ざんねんな歴史上の人物事典/日本/鎌倉時代以前
< ざんねんな歴史上の人物事典 | 日本
ナビゲーションに移動
検索に移動
※編集される方は「Chakuwiki:お願い/ざんねんなモノ事典」をご覧ください。
- 1900年以前に生まれた人物でお願いします。
- 明治以降の文学者についてはざんねんな作家事典へ。
- 以下は出来る限り年代順に並べていただくと助かります。
鎌倉時代以前[編集 | ソースを編集]
天智天皇[編集 | ソースを編集]
- とにかくビビリ屋。少しでも造反の気配があったら即刻殺してしまう。
- 元がほぼクーデター(乙巳の変。まあ、これは蘇我親子が調子に乗り過ぎていたからだが)で権力を手にしたようなものなので、奪われるのは怖かったんだろう。乙巳の変の実行犯である蘇我石川麻呂も自害させてるし。
- 更に白村江の戦も「ヒィィー大陸が攻めてくるぅー!」とビビりすぎて出兵させたようなものであり、負けたら「ウワァー! 攻めてくる! どうしよ! どうしよ!」と防人制度まで作った。
- 今際の際に大海人皇子(弟、後の天武天皇)に皇位を譲ろうとしたのも勿論難癖付けて殺す為であり、出家されたことで肩透かしを食らう。そして死後に息子は大海人に討たれる。
聖武天皇[編集 | ソースを編集]
- 藤原広嗣の乱の最中に行幸を始めたり、遣都を繰り返したり、仏教にのめりこんで寺をあちこちに建てたりとメチャクチャして、官民の受けがよくなかった。
- これら一連の事件は長屋王の祟りなどと言われる。聖武天皇がロクに調べもせずに、藤原氏による長屋王叩きを「かまわん、ドンドンやれ」と放置したせいで、ほとんど何も悪い事をしていない彼の自殺を招いた。
どこかで聞いたような話である
- これら一連の事件は長屋王の祟りなどと言われる。聖武天皇がロクに調べもせずに、藤原氏による長屋王叩きを「かまわん、ドンドンやれ」と放置したせいで、ほとんど何も悪い事をしていない彼の自殺を招いた。
- 元々藤原家は天皇家にすり寄っていたが、聖武天皇が光明子を「皇后」にしてしまったせいで藤原氏の台頭を招く結果となる。
- また、天下一の公共事業である東大寺盧舎那仏建立に着手するも、結局大仏が完成する様を見る前に崩御した。
- なおその大仏は5回も破壊されている。
- 大仏の表面に施す金メッキによる水銀公害で、平城京は甚大な被害を受けてしまったので長岡京へ遣都したのではないか、という仮説が近年浮上している。
- 1873年(明治5年)にグレゴリオ暦へ移行した際、換算間違いにより、崩御日が1日早くなっていた。
- 約140年後の2012年(平成24年)に、ようやく正しい崩御日に訂正された。
孝謙天皇/称徳天皇[編集 | ソースを編集]
- この人のせいで、万世一系の天皇家が危うく途絶えるところだった。
- 男を知らずに育つとどうなるかがよく判る事例。
- 宗教にハマりすぎるのも怖いね。
- 言い方は悪いがこの親にしてこの娘在りということかねぇ…。
- 男を知らずに育つとどうなるかがよく判る事例。
- 趣味は、自分の気に入らない人間に、お下劣な名前を付けること。
- 例・和気清麻呂→別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)。
桓武天皇[編集 | ソースを編集]
- この人もビビリ屋。
- 父・光仁天皇の皇后だった井上廃后とその息子の他戸廃太子、弟の早良廃太子と、身内に非業の死を遂げた人達を怨霊として恐れ、彼らへ追称を送ったり、慰霊する寺院や神社を建てたりと、それはもうビビりまくった。
- 早良親王については、聖武天皇と同じようなことをして死に追い込んだ故、後年は自責の念にとらわれていたようで、流刑した淡路国からわざわざ大和国へ改葬し、「崇道天皇」と追称したりしている。
- 平城京から長岡京に都を遷すも、災害やら身内の不幸が起きまくったことにビビり、そこから更に平安京へ遣都した。
- 石上神宮から神宝を運び出したら病気になり、自分の歳と同じ人数の僧侶にお経を読ませて、神宝を納め直すも回復せず、崩御してしまった。
- 父・光仁天皇の皇后だった井上廃后とその息子の他戸廃太子、弟の早良廃太子と、身内に非業の死を遂げた人達を怨霊として恐れ、彼らへ追称を送ったり、慰霊する寺院や神社を建てたりと、それはもうビビりまくった。
花山天皇[編集 | ソースを編集]
- 一言で言うなら変態。
- 父の冷泉天皇も、手紙にでっかい×××××の絵を添えて送るほどの変態であったが、花山天皇は性欲の権化の如きお方であらせられた。
- 即位式の真っ最中に女官と×××××を行った。当時16歳なのに…。
- 16才なら当時結婚していてもおかしくない。即位式の真っ最中は擁護できないが。
- 即位後も親子丼に明け暮れる始末であった。
- 奥さんが死んでしまったため「オレもう出家する!」と言い出し、周囲からは「陛下ならそのうち飽きて還俗するだろ」と陰口を叩かれた。
- 結局在位2年で出家するが、そのときまだ19歳である。性欲が収まるわけがなく、女には手を出しまくり。
- あまりにスケコマしすぎたため、恨みを買って暗殺されかけた。しかもそれをダシに藤原道長はライバルを蹴落とし出世した。
- 西国三十三所巡礼を復活させた人物として有名であるが、第20番札所の善峯寺は花山院崩御後の創建なので、明らかに矛盾している。
菅原孝標女[編集 | ソースを編集]
- 本名不明なのでこう表記するしかない。『更級日記』の作者。
- 通称1000年前のお前ら。やる事なす事とても1000年前の人物とは思えないほどアグレッシブ。
- 物語を読みたすぎて、13歳の時に薬師如来像(等身大)を彫る。しかもその内容が「この世の全ての物語を読ませてください」。海賊王かお前は。
- やっと都入りを果たすと、源氏物語の写本を手にした途端部屋に引きこもり数日間微動だにしない。
- 親も呆れて勉強しろと言ったが、耳に入るわけも無かった。
- この時の心境が凄い。「ひき出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ」!! 当時の皇后はいわば「全世界のNo.2」であり、それすら今の心地には劣るわ! というわけ。
- こんなんでも一応結婚は出来たが、30歳になってからなので当時ではかなりの行き遅れ…。
- 更級日記とはいわば「子供たちも独り立ちし、夫にも先立たれた菅(ryの心境を綴った日記」であり、上記のようなイカれた回顧録の末には「こういうことはやるものではない」と結論付けている。
梶原景時[編集 | ソースを編集]
- 鎌倉幕府の重鎮であるが、豊臣で言う所の石田三成ポジション。
- 逆梶論争が有名なように、とにかく敵を作りやすいやつ。
- 説明力が高かったらしく、報連相をきちんとするという点では評価できるのだが(笑)。
- 空気を読まずに勇猛果敢な畠山重忠をボロクソに非難したことで、より源氏の猪武者どもから恨まれるようになった。
- ついには頼朝の死後、我慢の限界が来たのか66名もの連判(勿論重忠も含む)で訴追、失脚の後に襲撃を受けて一族郎党滅ぼされる。死人に口なし。
- 余談だが、茨城県の一部地域ではゲジゲジのことをカジワラと呼ぶ。深くは探るまい。
後白河法皇[編集 | ソースを編集]
- 生前は伊勢平氏を滅亡させただけでは飽き足りなかったのか、河内源氏と源氏将軍の血脈を途絶えさせるための仕込みをする。
- 源頼朝に東国沙汰権、義経に左衛門尉と検非違使、木曽義仲に平氏追討の院宣を与えて頼朝を怒らせる。
- 法皇が義経に勝手に官位を与えたことが頼朝の血脈が長く続かなかった原因とされる。
平宗盛[編集 | ソースを編集]
- 平清盛の息子の中でもできの悪いほう。
- 兄の重盛や、弟の知盛などは武士らしく武勇に優れているが、宗盛はというと臆病で、とても武士らしくなく「驕る平家は久しからず」を体現している。
- 清盛が亡くなり、すでに嫡男であった重盛も亡く、平家の棟梁として指揮をするも戦経験もほとんどなかったので、そのほとんどは弟の知盛まかせになっている。
- 壇ノ浦の戦いで、義経軍に敗れた平家武士が次々に入水自殺をする中、どうしたらよいのかわからずオロオロするばかりであった。
- それを見かねた家臣が「お供いたす」といって入水するも、無駄に泳ぎが得意だったため、死ぬことができず源氏方に捕縛されてしまう。
- 鎌倉に護送され、頼朝から死罪を賜るがその最中、ずっと頼朝にへりくだり、命乞いをしたという。
北条政子[編集 | ソースを編集]
- 鬼嫁。
- 当時としては非常に珍しい恋愛結婚であり、夫・頼朝が浮気した際には浮気相手の家をハンマーでぶっ壊している。
- 政治的には非常に優秀だったが、優秀過ぎて自分の息子たちも最終的に死に追いやる結果を招く(意図していたのではないと思うが)。
- 彼女と弟の義時によって頼朝の重臣たちはほとんど始末されている。前漢の呂一族かよ(呂一族と違って完全に夫の一族を滅ぼしている分たちが悪い)。
- 最終的に頼朝との間の子は全て先立たれ、源氏政権は数十年で滅亡している。
源義経[編集 | ソースを編集]
- 戦しか得意じゃなかった英雄。兄の頼朝は戦だけがダメだったので性格も真逆(女癖は同レベルだが)。
- 政治的センスの欠如のせいで、「俺は頼朝兄さんの弟だから鎌倉武士より優遇されているはずだ」と思い込み、後白河法皇から官位を躊躇なく受け取り決定的な亀裂を生んでしまう。
- その戦の方法も奇襲とか放火とか、木曽義仲と大差ないレベルのDQNぶり。
- 彼らだけがそうだったわけじゃなく、基本的に源氏はやり方が汚い。
- 特に問題視されたことが、非戦闘員(船の漕ぎ手など)への加害行為。当時の価値観では絶対的なタブーだった。
- 平家物語では「出っ歯で背が低く、平家の中の選り屑よりもブサイク」などと不必要なまでに容姿をけなされている。
- 両親が美男美女だったんだから彼だけそこまでブサイクだったとも思えないので、ブサイクだった方は山本義経という別の武将ではないかという説が濃厚。
- 隣にいつも弁慶がいたから相対的にチビに見えたという説もある(笑)。
- 生存し蝦夷地(北海道)からモンゴルに渡りチンギス=ハンになりましたというのはとっくに否定されている。
- 北行伝説に至ってはアイヌへの同化政策のために義経北行伝説が利用されたこともあった。いわば家系に義経の名を加え箔をつけ見栄を張ったというわけである。
- しかもアイヌの伝承では義経は悪役になることが多かった。
- 北行伝説に至ってはアイヌへの同化政策のために義経北行伝説が利用されたこともあった。いわば家系に義経の名を加え箔をつけ見栄を張ったというわけである。
四条天皇[編集 | ソースを編集]
- 歴代皇室で最も
4コマ漫画みたいなざんねんな御崩御を遂げた天皇。- ある日のことです。陛下は廊下をご覧になり、「この廊下に滑る石を置いたら転ぶかもな」とお思いになられました。
- 陛下は試しに石を置いてみましたが、本当に滑るのか気になって、自分でお試しになられました。
- ところが陛下が石を踏んでみると、思った以上に滑りました。そして、別の石がたまたま転んだところにございました。
- 頭をお打ちになられた陛下はそのまま12年の短い一生を終えました。