ざんねんな野球選手事典/日本人/は~わ行

ナビゲーションに移動 検索に移動

※編集される方は「Chakuwiki:お願い/ざんねんなモノ事典」をご覧ください。

  • 「選手」とありますが監督としてざんねんだった方も含みます。

は行[編集 | ソースを編集]

板東英二[編集 | ソースを編集]

  1. 元祖・甲子園のエースとして活躍。中日ドラゴンズのピッチャーだったが・・・。
    • 中日時代、様々な副業に手を出して、ことごとく失敗したことがある。
  2. 引退後、タレントや俳優、司会者として活躍。
    • そのころには、板東が中日ドラゴンズにいたことを知る者は少なくなっていた。
  3. 何回か「水曜日のダウンタウン」に出演していたが・・・。
    • 2016年放送の「早朝リアル脱出ゲーム」では寝起きで機嫌が悪かったというのもあるが、企画内容を説明する仕掛け人の小峠の頭を叩くという行為をやらかした。
      • のちに企画の趣旨を理解し小峠に謝罪しなんとか企画は遂行され、事なきを得た。
    • 2019年6月放送の「中継先にヤバめの素人が現れてもベテランリポーターなら華麗にさばける説」では最後に登場。
      • ヤバ目の素人(役の男性)を強引に押しのけるなどのっけから不穏になり、そのままVTRからスタジオの画面に切り替わりVTRを見て唖然としているスタジオ出演者。最後のナレーションも「恐らくオンエアでは板東全カット」で締められた。
    • 2020年1月放送の「子供からもらった松ぼっくり、家まで持ち帰らざるを得ない説」でも最後に登場。最初は女の子からプレゼントされた松ぼっくりを嫌な顔をせず受け取ったが・・・。
      • ロケバス待ちの時間に松ぼっくりをポイ捨て。さらに仕掛け人の女の子から握手を頼まれても拒否するなどの鬼っぷりを見せてしまう。
        • その後スタッフがネタ晴らしをしたがその際、前回カットされたことに触れ「差別用語でも使ったらカットするんじゃないですか」「これから言うやつを使わなかったら2億ください」とスタッフに対し無理難題を突っ掛ける始末であり、またもスタジオ出演者をドン引きさせた。

張本勲[編集 | ソースを編集]

  1. 現役当時は、喧嘩速さで有名。
    • 巨人時代、広島での試合の際、移動のバスに乗る時カープファンから野次られ、ブチ切れてバットを持って大暴れしたことがある。
  2. 現役引退後は、東京放送(TBS)の解説者として活躍。「サンデーモーニング」のスポーツご意見番は、もはや彼の代名詞。
    • しかしながら、毎週賛否両論が相次ぐことが多い。
      • 特に番組中で彼の意見を批判したフリージャーナリストの江川紹子を降板に追い込んでしまった事件は有名。
      • アドリブか利かず、台本通りにしか進行できない司会の関口宏に「」を入れることが何回かあった。
      • 佐々木朗希が高3の岩手県大会決勝の登板・出場を監督の意向で見送った時には激怒し、ダルビッシュ有から「シェンロンが一つ願いこと叶えてあげるって言ってきたら迷いなくこのコーナーを消してくださいと言う」と老害扱い。
        • その後NPB史上最年少での完全試合達成、ギネス認定された完全試合を達成したピッチャーとキャッチャー合計年齢(38歳330日)、ピッチャーの連続奪三振最多数タイを獲得したことからもわかるように登板回避は正解だったことは言うまでもない
    • 現役時代をよく知る野村克也からは「お前が偉そうに言える人間か」とツッコまれている。
      • 野村は現役だった時のある試合で張本が打席に立った時に、「ハリ、お前は態度がでかいのにナニは小さいのう」と囁き、張本の顔を真っ赤にさせたことがあったらしい。

平松政次[編集 | ソースを編集]

  1. 「カミソリシュート」と言われた速く切れ味鋭いシュートを武器に大洋ホエールズのエースとして通算201勝を挙げ、巨人キラーとしても有名だが、チームが弱かったせいもあって一度もリーグ優勝を経験できないまま引退した。

広岡達朗[編集 | ソースを編集]

  1. 川上哲治に対して「(自分の送球を)捕る努力をするべき」と言い放ち、川上との確執が表面化した後、追われるように巨人を辞めた。
  2. 吉田義男とは同じセ・リーグの遊撃手としてライバル関係にあったが、現役時代吉田は盗塁王を獲得するも広岡は無冠に甘んじ、吉田が阪神タイガースの、広岡が西武ライオンズの監督として対決した1985年の日本シリーズでも敗れている。
  3. 千葉ロッテマリーンズのGM時代にメジャー監督であるボビー・バレンタインを監督に招聘するも、野球観の違いなどから確執を起こし、1995年シーズンのロッテは2位であったにもかかわらずバレンタインを解任した。しかし翌年は一転して5位に転落し自らがGMを辞任する結果となった。

福本豊[編集 | ソースを編集]

  1. 1988年の本拠地最終戦で、当時の阪急監督である上田監督がうっかり失言してしまったせいで引退させられてしまった。
    • 上田監督「去る山田、そして福本」
  2. 国民栄誉賞を辞退したのは、有名。
    • 表向きは「立ちションベンもできんようになるがな」という理由だったが、実際は「王さんのように野球人の手本になれる自信がなかったから」と週刊ポストの記事でコメントしている。
  3. 引退後は、ABCやサンテレビの解説が主な活動。
    • しかし、必ず脱線することから「居酒屋中継」と呼ばれるように。
      • スコアボードに0が並ぶのを「たこ焼きみたいや」とか、延長戦突入で「加古川の人、帰られへんで」などに代表される、いわゆる「福本語録」が関西芸人のネタにされる始末。
  4. 「世界の盗塁王」として有名だが・・・
    • 西宮球場で、本物の競走馬と100メートル走対決をしたことがある。
      • 因みにこのイベント、当初福本は断るつもりでいたが球団社長から「公表した以上取り止めるわけにはいかない。西宮球場に来てくれるファンのためにも…」と頼まれたため、「一晩悩んだ末に仕方なく」受諾した。

藤井秀悟[編集 | ソースを編集]

  1. ヤクルトのエースとして頭角を現し、2001年の日本一に貢献したが、数々のエピソードを残す。
    • サッカー観戦で風邪を引く、「笑っていいとも!」に偶然観客として観覧していた所をすっぱ抜かれる、奇襲作戦を見抜かれるetc。
  2. ヤクルト時代、巨人戦で巨人ベンチから野次られ、泣いた事がある。
  3. 日本ハムからFA宣言するも、危うく浪人になりかける(結局拾われる形で巨人に移籍)。
  4. FAで巨人に移籍するも、2年でFAで移籍した村田修一の人的補償でDeNAに移籍。江藤智・工藤公康以来の3例目となるFA移籍選手が人的補償で放出という事態に。

藤川球児[編集 | ソースを編集]

  1. 阪神のクローザーとして圧倒的な実績を持つ・・・が、その実績のせいでシーズン終盤になるにつれ酷使されるようになっていった。
    • その結果終盤の肝心な試合で炎上してしまいそれがもとで試合を落とすことが多々あった。
  2. 2007年9月には10連投の疲労が抜けないなか3試合連続で登板しすべて炎上してしまった。
    • その炎上による敗戦で8連敗を招いてしまった。
  3. 2010年9月30日の対横浜戦では優勝に向けて落とせない試合でありなおかつ矢野燿大の引退試合という大事な試合で2点リードの9回表にクローザーを任せられるも・・・。
    • 制球に苦しみノーアウト1・2塁に、次のバッターである村田修一にスリーランホームランを被弾。逆転を許してしまう。
      • この試合を中継していたサンテレビのアナウンサーの「行くな!行くな!越えるな!」の絶叫からの沈黙、そして十数秒の沈黙のうちに絞り出された「悪夢のような現実がそこには待っていました」は今も阪神ファンの記憶に刻まれている。
  4. その結果出る予定だった矢野は引退試合に出られなくなり試合終了。引退セレモニーのみに出たがその時に花束を渡したのは村田だった。
  5. この試合以降、某所ではクローザーで炎上した投手のことを「○川○児」と揶揄するようになった。
  6. メジャーにも挑戦したが、何度も故障者リスト入りしたためまともな活躍ができなかった。

藤田平[編集 | ソースを編集]

  1. ベストナイン7回、首位打者1回、そして阪神生え抜き初の2000本安打などの実績を挙げたが、結局一度も優勝出来なかった。
    • しかも1984年引退の翌年にチームは初の日本一になっている。
  2. 上記の実績があるにも関わらず、ほとんどミスタータイガース扱いされていない。
  3. (暗黒時代だったこともあるが)阪神の監督としては全く良い成績を残せなかった。
    • 1995年・二軍監督として10年ぶりに復帰も新庄剛志と対立。
      • オールスター明けから一軍の監督代行を務めたが17勝36敗で勿論最下位。オフには新庄引退騒動も起こった。
    • 1996年・「鬼平監督」と呼ばれるほどの熱血指導も成績には結びつかず。
      • 千葉での試合後に東京駅で暴走したファンに詰め寄られる事態も発生、結局シーズン終盤の9月11日に監督を解任された。
    • 唯一の功績は二軍監督時代から目を付けていた平塚克洋(オリックス)をトレードで獲得し、レギュラーに定着させたことぐらいか。

別当薫[編集 | ソースを編集]

  1. 後に「球界の紳士」と呼ばれた程の知的な風貌とは裏腹に、現役時代は攻・走・守三拍子揃った選手として大阪タイガース・毎日オリオンズで活躍。
    • 日本プロ野球が2リーグに分裂した1950年には打率.335・43本塁打・105打点・34盗塁という驚異的な記録を残し、松竹の岩本義行と共に史上初のトリプルスリー達成者として歴史に名を刻んだ。
  2. ただ監督としては4球団(毎日→大毎・近鉄・大洋・広島)で20年も監督を務めたが、何故かリーグ優勝には縁がなかった。
    • 平和台事件の後に東映へ放出された土井垣武や胃がんで若死にした若林忠志同様「阪神を裏切った報い」と言われることも。

星野仙一[編集 | ソースを編集]

  1. 2008年の北京オリンピックの野球競技・日本代表で監督を務めるも、メダルなしの4位に終わった。
  2. 2013年の楽天で達成するまで、3度(中日で2度阪神で1度)日本シリーズに挑戦して日本一になれなかった。
    • 1988年・1999年・2003年の3回。その時の対戦チームは88年のみ西武で、他はいずれもダイエーだった。
  3. 監督時代、乱闘や審判への抗議の場面が、オフの『珍プレー大賞』に毎年のように使用される。
    • ただ、番組によっては、審判に吠えているシーンでゴジラ等怪獣の鳴き声があてられたり、ひどい時にはCG処理で口から火や光線を吹く加工までされる始末。

堀内恒夫[編集 | ソースを編集]

  1. 巨人のV9時代のエースだったが、監督としては1年目の2004年は3位、翌2005年は5位に終わっている。
    • そのため巨人の球団史上初の胴上げ未経験監督となってしまった。
  2. 2005年の本拠地最終戦では堀内監督にブーイングが飛び、最終戦セレモニーが中止になった。
  3. 巨人がレギュラーシーズンで目の前で相手チームの胴上げを許した試合が(2019年現在)5回あったが不運にもそれらを全て現地で立ち会っている。
    • 1975年の広島(後楽園/当時巨人投手)、1995年のヤクルト(神宮/当時巨人投手コーチ)2005年の阪神(甲子園/当時巨人監督)、2006年の中日、2016年の広島(東京ドーム/日本テレビ解説者)
  4. なぜか自民党から出馬し参議院議員となったが、政治家としては特に実績を残せずに、挙句の果てに安倍首相からは「アンチ巨人でした」と言われる始末。

ま行[編集 | ソースを編集]

前川勝彦[編集 | ソースを編集]

  1. 高校時代はPL学園で2回甲子園に出場。1996年のドラフト会議で地元の近鉄から1位指名を受け入団。
  2. 2年目の1998年に12月1日に予定されていた契約更改をすっぽかし、更にフロントに対して「今日は11月31日だと思った」と発言し、免許証を没収されてしまった。
  3. 4年目の2000年に登録名を本名の「克彦」から「勝彦」に変えると頭角を現し、チーム最多の8勝・リーグ最多の8完投を挙げ、オールスターゲームにも初出場。
  4. 2001年もチーム最多の12勝を挙げ近鉄のリーグ優勝に貢献したが、好不調の波が激しかったこともあり防御率はリーグワーストの5.89を記録してしまった。
  5. 2002年は防御率こそ改善されたが勝ちに恵まれず、シーズン終盤には得意だったはずの西武にも打ち込まれ、最終成績は4勝11敗・防御率4.87。
    • 契約更改時にフロントから「V逸の戦犯は前川と磯部(公一)」と言われてしまう。
  6. 2003年も4勝2敗・防御率7.38と不振に終わり、オフに川尻哲郎とのトレードで阪神に移籍。
    • 因みに4勝のうち3勝は中継ぎで挙げたものだった。
  7. 阪神でも先発として期待されていたが全く活躍できず、2005年のオフに相木崇とのトレードでオリックスに移籍。
  8. オリックス1年目の2006年は24試合に登板し1勝7敗・防御率4.37の成績に終わったが翌年以降の活躍を期待されていたが…。
    • 年が明けた2007年1月6日に無免許でひき逃げ事件を起こし逮捕。その後保釈されたがオリックスからは契約の解除を通告された。
    • 高校の先輩の福留孝介(当時中日)からは「これで人生終わりにしちゃったようなもん」「あんなヤツのことをもうこれ以上話す気になれん」とコメントされてしまった。
  9. その後マイナーリーグやメキシカンリーグ、四国アイランドリーグなどで野球を続けたがNPB復帰は叶わず2011年に引退。

真中満[編集 | ソースを編集]

  1. 現役時代はそこまでざんねんな部分は無く、現役引退後も二軍の監督として2013年にイースタンリーグの優勝を、その後2014年10月に一軍の監督に就任し、翌2015年にヤクルトをリーグ優勝に導いている。
  2. しかし2015年のドラフト会議のこと、ヤクルトと阪神は高山俊を1位指名としたためくじ引きでの抽せんとなった。
    • ヤクルトは真中監督、阪神は当時の監督だった金本監督がそれぞれくじを引いたが、くじを確認した真中が即座にガッツポーズをしたことで金本は外れたと思ってくじを確認せずに席に戻る。
      • 当然多くの観客やTVスタッフ、ドラフトの模様を見ていた視聴者、そして高山自身もヤクルトが交渉権を獲得したのだろうと思った瞬間だった。
  3. だがくじを確認した事務局が真中の引いたくじがハズレだと気づき慌てて阪神側のクジを確認する間に真中へのインタビューが始まってしまった。止められなかったのである。
    • 交渉権獲得の訂正が発表され改めて当たりを引いた金本へのインタビューが始まり、金本は「ビデオ判定でホームランに覆った心境」とコメントした。
  4. 真中がガッツポーズを暴発したのはくじの紙に左側に印字されているドラフト会議のロゴを当たりと勘違いしたのが原因であり、翌年以降はハズレには完全な白紙にするという措置が取られた。
    • しかしドラフトが近づくたびに彼のやらかしは度々穿り返されることとなった。

松井秀喜[編集 | ソースを編集]

  1. 星稜高校時代の甲子園での4打席連続敬遠事件で一躍時の人に。
  2. 巨人時代に、東京スポーツにAV愛好家であることをすっぱ抜きされたことがある。
    • それ以外にも遅刻魔だったりする等、真面目なイメージに反するざんねんなエピソードが多い。
    • ヤンキース時代は、番記者や現地実況担当のアナウンサーが持ち回りでAVを日本から運んでいた。
  3. 見た目では分からないが、両膝がボロボロだった。
    • 故に日本球界復帰を何度も要請されていたものの、膝に負担がかかる人工芝では即DL行きになると固辞。結局アメリカで引退した上にまだ日本に帰ってきていない。

松坂大輔[編集 | ソースを編集]

  1. 1998年の甲子園で横浜高校を優勝に導くなど伝説になり、入団した西武でもエースとして活躍。
    • 2度のWBCやシドニー・アテネの2度の五輪など、国際大会でも活躍した。
  2. ポスティングで大リーグに移籍し、ワールドシリーズで勝利を挙げるなど大リーグでも活躍。しかし、彼が輝いたのはここまで。
  3. 西武時代、交通違反(駐禁・スピード違反)を犯した上に球団本部長が身代わり出頭して揃って書類送検されるという失態を犯す。
    • この騒動で柴田倫世(当時日本テレビアナウンサー、現在の妻)との交際までバレてしまった。
    • 身代わりになったのはカルガリー五輪・スピードスケート男子500m銅メダルの黒岩彰。
      • その黒岩もライオンズへの出向のためコクドスケート部の監督を退任することとなり、そのことが中距離第一人者となるまでに育て上げた白幡圭史がその後伸び悩むこととなってしまった。
  4. 2015年にソフトバンクに入団して日本球界復帰するも、怪我などもあり3年間で1軍登板は1試合のみとファンからは給料泥棒呼ばわりされる結果に。
    • 登板した試合でも打ちこまれるなど散々な結果に。
    • 中日移籍後にソフトバンク戦に先発し勝利投手となった事から更に反感を買う結果に。
  5. 2018年に中日に移籍しそこそこ投げるものの、こちらでも「ファンに肩を引っ張られ負傷」「練習日に練習をサボってゴルフ」「グリーンカード(アメリカ永住権)取得のためキャンプを一時離脱」とやはりグラウンド外で話題を作ってしまった。
  6. 2008年シーズン終了時点の日米通算勝利数は141勝。この時点ではほぼ確実と思われていた名球会入り(200勝)がもはや絶望的に。
    • 1980年度生まれのプロ野球選手は彼の名前を取って「松坂世代」と呼ばれる黄金世代になったが、ここまで名球会入り選手がゼロ。
      • ちなみに野手の最多安打は村田修一の1865安打。
  7. プロ入り後の初優勝は4年目の2002年。しかしそのシーズンは中盤以降を故障で棒に振り、胴上げとビールかけに参加できなかった。

村山実[編集 | ソースを編集]

  1. かの有名な「天覧試合」で、長島茂雄に打たれたホームランを「あれはファールだった」と、ずーーーっと言い続けていたのはあまりにも有名。
  2. 芦屋市のマンションを自ら購入して自分自身の会社の本社にしたが、その自宅マンションが1995年の阪神・淡路大震災で被災し、しばらく自家用車で寝泊りをする生活を強いられていたというエピソードもかなり有名。
  3. 監督1年目の1988年に春季キャンプで自ら打撃投手を買って出たが、無理しすぎて股関節を痛め人工関節手術を受けることになってしまった。

森祇晶[編集 | ソースを編集]

  1. 横浜ベイスターズ監督時代は成績不振に喘ぎ、特に2002年は勝率3割台と落ち込み、シーズン終了まで14試合を残したところで解任された。
    • なお、森監督のBクラスは2002年のみである。
      • この頃から暗黒時代が再来したので、チームを弱くした元凶とも言われやすい。
    • 森は強いチームを日本一にできる指揮巧者であって、弱いチームを強くする指導者には不適と関係者みんなから言われており、当時のベイスターズ向きではなかった。
  2. 西武ライオンズ監督時代には、たくさんの名選手を輩出し、黄金時代を築き上げたものの、ある年に堤オーナー(当時)から「監督やりたかったら、どうぞ。」と言われてしまう。

やらわ行[編集 | ソースを編集]

柳川福三[編集 | ソースを編集]

  1. 1961年のシーズン中に日本生命から中日ドラゴンズに入団。
    • この入団を巡って社会人野球界とプロ野球界の関係が大きく冷え込み、社会人野球はプロ野球との関係断絶を発表した。
  2. 柳川自体もそれほど活躍できず1965年限りで引退。

山内一弘[編集 | ソースを編集]

  1. 2271安打、396本塁打(本塁打王2度)、1286打点(打点王4回)、首位打者1回と言う紛れもない大打者である。
  2. しかし指導者として残念エピソードが多い。
  3. まずロッテの監督として3年務めたが、2度前期優勝しながらどちらも総合優勝できなかった。
    • 中日の監督を務めた際には初年度こそ2位だったが2年目は5位、3年目は途中休養させられた。
      • 与那嶺監督から谷繫監督の間、唯一「燃えよドラゴンズ」の歌詞に出ない監督だった。(ニコニコ動画にPVが入った動画はあるが)
  4. 趣味に「コーチ」と書くほど教えるのが大好きであり、監督時代には相手チームの選手(ペナント争いをしていた広島)にまで指導をしていた。
    • 確かに多くの打者を一流に育て上げたが、落合博満には当初理解されず、イチローとは打法を巡ってかなりいさかいがあったとされる。
      • 当初「イチローを見いだせなかった」存在は土井正三であったが、近年は打法を強引に改造しようとしたされる山内の方がやり玉に挙げられやすい。

山崎康晃[編集 | ソースを編集]

  1. 自分でタイブレークを作ってしまうことが多い。
  2. ネットで太ってしまったことが話題になってしまった。

山本浩二[編集 | ソースを編集]

  1. 2013年のWBCで3連覇を目指す侍ジャパンの監督を務めるも、ベスト4で終わった。
  2. 同級生で実績が上のはずなのに「星野仙一の舎弟」感が強い。
  3. 広島の監督を2度務めたが、2度とも最終年は最下位に終わってしまった。(1993、2005年)

山本八郎[編集 | ソースを編集]

  1. 「ケンカ八郎」と呼ばれるほどの喧嘩っ早い性格で、東映時代に2度も出場停止処分を受けてしまった。
    • 実は山本の退場処分はこの2回だけなのだが、その2回があまりにも強烈だった。
  2. 1度目は1958年5月10日の南海戦(駒沢)、判定を巡って一塁塁審の角田隆良へ暴力行為を働き退場。
    • この時はファンからの署名活動により、1ヶ月半後の6月23日に出場停止処分が解除された。
  3. 2度目は1959年5月30日の近鉄戦(駒沢)、ホームへの猛烈なスライディングを敢行したが近鉄のキャッチャー・加藤昌利が完全にブロックしアウトの判定。
    • 加藤はボールを持ったままの右手で山本の肩を軽くたたいて諭したが、殴られたと勘違いした山本は振り返りざま加藤の左首筋にパンチ。殴られた加藤もよろけた後に持っていたボールを山本目がけて投げつけた。
      • これをきっかけに両軍ベンチ入り乱れての乱闘に発展。結局山本の非を認めた東映の岩本義行監督が山本を自主的に退場させることで決着した。
    • 福井・永平寺での約20日間の精神修行の後、シーズン終盤の9月にようやく復帰した。
  4. 1962年のオフに監督だった水原茂との確執もあり、1963年に近鉄バファローズへ移籍。
    • 中心打者として活躍するが、1967年にはサンケイアトムズへ移籍。ここでは出場機会に恵まれず、同年限りで現役を引退。
  5. 引退後は関西テレビの解説者・鴨川シーワールドでのシャチの飼育係・大阪で実家の生花店などを継ぐなど、球界からは完全に一線を引いた。

湯浅禎夫[編集 | ソースを編集]

  1. 初代日本シリーズ優勝監督であるが、前述の平和台事件の元凶になってしまい、責任を取って辞任することになった。
    • プロアマ両方で功績を残したにもかかわらず野球殿堂入りを果たしていないのは、平和台事件の影響だと言われている。
    • 湯浅と共に「大正三大投手」と呼ばれた小野三千麿(慶應義塾大学→大毎野球団)と谷口五郎(明治大学→大連実業団)は殿堂入りしているのだが…。

吉原正喜[編集 | ソースを編集]

  1. 戦前の巨人軍で正捕手として活躍したがビルマ戦線で戦没。
    • 前線で同じく巨人の捕手だった内堀保と出会い終戦後のチーム再建を誓い合ったが生きてグラウンドに戻ることは叶わなかった。
    • 昔のキャッチャーとしては珍しく俊足だったためもっと長く活躍していたら日本野球の捕手像そのものが変わっていたはず。
  2. 野球殿堂入りしたほどの名選手だが名前の正確な読みが把握されていない。
    • Wikipediaの見出しでも「まさき」と「まさよし」が併記されているほど。

渡辺久信[編集 | ソースを編集]

  1. 西武黄金時代のエースとして工藤公康と共に優勝に貢献。最多勝3度記録、ノーヒットノーランも達成、さらに女性人気も非常に高かったのだが……
    • 93年以降成績が下降、2つ年上の工藤がその後7回も二ケタ勝利を上げたのに対しこちらはゼロだった。結果勝ち星で99勝(台湾除く)もの差がついてしまう事に。
  2. 20代半ばごろからかなり頭が薄くなっていた。その点でも工藤や秋山幸二と差が付いてしまった
  3. 最後の三年間は台湾に渡り指導者兼選手として活躍したが、そこで屋台飯にはまって太ってしまった。
  4. 2008年に西武監督に就任。初年度に日本一になるがその後はいわゆる「俺達」が蔓延、その後西武は日本シリーズに一度も出場できていない。

和田豊[編集 | ソースを編集]

  1. 阪神タイガースの監督就任時に「ちょっとしたスパイスで優勝できる」と豪語したのだが・・・。
    • その年のタイガースは早々と優勝争いから脱落し、リーグ5位に終わった。
  2. 監督就任中に週刊新潮に過去の不倫をすっぱ抜かれてしまった。
    • しかもその中で不倫相手に送ったとされるメールが公開されたのだが、その文章が読んでて恥ずかしくなるような内容だったため、以降阪神タイガースを揶揄するスラングの中にその文章を基に「阪神タイガーチュッ」が加えられてしまった。
  3. ただ選手としては暗黒時代の阪神に17年間在籍し1739本の安打を記録、ベストナインにも2回(1992年・1994年)選出されるなど決してざんねんではない。

関連項目[編集 | ソースを編集]

ざんねんな野球選手事典
日本人 あ~こ/さ~の/は~わ
外国人 あ~こ/さ~の/は~わ