ざんねんな野球選手事典/外国人/あ・か行

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  • 「選手」とありますが監督としてざんねんだった方も含みます。
  • 登録名(基本的にはファミリーネーム)の五十音順で。

あ行[編集 | ソースを編集]

ホアン・アイケルバーガー[編集 | ソースを編集]

  1. 1989年の春季キャンプでテストを受け、ヤクルトスワローズに入団。
  2. しかし開幕2戦目の巨人戦(東京ドーム)でノーアウト満塁から内角高めへのボールを暴投しサヨナラ負け、敗戦投手に。
    • しかもその暴投を「捕れないキャッチャー(秦真司)が悪い」と逆ギレ。
  3. その後も成績は振るわず5月20日に球団史上最短で解雇。
  4. 当時の関根潤三監督は後にラジオで「名前がおもしろくて獲ったんだよね、なんて言ったっけ?開幕で暴投してすぐいなくなっちゃった…」と発言していた。

アニマル・レスリー[編集 | ソースを編集]

  1. アメリカメジャーリーグで、あまり活躍できないまま1986年に来日し、阪急ブレーブスへ入団。
  2. 阪急入団当初は19セーブを挙げたが、翌1987年は不調で5セーブに終わり、あっさり現役引退した。
  3. 上記の記録よりも、マウンド上で雄叫びを上げたり、味方捕手の藤田浩雅をボコボコ殴ってスキンシップを図るなどの派手なパフォーマンスだけだった。
    • 元同僚の山田久志によると、抑えで登板した後は、大暴れが収まらずロッカールームまで止まらなかったのだとか。

ミチェル・アブレイユ[編集 | ソースを編集]

  1. 2013年のキャンプ中にテスト入団した日本ハム史上初のキューバ人助っ人(ただし亡命していたため国籍はコスタリカ)。
    • そもそも亡命の時もキューバからいかだで亡命したという逸話がある。
  2. ノーマークながらも来日でいきなり31本塁打を打ち本塁打王に。中田翔が負傷で離脱していた時は4番打者も務めた。
  3. しかし2年目に椎間板ヘルニアを発症。6試合出場で退団してしまった。
    • ちなみに同年は彼の推薦でホアン・ミランダが入団し、こちらもそこそこ活躍したものの、シーズン終了後に退団してしまった。
  4. 亡命後にレッドソックスとマイナー契約を結ぶも、後に契約時に年齢を4歳もサバ読みしていた事が発覚し契約解除されている。

イム・チャンヨン(林昌勇)[編集 | ソースを編集]

  1. KBOでの実績を引っ提げて2008年にヤクルトに入団。五十嵐亮太の故障がきっかけでストッパーに起用され、1年目で歴代3人目の30セーブを達成する。
  2. 2009年のWBCに韓国代表として出場したが、決勝戦でイチローに決勝打となるタイムリーを打たれ、更に韓国代表ベンチ内の内部事情も合わせて韓国中から戦犯扱いの大バッシングを浴びてしまった。
    • ちなみに前年の北京五輪にも出場を目指していたが、リオスがドーピング違反で解雇されたためヤクルトが選出を拒否しただけに、WBCは決意を持っての挑戦だった。
    • ただしその後サイン無視に関しては当時の韓国代表の投手コーチがテレビ番組でイムに謝罪し、幕引きとなった。
  3. その後も悔しさを晴らすかのように大活躍したが、2012年にヤクルトの代名詞とも言える靭帯損傷で離脱して退団。
  4. ヤクルトを去った後も当時阪神所属のオ・スンファンとともに違法賭博が発覚したり、キャンプ地の沖縄でオートバイとの接触事故を起こした挙句日本での運転免許が失効していて無免許運転状態だった事が発覚するなどトラブルがあった。

ケビン・ウィット[編集 | ソースを編集]

  1. 2005年に横浜へ入団。3Aでは本塁打王に輝いたこともあったのだが…。
    • 殆ど活躍できず「日本の野球は難しかった」とだけ言い残して解雇。
    • 日本初打席の相手であった巨人のミセリとの対戦は、とてもプロ同士とは思えない程低レベル。
  2. 2007年に楽天に移籍するも、ここでも鳴かず飛ばずで解雇。

テッド・ウィリアムズ[編集 | ソースを編集]

  1. 2019年シーズン終了時点でMLB最後の4割打者だが引退試合では普通通りにプレイしただけでファンの不興を買った。
  2. 全盛期に第2次大戦と朝鮮戦争で出征していたため5年ほど選手生活を棒に振っている。
    • さらにレッドソックスが「バンビーノの呪い」に苦しんでいた時期のためワールドチャンピオンになれなかった。
  3. 死去後には遺体を冷凍保存してほしいという遺言を残していたが息子(賛成派)と娘(反対派)が裁判で争った末中途半端な結果に。
    • 首から上だけ冷凍保存され残りは火葬という一体何のためだか分からないことになってしまった。

ブライアン・ウォーレン[編集 | ソースを編集]

  1. 台湾リーグでの活躍が評価され、1999年6月にロッテに入団。河本育之の故障のため抑え投手として活躍し、1999年には最優秀救援投手のタイトルを獲得。
  2. しかし不正投球疑惑が少なくとも3回あり、西武から不正投球疑惑を受けた翌日の試合終了直後に西武ベンチに向かって中指を突き立てるポーズを行い、後日パシフィック・リーグから「今度同じ行為をしたら追放処分もあり得る」と厳重注意処分を受けた。
    • この日は不正投球疑惑の影響で審判がボール交換チェックを4度に亘って行っており、それに苛立った末の行為だった。

オ・スンファン(呉昇桓)[編集 | ソースを編集]

  1. KBOで5度のセーブ王を獲得した実績を買われ、藤川球児移籍後のストッパー不足に悩んだ阪神が獲得。
  2. 阪神でも球団の外国人セーブ記録を更新するなど大車輪の活躍を見せた。
  3. しかしイム・チャンヨン(元ヤクルト)とともに違法賭博で告発されてしまった事や阪神との2年契約が切れた事で阪神も契約延長を断念した。
  4. その後は大リーグに移籍し大活躍。
  5. 開幕3試合目で福留孝介と交錯し緊急搬送された西岡剛を想い彼の背番号「7」を帽子に刻み、阪神ファンからは「感動した」との声が寄せられたが審判団からは注意されてしまった。

トーマス・オマリー[編集 | ソースを編集]

  1. 阪神タイガース・ヤクルトスワローズで活躍。
  2. オマリーといえば、忘れてはいけない「六甲おろし」。
    • それだけ日本文化や日本語になれていたともいえる。歌唱力は別として。
  3. なお選手としては決して残念なわけではない。「バースの再来」としてふさわしい活躍を見せ、パチョレックと共に1992年には阪神を暗黒時代唯一のAクラス入りに貢献した。
    • 1994年に阪神を自由契約になったが翌年ヤクルトに入団。そこでも活躍しヤクルトの日本一に大きく貢献。自身もMVPを獲得した。
  4. その後阪神の臨時の打撃コーチになりファンからも評価された。また、2004年~2009年には阪神の駐米スカウトも担当した。
    • しかし2008年にフォード、2009年にメンチというざんねんな選手を二年連続でスカウトしてしまうなど、スカウト能力はざんねんだった。

か行[編集 | ソースを編集]

レオ・カイリー[編集 | ソースを編集]

  1. 1951年にレッドソックスで7勝7敗という成績を残したが、翌年からは兵役に就くことになり進駐軍として来日。
  2. 1953年に投手不足に悩んでいた毎日オリオンズが「休日・ナイトゲーム限定で出場」という条件を付けカイリーと契約。
    • すると8月だけで6試合に登板し6連勝・打撃でも19打席10安打という驚異的な成績を残したが、9月3日に除隊命令が出たこともあり帰国・退団となった。
  3. あまりにもカイリーが活躍しすぎたため、翌1954年からコミッショナーは「進駐軍に所属している選手のアルバイト登板禁止」という通達を出すことになった。

タイ・カッブ[編集 | ソースを編集]

  1. ピート・ローズ以前のメジャーリーグ通算最多安打記録保持者で首位打者を12回獲得するなどの記録を保持しているが、ヤジに腹を立て観客に暴力を奮い出場停止になったり人種差別でベーブ・ルースと同室を拒否するなどのエピソードで悪評も有名。
    • 某所では「キャッチャーにライダーキックかます」写真で有名。
  2. あまりにも悪評がすごすぎて、葬式の時に球界関係者が4人しか参列しなかったとか。
    • ただしこれは遺族が野球関係者の参列をあらかじめ断っていたという話がある。
  3. ベーブルースがヒーローとして扱われていたのとは対照的に、暴力行為などのせいでヒール役としての印象が強くついてしまったのがざんねんな所と言えよう。

バルビーノ・ガルベス[編集 | ソースを編集]

  1. 1996年に来日し巨人に入団。初年度から16勝を挙げ最多勝のタイトルを獲得。また、打者としても10本のホームラン(うち2本は満塁ホームラン)を放つなど90年代後半の巨人を支えた外人投手。
  2. しかし非常に気性が激しく、また相手チームから機動力で揺さぶられると途端に焦って自滅するという欠点があった。
    • 特に気性の荒さが裏目に出たのは1998年7月の阪神戦。この時は自身の不調と判定への不服からいらだちが高まっており、ピッチャー交代を宣言されて下がる途中に審判のいたところでボールを投げつけるという行為に及んでしまう。
      • その結果乱闘に発展してしまい、ガルベスは1998年の残りシーズンすべての出場停止という処分になってしまった。
  3. 巨人時代に、牛乳のCMに出演していたことがある。
    • しかし、上記のことから「カルシウムが足りていないのは、ガルベス本人」ということが露見する羽目に。
      • そもそもCM出演自体96年に中日戦で乱闘事件を起こしたのがきっかけとも。
  4. その後メジャー復帰を目指すも、練習中に突然行方不明となり、解雇。
  5. 更にその後韓国野球でプレー。前半戦は助っ人らしい活躍を見せるも、優勝目前に母親の病気を理由に突然の帰国。球団の6度の復帰要請に対しても何かと理由をつけて拒否。

マーク・キャリオン[編集 | ソースを編集]

  1. 珍しい左投右打の選手として1997年にロッテに入団。
    • 1年目はまずまず活躍(.279 14 77)したが…。
  2. 体調不良で練習を早退したにも関わらずチームバスの中で本を読んだり、試合を無断欠場して自宅で卓球に興じるなど、下のホール程ではないが素行が良くなかった。
  3. 1998年のスポーツ報知の選手名鑑では「チーム一のやる気のなさ」とまで書かれてしまった。
    • その1998年はフリオ・フランコの入団に刺激されたか、序盤から結果を残すも腰痛のため結局60試合の出場に終わり、同年オフに任意引退。

ユリエスキ・グリエル[編集 | ソースを編集]

  1. キューバ政府が国外移籍を解禁した2014年途中にDeNAに入団。WBCや五輪でキューバ代表の主軸としても活躍しただけに大きな驚きに包まれた。
  2. DeNA入団が決まった際、当時の中畑監督とキューバ代表のメサ監督が似たタイプだと知って頭を抱えたという事が。
  3. 1年目は途中入団ながらも主軸として活躍。2年目は弟のルルデス・ジュニアを連れてチームに合流、しようとしたが腰痛で兄弟揃って来日延期を繰り返し、またDeNA球団とキューバ政府の対応もゴタついたため契約解除されてしまった。
  4. 巨人戦で笠原将生から死球を受けて詰め寄ったが、笠原も応戦しようとした場面が有名。
    • ちなみに翌日和解したものの、笠原がYouTuberに転向した現在も乱闘寸前になった場面のカットをOP映像に使ったりとネタにしている模様。
  5. 飛行機嫌いだったらしく、飛行機移動が必須の沖縄遠征には帯同しなかった。
    • ただ当時は沖縄に台風が接近しているという状況もあった。
  6. その後2016年に弟のルルデス・ジュニアとともに遠征先からそのままハイチに向かい亡命。突然の亡命劇にキューバ在住の兄・ユニエスキも驚きのコメントを出している。
  7. 亡命後はついに大リーグに挑戦し、アストロズと契約を勝ち取る。
    • だが、2017年のワールドシリーズで対戦相手のダルビッシュ有(当時ドジャース所属)に対して人種差別のジェスチャーを行い、問題になってしまった。
      • 結局、翌年のシーズン数試合を出場停止とする処分が下る。

マイク・グリーンウェル[編集 | ソースを編集]

  1. 当時不振にあえぐ阪神タイガースが状況打破のために電鉄本社の金庫から取り出したと言われている3億円で契約したレッドソックスの超大物メジャーリーガー。
    • 当初はこの年西武からFA宣言した清原選手を取るための資金だったとか。
  2. 契約後は破格の待遇で迎えた。例えば1部屋150万円の高級マンションの壁を取り払って2部屋分に拡張したり(300万円+工事費)、甲子園の電光掲示板をグリーンウェルと表示できるよう改良した。
  3. 1997年2月から始まったキャンプには同行したもののわずか10日で牧場と遊園地の経営のために離脱してしまう。さらにキャンプ中に痛めた腰の治療に入りオープン戦どころかシーズン開始まで戻ってこなかった。
  4. ようやく4月30日に戻り、その後5月の広島3連戦では5安打5打点の活躍を見せ、多くの阪神ファンが「バースの再来だ!」と大いに期待した。しかし・・・。
  5. その後の2試合では精彩を欠き、日本での6試合目になった巨人戦の第4打席にて自打球を足に直撃させてしまう。その後どうにか1試合出場するも自打球を受けたことで骨折が発覚。
  6. 結局日本では7試合しか出場できず引退。その際の「野球を辞めろという神のお告げ」という迷言は有名である。
    • その後年俸の4割を返上し、また、契約金の全額返還を申し出たが当時のオーナーに「正直ないい人だ」と言われ返還はなくなったと後に語っている。
  7. なお外野手を担当していたが肩が弱く当時在籍していた久慈選手からは「外野からの送球がチェンジアップだ」と言われていた。
  8. 一度中日と契約寸前までいっていたが、大リーグの事情に詳しい人から「あいつは日本に来てゴルフがしたいだけだからやめとけ」と言われ見送ったというエピソードがある。
    • 結局、グリーンウェルを断念した中日はレオ・ゴメスを獲得。ゴメスは広いナゴヤドームで30本塁打以上を2回記録しリーグ優勝にも貢献、グリーンウェルとは対照的に優良助っ人として活躍した。
  9. 結構なナイスガイだったようだが、高額年俸分の働きをしなかったことで連綿と許しを貰えない存在と化した。
    • 成績不振からボストンを実質クビにされている時点で察するべきだったのだが…。
    • すでに各部位の怪我で体がボロボロだったのも事実なので、獲得した阪神が悪いと言わざるを得ない案件。

マーク・クルーン[編集 | ソースを編集]

  1. 2005年に横浜に入団、いきなり阪神戦で当時NPB最速の球速161km/hを記録し、話題となる。
    • 2008年に巨人に移籍後は更に162km/hと自己記録を更新している。
  2. 主にストッパーとして活躍していたが、安定感があったとは言い難く何度もセーブ失敗している。
    • 2008年4月の阪神戦(甲子園)では押し出しでサヨナラ負け。微妙な判定だったため激昂しながら抗議した結果、試合終了後にも関わらず退場処分となった。
    • 2010年7月の横浜戦では3点リードの場面で登板も、打ち込まれた挙句ブレント・ハーパーに逆転サヨナラ満塁ホームランを浴び、まさかの敗戦投手となっている。
  3. マクドナルドのハンバーガーが大好物で、マクドナルドのハンバーガーを食べないと力が出ないと豪語する程の偏食家。故にマクドナルド絡みのざんねんなエピソードもある。
    • 札幌ドーム遠征では「なんで札幌ドームにはマクドナルドが無いんだ」とチームスタッフに大激怒した事がある。
    • 甲子園遠征では甲子園駅前のマクドナルドに買いに行った結果、甲子園だけあって阪神ファンに取り囲まれ、野次られるなんて事もあった。

フェリペ・クレスポ[編集 | ソースを編集]

  1. 巨人が2002年にダンカン以来の自前外国人として獲得。
  2. 開幕直後の3試合だけ輝いたがあとはさっぱり。二軍でもさっぱりだった。
    • 挙句の果てに巨人の優勝記念特番ではなわに「そしてクレスポの二軍落ちの早さ」と歌われてしまった。

ロベルト・クレメンテ[編集 | ソースを編集]

  1. パイレーツで長く活躍し3000本安打を記録した名選手だが1972年の大晦日に航空事故で命を落とした。
    • 故郷ニカラグアで大地震が発生したため救援物資を届けようとし自らも救援機で向かう途中の悲劇だった。
      • 安いレシプロ機(DC-7)に目一杯物資を詰め込んだのも災いしたのだろうか…。
      • もちろん救援物資がニカラグアの被災者に届くこともなかった。

ウォーレン・クロマティ[編集 | ソースを編集]

  1. 巨人軍の80年代を支えた最強の助っ人にして人気者。
  2. ポテンヒットや内野安打を放った際、自分の頭を人差し指でツンツンと指すジェスチャーをして、相手の怒りを買う。
    • 逆にそのジェスチャーを横浜大洋の遠藤一彦・若菜嘉晴バッテリーはクロマティを三振に打ち取った際にやっていた。中日の鹿島忠もクロマティにビーンボールを投げて退場になった際そのジェスチャーでクロマティを挑発。
  3. 巨人退団直後に「さらばサムライ野球」という本を出版したが、巨人の裏側を赤裸々に書いたいわゆる「暴露本」だった。
  4. 引退後、アメリカの独立リーグの球団の監督になるも、度重なる退場でたった一年でクビ。
  5. 映画『魁!!クロマティ高校』の公開を知ることとなり、パブリシティ権の侵害を主張して提訴。公開中止を求めたがクロマティ本人とは無関係である旨の字幕を表示するという条件で仮処分申請を取り下げた。
    • それでも名前の使用許可を出していないとしてランディ・バースやオレステス・デストラーデに声をかけて再度提訴しようとしたが、バースからは「子供じゃないんだからw」と一笑に付され、デストラーデからは「日本にまだ俺達を覚えてくれているファンがいてくれるだけいいじゃないか」と相手にしてもらえなかった。

スティーブ・コックス[編集 | ソースを編集]

  1. 2002年のオフ、この年貧打に悩まされて最下位に終わった横浜ベイスターズの山下大輔新監督は、左の強打者の獲得を希望。
    • 当初はヤクルトを退団したペタジーニの獲得に動いていたが失敗したため、代わりにこのコックスを獲得した。
      • 年俸は約3億円の3年契約(但し3年目は横浜側が選択権を持つオプション契約)だったが…。
  2. キャンプの中盤で故障離脱。5月中旬に漸く一軍に昇格したがすぐに故障が再発。
  3. その間に年俸5000万円で入団したタイロン・ウッズの活躍もあり、「中途半端な状態で置くと現場が起用法に困る」と判断され、シーズン終了後に解雇。
  4. 横浜は全く戦力にならなかったコックスに対し、2年目の年俸・オプション破棄の違約金も合わせて、総額で7億円以上を支払う羽目になってしまった。
    • 当時横浜の球団社長だった峰岸進はコックスの退団時に「授業料にしては高すぎた」とコメントしている。

ブルックス・コンラッド[編集 | ソースを編集]

  1. 2012年、退団したブラゼルの後枠として当時の中村GMが推薦し、入団した。
    • その際、中村GMがビデオを2分間だけ見て即決したという噂がある。後に海外スカウトに無断で獲得に走っていたという事実が発覚した。
  2. オープン戦では二本の本塁打を放つなど活躍し、どこでも守れるユーティリティープレイヤーであることからファンからは「バースの再来」として大いに期待された。
  3. 開幕3連戦(対ヤクルト)では4安打を放つなど好調な滑り出しを見せた。しかし、以降は58打席連続無打点と低迷。守備面でもエラーを多発するなど散々な成績で4月20日に登録抹消。
  4. その後交流戦のときに一軍に再登録されるも7打数5三振という惨憺たる結果になり、チームの補強も相まって再び登録抹消。その後は一軍に復帰することなく9月24日に帰国、退団した。
  5. 結果本塁打どころか打点も0という阪神助っ人外人史上最大級のハズレであった。あまりのひどさに、次の助っ人は1打点でも上げれば当たりと言われる羽目に。
    • また、併殺打の多さからコンバットのCMフレーズ「一度で二度効くコンバット」に準え「一打で二度死ぬコンラッド」と揶揄された。
  6. このような有様から、「クララのバカ! コンラッド!」という謎のコピペまで生まれた。(後述するミセリが入っていることもある)

関連項目[編集 | ソースを編集]

ざんねんな野球選手事典
日本人 あ~こ/さ~の/は~わ
外国人 あ~こ/さ~の/は~わ