止になった。
- 親英米派であり日独伊三国同盟には反対していたが、結局は開戦への流れを止めることはできなかった。
- そこで仕方なく真珠湾攻撃を実行し、「敵(アメリカ)の戦意を喪失させ、こちら(日本)に有利な条件で講和に持ち込もう」と考えたが、この作戦が大きく外れてしまった…。
- 結果、アメリカの闘争心に火を付けてしまったのである…。
- ちなみにアメリカでは当時五十六は悪魔と言われていたが、最近は評価が見直されているのだとか。
- そこで仕方なく真珠湾攻撃を実行し、「敵(アメリカ)の戦意を喪失させ、こちら(日本)に有利な条件で講和に持ち込もう」と考えたが、この作戦が大きく外れてしまった…。
- 前線視察の途中でアメリカ戦闘機の待ち伏せに遭い戦死。
- 前線視察が事前に伝えられたが、視察先の司令官が「こんなバカな電報を打つ奴がどこにいる」と憤慨した。
- 部下が護衛の零戦を50機つけようとしたが、山本は「そんなに多くはいらない」と6機に減らされた。
- 戦死については「自責の念に駆られての自決」という自決説がある。
- 養命酒が大好きだった。
- 海軍兵学校同期の塩沢幸一は養命酒の創業家の出身のため塩沢の事を「おい!!養命酒!!!」と呼んでいた。
- ロンドン海軍軍縮会議に出席する際にも養命酒を持ち込み世界の提督らに配った。尚、渡航前に養命酒製造に電話で大量注文し「代金はお宅の幸一君に請求してください」と言った。
牟田口廉也[編集 | ソースを編集]
- 大日本帝国陸軍の軍人で、「史上最低の作戦」の代名詞である「インパール作戦」の立案者。
- 当時、イギリス領であったインドを攻めるのに、ビルマ方面から物資輸送もままならないジャングルを超えて、インドの都市インパールを攻めようという作戦。
- 約9万人近い兵を動員して、飢餓やマラリア、英国からの攻撃により、7~8割が死傷するという有様だった。
- なお軍事上軍隊の「3割」が戦闘能力を失えば「全滅判定」である。7割がいかにひどい状況下がわかるかと。
- 「もしベタなダメ上司・上官キャラの法則が現実に存在したら」を体現したような人物である。
- インパール作戦で前線で戦う兵士が食料も物資も無い最中で、後方にいる作戦立案者の牟田口は料亭で酒と女を連日喰らっていたという。
- 物資を運ぶのに「自動車が無ければ牛に牽かせればいいじゃないか。食料にもなるし」とジンギスカン作戦を思いつくが、当の牛は足が遅くてイギリス軍の恰好の的になり、泳げないので河を渡ろうとして流される有様だった。
- 物資が無くなって作戦継続が不可能となっても牟田口は撤退させず「武器が無いのなら腕がある、腕が無くなれば足で蹴ればよい、足も無くなれば口で噛みつけ、それが大和魂というものだ」と取り合わず。自身の無策を棚に上げて、精神論で片付けようとした。
- 前線指揮官の一人である佐藤陸軍中将は、物資食糧が尽きて補給が無く伝染病が蔓延し全滅不可避となった余りの惨状から、死刑になるのを覚悟して独断で撤退を決定する。
- 司令部に補給要請を何度も送るも、いつまで経っても物資を送ってこない上に、牟田口からは「作戦を継続しろ」の一点張り。
- 決死の撤退戦を行った佐藤中将は、ボロボロになりながらも後方司令部にたどり着くやいなや「牟田口はどこに行った!今すぐ叩っ切ってやる!!」と怒号をあげる。
- 佐藤中将の剣幕をみて、恐れた牟田口は顔を合わせないようにとどこかに隠れていた模様。
- 決死の撤退戦を行った佐藤中将は、ボロボロになりながらも後方司令部にたどり着くやいなや「牟田口はどこに行った!今すぐ叩っ切ってやる!!」と怒号をあげる。
- 佐藤中将が勝手に撤退したことに対し、牟田口は「気合と根性が足りないからだ!」「ジャングルなんだから食料になる草くらい生えているだろ!」と佐藤中将を罵倒する。
- 牟田口は、飢餓と病で苦しむ兵を集め、訓戒と称して佐藤中将の悪口を長々としゃべるが、栄養失調で気力を失っている兵は訓戒中に次々に倒れていった。
- 司令部に補給要請を何度も送るも、いつまで経っても物資を送ってこない上に、牟田口からは「作戦を継続しろ」の一点張り。
- インパール作戦の失敗に多少は責任を感じて部下に「自刃して陛下にお詫びしたいのだが」と問いかけるも、部下は「一応、私の役割だから上官が自刃すると聞いて止めないわけにもいかないが、古今東西、人に死ぬと告げて実際に死んだ人間はいません。閣下が少しでも責任を感じ、本当に自刃する意思があるのならば、誰にも告げず自刃してください。」とバッサリ返される。
- 戦後も生きながらえ続けている通り、そういわれても自決なんてしなかった。
- 戦後「インパール作戦の失敗は、自分のせいでなく、部下が無能だったためだ」と喧伝し、一切反省はしなかったという。
- 余談であるがゲーム『パワプロクンポケット2』の裏サクセスで無能な参謀長「任月高志」が登場するが、そのモデルは牟田口であり、やっていることがほぼ全部牟田口の逸話そのまんまである。
- 日中戦争の発端となった盧溝橋事件で部下から「発砲されました」の報告に「応戦しろ!」と返答したため、戦争が始まった。
- 昭和天皇の即位式で当時の首相田中義一が「万歳」と叫ぶ前に祝砲が鳴ってしまうというハプニングが起きたが、その原因が牟田口だった。
- 牟田口は即位式で祝砲を鳴らすためのボタンを押す係で、田中が「万歳」と叫ぶのを合図にボタンを押す手筈だったが、御所の外の市民の「万歳」の声が大きかったため、それで合図のボタンを押してしまった。
- 現在は牟田口に好意的な評価を下す者はほぼいないが、最近では牟田口の上司だった河辺正三や東条英機の責任も大きいんじゃね?という意見も多いらしい。
辻政信[編集 | ソースを編集]
- 大東亜戦争初期のマレー作戦で功績をあげ「作戦の神様」と言われたが、近年は独断専行や部下への責任転嫁などが厳しく批判されている。
- 最近では神様どころか「悪魔」と言われている。
- 中国系住民を大量虐殺した「シンガポール華僑粛清事件」や米軍やフィリピン軍の捕虜が大量に死亡した「バターン死の行進」の主犯であるが、それらの責任を部下になすり付け、辻自身は戦犯として訴追されなかった。
- 辻はタイで玉音放送を聴いて「自分が逮捕される可能性が非常に高い」と考え、数年間海外に逃亡していた。
- 責任から逃れて戦犯にならなかったどころか、戦後は国会議員になっている。
- 戦後に書いた回顧録がベストセラーにもなった。
- 冒険旅行のために内戦状態だったラオスに行き、その後の消息は不明となっている。
- まだ反日感情が残っていた現地住民の怒りを買って暗殺されたと言われている。
- 石川の黒歴史。
- 「良くも悪くも凡庸な役人だった東条英機」と異なり、こちらはガチで狂人扱いされることが多い。
- 戦後はアメリカから「機会があれば第三次世界大戦を引き起こしかねない男」と警戒された。
南雲忠一[編集 | ソースを編集]
- 太平洋戦争開戦時は機動部隊を率いる第一航空艦隊司令長官だった。
- もともと水雷屋(海軍用語では「車引き」)のため、航空戦はまったく分からなかった。
- そのため作戦に関してほとんど源田実など部下任せだった。
- 機動部隊は南雲艦隊でなく「源田艦隊」と揶揄されたほどだった。
- 真珠湾攻撃で石油タンクや海軍工廠を攻撃するための第二次攻撃隊を出さなかったことが今でも盛んに言われる。
- 山本五十六はこのことについて「言われなくてもやる奴は(攻撃を)やる、南雲はやらないだろう」と言った。
- 真珠湾攻撃の帰途、ミッドウェー島を攻撃するよう命令されたが、「横綱に勝った力士に、帰りに八百屋で大根を買ってこい、というようなもの」と天候不良を理由に拒否した。
- 真珠湾以来連戦連勝であったため、ミッドウェー海戦では空母4隻を失う大敗を喫した。
- ミッドウェー海戦の後は山本五十六の温情で引き続き残った空母で編成された第三艦隊司令長官となり、南太平洋海戦では敵空母ホーネットを沈める戦果を挙げた。
- その後、呉鎮守府司令長官を経て、中部太平洋方面艦隊司令長官に就任し、サイパン島で戦ったが、自決した。
- 真珠湾攻撃やミッドウェー海戦の指揮官だったが、南雲でなく小沢治三郎や山口多聞だったら結果は変わっていた。と言われる。
- 第一航空艦隊司令長官は南雲に決まったが、機動部隊を構想した小沢治三郎も候補だった。しかし、海軍兵学校の卒業年次で南雲となった。
- この人事は日露戦争で連合艦隊司令長官を予定された人物でなく東郷平八郎を起用したことが日本海海戦の大勝利につながったことと比較され、太平洋戦争の敗因の一つとされる。
- 連合艦隊司令長官の山本五十六でもこの人事案を覆すことができなかった。
- ちなみに山本は軍縮条約に賛成の条約派であったのに対し、南雲は条約に反対の艦隊派だったため、山本は南雲を嫌っていたという。