ざんねんな野球選手事典/外国人/さ~な行

ナビゲーションに移動 検索に移動

※編集される方は「Chakuwiki:お願い/ざんねんなモノ事典」をご覧ください。

  • 「選手」とありますが監督としてざんねんだった方も含みます。
  • 登録名(基本的にはファミリーネーム)の五十音順で。

さ行[編集 | ソースを編集]

ルイス・サンチェス(サンチェ)[編集 | ソースを編集]

  1. 1986年、巨人に入団。しかし、デーブ・スチュワートの獲得に失敗した巨人が、その代わりに獲得した。
  2. トラブルメーカーとして有名だった。
    • フォーム改造を巡り、投手コーチの皆川睦雄を批判し、30万円の罰金を科されたことがある。
  3. 重度の水虫持ちだったことでも知られる。
  4. 応援歌が「サ~ンチェ、サンチェ、ラテンの子~♪」そういうのにおおらかだった時代である。

ルー・ジャクソン[編集 | ソースを編集]

  1. サンケイ(現ヤクルト)で俊足強肩の外野手として活躍しオールスターにも出場したがとにかく偏食だった。
    • 米もパンも野菜もほとんど食べなかった代わりに主食が焼き鳥だったといってもよい状態。
    • さらに大酒飲みで女遊びも好んでいたという。
  2. 最終的に不摂生がたたり69年のオープン戦の打席で倒れそのまま死去。

バール・スノー[編集 | ソースを編集]

  1. 1974年に貿易会社の社員として日本へ渡ったついでに日本ハムの入団テストを受け、3月26日付けで入団。
  2. ところが一ヶ月後、初月給支給と翌日の二軍での登板を告げられた日に突如失踪。
    • 4月30日に日本ハムの首脳部はパ・リーグに契約の解除を申請。
  3. 結局5月9日付けでパ・リーグ初(国内では1971年の阪神・高山忠克以来2例目)の無期限失格選手に指名されてしまった。

た行[編集 | ソースを編集]

レイ・チャップマン[編集 | ソースを編集]

  1. 死球を受けたことで本当に命を失ってしまったMLB史上唯一の選手。
    • 当時娘を身ごもっていた妻も鬱病に苦しみ8年後に自殺。
  2. 犠打の名手やムードメーカーとして人気もあった選手だったが今や存在そのものが忘れ去られかけている。
    • 所属していたインディアンスでは永久欠番扱い(背番号制度誕生前の選手のため)にもなっていない。
    • 記念の銘版も忘れ去られ保管庫の片隅に長く置き去りにされていたという。

チョ・ソンミン(趙成珉)[編集 | ソースを編集]

  1. 韓国のアマチュア球界で活躍し、1996年に読売ジャイアンツへ異例の8年契約で入団。
  2. 1997年後半から徐々に頭角を現し、1998年は先発に転向。
    • 開幕からローテーションの一角に入り、前半戦だけで7勝(うち3完封)を挙げ監督推薦でオールスターゲームに出場。
      • ところがそのオールスターで右肘を負傷し、後半戦は一軍で登板できずシーズンを終えた。
        • この右肘の故障の原因は、オールスターで当時の横浜の監督だった権藤博に「肘が痛いので交代したい」と日本語で申し出たが、権藤が「こいつ何言ってるんだ」としらを切り通したと、2005年のインタビューでチョ本人が語っている。
  3. それ以降は右肘の手術やリハビリなどで大きな活躍が出来なくなり、2002年に契約を1年残して巨人を退団。
    • その後はメジャーへの進出断念・シュークリームのフランチャイズ事業失敗・KBOのドラフトから落選・妻との離婚など苦しみ続けた。
  4. 2005年からは韓国で解説者として再び野球に携わっていたが、5月にハンファ・イーグルスと契約を交わし3年ぶりに現役復帰。
    • 3年プレーしたが、2007年にハンファを戦力外に。
  5. その後は解説者・大学のインストラクター・コーチなどを務めたが…。
  6. 2013年1月6日にソウルのマンションで交際女性の家で首を吊っている状態で発見され、後に警察により自殺と断定された。

ウィリー・デービス[編集 | ソースを編集]

  1. MLB時代にはゴールドグラブ賞を3回獲得し、オールスターゲームにも2回出場した名選手。
  2. 1977年に中日ドラゴンズに入団。
    • 全盛期を過ぎてはいたがメジャーの実力を大いに発揮、5月14日のナゴヤ球場での読売ジャイアンツ戦では西本聖からランニング満塁本塁打を放った。
  3. しかしチームメイトや首脳陣と頻繁にトラブルを起こすなど素行に問題があり、8月、外野フライを追った際にフェンスに激突して左手首を骨折。
    • 戦線離脱した後、低迷していたチームが好調になったこともあり、シーズン終了後、中日はデービスが在籍することによるマイナス面が大きすぎるとして放出を決定、クラウンライターライオンズに金銭トレードで移籍した。
  4. クラウンに移籍した翌年も活躍したが、中日時代と同様の素行不良に悩まされ1年で退団。
  5. 実は創価学会の会員で、来日した理由も「創価学会の発祥の地である日本でなら、きっと居心地よく暮らすことができるに違いない」という意見があったほど。
  6. 引退後の1996年に、カリフォルニア州に住む両親に対して日本刀や手裏剣で脅して現金を要求したとして逮捕されてしまった。

リチャード・デービス[編集 | ソースを編集]

  1. 1984年のシーズン途中に近鉄に入団。1985年には打率.343・40本塁打・109打点と大活躍するも、1988年に大麻不法所持で逮捕。
    • 後の調査によると、デービスはメジャーリーグ在籍時から大麻を吸引しており、日本でも来日以来丸4年常用し続けていた事が判明。
      • 主砲を失った近鉄が急遽中日から獲得したのが、ラルフ・ブライアント。
  2. 1986年6月13日の西武戦で東尾修から死球を受けたことに激怒し、東尾を殴打。
    • この試合が当時のパ・リーグの試合としては珍しく全国中継されていたことも影響したのか、デービスは10日間の出場停止処分となってしまった。
  3. 因みに、当時コロコロコミックに連載されていた「かっとばせ!キヨハラくん」では、「ちょっとおっかない外人」と巻末に書かれていた。

ロブ・ディアー[編集 | ソースを編集]

  1. 1994年に阪神に入団。
  2. 春季キャンプでは特大ホームランを連発し、安芸市営球場では急遽危険防止対策として「ディアーネット」なるものが展開されるほどだったが…。
    • いざシーズンに入ってみると「大型扇風機」として三振を連発。ラルフ・ブライアントのようにその分ヒットやホームランも多いというようなこともなく、最終的には打率.151、8本塁打という成績…。
      • 実はメジャーでは3度の三振王になってしまったことも。
  3. 引退後のマイナーリーグで打撃コーチを務め、教え子たちにこう言った。「俺のようなスイングはするな!」

ベニー・ディステファーノ[編集 | ソースを編集]

  1. 1990年に中日に入団。
  2. 左の大砲として期待されるも前代未聞のオープン戦で乱闘を起こし退場。シーズン突入後も開幕戦でホームランを放ったもののその後は低調。更に巨人戦の乱闘で自らの全く関係ないところで暴れ再び退場(ちなみに星野監督が巨人・水野にビンタを食らわすも退場にならず)結局打率.210、本塁打5本で8月に解雇。
    • ベンチでも凡退すると物に八つ当たりし大暴れするシーンが「珍プレー好プレー」でも流れていた。

デーブ・ニルソン(ディンゴ)[編集 | ソースを編集]

  1. 1999年にオーストラリア出身の選手として、初めてMLBのオールスターゲームに出場。
  2. 2000年にシドニーオリンピック出場を条件として中日に入団したが、日本の投手に対応できず極度の打撃不振(打率.180、ホームラン1本)に陥り、二軍落ち。
    • 8月に1軍に再昇格するも、その直後の巨人戦で工藤公康のスローカーブの前にあっさりと見逃し三振を喫した事で、星野監督にも「これではあかん」と突き放されてしまい、数日後に退団。
  3. 二軍に落ちても真面目に練習をこなし、期待に応えられなかった事に関して球団の幹部に謝罪をするなど、人格は良かった。
  4. その直後のシドニーオリンピックでは黒木知宏(ロッテ)から本塁打を放ち、その4年後のアテネオリンピックでも活躍。

ゲーリー・トマソン[編集 | ソースを編集]

  1. MLB4球団を渡り歩き、ヤンキース時代に優勝も経験。1981年に巨人に入団したが…。
    • 入団1年目は打率.261、本塁打20を残すも、三振は132と当時の球団記録を更新してしまい、「舶来扇風機」などと揶揄された。
    • 2年目は47試合出場にとどまり、当時の藤田元司監督と対立し解雇。
    • その後、無用の長物を意味する単語として「トマソン」が使われるようになってしまった。
      • もはや飯田圭織の「ジョンソン(デイビー・ジョンソンが元ネタ)」並みに由来が薄くなっている。

ブライアン・トラックスラー[編集 | ソースを編集]

  1. 1994年に当時のダイエーホークスに所属していた選手。身長170センチで体重120キロというかなり太った体形をしており、ファンからはコロコロちゃんと呼ばれていた。
    • しかし体形の割に守備の動きは良く、またパワーヒッターでありながらバットコントロールにも長けており、機動力を除けば攻守のバランスの良い名助っ人だった。
      • またファンサービスも怠らず、彼をモチーフにした博多人形が当時のダイエーの選手のなかで売上1位を記録、オールスターにも選ばれるなど人気は高かった。
  2. しかしシーズン後半になると凡打が増え、成績が降下。結局1年限りでチームを解雇されることに。
    • というもの当時のダイエーの海外事業部が彼の前半戦の活躍に目を付けホームランに出来高払いを付けるという裏契約を持ち掛けられたことでホームランに固執し結果的に巧打が鳴りを潜めたというものだった。
  3. 性格がよくファン人気も高く、前半戦だけなら大活躍していた彼がなぜざんねんだったのか、それは彼の巨体の原因にある。
    • というのも彼は異常なまでのビアジャンキーだったということ。1回の晩酌で1ダース分のビールは当たり前のように飲み干すというレベルだった。
  4. 流石にチーム側もこれは問題視しており、減量とビール節制が命じられ、開幕戦のときには100キロまで減量した。しかし・・・
    • 前半戦の好調ぶりから勝手にビールを解禁したがためにあっという間にリバウンドしてしまった。
  5. その後2004年に、アルコールを過剰摂取したために急性肝硬変になってしまい、37歳の若さで亡くなってしまった。

関連項目[編集 | ソースを編集]

ざんねんな野球選手事典
日本人 あ~こ/さ~の/は~わ
外国人 あ~こ/さ~の/は~わ