ざんねんな歴史上の人物事典/西洋

ナビゲーションに移動 検索に移動

※編集される方は「Chakuwiki:お願い/ざんねんなモノ事典」をご覧ください。

  • 1900年以前に生まれた人物でお願いします。
  • 以下は出来る限り年代順に並べていただくと助かります。

古代[編集 | ソースを編集]

ヘラクレイトス[編集 | ソースを編集]

  1. ヘラクレスではない。「万物は流転する」「根源は火なり」と説いた哲学者の一人。
  2. 厭世的なうえに著作がメチャクチャ難解なので、「暗い哲学者」という不名誉な二つ名を持つ。
  3. 死因が下記のアイスキュロスに並ぶほど悲惨。
    • 晩年のヘラクレイトスは水腫を患っていたが、医者に見せるのを嫌がり、なぜか民間療法に縋り牛の糞を体に塗りたくった。
      • その結果、糞の臭いを嗅ぎつけて襲い掛かってきた犬に噛まれて死んだ。何を言ってるかさっぱりわからないと思うが、本当にそうなのだからどうしようもない。

アイスキュロス[編集 | ソースを編集]

  1. ギリシャの3大悲劇詩人。人類史上まれにみるざんねんな死に方をした。
  2. ある日、アイスキュロスは占い師から「上から物が落ちてくるから気を付けろ」と言われた。そこでアイスキュロスは何もない野原に行くことにした。
  3. しかし不運なことにその頭上を1羽の鷲が飛んでいた。そして不運なことに、アイスキュロスはツルッパゲであった。
  4. 鷲は捕まえた獲物を食べようとしていたが、硬くて食べられずにいた。だから鷲は天高く飛び、獲物を岩に叩き付けて割ろうとしたのだ。
  5. その結果__岩のようにピカピカだったアイスキュロスの頭に、巨大な亀が天から真っ逆さまに落ちてきた。こうして悲劇の詩人は、その下敷きとなってその崇高なる頭脳を地に散らし、人生の終焉という最期の悲劇を描いてしまったのである。

カリギュラ帝[編集 | ソースを編集]

  1. ローマ帝国3代皇帝。先代のティベリウスが全く仕事をしないヒキニートで民衆からは毛嫌いされていたため、カリギュラが即位した際には(主にティベリウスが死んだことを)喜ばれたのだが…。
    • ちなみに「カリギュラ」は「小さな軍靴」の意で、幼い頃軍人の格好をして父と一緒に従軍していた際にアイドル的な人気があったからである。
  2. その際に派手な式典を行って民衆に金を配ったのをいいことに、公的支出を増やし過ぎて、即位数年で国庫を財政破綻寸前まで追いやった。
    • 更に神々のコスプレをして会合に出たり、自らを神として信仰させようとするなど、ナルチシズムが暴走し始めた。
    • 財政破綻の解決策の一環として、皇帝自ら売春宿(船)を経営。
  3. その結果、貴族に造反の意をでっちあげて処刑し金をむしり取るという小学生みたいな発想で赤字を補填しようとしたため、士貴族の怒りを買い虐殺され、妻と娘も殺された。
    • 本名にカエサルなんて付けたせいで有名な方のカエサルと同じ死に方をしてしまった。
    • カリギュラが暗殺されて、いきなり次の皇帝になったクラウディウスは、身体に障害を持っていたため当初は期待はされていなかったが、期待と裏腹に善政を行っていて、カリギュラの無能が一層引き立っている(ちなみにクラウディウスの次代は暴君ネロである)

ネロ帝[編集 | ソースを編集]

  1. ローマ帝国5代皇帝。学者セネカらのアドバイスもあってスタートダッシュはよかったのだが...。
    • 上のカリギュラ帝の節にもあるように絵に描いたような暴君で母や妻を殺害し、更にローマ大火の罪をキリスト教徒に着せて大迫害を行った。
      • 後にキリスト教が、ローマを始め西洋諸国に広まるのに際し、ネロを暴君に仕立て上げた方が都合がよかったという説もある。
  2. 彼は芸術家でもあり、暇なときは舞台で竪琴で弾き語りもやったという。ただし腕前は酷かったとされている。前述の暴君の件といいまさにローマのジャイアン。
  3. 67年の古代オリンピックは彼のために無理やり開かされた。更に音楽部門も加わるという無茶苦茶ぶり。
    • 出場しても最下位なのに無理やり優勝ということにされた。あーもう滅茶苦茶だよ。
    • 腕前がアレなので音楽部門では死んだふりをするギャラリーもいたそうな。
    • こんな感じで彼は数々の大会で不正で金メダルを1000個以上獲得した。
  4. 最期もざんねんで、帝国内で反乱が起こり、死の恐怖で泣きながら自害。最期の言葉は「この世から、なんと偉大な芸術家が消えてゆくことか!」だったらしい。
  5. 余談だが小説家の星新一の作品の一つに「宇宙のネロ」という暴君の宇宙人が地球で大暴れする話がある。

コンモドゥス帝[編集 | ソースを編集]

  1. ローマ帝国17代皇帝。父である16代皇帝マルクス・アウレリウスは「哲人皇帝」と呼ばれる優れた哲学者であり、「賢帝」と称される名君であった。
    • しかしコンモドゥスは「人皇帝」にして「帝」という筋肉皇帝に育ってしまった。
  2. 実の姉が裏切って暗殺者を差し向けたショックで「俺が強くならねば部下はついてこん」と悪い方向に努力を重ねてしまい、コロセウムで猛獣や囚人をボコりまくるようになる。
    • その結果、政治は完全に投げっぱなしになり、宰相は2回も暗殺された。
    • 会議の場にも剣闘士の格好をして登場し、議員たちを呆れさせた。
  3. あまりにニート生活を繰り返していたのでキレた元老院が刺客を送るも、上記の事件故に警戒心と体力が人類の限界点を突破していたコンモドゥスは次から次へと刺客を秒殺してしまう。
  4. だが「どんなに警戒心が強くても、風呂上がりに酒を飲ませれば勝てる」と元老院が実に卑怯な作戦を思い立ち、上記の方法で後ろから長い紐で絞めるというせこい方法を取ったことによりようやく死亡した。
    • しかも警戒心が強かったので酒の中に入っていた毒は予め習慣的に飲んでいた解毒剤で中和されていたらしい。書いていて、「コイツ本当にローマの皇帝か? ゲルマンかフン族じゃないのか?」と疑わしくなってきた。

カラカラ帝[編集 | ソースを編集]

  1. ローマ帝国第21代皇帝。
  2. 名前の通り国民からカラカラになるまで税金をむしり取るため、植民地にもローマ市民と同じ権利義務を与えた。そのことだけが有名になり世界史のテストにも名前が残っているが、その実態はというと…。
  3. 実際はドケチでとても器の小さい小者であった。
    • 税金を効率よくむしり取るため、貨幣の金含有量を減らしインフレを起こした。柳沢吉保から1500年以上前にこういうセコイことをやっていたのである。当然、失敗した。
    • 弟・ゲタを倒して皇位に付いた後腐れがあったため、ゲタの肖像画や彫刻をすべて破壊し、ゲタ派の議員たちは全て処刑した。
      • 「俺は悪くない~ゲタが俺を殺そうとしたんだ~俺は無実だ~♪」という歌がアレクサンドリアで流行っていたのを知ったカラカラは、アレクサンドリアで「国民に弁解したい」と会場を設営した。アレクサンドリア市民はさっそく向かったが、そこで会場を護衛していた兵隊は、カラカラが登壇した瞬間一斉に矢を放ち、観客を1人残らず殺害した
        • その後も「疑わしきは全部殺せ」ということでアレクサンドリア市で2万人以上が虐殺された。
    • ちなみにこれらの暴政への加担を拒否した兵士は後ろからの流れ弾(婉曲表現)で名誉の殉職(婉曲表現)を遂げたので、兵隊や議員たちはイエスマン以外誰も残らなかった。
  4. ついには「人類共通の敵」と称され、道端で立ちションベンしている所を近衛兵に後ろから刺されて死んだ。

ヘリオガバルス[編集 | ソースを編集]

  1. ローマ帝国第23代皇帝。
    • カラカラの母親の姉の孫という血筋。
  2. 退廃的な性癖を持ち、存在自体が18禁なことで「ローマ帝国史上、最悪の皇帝」と評価される。
    • 女装趣味
    • 露出狂
      • 極度の男根崇拝者で×××××を模した神輿を作らせる
    • SM好き
    • 両刀使い
      • 男の愛人を持つ
      • 女性も大好き
    • 宮殿内に売春宿を設置。女装して皇帝自ら春を売る。
    • 最近では性同一性障害だったんじゃないかといわれている
  3. 周囲があまりの変態ぶりに苛立ち、近衛兵が反乱を起こしてボコボコに叩きのめされた挙句、八つ裂きにされて殺され、晒し首にされた上に首から下は全裸で馬に乗せられて市中引き回し(順番が逆では?)。享年18歳

中世以降[編集 | ソースを編集]

ジョン[編集 | ソースを編集]

  1. 英国の王で、ライオン・ハートことリチャード1世の弟。
    • あだ名は欠地王。父親のヘンリー2世から「お前の兄達に領土を分け与えてしまった為に、お前に与える領土が無くなった」と告げられたため。
      • 欠地王の名の通り、在位中に大陸領土を失陥するは、イギリス本土もローマ教皇に寄進するわでその名に恥じぬ(?)働きを見せる。
      • あまりにも不憫すぎると思ったヘンリー2世は、ジョンの領地を確保しようとリチャードら兄の領地を割譲しようとするが、それがきっかけでヘンリー2世と兄たちの親子ケンカ(戦争)が始まってしまう。
        • ジョンは、自分の為にケンカをしてくれている父ヘンリー側に付かず、何故か兄たちに味方をする。
    • 領土を失うわ、ローマ教皇から破門されるわと、無能で不名誉な王様ということで、以降の英国王室から「ジョン」と名乗る王(ジョン2世、3世…)は存在しない。
    • 光栄の歴史シミュレーションシリーズで蒼き狼と白き牝鹿にも登場し、劉禅(三國志)、今川氏真(信長の野望)と並び、「三バカ君主」の一角を担っている。
  2. リチャードが十字軍遠征に行っているどさくさに紛れて、フランス王の協力の元、自分がイングランド王になろうと画策する。
    • 結局、重臣や諸侯の指示を集めることができず、そうこうしている間にリチャードがイングランドに戻ってきてしまったので、王になるのを断念する。
      • それ以外にも何度か、あの手この手で自分の領土を得ようと画策するが、いずれも失敗に終わっている。
  3. リチャードが亡くなって、どうにかイングランド王に即位。
    • 婚約者のいる女性(12歳の幼女)と半ば強引に婚姻を結んだことで、その婚約者がフランス王に訴えを起こしたため、フランス王の怒りを買う。
      • 結果、イングランドの大陸領土を大半を失うことになる。
    • イングランド領内のカンタベリー大司教任命権について、ローマ教皇と悶着を起こし、怒った教皇からキリスト教の破門を言い渡される。
      • 破門を受けたことで、ローマ教皇がフランスに肩入れし始めるのと、王としての権威が失墜するので、ヤバいと感じて全領土をローマ教皇に寄進することになる。
    • その後、ブーヴィーヌの戦いでフランスと戦い、完敗し、大陸領土の奪還に失敗してしまう。
      • その戦費を捻出するために国民に重税を取り立て、その上、負けて帰ってくるのだから、国内では不満が爆発し、諸侯から反乱を起こされる。
  4. 数少ない功績が、「王様だからって、なんでもかんでもやっていいってわけじゃないんだぞ!」という意味合いで王権の制限を記したマグナ・カルタに(半ば強制的に)調印させられたということと、現在のリヴァプールにあたる街の建設を許可したことくらい。

クリストファー・コロンブス[編集 | ソースを編集]

  1. 人類史上最大の偉人であり、彼がいなければ世界人口は数十億人単位で違っていたかもしれない。
  2. そして彼こそが人類史上最も欲深かった男である。識者に「コロンブスの前では、ヒトラーもネロもただのチンピラにすぎない」と言わしめるほどには。
  3. まず第一に、彼をはじめとする当時のヨーロッパの船乗りたちは基本海賊と思ってよい。
    • 黄金の国ジパングと香辛料の国インドを目指していたが、元々交易などする気は全く無く、住民たちを賢い家畜としか見なしていなかった。
      • 当時の日記にも「彼らは素晴らしい奴隷になるに違いない」と直筆で記されている。ヤバい。
    • そもそもコロンブスは元々アフリカで奴隷商を営んでおり、彼とその弟の脳ミソには「有色人種=殺してよし」という大雑把すぎる認識が刻まれていた。
      • こうして新大陸に辿り着いたコロンブス兄弟は奴隷として片っ端からインディオを攫い、ありえないほどの労役を貸した末にヨーロッパから持ち込んだ病気のせいで住民たちはバタバタ死亡。わずか4年で人口が半数以下になった。
        • しかもこの時に部下たちは梅毒まで持ち帰ってしまい、新大陸と旧大陸の両方で疫病が蔓延した。
      • 当然、2回目の航海の際には反乱がおきたが、この時にはスペイン海軍(要するに国公認のヤクザ。当時の海軍はそういうものである)も加わっていたため歴史的な大勝利(というか弱い者いじめ)を収め、女子供老人に至るまで大虐殺を敢行。完全無抵抗でも容赦なく殺した。
        • あまりに容赦がなさ過ぎたため、コロンブスが病気で休んでいるときには兵士たちはストッパーがなくなってしまい、コロンブス自身がドン引きするほどの虐殺を繰り広げていた。あまりに殺し過ぎて、奪うものが無くなってしまった始末。
    • こんなんだから、(ありえない仮定であるが)南北アメリカ大陸が存在せず、太平洋を突っ切って日本に到達していた場合、人類史上初の世界大戦になっていた可能性すらある。
  4. あまりに人使いが荒すぎたため、奴隷は勿論、それを売っていた奴隷商人にすら反乱を起こされ、遂にスペイン王家がスポンサーを降りる。
  5. それでもボロ船で航海に出るが失敗し、女王イザベルの死によりスペイン海軍は「利益ばっかり主張するうるさい奴」とみなしてコロンブスをクビにしてしまった。
  6. 死ぬまで自分が辿り着いた土地をインドと信じ込んでたため、新大陸の名は二番目に訪れたアメリゴ・ヴェスプッチに奪われた。

フェルディナンド・マゼラン[編集 | ソースを編集]

  1. 上記コロンブスと同じ侵略航海士だが、コロンブスと違いアホでヘタレであった。
  2. コロンブスのような略奪目的ではなく当初は穏健な布教活動を行っていたが、「なんでボクちんの言うこと聞いてくれないんだ! ムキーッ!」と怒って村に火を放ったりする暴挙に出る。
  3. 起こったフィリピン王ラプ・ラプは30倍の軍勢を率いて退去するよう脅しにかかったが、「うるさい! コルテス先輩は銃と剣で100倍のアステカ族を倒したんだぞ! やってやれないことなんかあるか!」と全面戦争を挑んでしまう。
  4. しかしフィリピン軍は竹槍しか持っていなかったにもかかわらず、マゼラン一味の暴挙に怒り狂っていたため士気が高く、一人頭30人も倒さねばイカンという無茶ぶりもあって徐々にマゼラン一味は戦死者が続出。遂にマゼランも竹槍でめった刺しにされて死亡。銃と鋼鉄の鎧を持っていたのに竹槍に負けた男として永久に歴史に名が残ってしまった。
  5. そのため、人類史上初の世界一周を果たしたのはフィリピン軍から逃げ延びた「マゼランの部下」であり、マゼランではない。

ヘンリ―8世[編集 | ソースを編集]

  1. テューダー朝イングランドの王。
    • 男子後継者を残したいという思いもあっただろうが、とにかく好色で精力絶倫な王として知られる。
  2. 結婚離婚(無実の罪で処刑含む)を繰り返し、6人の女性と結婚する。
    • ローマカトリックの教義では、一夫一妻制で死別などの理由がない限り離婚は認められないのだが、離婚が自由にできるようにするため、カトリックから分派してイングランド国教会を立ち上げて、これを国教にしてしまう。
    • 離婚ができないとなると、妻を無実の罪にかけて処刑するという事も行った。
  3. 結婚とは別に、愛人も多い。
    • 2番目の妻となるアン・ブーリンの母親のエリザベス、姉のメアリーとも愛人関係を結んでいたという。

ウィリアム・シェイクスピア[編集 | ソースを編集]

  1. イギリス、エリザベス1世時代の劇作家で詩人であるがよく小説家と勘違いされる。
  2. ハムレット、マクベス、オセロ、リア王などの四大悲劇やロミオとジュリエットが有名なせいで悲劇が好きと思われがちだが夏の夜の夢やヴェニスの商人などの喜劇の劇作の方が多い。
  3. シェイクスピアの経歴には不審な点がいくつかあり、それが原因でシェイクスピアの別人説がある。
  4. ざんねんな食べ物事典のアイスティーと同様に某AVのせいで夏の夜の夢が風評被害にあっている。
  5. ニシンが好物であったらしく、腐ったニシンを食べたせいで食中毒になりそれで死亡したとされている。

ウィリアム「キャプテン」キッド[編集 | ソースを編集]

  1. 知っての通り有名な海賊であるが、実はすっごく残念な人物。
  2. 元々私掠船の船長だったが、欲をかいて「イギリスの船以外であればどの船を襲ってもよい」と曲解し、手当たり次第に他国船を襲い単なる海賊に成り下がる。
  3. ところがキッド本人は短気で臆病者であり、部下が「やべっすよ船長! 撤退しましょう!」と進言したのを聞き入れず、バケツでぶん殴って殺害し海に放り捨てるほどのろくでなしであった。
    • そのため、部下からも慕われておらず、バケツ撲殺事件以降は逃亡者も増えた。
  4. 最終的に友人に裏切られて海軍に逮捕され、裁判の際に「俺は宝を隠したんだ! 殺すと手掛かりがわからなくなるぞ!」という命乞いを行ったせいで死刑が確定。
    • 縛り首の末に死体はタール漬けにされ「海賊を行った者の末路」という立て札まで置かれるという、哀れな末路を迎えた。
    • この命乞いのせいで、海軍の思惑とは逆に余計に海賊が増えてしまったのもかなりざんねんである。

ルイ15世[編集 | ソースを編集]

  1. 通称「最愛王」。エロゲ主人公の生涯を地で行った王様。
  2. 5歳で即位し、5人も側室(正しくは公妾だが、なじみのない言葉なので以下は側室と表記)を抱え、妾は10人もいた。更に正室には毎年子供を産ませていた。
    • あまりにセックスしすぎたため王妃は体調を壊してしまい、ほとんど女児しか生まれなかったこと、死産があったことなどから鬱病を発症して引き籠った。
    • それが原因で側室のポンパドゥール夫人を寵愛するようになったが、やがてポンパドゥール夫人が病気を苦に愛人関係を切る。この代替案として夫人は「鹿の園」というハーレムを個人的に(もちろん市民からの血税で)建設し、15世はウハウハの生活を送った。
  3. こんなんだからあまり政治的には優れていると言い難く、対外戦争では負け続けて5回もデフォルト(債務不履行。借金の踏み倒しの事)を行っている。
  4. 「朕が死んだあとは洪水が起こるであろう(=私が死んだあとは政治的にえらいことになるよ)」と言い残して没したが、愛人のデュ・バリー夫人や前掲の経済的失敗等の遺物によりフランス革命が起きることになる。

ジャン・ジャック・ルソー[編集 | ソースを編集]

  1. 変態。
    • 路上でケツだけ星人をしたり、SMプレイ(Mの方)マニアだったり、知能障害を持つ女性を×××××して子供を孤児院に預けたりとロクな逸話が残っていない。

ピョートル3世[編集 | ソースを編集]

  1. ロシアのロマノフ朝第7皇帝…と書いてもわからないかもしれないが「女帝エカテリーナ2世の元夫」と書けばわかるかもしれない。
    • 拷問の廃止、国立銀行の成立などに着手したため、下記のように人間的には問題があったが政治的には…まあ…悪くは無かったと思うよ。空気が読めなかっただけで。
  2. かの名君ピョートル大帝の孫であるが、ドイツで育てられたため愛国心がヒジョーーーーーーーに薄かった。
    • この時の教育係が虎の穴のミスターXもかくやと言うようなスパルタだったため、大の勉強嫌いに育ってしまった。
  3. 14歳の時、叔母の女帝エリザヴェータに引き取られてロシアで暮らすようになったが、エリザヴェータがポンコツ極まりない上に短気なヒス女だったため、ピョートル3世はここでも遊興にふけり、周囲の不理解に辟易することとなる。
  4. そして親類のエカテリーナ(当時は違う名前だがこの名称で統一する)と結婚して皇帝となったが、則天武后とクレオパトラを足して2で割ったような女傑であるエカテリーナとは全く気が合わず、必死でロシアの王妃として勉強していた妻とは異なり、一向にロシアの文化・風習を学ばなかった。
    • 代わりに大好きだったのがプロイセン。敵国である。しかしピョートル3世はそんなこと気にせず、バカでかい肖像画を王宮に飾っていた
      • 金正恩が議会にドナルド・トランプの肖像画を飾ったらそりゃ大ヒンシュクであろうが、ピョートル3世は一切気にしていなかったのだから、相当に空気が読めなかったとしか言いようがない。
    • 即位当初、プロイセンは先帝エリザヴェータとの戦いでズタボロになっていたが、跡を継いだピョートルがすぐ講和してしまったので助かった。おまけに講和条約の際には、今まで奪った領土も全部返却、賠償金も取らなかった。…アホちゃうか?
  5. では戦争が嫌いな平和主義者だったのかというとそういうことは全然なく、大量の兵士人形でブンドド遊びにふけるようなミリタリーマニアであった。戦争が嫌いだったのではなくプロイセン軍が好きだったのである。
  6. あまりにクソクソアンドクソな性格不一致故に、エカテリーナは公然と浮気を繰り返していた。勿論ピョートルもエカテリーナに愛想をつかしていたので愛人を囲っていたのだが、その愛人が歴史書に名が残るほどのブスと名高いことで有名であった。
    • この頃エカテリーナは浮気相手の子を産んでいたので、これ幸いとピョートル3世は彼女に出家を命じ、ブスの愛人を正室に迎えようとした。
  7. しかし、エカテリーナは軍部を抱き込んでクーデターを起こした。当時、「皇帝がそんなにプロイセンオタクでは困る」という気概があったため、ロシア軍はピョートル3世が留守の間に彼を追放してしまった。夫婦げんかに負けてカミさんに家どころか国まで追い出された旦那など彼ぐらいであろう。
  8. 結局、流浪の末にピョートル3世はあっけなく死亡。当時は「痔が悪化して死んだ」と報道されたが、暗殺説もある。

エカチェリーナ2世[編集 | ソースを編集]

  1. 上述のピョートル3世の后で、これを暗殺した後にロマノフ朝の帝位につく。
    • 対外的に暗殺しましたとは言えないので「持病の痔が悪化して崩御した」と国内および欧州諸国に喧伝する。
      • これを公式発表としたので、欧州諸国の諸王・諸侯は爆笑したという。
      • とはいっても、夫婦仲の悪さは巷でも有名だったので、実際は暗殺したものだろうというのは、皆、薄々気づいていた。
  2. 嫁入りするまではロシアとは縁もゆかりもなかったのだが、皆に受け入れられるようにとロシア語を習得したり、ロシア正教に改宗したりして、貴族受けは良かったようである。
    • 帝位についてからは、領土拡大やロシアの近代化などを進め、欧州諸国の中でも三流国家扱いだったロシア帝国の地位を格段に挙げたことから、女性ながら「大帝」と称される。
    • 貴族受けは良いものの、庶民に対しては農奴制度を徹底させたせいで、ロシア国内では農民反乱が頻発するようになる。
      • 夫のピョートル3世は貴族からは反感を買うも、国民寄りの政策をしてたので、国民にとってはピョートル3世の方がマシだったと言える。
  3. ロシアを発展させた名君ではあるものの、私生活では大勢のメンズコレクション(愛人)を囲い、公式愛人で10数人、関係した人数で言うと数百人を超えると言われている。
    • 67歳で崩御する直前まで、自分の孫くらいの年齢の愛人を囲っていたという。
    • 孫のニコライ1世からは淫乱ババア扱いされて「玉座の上の娼婦」と称される。

ヴィクトリア女王[編集 | ソースを編集]

  1. 約60年にわたってイギリスを治め大英帝国の繁栄を象徴する女王であったが、彼女自身が血友病の因子を持っていたため、その後何代にもわたって子孫たちが血友病に苦しめられることになってしまった。
    • ちなみに血友病は男性でないと症状が出ないため自身はこの病気にならなかった。
    • ロシアのニコライ二世やその家族がラスプーチンにはまってしまったのも息子の血友病が原因であり、その血友病もヴィクトリアの遺伝由来とされている。
    • なお現在は血友病を持つ彼女の直系の子孫が全員死亡したためヨーロッパの王族に血友病を持つ人物はいない。

レオポルド2世[編集 | ソースを編集]

  1. ベルギーの恥
  2. 当時ベルギーはとっくに立憲君主制になっていたが、私利私欲の為にコンゴを「コンゴ自由国」として征服し、私領として治めていた。
    • しかし象牙や天然ゴムを供出させるため、領民の手足を切断するなどして脅していたことが発覚し、イギリスから猛バッシングされた。
      • イギリスも植民地でひでぇ事はやっていたのだが、さすがに領民を虐殺してまではいなかったので、政治的意図を抜きにしてもドン引きされていた。
      • 「虐殺」は比喩表現ではなく、レオポルド2世統治下に入ってからコンゴの国民は7割減った
    • 一応フォローしておくと、レオポルド2世が率先して「脅せ!」と言っていたわけではなく、こうした統治の実態を知った時には血相を変えてやめるように命令するなど、最低限の人倫は有していた。しかしながら、無茶な増産を言い出したのはレオポルド2世であり、王が欲に目がくらまなければこうした虐殺は起きなかったのは事実である。
      • 一応ベルギー本国から調査団は派遣されたが、読者諸君の予想通りの「ご報告」が為されただけで終わった。
  3. こうして遂に国のメンツの失墜を恐れた議会から苦言を呈され、コンゴ自由国は王の私領ではなくベルギー王国の領土となった。
  4. 私生活でも、嫡男が早逝したにもかかわらず不倫して男子を生ませる始末で、国民からの支持率は下がる一方であった。
  5. 死語、跡を継いだ甥のアルベール1世は、「余が死んで盛大な葬式を挙げたら国民からどう言われるか分かったもんじゃないから簡素な葬儀にしてくれ」という遺言を破り、「(あんなんでも叔父だから)一応、粗末に扱うわけにもいかないので国葬とする」としたが、その結果参列した国民からは罵声が飛び交い、棺にツバを浴びせた奴までいた

ウィリアム・ハリソン[編集 | ソースを編集]

  1. 第9代アメリカ合衆国大統領であり、史上最もざんねんな大統領と言われている。
  2. ハリソンの大統領就任宣誓はメチャクチャ寒い日に行われた。にもかかわらずハリソンは薄着で2時間近く演説を行った。
    • ちなみにこの就任演説はアメリカ史上最も長い記録である。
  3. 就任演説で頑張りすぎて風邪を引いてしまい、(当時としては高齢だった68歳だったためか)運が悪くそれをこじらせてしまい肺炎まで発症。そのまま亡くなってしまった。
    • 最も在職日数が短いアメリカ大統領である。わずか31日。
  4. 一応軍人としてはかなり優秀だったらしく、ティッペカヌーの戦いと呼ばれるインディアンとの戦いに勝利し名声を得ている。
  5. 孫のベンジャミン・ハリソンも大統領を務めている。

エイブラハム・リンカーン[編集 | ソースを編集]

  1. 初代のジョージ・ワシントンと並んでアメリカ史上最も偉大な大統領として人気が高いが…。
  2. 彼が奴隷解放宣言を発表したのはあくまで南部の奴隷制度を廃止させてアメリカの分裂を阻止するためであり、人道主義的な理由などでは決して無かった。
    • 実際、北部の黒人奴隷に関しては放置プレイ。それどころかリンカーン自身も黒人奴隷を保有していた。
    • インディアンへの迫害は酷かった。まあ他の大統領も大概だが…。
  3. 髭を生やした肖像画が有名だが元々は髭を生やしておらず、グレース・べデルという女の子から「髭を生やした方が貫禄が出て良いと思うよ」という手紙が届いたからである。

ジョン・テイラー(イギリスの眼科医)[編集 | ソースを編集]

  1. イギリス王の侍医にもなった、ヨーロッパ中を飛び回り多くの患者を治療した眼科医。
  2. だが著名な二人の音楽家の治療に失敗したヤブ医者として後世に悪名を残している。
    1. 1750年に白内障だったヨハン・ゼバスティアン・バッハを治療。バッハは既に視力が大幅に悪化していたが、2度に渡り手術を行う。しかし完全に失明して後遺症が残り、数ヶ月後にバッハは65歳で死去する。
    2. 1758年にゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルを治療。ヘンデルは既に両眼とも失明しており、こちらも手術を行ったが成功せず翌1759年にヘンデルは74歳で死去する。
  3. そんな悪名高いヤブ医者として、生前から風刺や批判の対象だったテイラーが1772年に亡くなった時、両眼とも失明状態だったという説がある。皮肉といえるのかどうか。

関連項目[編集 | ソースを編集]