幸運な人物事典

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幸運な人物事典[編集 | ソースを編集]

今泉健司[編集 | ソースを編集]

  1. 1987年に関西奨励会に入会したが、1999年に年齢制限により奨励会を退会せざるを得なかった。
    • 昇段次点である三段リーグ3位に二度なっているが、1回目当時は「次点2回でフリークラスとして四段昇段」の制度が存在しなかった。
  2. 2007年に三段編入試験を受け奨励会三段に編入したものの、四段に上がることはできず再び奨励会を退会。
  3. 2014年になってプロ編入試験を受け合格。41歳でようやくプロ棋士になった。
  4. 2018年にNHK杯本選第1回戦で藤井聡太と対戦したところ、藤井に勝利し一躍話題となった。

今川氏真[編集 | ソースを編集]

  1. 桶挟間で戦死した義元の跡を継いで今川氏を当主となったが・・・。
    • 信長への復仇に消極的だったがために部下や同盟相手から愛想を尽かされ、その後徳川・武田の二方向から攻め入られ降伏。結果的に一代で今川家を駄目にしてしまう。
  2. その後は妻の実家であった北条氏に落ちのびさらに徳川家の庇護を受け、最終的に江戸の品川の屋敷を与えられ、そこで77歳で亡くなった。
  3. しかし彼自身、塚原卜伝から剣を学び自らの流派として発展させたり、和歌や連歌といった詩文の能力に優れ、また蹴鞠の技術に関しては織田信長も深く興味を示していた。
  4. その文化的才能は朝廷との交流に大いに役立つことになる。父の代から公家との交流を持ち、氏真にもしっかりと受け継がれたそのスキルは徳川幕府にとって欠かせない存在となり、今川家はその後も長く直系が続くこととなった。

織田有楽斎[編集 | ソースを編集]

  1. 織田信長の弟で茶人。
  2. 本能寺の変の時に、当時の織田家当主の織田信忠と共に二条御所におり、信忠は父信長の仇と明智軍と戦って奮戦し自害するが、自身は脱出して生き残る。
    • その為、信忠の自害を促したのは有楽斎とも噂されるようになる。
      • 「自分も後を追う」と言って主君に当たる信忠に自害を勧め、自身も自害の支度をすすめるが、結局どさくさに紛れて自分だけ遁走をする。
  3. 織田家の家格が功を奏して秀吉、家康と主を変えて、それなりに家名を残し明治維新まで家が続く。

ジャン・アンリ・ファーブル[編集 | ソースを編集]

  1. 言わずと知れた虫大好きおじさん。アップダウンが激しすぎる一生(ダウンが多い)を送ったことで知られる。
  2. 非常に貧しい家庭に生まれ、食事を水だけで過ごしつつ必死に勉強し、師範学校(教員専門大学)を運よく主席で合格。更にそこで知り合った女性と結婚した。
  3. しかし最初の一姫二太郎は幼くしてすぐに死んでしまい、夢だった大学教授になる為に染料の研究を行い、遂にアカネから赤い染料を作り出す技術を開発してレジオン・ド・ヌール勲章(日本で言えば紫綬褒章クラス)を授与した。
  4. のはいいが、翌年にドイツで更に安価な原料でいくらでも染料を作れる方法が見つかってしまい、一気にお払い箱になる。
    • この頃、近所トラブルでペットに毒を盛られるほど忌み嫌われるようになり、家族を連れて移住。この頃に『昆虫記』を執筆した。
  5. またも貧乏暮らしになる中、可愛がっていた次男が16歳の若さで病没。あまりのショックに体を壊し生死の境を彷徨うが、諦めてなるものかと奮起してまた引っ越しを行った。
  6. そして妻に先立たれ、40歳下の後妻と再婚。このとき64歳でありながら子供を作るなど下半身は元気そのものであった。
  7. こうして迎えた老後生活で、かねてから出していた『昆虫記』がまさかの重版を飛ばす大ヒットになり、晩年はもう一度レジオン・ド・ヌール勲章を受章。二人の妻と多くの子に先立たれる中、91歳で大往生を遂げた。
  8. 生来の虫好きだったファーブルだが、「生まれ変われるものならば虫になりたいですか」と質問された時にはこう返したという。
    「絶対にごめんだね。私は人間として生きたいよ。生きていることのすばらしさを実感しながら生きていけるのは、人間しかいないからね」

仙石秀久[編集 | ソースを編集]

  1. 豊臣家(羽柴家)の武将で、某マンガの主人公。
  2. 羽柴秀吉の元で武功を挙げて、羽柴家家中では初めて大名に取り立てられるが、戸次川の戦いで大チョンボをやらかし領地没収。素浪人になる。
    • あれだけの事やらかして首討たれなかっただけでも運がいいというべき。
      • 猿「仙石ちゃん、俺行くまで用心深くしとけよ」→武将たち「島津の様子見ましょうよー」、仙石「何言ってるか!! 関白殿下にいいとこ見せるんじゃ‼ 進めー」→仙石「え? 味方敗北? わしゃ知らん、領地の讃岐 (香川) まで逃げるんじゃー」→島津「仙石は三国一の臆病者ww」
  3. 小田原征伐では、徳川家康に陣借りをして参戦し武功を立てて、再び大名に取り立てられるようになる。
    • 一方小田原征伐の折に、のこのこと秀吉の前に現れた山上宗二や尾藤知宣が処刑されたことから見ると、一度没落したにもかかわらず活躍して大名になったのは幸運である。

ボブ・ビーモン[編集 | ソースを編集]

  1. アメリカ合衆国の陸上競技男子走幅跳選手。1968年メキシコシティーオリンピックで、当時の世界記録8m35を55cmも上回る8m90の驚異的な世界記録を打ち立てたことで有名。
    • ビーモン自身8m19と2位の成績で予選通過していたが、金メダルは同じアメリカで8m35の世界記録保持者ラルフ・ボストンのほうが有力視されていた(決勝では8m16しか出せず銅メダルに。なお2位の選手の記録は8m19と、ビーモンの記録が桁違いだったことがわかる)。
    • 当時の映像を見ると、用意していた巻き尺では測りきれず、自分が大記録を出したことを知るや大歓喜しまくり挙句の果てに号泣するビーモンの姿がある。何より跳んだ本人が一番驚いたらしい。
    • この大記録の要因は開催地が約2400mの高地にあったこと、そして測定時に記録公認の追風2.0m/秒が出たことが要因とされる。ビーモンの2回目の記録は8m06で、3回目以降は棄権している。
  2. 1991年に東京世界陸上競技選手権大会でマイク・パウエルが更新するまで彼の世界記録は23年間破られず、2021年時点でもこのパウエルの8m95に次ぐ世界2位の記録である。

メッテ=マリット[編集 | ソースを編集]

  1. 2019年現在のノルウェー王太子妃。
  2. 王太子とは大学で知り合ったのだが、当時すでにシングルマザーだったことや麻薬パーティーに参加した経歴が問題視され、当然のことながら国民からは反発を食らった。
  3. しかし婚約が発表された際に自らの過去を反省した会見で好感度を上昇させ、見事王太子との結婚にこぎつけた。

李信[編集 | ソースを編集]

  1. 戦国の七雄「秦」の武将で、某マンガの主人公。
  2. 王翦の元で趙と燕に出征し、燕では太子丹を打ち取る手柄を立てる。
  3. 秦王政(後の始皇帝)から、蒙恬と一緒に楚攻略20万の総大将を任せられるも、楚の項燕(項羽の祖父)に大敗し打ち負かされてしまう。
    • 政から「楚を攻め滅ぼすのにいくら兵が必要か?」と問われ、王翦は「60万は必要」と言ったのに対し、李信は「20万あれば充分」と答えた為の抜擢だった。
    • 項燕にボロ負けして、総大将を王翦とバトンタッチ。今度は王翦が逆に項燕の軍を打ち破る。
    • これだけ大失態を犯したにもかかわらず処刑はされなかったようで、その後、王賁と蒙恬と一緒に燕と斉攻略に参加している。
      • 猜疑心が強く、失敗に対して非寛容の政から、粛清されずに生き残れたというのは幸運と言える。
  4. 後の子孫で、漢の将軍の李広、李陵、五胡十六国西涼の李暠、唐の高祖李淵(自称)、唐代の詩人李白と著名な子孫が残っているので、それなりに一族は繁栄した模様である。

劉邦[編集 | ソースを編集]

  1. 漢の初代皇帝(高祖)
    • なんとも説明がつかない人柄だけで周りに担ぎ上げられた結果、沛公→漢王→漢高祖と一介の農民が最後は皇帝の位まで付くことになった。
    • 一応、唯一残念なことと言えば、奥さんが鬼嫁だったということ。
      • いやいや嫁さんが鬼と化したのは劉邦死んでからだから、皮はかぶっていたかもしれんが鬼嫁ではないだろ。
  2. 本人自体に教養があったわけでも武勇に優れていたわけでもなく、時流と何だかわからない人柄だけでのし上がっていったという人物。
    • 個人の資質だけで述べれば、ライバルの項羽の方が偉丈夫でカリスマ性があり、英雄としての資質が高かったといえる。
    • 光栄のシミュレーションゲーム『項劉記』において「魅力」というステータスが無いので、配下の武将(韓信、張良、蕭何、樊膾…)の能力値に助けられてるという感じである。
    • 劉邦は全部大したことないように思われがちだが、中堅クラスでよければ指揮能力はあるし、蕭何の功績を高く評価するなど物事の要点をきちんと抑えている。自分でもそこそこならできるけど、無理な背伸びをせずにもっとできるやつに任せればいいというバランス感覚が劉邦の強さ。項羽はこれができなかった。

アブ[編集 | ソースを編集]

  1. 言わずと知れたゲーム実況者だが、一時期広告収入の関係で引退宣言したことがある。
    • が、その後復活し、今に至る。理由は広告審査が通ったから。
  2. 似たような境遇の投稿者にてきとう太郎がいる。

昭和天皇[編集 | ソースを編集]

  1. 父帝・大正天皇の後継者として25歳の若さで即位した天皇。
  2. 日本軍の暴走を止めることができず、結局、大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発してしまう。
    • 敗戦の際は昭和天皇自身も戦犯にかけられてしまう可能性があることを覚悟していた…。
  3. しかし終戦後、アメリカの強い意向で戦犯指定を免れた。
  4. 戦後は東京オリンピックや高度経済成長を経験し、日本をアジアで唯一の先進国(当時)に育て上げた偉大な功績から、現在では明治天皇と並び大帝と称され、非常に高い評価を得ている。
  5. 1989年、87歳で崩御されたが、これは(伝説上の天皇を除き)当時最も長生きされたと言われている。

岸信介[編集 | ソースを編集]

  1. 第56、57代内閣総理大臣を務めた政治家。
    • 佐藤栄作は実弟。安倍晋三元首相は孫である。
  2. 戦前は社会党への入党を断られたり、戦犯容疑にかけられるなど不運が続いた。
  3. しかし東条英機(東條英機)と異なりGHQに反抗しないという条件付きで釈放され、公職追放が解除された。
  4. 戦後は首相として日米安全保障条約の改定や国民皆保険制度の制定などの功績を残し、後の池田勇人首相の所得倍増計画を実行しやすくした。
    • 今の日本でみんなが病院に行けるようになったのも信介のおかげ。
    • 現在では吉田茂と並び戦後最も偉大な宰相と言われている。

佐藤栄作[編集 | ソースを編集]

  1. 昭和時代の大物政治家。第61・62・63代目の内閣総理大臣を務めた人物。
    • 岸信介の実弟にあたり、安倍晋三氏の大叔父でもある。
    • 父親は造り酒屋だったが独立前は公務員として山口県庁に勤務しており、世襲議員でこそ無かったものの幼い頃から政治に縁のあった人物だった。
    • ちなみに岸と佐藤は日本史上、兄弟で首相を務めた唯一のペアである。
  2. 東大卒業後、鉄道省(現在の国土交通省)に就職したが、地方勤務の期間が長く左遷も経験しており、お世辞にも出世コースを歩んでいたとは言えなかった。
    • 兄の信介が農商務省(現在の農林水産省および経済産業省)で出世コースを歩んでいたのとは対照的。
  3. 吉田茂の弟子だが、佐藤のライバルの池田勇人が師匠からかわいがられていたのに対し、佐藤は(吉田のライバルの岸の弟だったのもあり)師匠からは冷遇されていたようだった。
    • 首相になったのも池田より後だった。
  4. しかし首相になってからは前任の池田の高度経済成長をさらに強力に推進し、好景気のおかげで憲政史上稀に見る超長期政権を築いたのである。
    • さらに大野伴睦や河野一郎(河野洋平氏のお父さん)といった強力なライバルが亡くなっていたのも大きかった。
      • 前任の池田も病気を理由に退陣しており、翌年に亡くなった。
    • ライバルが存在しない無敵の状態になった佐藤は三角大福中や鈴木善幸、竹下登、宮澤喜一などを自民党や内閣の重要ポストに置き、競わせて育て上げたことから「人事の佐藤」と称された。
      • これによりライバルの日本社会党による政権交代の実現を難しくし、自民党一強体制を確立した。
    • 佐藤政権の7年8ヶ月は当時としては戦後最長記録であり、歴代でも桂太郎(7年11ヶ月)に次いで2番目に長かった。
      • ただし佐藤の大甥の安倍氏が2019年に(第一次政権を含む通算となるが)佐藤や桂を抜いて在職日数歴代1位となっている。
  5. 調整力に長けた人物として有名だが、(長期政権だったのもあるが)同時に功績も沢山残している。
    • 日韓基本条約、公害対策、非核三原則、そして沖縄小笠原諸島の本土復帰は佐藤内閣の偉業である。
      • ノーベル平和賞を受賞した唯一の日本人でもある。
      • 非核三原則に関しては「有事の際には沖縄の米軍基地に核兵器を持ち込むことを認める」という密約をアメリカと結んでおり、実質的に日本の核武装を認めている。安全保障に関してもしっかりと対策していた。
      • 本土ではないので日本復帰に書き直して。

中曽根康弘[編集 | ソースを編集]

  1. 群馬出身の政治家。第71・72・73代目の内閣総理大臣を務めた人物。
  2. 三角大福中(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根)の一人だったが、佐藤栄作の後継者争い(自民党総裁選)では中曽根は小派閥を率いていたため勝ち目は無いに等しく、この頃は角栄の支持に回った。
    • 一応福田は中曽根と同郷だったが、中曽根の派閥には河野洋平氏など角栄を支持していた若手議員も多かったため。
      • その影響で群馬での人気は先輩の福田には劣る。実際、中曽根が首相在任中に2度行われた選挙でも(当時は中選挙区制だったため)旧群馬3区では2回とも福田がトップ当選している。
        • そもそも旧群馬3区には後に首相になる小渕恵三氏などもいた超激戦区だったからね。
  3. 1976年にはロッキード事件への関与が疑われ、側近の佐藤孝行氏が逮捕されたが、中曽根自身には司直の手は及ばなかった。
    • 同年の衆議院議員選挙では落選が囁かれていたが、ギリギリで当選した。
  4. 1978年の総裁選では「明治時代生まれのおじいちゃんがトップになるべき時代じゃない」(中曽根は大正時代生まれ)と世代交代を訴えるが、大平正芳に敗れ総裁の座を逃してしまう。
    • ちなみに第1次大平内閣では幹事長を希望していたが、大平総裁に拒否されている。
  5. 大平首相の急逝後に発足した鈴木善幸内閣では大蔵大臣の座を渡辺美智雄に奪われ、さらにあまり重要でないポストに配属されたため、中曽根に対する世間の目は厳しかった。
    • (当時としては)「三角大福中で唯一首相になれず、それどころか三角大福中ですらない鈴木にも遅れをとった」と失笑された。
  6. 鈴木善幸の退任後にようやく首相になるが、初期は(中曽根の派閥が小さかったのもあるだろうが)田中角栄の派閥の影響力が非常に強く、「田中曽根内閣」「角影内閣」「直角内閣」などのあだ名が付いた。
    • しかし角栄がロッキード事件の裁判で実刑判決を受けた後は「田中派の影響力を排除する」と宣言し、以降は中曽根が政権の主導権を握った。
      • そして中曽根内閣は4年11か月にも及ぶ長期政権となった。
        • その間に三公社民営化を進めた。
    • 後に「(刑務所の)塀の上を歩いて内側に落ちた角栄」「外側に落ちた中曽根」と言われた。
  7. 1995年に福田赳夫が亡くなってからは三角大福中で唯一の存命者となり、元老のような存在感を出した。
    • 1997年に議員在職50年を迎えたことから、存命人物でありながら大勲位菊花大綬章を受章している。
      • 2004年に鈴木善幸が亡くなってからは昭和時代に首相を務めた人物で最後の存命者となった。
  8. 2019年、老衰により101歳で亡くなった。大往生である。
    • 日本の首相経験者では102歳で亡くなった東久邇宮稔彦王に次いで2番目に長生きした人物である。
    • 死後、日本の勲章で最高峰の大勲位菊花章頸飾を受章した。(戦後の首相としては吉田茂、佐藤栄作に次いで3人目)
    • 昭和に総理大臣を務めた人物で令和まで存命だった唯一の人物でもある。
      • 大正、昭和、平成、令和の4つの元号を生き抜いた人物でもある。
  9. 戦前は海軍軍人だったが経理職として採用されたため、本人は前線に出なくて済んだ。
    • ただ友人や部下の中には戦死した者も決して少なくなかった。
      • こうした事情もあり中曽根と言えばタカ派のイメージが強いが、実は反戦主義者でもある。

J・K・ローリング[編集 | ソースを編集]

  1. ハリー・ポッターシリーズの作者として非常に有名なイギリスの女性作家だが、元々は貧しいシングルマザーだった。
    • 生活保護を受給しながら古いアパートに住んでいた。
    • さらに実家との関係も良好とは言えなかった。
  2. 執筆したハリーポッターの原稿を複数の大手出版社に持ち込んだが全て断られてしまった。OKしてくれたのは(当時は小さな出版社だった)ブルームズベリー社だけだった。
  3. しかしその「賢者の石」が大ヒットし、最終章の「死の秘宝」も含めて映画化もされ、今では女王陛下をも凌ぐ億万長者になっている。

鳥山明[編集 | ソースを編集]

  1. 手塚治虫と並び日本で最も偉大な漫画家の一人と言われるが、本人は元々本気で漫画家になりたかったわけではなく「働きたく無いから、とりあえず絵を描くのが得意だったから漫画家になった」という消極的な理由に過ぎなかった。
  2. 1980年に「Dr.スランプ」の連載を始め人気作となったのは良いが、アイデア不足を理由にあまり長くは続けなかった。
    • まあそれでも4年は続いたけどね…。
    • ちなみに当時はドラえもんを上回る人気を誇っていたのだとか。
  3. 「Dr.スランプ」の後継作品として「ドラゴンボール」の連載を開始したが、初期は今のような熱いバトル漫画という感じでは無くギャグ要素が強かったため、少年ジャンプの先輩作品(こち亀キン肉マン北斗の拳キャプテン翼など)に遅れをとっていた。
  4. しかし天下一武道会で人気を獲得したのをきっかけにドラゴンボールは熱いバトル漫画に方針転換し、以降は伝説の漫画として君臨した。
  5. 1995年にドラゴンボールの連載は終了し一旦は引退したかのように見えたが、2013年以降は原作の続編のアニメが公開されている。
    • ちなみにGTは鳥山先生が直接関わったわけではないので続編と見做されず、パラレルワールドという認識らしい。
  6. 現在は愛知では織田信長やイチローと並ぶ郷土の偉人として認識されており、小牧空港と鳥山先生宅を結ぶ道路が建設されたほどである。
    • これは鳥山先生が自宅から東京の集英社に原稿を送るためと言われているらしいよ。
  7. ゲームマニアにはドラゴンクエストのモンスターデザインでも知られている。
    • スライムがめっちゃかわいいキャラになったのも、この人のおかげである。

田中カ子(かね)[編集 | ソースを編集]

  1. 生まれた時は未熟児で、母乳を飲む事すら出来なかった。
  2. そのために何度も大病を患い、終戦直後の困難な時期に膵臓がんにかかるも手術に成功して奇跡的に回復し、103歳で大腸がんを患うも手術に成功して奇跡的に回復した。
  3. おまけに戦時中には夫や息子が徴兵され、息子はシベリアに抑留された。
  4. だが、110歳を過ぎてもかなり元気でオセロに勝つ力もあるくらい矍鑠だった。
  5. そして2018年に115歳で日本及び世界最高齢になるが、これまで117歳が複数人出ていた状況から低迷した状況で最高齢になった。
  6. 116歳時点で歩ける位元気で、117歳や118歳時点では車椅子ながらオセロに勝つ力もあるくらい元気だった。
  7. 119歳時点でも車椅子で元気だったが、春になって体調を崩しがちになり、サラ・ナウスさんの記録を抜いた9日後の2022年4月19日に年齢に疑いがあるジャンヌ・カルマンさんを除けば史上最高齢記録の119歳107日で亡くなった。
  8. 生まれた時は未熟児で、そのために何度も大病を患い、戦争で夫や息子が徴兵されていた状況から119歳まで生きて史上最高齢記録を更新した事は史上最も幸運な長寿者と言える。

関連項目[編集 | ソースを編集]