安土桃山時代

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  1. 安土城ができる。
    • 変身してロボットになるという機能があったらしい。
      • 一部の機能は鉄甲船に引き継がれる。
    • 信長がデアゴスティーニ社の雑誌を定期購読して付録を組み立てた渾身の建築。
  2. 安土城が燃える。
    • 以降安土は滋賀の湖東の片田舎として歩むことに…(涙)
      • 後にニューヨークに移設され(どうやって移設されたかは不明)、紐育華撃団によって破壊される。
  3. 関ヶ原の戦いで、実は家康は死んだ。以後は影武者が家康を務める(by隆慶一郎)
    • 軍師役は島左近。配下のninjaには風魔小太郎らが参加した。
      • その後、風魔の小次郎も聖剣「風林火山」をもって参戦。聖剣戦争勃発(古すぎるか)
  4. 伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアン、変な名前のためローマに連行される。
    • この4人で構成されたユニット「天正遣欧少年使節」がオリコンベスト10入りを果たすも、「音楽性の違い」からミゲルが脱退する。
  5. ガラシャ・スタイルが下火に。
  6. 「敵は本能寺にあり」が流行語大賞にノミネートされる。
    • 大賞に輝いたのは「三本の矢」。
      • 三ツ矢サイダー製造開始。
    • その他「タデ食う虫も好きずき(吉川元春)」や「勝って兜の緒を締めよ(北条氏綱)」などもノミネートしたがインパクトに欠けた。
    • 政治家の羽柴秀吉氏が「猿」で受賞。庶民の間ではこれが初耳だった。
      • 「はげねずみ」じゃないのか!という苦情が寄せられる。
  7. 現在、安土がどこにあるか分かる人はいても、桃山がどこにあるか分かる人は片手で足りるほどしかいない。
  8. そもそも、桃山で何が行われたのか知られていない。
    • 秀吉が伏見桃山城を造った。ただそれだけ。何故それだけで時代名になったのか…、織田豊臣時代で良かったのに。
      • 名付けた明治の歴史学者たちには、文学的というか衒学的な傾向があったため。足利幕府の時代をいくら本拠地があったとはいえ、敢えて普通の人には分かりづらい室町時代などと命名するのにもそれが現れている。
      • 江戸に幕府があった時代が江戸時代、鎌倉なら鎌倉時代なんだから、地名が付いてるのは自然だろう。そのルールから逆算した結果マイナーな地名になったのはともかく。
    • 織豊時代とも言う。伏見桃山には秀吉がたてたキャッスルランドが現存する。
    • キャッスルランドは平成14年に閉園。平成19年に伏見桃山城を含む敷地が運動公園として開園されるらしい。
      • 伏見桃山城は平城だが、運動公園は山の上なので、山城になっている。
    • ちなみに当時は伏見桃山城と呼ばずそもそも桃山という地名すらなかった。
      • 江戸時代、「あそこに天下様のお城があった時代は良かった」と思った人が、荒れ果てた城跡に桃をたくさん植えたことに始まる。
  9. 西洋かぶれした武士だらけ。
    • グローバルスタンダード志向が高まる
      • 細かい突っ込みで悪いが「南蛮かぶれ」のほうがそれっぽいな。
  10. 秀吉が刀コレクションしたいがために刀狩り
    • その後、刀は大阪城の瓦に使われる。
    • 方広寺大仏の釘やかすがいにも使われた。
      • ちなみに刀を回収する際には「刀狩りカード」が使われた。
  11. 3日で一城がブーム
    • 何でも3日で作った
    • が、3日で生命まで失った(三日天下)
      • あれは11日ね。言っとくけど。
    • ネタ殺しでまうしわけなひが…その前に、何と一晩か二晩で城造りするスーパーテクが開発され、中部地方某所で試用後、関東地方で本格運用される。
      • 墨俣城だな。からくりはあらかじめ山の中で部品を作ってそれを墨俣まで持ってきて組み立てた。おかげで敵は「突然城が!」とびっくり仰天。現代で言うプレハブ工法。
  12. 加藤清正が陣太鼓づくりに熱中
  13. 更に虎退治にも熱中
    • 退治された虎は秀吉のバイアグラになった
      • 嫁さんとのHには全然効かず、メカケとのHには抜群の効き目発揮。
  14. 名古屋弁が武士達の標準語になってまったわなも!
    • 実際の所、尾張三河の武士が全国に散らばったしなぁ。
  15. 豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻する。
    • 最終目標はと天竺。ある意味大東亜共栄圏。
    • 猿が天竺をめざして西に行く。どっかで聞いた話。
    • 朝鮮では当時の政府のあまりの横暴っぷりに日本軍が解放軍として歓迎される。
      • あとで秀吉の目的が判って日本軍に協力しなくなるが、今度は中国の援軍が粗暴の限りを尽くす。
      • 中国は当時、北方の異民族とも争っていたのであまり朝鮮に関わり合いたくなかったが、朝鮮が弱すぎてこのまま放っておくとマジで日本軍が来るためしぶしぶ出撃。
      • 朝鮮があまりに弱すぎるので、実は朝鮮は日本と内通してるんじゃないかと中国に疑われる。
      • 日本も中国も、自国領土じゃないのでわりと好き勝手に暴れまくる。
    • 秀吉以外は全員嫌々戦っていたため、秀吉が死ぬと同時にやる気をなくして引き上げる。
      • でも戦いはほとんど日本が勝利が多かった。李舜臣も日本との戦いの中で戦死。明の軍隊も日本にはほとんどかなわなかった。
        • 日本との戦で戦費を使いすぎたのが明の滅びた原因らしい。
      • 戦後、日本人との間に生まれた子供は、「異胎院」に一生幽閉された。今では「梨泰院」という地名として残る。
  16. 鉄砲による殺人事件が後を絶たず、社会問題となる。
    • 織田信長氏の死後、戦争における鉄砲隊の使用が人道的観点から問題視される。
    • ちなみにこの時代の火縄銃では人を殺せなかった(本当)。
      • え、マジ?
      • 殺せなかった、と言うと殺傷力ゼロのおもちゃと勘違いされる。まともに当たればひどい怪我どころじゃ済まない。
      • 弾丸の形状、発射性能など、何もかも現代の銃器に比べれば使い勝手は悪すぎるが、威力に関しては理想的条件(天候や距離等)なら十分あった。
      • ただしタイマン勝負だと敵を仕留め損なえば踏み込まれて終了なので、一発で急所に当たるか当たらないか、相当に分の悪いバクチになるのが弱点。だからこそ信長による、大量の鉄砲を投じた大量殺戮が画期的だったわけ。
        • 信長が採った鉄砲隊の戦法を、イギリスの古式銃戦術では信長式として評価されているらしい。
      • 当時の医療技術の低さも問題。今なら普通に治る傷でも当時は死に直結した。
        • 輸血も麻酔もなく、もちろん手術もない。銃で撃たれても薬湯と湿布だけじゃあ、そりゃ助かるものも助からないよなぁ。
        • 銃火器に必要なのは殺傷能力だけでなく、「マン・ストッピング・パワー」ですから、死んでいなくても戦闘力が殺げれば。
          • 相手を殺す=敵が1人減る、相手を負傷させて行動不能にする=負傷者+運搬2人で、敵が3人減る
      • なお純粋に威力でいうと元々あった弓の方がちょっと上なぐらい。しかし弓よりも習熟が速く、使い手によらず威力が安定するという特性が足軽の性質にマッチしており、主力装備として広まっていった。武器は運用が伴ってなんぼといういい見本である。
  17. 「忍者ハットリくん」がこの頃から始まる。
  18. 桃山学院大学ができる。
    • ピン高付属大学ですかあ?
  19. 「醍醐でお茶しない?」がナンパ必勝法。
  20. 豊臣秀吉が農民から刀を回収した。「刀狩り」という。
    • 京都では政府の目を逃れて密かにニンジャソードが売られた
    • 現在では他人のクレジットカードを奪って架空請求する行為のことになっている。
    • どん百姓どもに武器など不要。
    • ただし、脇差し程度なら町人でも持ち歩くことは許された。
      • 許されたのは1本差しのみである。大小2本差したとたん、「その方、身分をわきまえざるの段、不届き至極」。遠島。
  21. 落ち武者が大流行。明智光秀が天海を名乗って徳川家康に仕える。石田三成が秋田へ。豊臣秀頼が真田幸村に伴われて薩摩へ。宇喜多秀家も薩摩へ落ち延びているけれどこちらは実話なのでどうでもよし。
    • 光秀本人説は眉唾だろうけど、近親者説はかなり有力。なお、春日局ほか明智縁者が多数徳川に仕えている。
    • あれ?宇喜多秀家は八丈島へ流されたんじゃなかったっけ?
      • 一旦薩摩に逃げてそのあと流されたって何かで読んだな。
        • 島津を頼って薩摩にのがれたけど、徳川の圧力で身柄を引き渡された。ただ、親類の前田家などの助命嘆願で死罪を免れて八丈島に流罪になったって歴史漫画で読んだことが。
  22. 秀吉、経歴詐称。だけど天下人なので誰も訴えずに死亡。
    • 家康も将軍になるために源氏の血筋だって言い張ってたな。真偽のほどは謎。
      • 確か将軍になる前は藤原を名乗っていたはず。まあどっちもウソなんだけど。
      • てか信長は平家なのに将軍に推奨されていたね。まあ猿百姓なんぞには将軍はやれなかったってことかな?
        • 信長の桓武平氏ってのもウソなんだけどね。
      • 代々武士家の家康は経歴詐称は可能であったが、元が百姓の秀吉には無理があった。って事で、藤原家の養子に→関白。
        • 将軍になるのに源氏の肩書きは不要。藤原家の将軍や皇族の将軍はたくさんいる。家康がほしかったのは武家の頭領の肩書きである「源の長者」。だから源氏を名乗った。秀吉は新たに姓を下賜されているので、公家になるために藤原家の養子になったものの新たに「豊臣」の姓をもらった時点で藤原家とは関係なくなっている。俗に言う源平藤橘+豊臣になったと言うこと。
          • 将軍=源氏じゃなきゃダメ、は俗説みたいですね。
          • ちなみに「将軍はやっぱ源氏っしょ」というブランド価値があったのはホント。つまり「源氏じゃなきゃホントの将軍じゃねーよ」と思ってた人は実際結構いたらしい。そういう意味では源氏の優位性もまるっきりデタラメというわけではない。
  23. 平成の自衛隊を手元に置く大名が台頭。紆余曲折を経て豊臣残党+自衛隊vs徳川+米軍の戦いになる。
    • それ以前には昭和の自衛隊が天皇家に喧嘩を売った。
  24. 出雲から来た阿国さんが裸踊りをして「一世風靡セピア」を熱唱。ミリオンヒットを飛ばした。
    • 阿国一座のだしものはエロを売りにした。人気爆発は、裾を振り乱してのラインダンス。当時の女性は腰巻きを着用しているだけだから、裾が乱れれば…。演劇もキワモノ。阿国が男装し、若い男優に女装させてのラブシーンなどに、観客は生唾ジュルジュル。だから幕府に禁止されちゃうんだよ~ん。
      • 「やり過ぎだバカヤロ!いくら何でも生々し過ぎんだよゴルァ!!」と怒りに触れたそ~な。
      • 実際は見えたからどうというより、推しの取り合いで武士同士の喧嘩が絶えなかったからだそうな。いつの世もドルヲタって奴は・・・。
  25. お茶が大流行。支配層はみんな茶道具ヲタクになってしまった。
    • 参州公は例外。「それがしの宝は家来たちでござる」とサル関白に言い放つほどの人材ヲタクゆえ。
      • とかいいながら超ド級のシブチン。あまりのシブさに秀吉からたしなめられるほど(ホンダ平八郎の所領について)。
    • 茶道具=同人誌・フィギア等、北野大茶会=コミケとか置き換えるとわかりやすい。
  26. 織田幕府誕生。
  27. 羽柴誠三秀吉が本物の羽柴秀吉が滅ぼした小田原城跡にホテル建設。
  28. 桶狭間で奇襲攻撃が行われ今川が死ぬ。残った今川側の者たちの合言葉は「リメンバー、オケハザマ」となり、今川焼きが作られるようになる。
    • うまいがこれは戦国。
  29. 関が原の戦いで西軍が勝った「裏の歴史」ではずっとこの体制が続き、後世には「大坂時代」として知られるようになる。
  30. 秀吉軍が兵糧攻めの際に「サトウのご飯」「生みそずい」を使用。その様子はテレビ中継されたためヒット商品となる。
  31. 秀吉,本当の「猿」だった。
    • 実際は秀吉「猿」の飼い主が天下人。
      • 後に家康が飼い主になったため,江戸幕府が出来たとのこと。
  32. 羽柴秀吉が石山本願寺の跡地に世界初の鉄筋コンクリート造りエレベーター付の画期的な大坂城を築いた。
  33. 関ヶ原の戦いは大乱闘の末、徳川家康の勝利に終わる。
  34. 武将の間では「三光作戦」が大流行。
    • 「三光作戦」とは、明智光秀・石田三成のように最後の詰めが甘い作戦のこと。決して中国の言葉ではないはず。
  35. 「信長の野望」が武将の間で大ヒット。能力値を低く見積もられた人たち涙目。
    • 「わ、わ、わしの政治力が1とはどういうことだ~」(by風魔小太郎)
  36. マジシャン果心居士が好評。だが調子に乗りすぎ、あまりのウザさに秀吉に処刑される。
  37. 豊臣秀頼の外見についてはデブ説と好青年説(or秀吉の子ではない)で真っ二つに割れる。
    • 秀頼が誰の息子であるかは諸説あるが、秀吉の子であるならば豊臣家は四代続いた事に成る(秀吉の甥・秀次が二代目関白に就任していることと、天草四郎が秀頼の息子であればありえる)。
    • 秀吉は淀君茶々以外にも何人か側室を構えるが、秀頼が生まれるまでは実息に恵まれなかったので、秀次のほかにも養子縁組をして後継者候補を増やした。正室おねねの(兄方)甥・秀秋と徳川家康の次男・荻丸秀康が有名。だが、秀頼出生に伴い全員リストラされてしまい、豊臣家滅亡フラグともなる禍根を残している。秀秋は毛利の分家・小早川に入るも、毛利の豊臣家への忠誠なんか関係ないと見限っている。秀康は秀頼などに対する恨みは薄いが、「豊臣家の人ではない」と確信して、実父の陣営に入った。だが、殺された秀次の子孫・関係者は意外と西軍についている。
  38. この時代の権力者に因んだ詩といえば「ホトトギス」が有名。
    • 信長「泣かぬなら殺してしまえ~」
    • 秀吉「~泣かせて見せよう~」
    • 家康「~泣くまで待とう~」
    • ちなみに光秀だと「~自ら泣こう」である。
    • こう見てみると、秀吉はパフォーマー→芸術的思考、光秀は情緒的→文系的思考であることがわかる。信長は詩を見た限りは武闘派のイメージが強いが、実際は理系で心と体よりも技を重視するタイプ。逆に家康は質実剛健で「運動系部活のリーダー」でやはり体育系である。
      • 別に本人が詠んだ歌じゃないから後世どう思われたか以上のもんじゃないよw
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