天皇伝

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  • 大正天皇までの記載といたします。

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平安時代[編集 | ソースを編集]

桓武天皇(第50代)[編集 | ソースを編集]

  1. 平安京を建設。
    • その前に長岡京も建設しているが、怨霊騒ぎがあって中断。
    • 奈良の仏教勢力がうざ過ぎたから遷都したかったらしく、平安京には奈良仏教の寺院はほとんど建てさせなかった。
      • その代わり、最澄を寵愛して、当時の新仏教である天台宗や密教を保護。
    • 長岡京は桂川の反乱でしばしば被害を受けており、また平城京からの遷都を充分な周知なく行って世間の反発を買ったため、平安遷都に伴っては治水を考慮し、更に詔を出してから実行した。
    • ともあれ、今日の京都の基礎を築いた人として功績は大きい。右京は荒廃して左京ばっかり栄えることになってしまったけれど。
  2. 母・高野新笠は百済人の血を引いていたらしい。
    • 今上陛下がこの件に言及された途端、「日王の祖先が韓国人であったことを日王自身が認めたニダ! マンシェー!」と某国で大騒ぎ。もうアホかと。
      • 桓武天皇が生まれた時点で、百済が亡びてからすでに70年以上経過している。百済人の血などどれだけ薄まっていたか。しかも百済は韓国とは関係ねーだろ!
    • 高野新笠は「百済王(くだらのこにしき)」氏という貴族の出身。
      • 当時の三流貴族の中には自身の血統にハクをつけるために「百済王の子孫」という意味でもある「百済王(くだらのこにしき)」氏の一員と名乗ることは多かった。
        • 高野新笠が本当に百済王の血筋を受け継いでいた可能性は低い。
      • 「百済王」の読みは「くだらのこにきし」ね。
    • 百済王の血筋を引いていると主張した桓武天皇の時代、日本は新羅と国交断絶状態にあった。
      • そもそも、自分が百済王の血筋を引いていると主張したのも、新羅と対抗する目的のため。
    • ただ桓武天皇が、長身の偉丈夫であったという記録がある。
    • 桓武天皇は、征夷大将軍の坂上田村麻呂など多くの渡来人を登用している。
      • 田村麻呂本人が渡来人だったのではなく、漢人の渡来系の家柄。半島とは関係ないよ。
  3. 平安京も建造途中で工事中止。民の負担が大きくなるのを懸念したためとか。
    • 平安京建設と蝦夷討伐を止めたのは、藤原緒嗣による意見を聞いたから。いわゆる徳政論争。
  4. 平氏のご先祖様。
    • ただし、実際に平姓が子孫に与えられたのは3代後の淳和天皇の御代である。
  5. 祟りにやたら遭っている。
    • 父の代に幽閉されて亡くなった、井上廃后と息子の他戸廃太子の怨霊を恐れた。
      • 井上廃后に皇后号を送ったうえに、二人を慰霊するための霊安寺と御霊神社を作る。
    • 長岡京へ遣都したら、天災や身内の不幸が起きた。
      • 自分に天子の資格がないと言われるのを嫌って、10年後に平安京へ再び遣都。
    • 弟の早良廃太子を結果的に死なせてしまったら、息子の安殿親王(平城天皇)が病気になったり、身内が次々と死んだり、洪水が起きたり、病が流行ったりと、ろくでもない出来事が頻発。
      • 崇道天皇の追称を送るわ、埋葬先の淡路国へ陰陽師と僧侶を派遣して鎮魂の儀式をさせるわ、挙げ句に墓を掘り返して大和国に改葬するわと、あからさまに恐れていた。
    • 石上神宮から歴代天皇の神宝を山城国へ運び出したら病気になった。
      • 自分の歳と同じ人数の僧侶を集めてお経を読ませて、神宝を元に戻したものの、結局病気で崩御してしまった。

平城天皇(第51代)[編集 | ソースを編集]

  1. 平城京にひきずられて「へいじょうてんのう」と読みたくなるが、正しくは「へいぜいてんのう」。
    • 最近は「平城京」も「へいぜいきょう」とルビを振られる場合がある。ひょっとするとそのうち「へいぜい」に一本化されるかもしれない。
      • 漢音統一で読むなら「へいぜい」が正しいらしいが、平城京の「きょう」は呉音。
      • と言って呉音統一で読むなら「びょうじょう」・・・一本化こだわらなくていい気がする。
  2. 重度のオバコン。
    • 皇太子時代、皇太子妃として召された女性を引見した際に、当の女性ではなく付き添ってきていた母親のほうに一目惚れしてしまい、ただならぬ仲に。
      • この女(母親のほう)が藤原薬子。のちに「薬子の乱」というのが起きる。
  3. 感情の起伏が激しい人だった。
    • 薬子に熱中したのもそうだが、父の桓武天皇が崩御した時、ころげまわって絶叫したそうな。
    • 躁鬱病だったのではないかと診断している史家も居る。
      • 「病気」を理由に3年で退位したのは、そのせいなのだろうか?
  4. 当初は、桓武時代の放漫財政を建て直そうと努力したが、なかなか成果が上がらないので飽きてしまい、皇位をさっさと弟(嵯峨天皇)に譲ってしまう。
    • が、しばらくすると皇位を譲ったのが惜しくなり、いろいろ口出しをし始めるが、思い通りにならないのでぶち切れ、薬子とその兄・藤原仲成と共に旧都・奈良にこもり、勝手な勅令を出しまくる。
    • ついに武力衝突となったが、嵯峨天皇側に機先を制され、あっさり敗北。
      • 嵯峨天皇としては兄の罪を問いづらかったようで、一切を薬子と仲成のせいにして二人を斬る。それゆえ薬子の乱と呼ばれるようになったが、薬子がどの程度政治的策謀をめぐらしていたかは微妙。案外ただの色っぽいおばちゃんに過ぎなかったかも。
        • でも、平城天皇の息子の高岳親王は、皇太子を廃されてしまい、このせいで承和の変が起こることになる。
    • 結局、早々と嵯峨天皇へ譲位して上皇になっても、いい感じの待遇を受けていたせいで、朝廷の財政を圧迫していたのだった。
      • そのおかげで嵯峨天皇は譲位する時に、藤原冬嗣から平城天皇の事例を挙げられて「上皇になると財政圧迫するから譲位するな」と意見されてしまった。
  5. 在原氏のご先祖様。
    • 歌人・在原業平を輩出したことで有名。また松平氏及び徳川氏は在原氏の末裔という説もある。
      • 松平氏や徳川氏は一般的には清和源氏の末裔と言われているが仮冒で、実は在原氏か藤原氏か賀茂氏の末裔という説が有力。
      • 在原業平は、平城天皇の孫。血は争えないというか、祖父と同じくすごくモテた。
  6. 大江氏のご先祖様でもある。
    • 大江広元、毛利氏など。
      • 大江千里(貴族の方)も。
  7. 平城京が好きだったから「平城天皇」と追号されたって…安直過ぎぃ!
    • そんなもん。

嵯峨天皇(第52代)[編集 | ソースを編集]

  1. 兄・平城天皇から皇位を譲られた。
    • しばらく兄からの差し出口に悩まされたが、薬子の乱を契機に兄の発言を封じ込める。なかなか果断な人。
  2. 空海のマブダチになった。
    • 薬子の乱平定の祈祷を空海のほうから申し出たのがきっかけ。
    • 書道や詩作を空海から指導されたらしい。のちに嵯峨天皇自身、「日本三筆」のひとりに数えられる書家となる。
  3. 父・桓武帝が築いた平安京を安定させ、発展の礎を据えた功績は大きい。なおかつ一流の文化人であり、その後の王朝文化の祖となったと言える。
  4. 源氏のご先祖様。
    • 武家源氏になった清和源氏より前に、嵯峨源氏というのがあり、嵯峨天皇の皇子が臣籍降下し源姓を賜ったのが源氏の興り。
    • 嵯峨源氏は名前が一文字なのが特徴。「源信」(みなもと の まこと)や「源融」(みなもと の とおる)等が代表的。
  5. 平安京にエイリアンが出没するようになったので、検非違使を設置した。
  6. 適当に書いた子子子子子子子子子子子子が読めるかと嫌がらせな謎々を側近に出したら見事に答えられてしまった。

淳和天皇(第53代)[編集 | ソースを編集]

  1. 「じゅんな」と読む。「純名」とは書かない。
  2. 実は桓武平氏を誕生させたのはこの人である。桓武天皇の孫・高棟王に平姓を賜って臣籍降下させた。
  3. 上総、常陸、上野の3国を親王任国とした。織田上総守ではなく織田上総介、木村常陸守ではなく木村常陸介、吉良上野守ではなく吉良上野介なのはこのせい。
    • 親王任国を作った理由は、皇族が増えすぎたせい。なので坂東の3大国(畿内など近国だと反対勢力が多い)を直接統治できるようにして朝廷財政基盤の強化を狙った。
  4. 名前を大伴というので、以後、大伴氏ははばかって伴氏になった。伴善男など。

仁明天皇(第54代)[編集 | ソースを編集]

  1. 「にんみょう」と呉音で読む。深草の帝という別名もある。
  2. 在位中に承和の変が起こり、皇太子を取り換えた。
  3. 最後の遣唐使を派遣した。
  4. 子供たちに源姓を与えているが、その中に源光という人物がいる。光源氏か?

文徳天皇(第55代)[編集 | ソースを編集]

  1. 承和の変により皇太子となり、そのまま即位。
  2. 藤原良房を人臣初の太政大臣に任じた。
  3. 病弱で、32歳で崩御した。
    • 藤原良房が人臣最初の太政大臣になったのは、この前の年。

清和天皇(第56代)[編集 | ソースを編集]

  1. 清和源氏の祖。大変失礼ながら、生前と崩御後の名声の差は歴代随一と思われる。
    • 数え9歳で即位、27歳で譲位、30歳で出家、32歳で崩御。その短い生涯はだいたい「意外!」と言われる。
      • 生後8か月で皇太子になった。というか、ならされた。藤原良房の外孫だったため。
        • 兄が3人いたが、藤原氏に無視された。
  2. 源姓は子にではなく、孫の経基に与えられた。もちろん、崩御後のこと。
    • 清和天皇の皇子でも源姓を与えられた者が4名いる。ただ清和源氏の中で栄えたのが源経基の子孫のみというだけ。なお経基以外にも源姓を与えられた清和天皇の孫は11人もいる。
  3. 在位中は、藤原良房を人臣初の摂政とするも、富士山が噴火し、応天門炎上事件が起こり、貞観地震が起こり、貞観の韓寇が起こり、と波乱の御代。
    • 貞観地震は東日本大震災の前例として有名になった。
  4. 母(藤原明子)の従妹(藤原高子)との間に出来たのが陽成天皇である。
  5. 出家後は、修行の一環として山籠もりや登山をした。

陽成天皇(第57代)[編集 | ソースを編集]

  1. 9歳で即位。
  2. 暴君説があるが、さて???
    • そのせいか、17才で譲位。その若さで何を悪行しろというのかわからん。
    • 悪行というよりは、異常なようすだったらしい。
    • 退位後、なんと65年間も生きた。平将門の乱のときももちろん存命していて、甥の源経基が関東でいざこざに巻き込まれているのも知っていた。
  3. 源経基はこの人の孫という説もある。

光孝天皇(第58代)[編集 | ソースを編集]

  1. 即位した年齢は55歳。
    • 実在が確実な天皇の中でも、三本の指に入る高齢での即位らしい。
      • 2019年、徳仁さまの126代天皇即位(59歳)により、3本の指の座から外れた。

宇多天皇(第59代)[編集 | ソースを編集]

  1. 最初は臣籍降下して「源定省」と名乗っていた。
    • そもそも父の光孝天皇が50過ぎまで貧乏皇族に過ぎなかったのに、陽成天皇がメンヘラになって退位した後いきなり擁立された人。光孝天皇は陽成天皇から見ると大叔父にあたり、本来かなり皇統から遠かった。
    • 光孝天皇は中継ぎの自覚があって、自分の子供に皇位を継がせない旨を明らかにしており、嫡子を臣籍降下させ「源定省」にしたのもそのためだったが、それでは誰に継がせるかということをはっきりさせないうちに崩御。
    • 光孝天皇の片腕だった藤原基経は、自分の既得権を保持するため、光孝天皇の遺志を曲げて定省を擁立。
  2. 上記の事情から、藤原基経には頭が上がらなかった。
    • 即位早々、「阿衡の議」なるしょーもない騒ぎが勃発。
      • 基経に対し「阿衡の佐をもって卿の任となす」という勅書を出したのが発端。
      • 「阿衡」はの建国の元老・伊尹のこと。伊尹が湯王を助けたように朕を助けるように、という意味だったのだが、基経がこれを曲解してヘソを曲げてしまった。
        • 「阿衡」という言葉は当時としては少々古色を帯びていて、やや実権のない名誉職に近いニュアンスがあったらしい。実権を捨てて引っ込んでおれという意味か、と曲解したわけ。
      • 基経がサボタージュを始めたので宇多天皇は困り果てる。一方、阿衡は名誉職か補佐職かという議論が朝廷で蜿蜒と繰り広げられる。
      • この時讃岐から上書して宇多天皇と藤原基経の間を取り持ったのが菅原道真。
      • この一件で、天皇には権威がないことが露呈してしまった。
        • 権威というより権力だね。
  3. 阿衡の議以来、宇多天皇は菅原道真を重用するようになる。
    • 基経が死ぬと公然と寵愛し、基経の子の時平とリンクさせるように次々と昇進させる。藤原氏に対抗できるだけの手駒を育てようとしたらしい。
    • しかし頼みの道真は失脚。当時上皇となっていた宇多は、道真を救おうとしたが、かつて自分が陽成上皇の徘徊に辟易して作った「上皇は天皇の許可無く内裏に入ることはできない」という決まりを盾にとられ、どうすることもできなかったとか。
  4. 個人的には失意のうちに崩御したと考えられるが、次の醍醐天皇・村上天皇の華やかな治世の下ごしらえをした英明な天皇であったと言える。
  5. 日本最古の猫ブロガーである。

醍醐天皇(第60代)[編集 | ソースを編集]

  1. 天皇がもっとも理想的な政治を行えた時代らしい。
    • なので後醍醐天皇が憧れていた。
      • 自分の追号を「ゴダイゴ」にしたのはそのため。
    • この御代を「延喜の治」という。
  2. しかし当の本人は、菅原道真を追い出して後にはその怨霊を恐れた。
  3. 宇多天皇が源定省だった頃に、生まれた。
  4. 930年6月28日(太陽暦だと7月)の清涼殿落雷に居合わせ、大納言の即死を間近に目撃した。
    • このショックで病床に就き、9月22日に譲位し、9月29日に崩御した。

朱雀天皇(第61代)[編集 | ソースを編集]

  1. 承平・天慶の乱勃発。「新皇」と並立状態に。

村上天皇(第62代)[編集 | ソースを編集]

  1. 摂政関白を置かずに親政を行った。
    • なので後醍醐天皇があこがれていた。
      • 自分の跡継ぎの追号を「後村上」にしたのはそのため。
    • この御代を「天暦の治」という。
  2. この方の日記は重要資料として現存している。
  3. 940年4月、(まだ親王時代)藤原の娘と結婚したとき伝統を破って宮中で結婚式を挙げてしまった。生母の藤原穏子(基経の娘)がやらせた。
    • 954年に生母の穏子が亡くなったのち親政したようにみえるが、実際は女御の藤原安子(師輔の娘)に宮中を支配されていた。
  4. 960年9月、平安遷都以来の内裏が焼失した。

冷泉天皇(第63代)[編集 | ソースを編集]

  1. 安和の変により、左大臣源高明が更迭。藤原氏の朝廷中枢独占が確立。
  2. 在位2年で譲位。
  3. 数々の奇行が当時の書物に記されているらしい・・・。

円融天皇(第64代)[編集 | ソースを編集]

  1. 在位中の改元が4回もあった。ちなみに天禄→天延→貞元→天安→永観。

花山天皇(第65代)[編集 | ソースを編集]

  1. 即位式で女官を高御座に無理矢理連れ込み×××××したというクレイジーな御方。
    • これ以外にも、女性問題に関するエピソードが多数残されている。
      • かなりの男前だったようだが、女性問題を起こしまくったおかげで、「内劣りの外めでた」と低評価を受けてしまった。現代の言葉で表すと「残念なイケメン」。
  2. 不意打ちのような形で出家・退位を強いられた話は古文の教材になるくらい有名。
  3. 270年ほど途絶えていた西国三十三所巡礼を復興させたと言われている。
    • だが、第20番札所の善峯寺は、花山院没後の創建なので、この話は無理がある。
    • 出家した元慶寺、晩年を過ごした花山院菩提寺の2寺院は西国三十三所の番外霊場になっている。
    • 「西国三十三所御詠歌」は各札所で詠んだ御製の和歌を後世の巡礼者が節をつけて歌ったものである。

一条天皇(第66代)[編集 | ソースを編集]

  1. 藤原摂関時代が最盛期を迎えた。
  2. 奥様はかの有名な中宮定子と中宮彰子。
    • バックにはそれぞれ清少納言と紫式部がいた。

三条天皇(第67代)[編集 | ソースを編集]

  1. 藤原道長の最盛期にもかかわらず反抗したため、在位5年で譲位。

後一条天皇(第68代)[編集 | ソースを編集]

  1. 藤原道長、一首詠ませていただきます。この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば

後朱雀天皇(第69代)[編集 | ソースを編集]

  1. 摂政関白藤原頼通の最盛期。

後冷泉天皇(第70代)[編集 | ソースを編集]

  1. 摂政関白藤原頼通の黄金期。
  2. 宇治に平等院建立。建てたのはこの方ではなく藤原頼通。この方は建立後に行幸した。
    • そして曰く「名は君臣なれど義は父子のごとし」。

後三条天皇(第71代)[編集 | ソースを編集]

  1. 長く続いた摂関政治に衰退をもたらした天皇。
  2. 荘園整理も実施し、この辺りから藤原氏の名前は歴史上で重要な地位を占めなくなる。
    • 母親が藤原氏の出でなかったため、藤原摂関家に遠慮することなく政治改革に着手できた。

白河天皇(第72代)[編集 | ソースを編集]

  1. 天皇時代よりも上皇・法皇になってからの方が有名。
    • いわゆる「院政」。日本における「影の権力者」的構造を生んだ人にも見える(まあ摂関政治時代も同じようなものだが)。
    • 初めの方から摂関政治の全否定はしていなかった模様。そりゃ反発も買うからジワジワ高めていくのが妥当な戦略だろうが。
  2. 鴨川の治水と双六賭博の抑制と僧兵の暴挙の抑制「だけ」ができなかった人。
    • 双六のさい(の出方)が思うようにならないという話だった気がする。
      • 双六に関してはその両方の解釈がある。
  3. 院政期の皇族らしく両刀遣い。男色相手は、2歳年下で乳兄弟の藤原顕季、夜伽のせいで「夜の関白」とあだ名をつけられた藤原顕隆、摂関家傍流の藤原宗通など。
  4. 自分の愛人を孫の后にした。

堀河天皇(第73代)[編集 | ソースを編集]

  1. 白河院政のため実権がなかったが、和歌や笙の名手だった。

鳥羽天皇(第74代)[編集 | ソースを編集]

  1. 白河法皇没後、院政の実権を握る。崇徳・近衛・後白河の三代28年に及んだ。
  2. 息子の崇徳天皇との争いが保元の乱の原因となり、平氏をはじめとする武士台頭のきっかけとなった。
    • 詳しくは崇徳天皇の条をどうぞ。

崇徳天皇(第75代)[編集 | ソースを編集]

  1. 保元の乱で追い出された人。
    • 父の鳥羽上皇が嫌っていた模様。
      • 崇徳天皇を産んだ璋子(待賢門院)が、鳥羽天皇の妃になる前に白河法皇に寵愛されていた。崇徳も白河の子ではないかと言われている。
      • 鳥羽天皇自身も、「ヤツは『叔父子』だ」と言ったそうな。自分の子であるはずだが、実際には自分の祖父(白河法皇)の子なので叔父に当たるではないか、という意味。そりゃ嫌うわな。
    • 鳥羽上皇は崇徳に命じ、正真正銘の自分の子である近衛天皇に譲位させる。崇徳は上皇となったが、院政期の慣習に反して、全然実権は持たせて貰えなかった。
    • 近衛天皇の死後も崇徳の子に皇位は廻らず、近衛の弟の後白河が天皇に。崇徳上皇はついにキレて挙兵。これが保元の乱。
      • たまたま失脚中だった藤原頼長と組み、源為義、平忠正など有力な武将を配下にして意気軒昂だったが、後白河側は名うての切れ者藤原信西を参謀長にし、源義朝、平清盛など若手武将を揃えて応戦。結果は崇徳側の大崩れ。
  2. 讃岐に流され、そこで日本国を呪いながら死ぬ。
    • 写経したものを京都の寺に奉納してくれという頼みすら拒絶されて、壊れてしまったらしい。
  3. そして日本国の大魔縁となる。間違いなく史上最強の怨霊。
    • 「皇をとって民となし、民を皇となさん」の呪いの言葉は、鎌倉幕府樹立を経て承久の乱の結果上皇二人と天皇が武士(北条氏)から処罰(遠島)を受けることで見事実現した。
    • 生きながらにして金ピカの天狗になったとも言われている。
    • しかし、実際は流刑地では讃岐の人々からは「天皇さん」と呼ばれ親しまれ、物々交換などをしたり和歌を楽しみながら穏やかに過ごしたとも言われている。
  4. 明治維新後京都に白峯神宮として招聘され、現在はサッカーの神様になっている。
  5. 上方落語ファンには「瀬をはや~み」のフレーズでおなじみ。
  6. 京都市の安井金比羅宮に祀られている。

近衛天皇(第76代)[編集 | ソースを編集]

  1. 3歳で即位し、17歳で崩御。花の命は短くて。
  2. 墓所は京都の安楽寿院の多宝塔で「安楽寿院南陵」として宮内庁の管理下にある。

後白河天皇(第77代)[編集 | ソースを編集]

  1. 平家と源氏を争わせてバランスを取ろうとしたが、結局は鎌倉に武家政権を作らせてしまった皮肉な人。
    • 最終的な落とし所としては妥当だが、下記のgdgdっぷりを見ると、単に場当たり的な対応を繰り返してただけだろう。
  2. 腹黒さと強かさでは白河天皇に負けず劣らずだっただろうか……
    • 頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた策謀家。
      • 平氏が調子に乗ってウザイ→鹿ケ谷の陰謀→失敗→全然知らなかったと白を切る
      • 以仁王の平氏追討令→平氏を追い落とし源義仲入京→義仲を旭将軍に任命
      • 義仲も調子に乗ってウザイ→義仲追討令
      • 平氏滅亡。頼朝と義経の対立(上皇があおった?)→義経の要請で頼朝追討令
      • 義経逃亡→頼朝が文句を言ってきたので「義経に脅迫されていた」と言い訳→義経追討令
      • 義経、奥州藤原氏滅亡→頼朝「東北平定したんだから征夷大将軍に任じてよ」上皇「嫌だ」→頼朝の征夷大将軍就任は上皇崩御後
  3. もともとは、崇徳上皇の子に皇位を継がせたくない鳥羽法皇などの意思で、中継ぎとして即位した。
    • 本命は後白河の子の守仁親王(二条天皇)だった。後白河自身はな~んにも期待されていなかった。
      • よほど愚物と思われていたフシがある。それがあんな腹黒い策謀家になるとは。
  4. 「今様」が大好き。今様の歌い手を厚遇し、今様の歌集も作った。
    • 「今様」は当時の流行歌、というか今で言えばパンクロックみたいなハジケた歌。
    • 「今様」の名手であれば、ホームレスだろうと娼婦だろうと構わずに招待して一緒に酒を飲んだらしい。
    • 当然、良識ある人々からは白い目で見られるが、法皇が編集した歌集「梁塵秘抄」は当時の民衆の実態や心情を伝える非常に貴重な資料になっており、評価が逆転している。
  5. 絵巻物も大好き。現在評価が高い絵巻物の大半は、後白河の時代に描かれたもの。
    • アジテーションでもプロパガンダ であるよりも、何よりもまずエンターテイメントを重視して制作している。だから現代の我々が見ても楽しいのだろう。
    • やっぱり、同時代人からは道楽が過ぎると思われていたが、今では平安末期の風俗をビジュアルで理解することが出来る貴重な資料であり、大胆で独創的な表現技法を駆使した絵画技術は高く評価されている。こうした価値の逆転が起こるから歴史は面白い。
      • 今で言えば漫画ファンですな。国のトップに居る人が漫画に熱中するなんて……あれ?
    • 「小柴垣草子」というポルノ絵巻まで描かせる。
      • 斎宮+「◯ッチ」だと・・・!?、巫女さんは清純に決まってるだろ流石遊び人、エロスをよく理解している。
      • 斎宮のヘアは濃いそこは◯イパ◯だろうが!ギャップ萌えですね、よくわかります!
  6. なんとなく津川雅彦がはまり役?
  7. 平氏打倒の謀議の席で瓶子(へいじ、徳利みたいなもの)が倒れたのを見て「平氏が倒れた」とか言って気炎をあげたのは上皇だっけ?公卿のだれかだっけ?
    • 鹿ヶ谷事件のことなら、酒盛りの上での話だから・・・実際のところはわからない。で良いと思うけど。

二条天皇(第78代)[編集 | ソースを編集]

  1. 天皇親政を目指し、父の後白河天皇と対立した。
  2. 平治の乱では藤原信西・源義朝に包囲されるが、女装して脱出。

六条天皇(第79代)[編集 | ソースを編集]

  1. 何と2歳で即位した。
    • 但しこれは数え年であり満年齢に換算すると何と生後7か月で即位した(1164年12月28日生まれ、1165年7月即位)。
    • 即位の儀式の途中でお腹を空かせて泣き出した。参議が機転を利かせて中断して乳母に授乳させて改めて儀式を行った。
  2. 何と5歳で上皇になった。
  3. そして13歳で崩御。涙。
    • しかしWikipediaの尊影はずいぶん貫禄がある。

高倉天皇(第80代)[編集 | ソースを編集]

  1. 平氏全盛期の天皇。お嫁さんは平徳子。

安徳天皇(第81代)[編集 | ソースを編集]

  1. 壇ノ浦
  2. 歴代帝の中で一番、哀れみを誘うお方だ。
    • 後の時代の四条天皇も別の意味で哀れみを誘うお方。
    • 入水前に祖母の二位尼が「波の下にも都がございます」と慰めたというエピソードは泣かせる。
      • 大人の身勝手さに振り回されて犠牲となった子供の話は本当に悲惨過ぎる。
  3. どこまで事実かわからないが、安徳生存伝説が各地にある。
  4. 母や祖母と共に水天宮の祭神となる。
    • 入水現場の近くにある赤間神宮(旧名・阿弥陀寺)にも祀られている。
  5. 義経が命を救えなかったことで頼朝からの評価を悪くする。

鎌倉時代[編集 | ソースを編集]

後鳥羽天皇(第82代)[編集 | ソースを編集]

  1. 上皇になってから将軍関係のゴタゴタの隙に鎌倉幕府を倒そうと自ら兵を挙げた。
    • 京での緒戦は快勝したが、関東武士が言うことをきかず、幕府についたので最終的にはボロ負け。
      • 上皇は上級武士を家臣化すれば、その下の武士たちも自然とついてくると思っていたが、実際は上皇が直接恩顧を与えた武士しか味方にならず、たいした兵力にならなかった。
      • 転じて頼朝は小身の御家人でも手ずから「お前だけが頼りだ」と語りかけ、武士ひとりひとりの掌握に努めた。こうした姿勢の違いが、もろに味方の数に現れる結果になる。
        • 頼朝はすでに亡い。掌握したのは尼将軍北条政子。
      • 鎌倉からは「上皇ご謀反」と言われた。謀反の意味が逆転しているような・・・。
    • 後に北畠親房曰く「義時はちゃんとした人間だった。陪臣の義時が天下を取ったからという理由だけで討伐とかいいだした後鳥羽が悪い」
  2. 歌人としてはかなりのものだった。
  3. 刀鍛冶としてもかなりのものだったらしい。世に言う菊一文字の元祖だとか。
    • とにかく、自作の刀に菊の紋を入れたのが、のちの皇室の紋の一つになった。もう一つは桐ね。
  4. 崩御後、安徳天皇に続いて諡号(顕徳院)が贈られた。だからもともと「顕徳天皇」となるはずだった。
    • ところが、天変地異等不幸が続いたためまさかの諡号取り下げ、追号「後鳥羽院」となった。
      • 諡号と追号の違いはうぃきってね。

土御門天皇(第83代)[編集 | ソースを編集]

  1. 父の後鳥羽上皇の挙兵に賛成しなかったため、弟に譲位させられた。
  2. というわけで乱後当然処分はなかったが、道義的責任を感じたのか自分から阿波へ配流となり、そこで崩御した。
    • 最初土佐で、それから阿波に流しなおされてるの方が正しいか。
  3. 土佐弁混じりの変な言葉で喋るわけでもないし、シスコン・メイド好きというわけでもない。

順徳天皇(第84代)[編集 | ソースを編集]

  1. こちらは積極的に父・後鳥羽上皇に協力。ただし途中で天皇の立場ではまずいと思ったのか、息子に譲位。
  2. 結局鎌倉に負けて佐渡に流され、そのまま崩御。
  3. 徳に順うだから、怨霊になりそうと言うことで警戒されたのかも。
  4. 百人一首の百人目。

仲恭天皇(第85代)[編集 | ソースを編集]

  1. 父・順徳天皇の思惑によりわずか数え4歳で践祚。しかし承久の乱後在位4ヶ月で退位させられる。
  2. 即位していないため「半帝」または「九条廃帝」と呼ばれ、歴代天皇に入っていなかった。「仲恭」の諡号を贈って歴代天皇に加えたのは明治天皇。

後堀河天皇(第86代)[編集 | ソースを編集]

  1. 後鳥羽上皇の兄の子。鎌倉幕府の推しにより仲恭天皇に代わって即位。

四条天皇(第87代)[編集 | ソースを編集]

  1. 2才で天皇に。
  2. 12才のとき、廊下で女官を転ばせようと細工をしたら自分がこけて頭打ってそのまま崩御。
    • 自分が仕掛けたイタズラに自ら引っ掛かって崩御した事実が、後世に永遠と語り継がれるとか、色んな意味で不憫すぎる。
    • この事件がなかったら南北朝に分かれることはなかったかもしれない。転んだだけで歴史を動かした人。

後嵯峨天皇(第88代)[編集 | ソースを編集]

  1. 日本国が南北朝に分裂する根本原因を作った方。
    • 長子の後深草天皇と確執があり弟の亀山天皇を寵愛したらしい。お家騒動の典型的な例である。

後深草天皇(第89代)[編集 | ソースを編集]

  1. 「深草」天皇とは、54代仁明天皇の別名。
  2. この方の血統が持明院統と呼ばれ、のちに北朝となり、現在の皇室に続く。

亀山天皇(第90代)[編集 | ソースを編集]

  1. 後深草天皇の弟。この方の血統が大覚寺統と呼ばれ、のちに南朝となる。
  2. 後深草天皇の子ではなく亀山天皇が即位し、さらに後嵯峨上皇により亀山天皇の子が皇太子にされたことが、すべての発端になった。
  3. 元寇の時に、「我が身をもって国難に代わらん」、と各地の寺社に祈願した。おそらく心底ガチで祈りを捧げたものと思われる。
    • 特に筥崎宮へ奉納した「敵國降伏」の宸筆が知られ、神門の扁額としても掲げられている。
      • 向こうの項目にもあるが、扁額自体は後年になって、宸筆を拡大して作られたもの。

後宇多天皇(第91代)[編集 | ソースを編集]

  1. 亀山天皇から大覚寺統が2代続いたため争いとなり、いわゆる両統迭立が約束された。
  2. よってこのあと2代持明院統が続くこととなったため、つぎに大覚寺統となったときに院政をおこなった。

伏見天皇(第92代)[編集 | ソースを編集]

  1. 後深草天皇の息子。すなわち持明院統。

後伏見天皇(第93代)[編集 | ソースを編集]

  1. 伏見天皇の息子。すなわち持明院統。
  2. 自分の追号が父の追号に「後」をつけたもので、父のすぐあとを継いだのはこの方のみである。ある意味わかりやすい。

後二条天皇(第94代)[編集 | ソースを編集]

  1. 後宇多天皇の息子。すなわち大覚寺統。
  2. この天皇の御代では、上皇が5人もいてそれぞれ院政をとっていた。
    • 社長よりも広い部屋をもらっている代表取締役が5人いるようなもん。

花園天皇(第95代)[編集 | ソースを編集]

  1. 伏見天皇の息子。すなわち持明院統。
    • あ~面毒斎。
  2. 皇太子はあのゴダイゴだが、皇太子の方が9歳も年上だったらしい。

光厳天皇(北朝初代)[編集 | ソースを編集]

  1. 正確には北朝成立前に退位しているが、諸々の経緯から初代とされる。
  2. 後醍醐天皇が隠岐に流されたことで擁立。だが、執念で帰ってきた後醍醐から「特別に上皇として認めるけど即位した事実はないから」としてなかったことにされてしまう。なので現在の即位代数には含まれず。(一応明治までは第96代だった)
  3. 歴代天皇の中でも一二を争う波乱の生涯を送っている。だいたい後醍醐の(ry
    • 六波羅探題が陥落し東国に逃れようとするも、道中で野伏やら婆娑羅大名やらに襲われ護衛は全滅。自らも肘に矢を受けて負傷し、三種の神器もろとも京都に送還。
    • 酔っ払った土岐頼遠に「院?犬?知るかヒャッハー!!」と矢を射掛けられる。
    • 足利義詮がディフェンスを忘れた結果南朝に誘拐され、5年間虜囚の身。その間に北朝では勝手に後光厳天皇を立てられ、父子仲まで微妙なことに。
    • ただし、北条家の生き残りを使って後醍醐天皇を暗殺しようとした説がある、尊氏に院宣を出して正統性を与えて持明院統を復活させるなど、この人もこの人で十分にアグレッシブ。

南北朝・室町・戦国時代[編集 | ソースを編集]

  • 南北朝は正閏関係なく即位順といたします(光厳天皇は後醍醐天皇の後ですがフライングといたします)。

後醍醐天皇(第96代)[編集 | ソースを編集]

  1. 髭が濃いイメージが強い。
    • キャラも髭に負けず劣らず濃すぎ。
    • 皇室の血が入ってるのか?と思えるほど(戦前なら○○罪ですかね)、この人の性格は突然変異。
      • おそらく母親から。後醍醐の母は息子を天皇にするため、なんと夫の父であり大覚寺統主であった亀山天皇の后になった。
      • 天皇の号は諡なので退位してから名付けられのだがこの人は醍醐天皇に憧れているということで自分で在位中から後醍醐を名乗った。
        • この時期の天皇は生前自ら選んでおくのが通例。特に後醍醐だけが特別ではない。
          • 「後醍醐」の号を選んだのは、父の後宇多天皇の次というのを強調するため(元になった醍醐天皇の前は宇多天皇)。討幕派の後醍醐と親幕派の後宇多は、先述の母親のこともあって仲が悪かったが、だからこそ、自分は廷臣たちに人気の高かった後宇多の息子だとアピールし、彼らの支持を得る必要があったと思う。
        • 延喜・天暦の治にあこがれていたので後醍醐を名乗った。ついでに息子の天皇の諡号まで自分が決めた(後村上)。
      • 普通の百科事典にも「個性が強い」と書かれていたりする。
  2. 「七転び八起き」とはこの人のためにあるような言葉。
    • 倒幕計画が一度失敗に終わってもめげずに再び立ち上がったり、隠岐に流された後監視の目をかいくぐって脱出したり、足利軍に京都を落とされた後に失踪して吉野に行ったり…ととにかく執念深い。
      • しかし、どれだけ逆境に遭おうとも最期まで諦めなかった生き様に、敬意を感じる人はそれなりにいるのでは?
  3. 足利尊氏が天竜寺を建てたのはこの人の怨念を恐れたかららしい。
    • 実際にその傑物(良くも悪くも)ぶりを目の当たりにしたから、余計怨念が怖かったんだろう。
    • その後南朝の末裔(自称)が昭和になっても出てくる辺り、この人はガチで祟っている。
  4. 実は部下や配下武将を平気で使い捨てにしてる(倒幕計画を日野一族の責任にしたり、義貞に無断で尊氏と講和したり)結構ひどい上司なのだが、それでもついて行ってる奴がいるのはやはりカリスマ性があったからだろうか。
    • たぶん、直接会うとたちまちとりこになってしまうような魅力があったのだろう。
      • その証拠に、たぶん直接には会っていない赤松円心は簡単に離れている。楠木正成や名和長年らは、後醍醐天皇のお目見えを得てしまったために最後まで裏切れなかったと思われる。
        • 当時の常識から考えて、楠木正成などが天皇にお目見えするなど、本来あり得ない栄誉だから感激してしまったんだろう。反面、軽率・慣例無視とも言え、これをカリスマと言っていいか微妙のような・・・。
        • 佐々木道誉「せやな」
    • いくら不仲だったとはいえ、息子の護良親王を見捨てたのはなぁ…。
  5. 日本全国の領地の分配(論功行賞とか)を自分一人で管理しようとしていたらしい。そりゃ無理だよ。
    • 天皇専制を目指していたとされるが、中級実務官人層に総スカンを食らっていたため、自分で全部やらなければいけなかったという方が実際に近いだろう。
      • 「後の三房」を見出し機会を与えたのは、後宇多天皇。しかも、後醍醐は彼らに諫められる一方。
    • 綸旨ですべてを動かそうとしたので、綸旨がハイパーインフレーションを起こした。近頃都に流行るもの、夜討強盗、ニセ綸旨・・・。
  6. ♪ガンダ~ラ ガンダ~ラ
    • そのゴダイゴのバンド名の由来のひとつ。
  7. 能力自体は高いのだが、そのせいかとにかく全てにおいて詰めが甘い。どこか一点でもきちんと最後まで仕切っていればあるいは・・・・
    • 正直、その場の勢いで行動してる感がする。
  8. 何故か「いらすとや」にイラスト化(フリー素材)される。

光明天皇(北朝第2代)[編集 | ソースを編集]

  1. 光厳天皇の弟。大楠公が湊川で討死したことにより、後醍醐天皇に代わり即位。
  2. しかし後醍醐天皇が吉野へ逃亡し、「お前に渡した三種の神器はニセモノだ」と言い出して大騒ぎとなり、その後半世紀以上日本は真っ二つになる。
    • どれが本物なのかは天皇にしかわからないため、令和の今に至るまで南朝正統論の根拠の一つとなっている。
    • ちなみに北朝皇族が拉致された時に「まあ一応回収しとくわ。偽物だけど」といってちゃっかり接収しているため、やっぱり本物だった感が濃厚。
  3. 名前は豊仁(ゆたひと)と読む。
  4. 5年間南朝の捕虜となる。

後村上天皇(第97代)[編集 | ソースを編集]

  1. 逃亡先の吉野で即位。
  2. 父親に自分の崩御後の諡を決められてしまった。(後醍醐天皇参照)
  3. 母親は例の立川流などといろいろ噂のある新待賢門院・阿野廉子。
  4. 観応の擾乱による正平一統で、奇跡の京都・鎌倉奪還を果たす。ただし天皇自身は入京できず。
  5. 光厳、光明の両上皇、崇光天皇と東宮を大和国・賀名生へ拉致。
  6. 足利義詮の反撃により賀名生へ再避難。

崇光天皇(北朝第3代)[編集 | ソースを編集]

  1. 光明天皇の譲位により即位。
  2. ところが観応の擾乱によって南朝に拉致され、廃位となってしまった。
  3. 京に戻ったのは5年後。弟がすでに即位しており時すでに遅し。
  4. 1947年に皇籍離脱した11宮家(いわゆる旧皇族)はこの方の末裔。

後光厳天皇(北朝第4代)[編集 | ソースを編集]

  1. 崇光天皇の弟。
  2. もともと坊さんになる予定が、拉致による北朝の皇位空白を防ぐため、親王でもないのに急遽擁立。
  3. しかも任命権者である「治天の君」も不在のため、93代後伏見上皇の奥さんに治天の君になってもらうという泥縄手続き。
  4. 在位中も南朝の攻撃により美濃や近江へ逃れることしばしば。苦難の在位。

長慶天皇(第98代)[編集 | ソースを編集]

  1. 在位記録が乏しいため、大正年間まで即位が確定できなかった。
  2. 南朝内では主戦派として伝わっている。
  3. 青森県・岩手県名物の「南部煎餅」を創始した人物という説がある。
    • 名久井岳の長谷寺を訪れた時、食事に困窮した長慶天皇を見た家臣の赤松助左衛門が、近所の農家にそば粉と胡麻を譲って貰い、それを自分の鉄兜を使って焼き上げたものを食事として出した。
      • それを長慶天皇が気に入り、それ以後赤松に度々作らせるようになったのが、南部煎餅の始まりとされる。

後円融天皇(北朝第5代)[編集 | ソースを編集]

  1. 後光厳天皇の皇子。譲位を受け即位。
  2. 即位時は崇光系から異議が出され、在位中は足利義満のモラハラに悩まされる。
    • 寵妃をNTRれたという俗説も。。。

後亀山天皇(第99代)[編集 | ソースを編集]

  1. 本当は後小松天皇(北朝第6代)より後の即位。
  2. 両朝合一により入京し、三種の神器を後小松天皇に渡した。
  3. ところが18年後、突如吉野へ逃亡。6年後に帰還。南朝への待遇の約束が守られなかったから、という説あり。

後小松天皇(第100代)[編集 | ソースを編集]

  1. 南北朝を統一した。
    • まあ、後小松天皇がそのために何をしたのかと言えば微妙だが。
  2. 一休さんの父親とされている。
    • 母親(伊予の局)が南朝遺臣の娘だったため、後小松天皇の長子ながら皇位は継げず、僧籍に入れられたらしい。
  3. 「小松」天皇とは、58代光孝天皇の別名。
  4. 「足利義満の子」説がある。後円融天皇の妃である母親と足利義満との密通疑惑があり、後円融天皇がブチ切れて妃を殴打する事件が起きている。

称光天皇(第101代)[編集 | ソースを編集]

  1. 病弱により後継ぎが作れず、皇統は崇光天皇系へ戻ることとなった。

後花園天皇(第102代)[編集 | ソースを編集]

  1. 崇光天皇の直系曽孫で伏見宮彦仁王と言った。
  2. 称光天皇崩御により後小松上皇の猶子を経て即位。8親等以上離れた皇位継承は天武系から天智系への継承以来、約650年ぶり。
  3. 後南朝勢力に内裏を襲撃され、三種の神器のうち勾玉を持ち去られる事件が発生(禁闕の変)。
  4. 飢饉にも関わらず遊び惚けていた足利義政を漢詩で説教した。
  5. 永享の乱では、足利義満の治世以来出せなかった朝敵綸旨を発した。
  6. しかし、応仁の乱では朝敵指定を拒否。いたずらに朝敵をつくることは乱のモト、と反省したらしい。

後土御門天皇(第103代)[編集 | ソースを編集]

  1. 即位後すぐに応仁の乱勃発。足利義政の家で10年間も避難生活を送る。
    • その間に日野富子の侍女に手を出してしまった。
  2. その後の室町幕府のgdgdぶりに嫌気がさしたのか、「譲位する!」と5回も表明しそのたびに幕府に止められた。

後柏原天皇(第104代)[編集 | ソースを編集]

  1. 朝廷は超財政難だった。
    • 即位の礼を執り行うお金がなく、実現したのは即位してから22年後。
      • その間にも11代将軍の足利義澄は、即位の礼の費用を援助しようとしていたが、管領・細川政元に反対されて実現せず。
        • 結局、朝廷の儀式を中止することで経費を浮かし、ちびちびと挙行費用を貯めるはめに…。
      • 苦難を乗り越えてようやく実現可能になった即位の礼も、挙行数日前に10代将軍(復職)・足利義稙がいきなり京都を脱出して、敵対していた管領・細川高国を討つ準備に入ったので、挙行を危ぶまれる事態に陥った。
        • 義稙の行動にぶちギレた天皇は、高国に即位の礼の準備をさせたうえで強引に挙行し、高国による義稙放逐と次期将軍として足利義晴の擁立を認めたのだった。
    • 父帝である後土御門天皇の即位からほどなくして勃発した応仁の乱のせい。このせいで葬儀を執り行う費用すらなく、後土御門天皇は崩御してから実に40日もの間、遺体が御所に安置されていたという嫌な逸話も残っている。
      • その父帝と同じく、朝廷の困窮は自らの罪障のせいだと思い悩み、阿弥陀如来に慈悲を乞いていた。
    • 自分の即位の礼すら出来ない状態なのに、伊勢神宮の内宮・外宮からは、遷宮させて欲しいとそれぞれ要望されていた。
      • 遷宮するのにもお金がかかるので、紆余曲折を経て、仮殿遷宮という形でしのがせた。
  2. 「柏原」天皇とは、50代桓武天皇の別名。

後奈良天皇(第105代)[編集 | ソースを編集]

  1. 宸筆を書きまくって諸国大名に売りつけ、皇室費を稼いだ苦労人。
    • よって、この方のご宸筆は、歴代天皇中最安値だとか。
  2. 先代の「奈良」は、51代平城天皇。

正親町天皇(第106代)[編集 | ソースを編集]

  1. 「おうぎまち」ではなく「おおぎまち」である。
  2. 信長の野望によく出てくることで有名。
  3. 本能寺の変の黒幕説がある。信長のおかげでステータスが上がったと思うのだが。。。

後陽成天皇(第107代)[編集 | ソースを編集]

  1. 思えば、この方が聚楽第に行幸した時が、秀吉の人生の最高点だった。
  2. 先代の正親町天皇の孫である。

江戸時代[編集 | ソースを編集]

後水尾天皇(第108代)[編集 | ソースを編集]

  1. 幕府によって統制をうけることになった天皇。
    • 幕府の横暴には嫌気が差したらしく、娘に皇位を譲る。
      • むしろ幕府は、風紀が乱れきった朝廷の威厳をなんとか取り戻そうと頑張っていた、というのが最近の見解。
    • 中宮が徳川秀忠の娘・和子(入内前は「かずこ」、入内後は「まさこ」)。明正天皇は後水尾帝と和子の間に生まれた皇女。
  2. 花と炎の帝。
  3. とにかく長寿な上、子沢山。
    • 直の子女の中から女帝を含め、4人の天皇を輩出している。
      • 出家した58歳で、のちの霊元天皇を側室に産ませる。
    • 遊郭へお忍びで遊びに行ったり、宮中へ遊女を招き入れて乱パを開催したりと、相当性が乱れていた。
      • そりゃ幕府も禁中並公家諸法度を制定しますわ。
  4. 昭和天皇がお隠れになったとき、『明確な歴史としてはっきりしている長寿』の後水尾天皇以来の長寿だったと言ってた。
  5. 「水尾」天皇とは、56代清和天皇の別名。
    • 父親である後陽成天皇は、清和天皇の息子の陽成天皇から採って追号し、自分は後水尾を遺諡にする。
      • 父親嫌いだったので、わざと父子逆の追号をするという。めちゃくちゃ大人げない行為。
    • 本来は「ごみずのお」ではなく「ごみのお」と読むのが正しいらしい。

明正天皇(第109代)[編集 | ソースを編集]

  1. 久しぶりの女性天皇。実に859年ぶり。
    • そのため、一生独身な上、男に関心持たせないために、ほぼ隔離状態だったとか。
  2. 幕府と確執した前天皇から突然皇位を譲られた。
    • そのため践祚した年齢は、なんと7歳。
      • 初めから中継ぎで即位させるつもりだったので、女性であることと年齢が幼いことは不問とされた。
  3. 母は狸の孫。
    • 曽祖父母に浅井長政・お市の方が居り、織田信秀も先祖である。
  4. 明正は、同じ女性天皇の43代「元明」と44代「元正」から一字ずつとられた。

後光明天皇(第110代)[編集 | ソースを編集]

  1. 姉の明正天皇から譲位されて即位。古来のしきたりが廃れた朝廷の再興に努めた。
    • 朝廷衰退の原因として、和歌や源氏物語などの古典を嫌っていた。
      • ある日、禁中へ臨幸した父の後水尾院から和歌を詠むよう促されたら、供御人が来るまでの間に即行で10首も作り、後水尾院を唸らせた逸話もある。
  2. 天然痘を患って22歳の若さで崩御。
    • 幕府の意向に反する態度をとっていたことから、幕府側による毒殺説が当時飛び出していた。
  3. 儒学や漢学に傾倒する一方、アンチ仏教だった。
    • 三種の神器が入った唐櫃を無理矢理開けて、中に仏舎利があるのを見つけると、庭に捨てさせた。
    • 崩御後は過去の天皇と同様、泉涌寺にて仏式で葬られることになったが、禁中に出入りしてた魚屋の進言で、火葬(荼毘)ではなく土葬となった。
      • 以降の歴代天皇は、土葬されるのが常になっている。
  4. 幕府の手先である京都所司代・板倉重宗とのやりとりは痛快。
  5. 追号は、北朝第2代の光明天皇に由来。
    • しかし、光明天皇のどの辺りに共通点があったのだろうか?

後西天皇(第111代)[編集 | ソースを編集]

  1. もとの追号は「後西院」。院号を天皇号に置き換えたらこのお名前になった。
    • 機械的な置き換えのおかげで、何となく座りが悪い。
      • 明治時代は「後西院天皇」と呼ばれてたが、大正時代に院の字を無くすことが決められて「後西天皇」になった。
    • ちなみに「西院」とは53代淳和天皇の別名。
      • 淳和天皇と境遇が似ていたことから、淳和天皇の別称「西院帝」から採って、「後西院」と追号された。
        • 「西院」は院号ではなく淳和天皇の離宮の名前なので、「後西院帝」を意味する「後西院院」と追号しないとおかしいのだが、院の字が重複するのでひとつ減らされた。
          • なので、天皇号も「後西院天皇」と称するのが本来望ましいとされる。
  2. 仙台藩主・伊達綱宗は従兄弟(お互いの母親同士が姉妹)。そのため、外様大名と朝廷の結びつきを警戒した幕府に睨まれた説がある。
  3. 当時赤ん坊だった弟・識仁親王(のちの霊元天皇)が成長するまでの中継ぎとして即位し、8年後に譲位した。
    • 在位中に天変地異や火事がたくさん起こり、天皇の不徳のせいだと周りから責められたので、仕方がなく譲位するはめになった、という風評が当時存在していた。
  4. 地味な印象の天皇だが、父親の後水尾院と同じく子沢山だったりする。
  5. 学問好きであり、兄の後光明天皇とは違って和歌や古典も嗜んだ。
    • だが即位直後は字を書くのがヘタクソで、指導を担当していた白川雅喬から「末代の恥」とボロクソに言われていた。
      • しかし、年月を重ねるごとに上達していき、天皇の書を見た雅喬は感激の涙を流したとか。

霊元天皇(第112代)[編集 | ソースを編集]

  1. 歴代最後の太上法皇
  2. その立ち振舞いは、父親の後水尾院そっくり。
    • 幕府と色々渡り合いました。
    • 東山天皇へ譲位後、その次代の中御門天皇まで太上天皇(上皇)として院政を長く敷き、それゆえ付いた別称が「仙洞様」。
      • 上皇の御所は仙洞御所と言われるため。ちなみに仙洞御所は令和になってから復活した(予定)。
    • 子供もぎょうさんおりますねん。
  3. 朝廷の復興に尽力。
    • 息子の朝仁親王(のちの東山天皇)に立太子の礼を行わせて、「皇太子」の称号を復活。
    • 東山天皇即位の際、長年途絶えていた大嘗祭を自らの意向で復活させた。
  4. 和歌や書道が大の得意だった。
    • 幕府側用人の柳沢吉保の和歌を添削している。
    • その書風は、有栖川流書道の基になった。

東山天皇(第113代)[編集 | ソースを編集]

  1. この方から立太子の儀、大嘗祭などの旧来の朝廷儀礼が復活した。

中御門天皇(第114代)[編集 | ソースを編集]

  1. 元服の儀が復活した。

桜町天皇(第115代)[編集 | ソースを編集]

  1. 聖徳太子の再来ではないか、と噂されるほど共通点があったらしい。

桃園天皇(第116代)[編集 | ソースを編集]

  1. 2代続けて乙女チックな追号であるが、双方れっきとした男子である。

後桜町天皇(第117代)[編集 | ソースを編集]

  1. 最後の女帝
    • Wikipedia:ja:皇位継承問題 (平成)が取り沙汰される中、ひそかに注目を浴びてる。
    • クイズではベタ問の一つでもある。
  2. 先代の桃園天皇は、彼女の異母弟である。

後桃園天皇(第118代)[編集 | ソースを編集]

  1. 桃園天皇の息子。わかりやすい。

光格天皇(第119代)[編集 | ソースを編集]

  1. 約1000年間途絶えていた漢風諡号を復活させた。
  2. 約900年間途絶えていた天皇号を復活させた。
  3. 現在の皇室の直接の祖にあたる。
    • 明治天皇から見て、父方の高祖父にあたる。
  4. 実父は天皇になったことのない親王で摂関家より席次が下なので上皇を贈りたかったが時の老中松平定信に反対された。いわゆる尊号一件である。
    • 最終的には3に示す事情から、明治天皇が遡及的に「慶光天皇」の諡号を贈った。但し経緯が経緯だけに歴代の天皇には含まれない。
    • 実父は世襲親王家の閑院宮家2代目当主・典仁親王。閑院宮家は昭和まで続き戦後に皇籍離脱。1988年に離脱時の当主・純仁が亡くなり子供が居なかったため断絶した。
  5. 幕府に困民救済を要請したり国境のトラブル報告を受けたりと、朝廷の権威を取り戻す切っ掛けを作り、幕末に繋がっていく種を植えた人である
  6. 2019年に明仁天皇が今上(徳仁)天皇に譲位するまで譲位した最後の天皇だった。
  7. 歴史上最後の「太上天皇」である。
    • 譲位後の天皇の称号「上皇」とは「太上天皇」の略であるが明仁天皇の場合は特例法により「退位後の称号は上皇とする」と規定されているため正式に「上皇」である。

仁孝天皇(第120代)[編集 | ソースを編集]

  1. 皇族や公家の子弟の教育機関の設立を命じた。これが現在の学習院である。

孝明天皇(第121代)[編集 | ソースを編集]

  1. 幕末の動乱の最中急死。一説では殺されたとも。
    • 幕府に肩入れしていたから邪魔になって殺されたという説がある。
    • 加山雄三が歴史番組(特に幕末関連)に出演できないのは…曽祖父が○○○○だから。。
  2. この方の思想を「尊皇攘夷」だと説明する人がいるが、大きな間違い。正しくは「佐幕攘夷」である。
    • 長生きしていたら慶喜の幕政改革が間に合って日本は大統領制になっていたかもしれない。その程度には徳川シンパ。
  3. 孝明天皇の意思に反して幕府を倒して出来上がった明治時代には孝明天皇について語ることはタブーであった。
  4. 色んな出来事があったので、在位中に6回も改元されている。
  5. 崩御後に、いくつも肖像画が制作されてるが、どれもコレジャナイ感が…。
    • とりあえず、ツリ上がった糸目に面長で鼻が高かったのは確かのよう。
  6. 生涯に渡って平安京で暮らした最後の天皇。
    • という事で、1940年に平安神宮の祭神に加わった。

近代以降[編集 | ソースを編集]

明治天皇(第122代)[編集 | ソースを編集]

  1. この人から、近代的(西洋的とも言える)な皇室制度が始まった。
    • 伊藤博文などは、英国的でフランクな皇室をイメージしていたようだが、ロシア皇帝(アレクサンドル2世)の戴冠式に出席して感動した山県有朋が猛反対。いささか時代錯誤な、ロシア・清国式の神聖装飾を推し進める。
      • おかげで「天皇=現人神」というイメージが出来上がり、後継の天皇は色々苦労することに。
      • ちなみに天皇が直接政治に関与できないよう立憲君主として神格化したのも伊藤。「神様なんだから普段は一個人として勝手に動いちゃダメですよ」としたわけ。
  2. 列強に対抗すべく文人から武人に早変わりした人。青年期、西郷隆盛に指導されたという。
    • だから西南戦争中は塞ぎがちだった。
  3. 主な仕事は現代風に言うと、リスクマネージメント。
    • 対外戦争や国会の紛糾など明治国家が重大な危機に直面すると、勅書を出して反対派を黙らせた。強権的なやり方であるが、これで国内がまとまり国難を乗り越えられたのも事実である。
      • 昔は後醍醐天皇のように、自ら親政を執ることも考えていたが、のちに自省して思い止まった。
  4. 一部人間によると出自が謎なんだとさ。まあ、こういうことはChakuwiki内でいろいろなページに書かないよう。
  5. イギリスからガーター勲章をもらうときに、烈火の如く怒った人。
    • 日英『同盟』なのに、その相手を下に見るとか何とかいったんだとか。
  6. 生涯に10万首ほどの和歌を詠む。
    • 贅沢嫌いの明治天皇はちびた鉛筆で裏紙に詠んだ和歌を書き留めていた。
  7. 戦争は嫌いであり日露戦争中戦死者の名簿を見ては涙を流し、字の読み方が分からなければ側近に聞いていたという。
    • 日露戦争開戦ギリギリまで、「なんとか開戦を回避できないのか?」と臣下に問いかけていた。
  8. 誰がなんと言おうがイケメンである。
    • しかも当時の日本人としては長身なうえに、体重も一般人の2倍ほどはあったとか。
      • お召しになった御服は、ご本人を身体測定するわけにいかなかったので、目測で制作されていたのだが、サイズは大体170㎝前後だった。
  9. 過去の皇族や武士の名誉回復と地位向上を積極的に行った。
    • 特に初代南朝の後醍醐天皇に対しては、鎌倉幕府を倒して親政を開いた逸話を、明治維新で新政府を樹立した自分と重ね合わせて、相当思い入れがあった。
      • 既に奈良の吉野には、後醍醐天皇を祀る吉水神社が存在していたのに、わざわざ吉野神宮を作らせた。
        • 他にも鎌倉宮など、南朝側の皇族を祀る神社をいくつも作っている。
    • 色々あって天皇と認められていなかった大友皇子、淡路廃帝、九条廃帝に天皇号を追諡した。
    • 織田信長のことを「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一を目指した信長のおかげ」と評価して、京都に建勲神社を作った。
  10. 今のところ、神として祀られている最後の天皇。
    • ご本人は、明治神宮を作られたことに困惑していそうなイメージ。
    • 日本の植民地内の神社では、天照大御神と一緒に祀られることが多かった。
  11. 写真を撮られるのが大嫌いだった。
    • 公式に撮影されたのは、明治5年の断髪前のお姿と明治6年の断髪後のお姿の2枚だけ。
      • 臣下に「欧米各国と交渉するには君主の肖像写真が必要」と迫られて渋々撮ったが、それゆえか表情が仏頂面。
        • 以後、肖像写真を公式に撮らせることは一切なかった。
        • この2枚の写真のお姿は、劇的ビフォーアフター並に変貌しているので、色々とネタにされているが、ここでは触れないことにする。
    • こっそり盗撮された写真がいくつか存在する。
      • 2017年には、44歳の時に水戸徳川邸を訪れた写真が見つかる。
    • イタリアのお雇い外国人だったエドアルド・キヨッソーネが描いた肖像画が有名。
      • 明治天皇のお姿を盗み見して制作されたもので、宮内大臣から初めてこの絵を見せられた明治天皇は黙り込んでしまったとか。
        • しかし、その後は使用許可が出され、この絵を写真撮影したものを御真影として使われた。
      • 座っているポージングは、キヨッソーネが明治天皇の御正装を宮内省から借りて、自ら着用した写真を参考にしている。
      • 今は明治神宮ミュージアムに展示されている。
        • 昔、お参りした時に間近で拝観したことがあるけど、「うわ~教科書に載ってたのとそのまんまだ!これ本当に絵だったんだ~すげぇ!」と感動した。
  12. 大の刀剣ファン。
    • 明治維新後、各方面から刀剣が多数献上されたので、数多くの名刀が失われずに済んだ。
      • そうして集まった名刀達を自らが試し斬りして、傷を付けていたりもする…。
    • お気に入りは水龍剣(奈良時代制作)で、正倉院の宝物修理時に、これを鑑賞した明治天皇はそのまま自分のものにしてしまった。
  13. 日露戦争で日本がロシアに勝った時に、イスラム圏の一部の人達から、自分達を列強の支配から解放してくれると一方的に希望を持たれていた。

大正天皇(第123代)[編集 | ソースを編集]

  1. 皇太子のときは元気があって、日本全国飛び回っていたのに、いざ即位したら病弱に・・・。
    • 昭和天皇がのちに回想して曰く、「天皇になったのが間違いだった、その重圧に耐えきれなかったのであろう」と言う趣旨の発言をしている。
      • フランクでリベラルな人だったゆえに軍部から嫌われアホ扱いされた気の毒な人
        • 現代からすれば、お生まれになった時代が悪かったとしか言いようがない。
  2. 原宿に宮廷ホームが造られる要因となった天皇。普通は東京駅から堂々と乗るものだった。
    • お召し列車嫌いで、一般客と同じ普通列車に乗ったりもしていた。
  3. 実は側室を置かなかったはじめての天皇
  4. 鯛背負ってた天皇。だから…(以下ry)
  5. 明治天皇の5人の息子の中で唯一成人した。
    • 明治天皇の子供のほとんどは、死産か早死にしているが、これは母親に起因する脳膜炎(鉛・水銀中毒)を患っていたから。
      • 大正天皇も同じ病を患っていて、生涯に渡って後遺症に苦しんだ。
  6. 実は詩人としても有名
  7. 崩御した場所は宮中ではなく葉山御用邸である。
  8. 漢詩御製が多数ある。
    • 歴代天皇の中では、ずば抜けた質と量の漢詩を遺している。
  9. 趣味人同士徳川慶喜と気があったらしく、晩年の慶喜と月一ぐらいのペースで遊んでたらしい。
  10. 学習院初等科の入学祝に時の総理大臣・伊藤博文から特注の通学カバンが献上された。これがランドセルの始まりである。
  11. 大の愛煙家で特注のタバコや葉巻を吸っていた。
    • あまりにも吸い過ぎるため皇太子時代には東宮太夫がタバコの量を減らす様、進言されていた。
    • 参内した人たちに対して「汝はタバコを好むや?」と差し出したり「好きなだけ持って行け!」と目の前に大量の葉巻や紙巻きタバコを出したりしていた。
  12. 日常会話レベルのフランス語を話せ、女官たちフランス語でからかっていた。