ざんねんな野球選手事典/日本人/さ~な行

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  • 「選手」とありますが監督としてざんねんだった方も含みます。

さ行[編集 | ソースを編集]

坂本勇人[編集 | ソースを編集]

  1. けつあな確定
    • けつあな確定申告

佐々木信也[編集 | ソースを編集]

  1. 湘南高校から慶應義塾大学を経て1956年に高橋ユニオンズに入団。
    • 1年目から154試合フルイニング出場・ベストナインにも選出されたが、新人王は21勝・防御率1.06を記録した稲尾和久(西鉄)に攫われてしまった。
  2. その後高橋の大映との合併(正確には解散)、大映・毎日の対等合併後の大毎でもプレーしたが、1959年限りで現役を引退。
    • 巨人からのオファーもあったが、佐々木本人が断った。
  3. 引退の(表向きの)理由は、その年のオフに監督に就任した西本幸雄が「身長の低い選手はいらない」という考えを打ち出し、身長169cmの佐々木も戦力外通告の対象になってしまった、というものだが…。
    • 後に佐々木が「プロ野球ニュース」で西本に「なぜ僕はクビになったんですか?」と問いただしたところ、実は西本が監督就任した時期に佐々木は結婚しており、その相手が資産家の令嬢と聞いていた西本が「チーム事情で内野手を整理する必要があり、仮にクビになっても生活に困らない者」として佐々木をリストアップしていたというのが真相だった。
  4. 引退後、フジテレビの「プロ野球ニュース」のメインキャスターとなるが、この頃には、佐々木が元プロ野球選手と知らない視聴者が多くなる。
    • 中には、佐々木を「フジテレビのアナウンサー」だと勘違いする人もいたそうな。

佐々木朗希[編集 | ソースを編集]

  1. 大人じゃなくてアダルトチルドレン。
  2. 完全試合達成とWBC2023のチェコ代表とのやりとりまでが絶頂期だった。
  3. シーズンで一度もローテを回していないのにポスティングでメジャーに行きたいとか何言ってるんだこいつは。

佐藤喜久雄[編集 | ソースを編集]

  1. 川崎コロムビアから1936年に東京セネタースに入団し、主にレフトでプレイしていたが…。
    • 7月18日の名古屋での大阪タイガースとの試合中に日射病で倒れ、肺炎と脳病を併発し11日後の7月29日に18歳の若さで死去。
      • プロ野球(当時は職業野球)発足後、公式戦に出場した選手の初の死亡者となってしまった。
  2. タイガースの松木謙治郎は後に自著で「この大会ほど暑さの酷かったことは経験にない」「名古屋の岩田選手も日射病で倒れ、病院に担ぎ込まれるほどの猛暑だった」と記している。

沢村栄治[編集 | ソースを編集]

  1. 今なお語り継がれるNPB草創期の伝説的な名投手だが、昭和19年に乗船していた輸送船が沈められ戦死した。
    • 実際の最期の地は屋久島沖だったのに、墓には「台湾沖に於いて壮烈なる戦死を遂ぐ」と事実と異なる記載がされている。
  2. 巨人軍結成直後のアメリカ遠征で大活躍したため、カーディナルスのスカウトに騙されて入団させられそうになったこともある。
    • その遠征では沢村に対するサインの依頼が大量に殺到し、面倒臭くなって「田中絹代」とサインしたという逸話もある。
      • しつこくサインを迫ってきた酔っ払いには「馬鹿野郎」とサインした。
    • 沢村の生命を奪ったのがかつてプレイで感銘を与えたアメリカの軍隊ということに運命の非情さを感じる。
  3. 日中戦争でも戦場に赴き大量の手榴弾を投げさせられ肩が壊れた。
    • それでもオーバースローからサイドスローに転向して技巧派に変身できたのはさすがとしか言いようがない。
  4. 全盛期の投球を記録した映像がほぼ残っていない。
    • そのせいで剛速球の速さがどれほどのものか正確には判明していない。
    • 160km近く出ていたのは確からしいが詳細は歴史の闇の向こう側。
  5. 生家が近鉄宇治山田駅近くに1990年ごろまで残っていたが取り壊されてしまった。

澤村拓一[編集 | ソースを編集]

  1. 巨人以外は入団拒否を示唆したためか、結局巨人が単独指名し入団。
  2. 筋肉トレーニングが趣味なだけあってか、割と成績は不安定。
  3. 酒癖が悪く、何度か飲酒絡みの騒動(器物損壊等)を起こしている。
  4. 2017年には巨人のトレーナーの施術ミスにより、血行障害が後遺症で残ってしまった。
  5. しかし2020年のシーズン途中に香月一也とのトレードでロッテに移籍すると成績が安定、22試合に登板して防御率1.71という好成績を残す。
    • その年のオフにメジャー移籍を目的としたFA権を行使し、ボストン・レッドソックスに移籍することとなった。

G.G.佐藤[編集 | ソースを編集]

  1. 北京オリンピック野球日本代表に選ばれたが、本番では痛恨のエラーを連発したため、メダルを逃したA級戦犯として大きな非難を浴びてしまった。
    • 元々佐藤の本職はライトで、守り慣れないレフトでの起用が続いたことが3連続エラーという最悪の結果を招いてしまった。

塩谷和彦[編集 | ソースを編集]

  1. 阪神→オリックスへ移籍し、オリックスでは1年だけ活躍し3割も打ったものの現役時代は全ての年でチームがBクラスだった
    • 更に引退後は詐欺で逮捕される。
    • しかも1998年~2004年まで所属チームが7年連続最下位という経験をしている。

新庄剛志[編集 | ソースを編集]

  1. 2012年度の野球殿堂入りの候補者に上がったが、僅か5票しか得られずそれ以降は候補者リストから外された。
  2. 1999年6月に巨人の槙原寛己から敬遠球をサヨナラ打。その時お立ち台で決め台詞として「明日も勝つ!」と言い放ったが、その発言から一週間後に阪神は首位陥落。
    • さらに、1999年9月に新庄が8回裏に巨人のバルビーノから決勝ソロ本塁打、お立ち台で再び「明日も勝つ!」発言。
      • ところが翌日から阪神は球団ワーストタイ記録の12連敗を喫し、最終的には2年連続最下位という散々な結果に…。
      • その26年後、ファイターズの監督になりホークスとV争いをするものの同様の事をしてホークスが優勝してしまった…
  3. 引退後には彼の金銭管理不足を露呈するように、現役時代の財産を預けていた関係者に奪われてしまった。
    • これがバリ島に渡った理由の一つと言われている。
  4. 引退から14年後の2020年に現役復帰宣言をし、オフの12球団合同トライアウトに日本ハムのユニフォームを着て参加したが12球団からオファーはかからず現役復帰を断念。
    • トライアウト後にBCリーグの新潟が獲得の意向を示していたのだが…。
  5. 2022年シーズンより、古巣の北海道日本ハムファイターズの監督に就任。
    • ところが、前任の栗山英樹政権の戦力をそのまま引き継いでしまった(というより「押し付けられた」)ため二年連続で最下位に終わる。
      • 立て直してそこから2年連続2位に持ってこれた。

菅野智之[編集 | ソースを編集]

  1. 入団からわずか6年間で最優秀防御率4回・最多勝2回・最多奪三振2回を経験した紛れもない巨人の、いや日本球界を代表するエースである。
  2. しかし2011年のドラフト会議で日本ハムに指名されて引き当てられた際にこれを拒否。
    • そのせいで翌年巨人に入団した時には既にイメージは悪かった。
  3. とにかく無援護で有名で、2015年は防御率1.91なのに10勝11敗と負け越し。
    • しかもこの防御率で最優秀防御率になれなかった(広島のジョンソンが1.85)。
    • 2016年も2.01で最優秀防御率なのに9勝6敗。ちなみに同じ9勝6敗だった内海哲也の防御率は3.94。
      • そのせいで実況パワフルプロ野球で「負け運」と言う特性が付いてしまった。
        • しかしアップデートでそのマイナス特性は消滅。パワプロ2018でも負け運は無くなっており本人は喜んでいた…が当時のチームメイトだったメルセデスに負け運がついた。
          • その後のアップデートで「勝ち運」というプラス特性がついたが、その代償として別のマイナス特性がついたり全体的に能力を下げられることになってしまった。
  4. 「フェアリーファンタジア」と言うソーシャルゲームに登録・課金していたと思われ、そこに「スガーヌォーグ」なるキャラクターが登場。菅野がモデル説がある。
    • しかもそれが明らかになってから成績が低下しており某板ではバレて動揺したとかこのゲームで中指を酷使して傷めたとか言われていた。
    • そして当の「スガーヌォーグ」も公式ではシュガー(Sugar)とノーグ(Noog)の合成語とされているが、某板では菅野+G→SUGANOG→スガーヌォーグではないかという説が長らく支持されていた。
      • なお公式も把握していたのかスポーツコスチュームを纏ったバージョンのスガーヌォーグも実装されていた。もちろんその衣装は言うまでもなく・・・。

鈴木啓示[編集 | ソースを編集]

  1. 20世紀最後の300勝投手であり、選手としては間違いなく優秀(彼を最後に300勝投手は現れていない)。
  2. しかし監督としては自分の考えを部下に押し付けるという残念な面が多く、それが原因でエースだった野茂英雄や吉井理人らとの対立を招いた。
  3. その結果近鉄は主力を失って低迷したばかりか、離反した野茂や吉井は大リーグやヤクルトで活躍したことから周りからの風当たりも冷たかった。
    • 一応、当時若手だった中村紀洋・水口栄二・大村直之らを積極的に起用したり、ドラフトで的山哲也・川口憲史を指名するなど、2001年のリーグ優勝へ種を蒔いたとも言えるが…。
  4. 近鉄バファローズで唯一の永久欠番だった「1」もオリックスとの球団合併で引き継がれず消滅。

砂川リチャード[編集 | ソースを編集]

  1. ファーム戦5年連続本塁打王という唯一無二の記録を持っているが、ソフトバンクのフロントがドジャースみたいなことをしているため一軍に上がるチャンスが全くといいていいほどない。
  2. 本人もそれが嫌で現役ドラフトを志願しているがやっぱりフロントから放出を拒否される。
  3. かと言って一軍に上がったら我慢して使い続けられるような結果を残しているわけではない。2025年に開幕一軍スタメンも、6試合で打率.091(22-2)、打点0、本塁打0、三振12、得点圏では7-0で三振5という結果を残し二軍落ちに。
  4. フロントや監督コーチ陣は不良債権として損切りしたいが、孫正義の次に権力を持つ王貞治がリチャードを溺愛しているため放出したくても放出できないというジレンマがあるとまで報じられている。
    • 念願叶ってソフトバンクからトレードで放出されたが、行先は巨人だった。
      • 1対2のトレード相手のうちの1人の秋広優人も背番号55番背負うという重圧があったのがまた(過去に太田泰示も背負ったがトレードに)

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田尾安志[編集 | ソースを編集]

  1. 東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督に就任したが…。
    • 記録的な大差で最下位に終わり、解任されてしまう。
  2. 柔和な風貌とは対照的に硬骨漢で知られ、上層部相手にも「言うべきことは言う」という姿勢を貫いていた。
    • 中日時代、人気・実力を持ちながらも西武にトレードに出されたのはそれが一因とされている。

大豊泰昭[編集 | ソースを編集]

  1. とにかく優勝に縁がなかった。
    • 1994年のリーグ優勝がかかった最終試合(10.8決戦)で巨人に破れ、リーグ優勝を逃す。
      • この時は中日に在籍しており、その中日は大豊が阪神に移籍した翌々年の1999年にリーグ優勝を果たしている。
    • 1998年に阪神に移籍するも、在籍した3年間は全て最下位。
      • その阪神も彼が引退した翌年の2003年までリーグ優勝&Aクラスから遠ざかっていた。
    • そして中日に逆戻りしたのに優勝を経験できず引退。
      • なお、中日は彼が引退した翌々年の2004年にリーグ優勝を果たしている。
  2. 中日時代は一本足打法だったが、阪神時代の野村克也監督が一本足打法の本家の王貞治を嫌いな為すり足打法に矯正された。
    • 年齢的なピークが過ぎる以前に、そのフォーム変更と阪神の本拠地甲子園球場の広さに適応できなかったのが重なって阪神時代は不本意なシーズン続きだった。
    • 2000年オフに阪神側から年俸の大幅ダウンを提示され、自ら自由契約を申し入れて阪神を退団。
    • 大豊は後年、「(野村監督とは)対話も少なかったし、誤解も生じた。でも、それは人生であり得ること。今は阪神と中日、両方を体験できてよかった」と振り返っている。
  3. 引退後は名古屋市内で中華料理屋を営んでいたが、白血病を発症し2015年に51歳の若さで逝去…。

高木守道[編集 | ソースを編集]

  1. 日本一に縁が無かった。
    • 1974年(中日現役時代)、1982年(中日コーチ時代)とリーグ優勝を2回も経験したが…。
      • 1974年はロッテ、1982年は西武にそれぞれ2勝4敗で敗れ、日本一を逃す。
  2. 中日監督時代の1994年・2012年は最後の最後で日本シリーズ進出を逃してしまった。
    • 1994年は勝った方が優勝の10.8決戦で敗戦、2012年はCS3連勝から王手をかけるもそこから4連敗。
    • しかも両年とも対戦相手は1974年にその中日にV10を阻止された巨人である。
  3. 2013年は中日が12年ぶりのBクラスの4位に終わり、セ・リーグ5球団に負け越す結果となってしまう。そして高木はその責任を取るために退任。
    • そして、この頃から現在まで続く中日の暗黒時代が再来したので、チームを弱くした元凶とも言われやすい。

髙橋光成[編集 | ソースを編集]

  1. 2021年に開幕投手に選ばれた後に験担ぎで髪を伸ばしつづけたが、6月のヤクルト戦で3回10失点と大炎上をして断髪せざるを得なくなった。
  2. 2024年はオフシーズン中にメジャー挑戦を視野に入れた肉体改造をして臨んだが、15登板0勝11敗と全くいいところがなかった。
    • この年は以前から続いていた「交流戦での連続登板敗戦投手」(8戦8敗)、「交流戦での連敗」(9連敗)の2つでもワースト記録を更新した。
    • この年の西武は49勝91敗だが、敗戦の1割程度は髙橋が原因である。
  3. 2025年も全くいいところがなく、4月15日の登板でも敗戦投手になったため球団ワースト記録の13連敗となった
    • 4月29日の楽天戦でようやく勝利

高橋直樹[編集 | ソースを編集]

  1. パ・リーグでは日拓所属時にノーヒットノーランを達成し、西武在籍時の1983年には最高勝率を獲得するほど活躍したが、セ・リーグでは通算169勝の内2勝しか出来ず、異常にセ・リーグに弱かった。(東映・日拓・日ハム→広島→西武→巨人、2勝はいずれも広島時代に挙げた)
  2. 西武在籍時日本シリーズにも3度出場したが1勝も挙げることはなかった。

高橋由伸[編集 | ソースを編集]

  1. チームの都合で強制引退させられて監督に押し込まれた時点でざんねん。
  2. そして指導者経験一切無しで監督をやらされたため、戦術にもざんねんなところが多かった。
  3. 最後はその成績がざんねん過ぎて監督を退任。
    • 結局この前と後に監督をやって優勝を経験した原監督の噛ませという評価を喰らう事に
      • 岡本和真を我慢して育てたことは評価出来る。原監督だったら育てられてないと思う。
  4. あくまでもざんねんだったのは監督時代のみ、選手の時はとても良い選手だった。
  5. すぐ怪我をして離脱し、後年にはその怪我で規定打席にすら立てなくなる始末。
    • 特にボールが良く飛んでいた2000年代前半に離脱が多かったため、そこで通算成績をかなり損したと思われる。
    • フェンス際の捕球が特に苦手だった。
  6. そもそも学生時代から親兄弟に野球を強いられていた上に、意中の球団に入れず巨人に入団という経緯はアンチ巨人ですら同情した。
    • 一流の選手に育てた一方で息子の人生狂わせたのは、正直な話どうしようもなさすぎると思った。
    • 当時の意中の球団の監督だった人ですら同情して激励するレベルだったから。
  7. ウルフという愛称がつけられたが定着しなかった。
    • ネットではパンダと呼ばれる始末。

多田野数人[編集 | ソースを編集]

  1. 説明不要。
    • ×××××なビデオに出演しなければどれ程活躍していたことか…。
    • 野球部監督がたまげずに知らないふりをしてそれ以降の取材拒否を貫けば少しはましになっただろうか…。
      • 「たまげたなぁ」の一節、文面からはうっかり漏らしてしまったように見えるが、後輩に対する度重なるセクハラと注意を聞き入れない態度に対し反省を促すためわざとやった説もある。
    • 本人は後に「人それぞれ意見というか色々考え方を持ってるのは当然だと思うんで、本当に反応してくれるだけで有り難いというか…」(2015年10月のニコ生より)や、「失敗して当然だからね、多分この中で一番デカい失敗したのは俺だけども」(2017年2月、石川ミリオンスターズの合同自主トレーニングより)と語っている。
  2. 野球部監督の判断と批判回避(下位でよいので指名してほしいといったが、彼は上位指名相当なのでこれをやるとアマチュア球界との関係に問題が起こるかららしい)目的でドラフト指名は見送りとなった。
  3. 「生活に苦しむ親を助けたいから汚れ仕事に手を付けた」旨の発言をしているが、彼の親は会社経営者であり大学野球の実力から球団より多額の金銭支援を受けていた可能性が高い。
    • また、「たった一度の過ち」と言っているが、出演したビデオは2本あり、その演技も金目当てに嫌々出た人間のものとは思えないという指摘がある。
      • さらに、大学野球部でも後輩に手を出していたらしい。
    • よって、弁明は虚偽の可能性が高く、ビデオ出演は本望だったと考えられている。
  4. 選手としてもかなりの実力者だったが、退団後コーチとなった球団である野球選手の実力を大幅に伸ばすなど、指導者としての才能もある。また、編成スタッフとしても優秀である。
    • まさに「男を見る目はある」。
  5. 彼のおかげでインターネット上に流行語を流行らせた実績は否定できない。

達川光男[編集 | ソースを編集]

  1. 広島時代、内角球がユニフォームに当たってないのに当たっているようにアピールする姿が珍プレー番組の常連に。
    • ついたあだ名が「グラウンドの詐欺師」。
  2. 松村邦洋に物まねのネタにされたのを気にして、一時期しゃべり方がぎこちなくなったことがある。
  3. 監督時代(1999年~2000年)は投手陣の崩壊に苦しんだ。
    • 若手の黒田博樹・新井貴浩・東出輝裕らを台頭させたがチームは2年連続5位に終わり(最下位に低迷していた阪神には2年連続で負け越し)、成績不振の責任を取る形で2000年に辞任。

立浪和義[編集 | ソースを編集]

  1. 3代目ミスタードラゴンズの称号と名球会入りもしている名選手だが人間としてはクズ。
  2. 星野仙一の悪い部分をそのまま受け継いでしまい審判に暴行したことも。
    • 週刊誌にスピード違反、脅迫疑惑を報じられる。
    • ヤのつくお仕事の人と繋がりがあると報じられる。
    • 梅宮アンナと結婚したいから妻子を捨てる気満々だったがアンナの浪費癖等に呆れて破局。
      • 妻とはできちゃった婚、挨拶に行ったときにはじめて義父になる人がヤのつくお仕事の人だったとわかる。
  3. 監督としては2022年以降のプロ野球全12球団中ワーストを突っ走る迷監督。中日ファンからもはやくやめろの大合唱
  4. 就任時に「打つ方はなんとかします」と言い「割れ」理論で指導するが貧打は変わらなかった。
  5. ファンが首をかしげる采配の数々。
    • 根尾昂に対して何度もコンバートを指令する。投手に落ち着いた。
    • 京田陽太を戦う顔をしていないから試合中に2軍行きを命じたりDeNAにトレードに出す。
      • その恩返しなのか意趣返しなのかはわからないが、2024年シーズン最終戦で決勝打の2点タイムリーを打たれる。
    • 右投げの森原康平が登板している場面で代打に右に滅法弱い溝脇隼人を送る。
  6. 細川成也の不調を「ご飯の食べ過ぎで動きが鈍くなったからだ」と考えてナインに白米を提供しない「令和の米騒動」を引き起こす。
  7. 中日の事実上のメインスポンサーである興和薬品とズブズブの関係にあることは暗黙の了解となっている。
  8. 監督を務めていた2022-2024年は中日史上ワーストとなる3年連続最下位に終わる。

田淵幸一[編集 | ソースを編集]

  1. 阪神時代は「天才ホームランアーチスト」として名を馳せるも…・・・。
  2. 西武時代は、あの名作「がんばれ!!タブチくん!!」の主人公として名をはせることに。
    • その影響で、絶対に不可能なことを意味する「タブラン(タブチのランニングホームラン)」という言葉が生まれる始末。
  3. 山本浩二同様、同級生で実績が上のはずなのに「星野仙一の舎弟」感が強い。
  4. 1990年から2年間、福岡ダイエーホークス(当時)の監督を務めるも、最下位→5位→4位と一度もAクラスに入れず解任。
    • 個人としての人間性はいい話が多く、おおらかで正直で卑怯な真似を嫌うタイプ。だがそれだけに監督には全く向いておらず、むしろ田淵を起用したフロントサイドに問題があると思われる。
    • 監督時代のやらかしに、90年オフにセレクション会議に参加した際に盟友の山本浩二が監督を務めていた広島に在籍している長嶋清幸と長内孝がトレード要員だと口を滑らしてしまい広島のオーナーを激怒させてしまったことがある。
      • 実際に長嶋はそのオフに中日に、長内は翌91年オフに大洋にトレードに出されてしまった。
  5. 現役時代の天才選手ぶりを知らない人はいしいひさいちのタブチくんのイメージが強いことだろう。
  6. 死球での負傷欠場も多く、太ってしまったのは1970年の広島戦で外木場義郎から死球を受けたせいである。
    • 西武時代の1983年は驚異的なハイペースで本塁打を量産していたが、近鉄戦で柳田豊から死球を受けて長期欠場を余儀なくされタイトルを逃した。

多村仁志[編集 | ソースを編集]

  1. スペランカーとまで称される怪我の多さとあり得ない怪我の理由に最後まで悩まされ続けていた。
  2. スペ体質すら無ければ…と言われる選手筆頭である。

ち~と[編集 | ソースを編集]

辻内崇伸[編集 | ソースを編集]

  1. 大阪桐蔭時代に甲子園を大いに沸かせ、ドラフトの目玉として注目を集める中で巨人に1位指名され入団するが、度重なる怪我のため一軍登板はないまま引退。
    • 大阪桐蔭を卒業する頃には既に肩がボロボロだったという。

辻発彦[編集 | ソースを編集]

  1. 西武の監督として2018年・2019年にリーグ優勝を果たすも、CSファイナルではいずれもソフトバンクに敗れている。

土井正三[編集 | ソースを編集]

  1. 1991年から1993年までオリックスの監督を務めていたが、成績は3年とも優勝争いに加われない3位だった。
    • 上田前監督時代に活躍していた選手(松永・ブーマー・熊野・門田)を放出、新人の田口を厳しく指導しすぎてイップスを発症(土井監督退任後に外野にコンバート)するなど、とてもじゃないけど「名将」とは言えない監督。
      • 松永とのトレードで獲得した野田浩司を覚醒させたのが唯一の功績か。
    • 特にパンチ佐藤は引退後のインタビューで「プロへの扉を開いてくれた上田監督、芸能界への扉を開いてくれた仰木監督、…途中誰かいましたけども」と辛辣にコメントしている。
  2. オリックスの監督として「イチローを見いだせなかった」というイメージが強いが…。
    • 実は土井は当時層が分厚かったオリックスの外野陣の中でイチローをかなり優遇しており、1992年は後半戦でそれなりに起用していたり、1993年の開幕戦ではスタメンとして起用していた。
      • イチロー本人は後に「みなさんが思っているような犬猿の仲ではない」「本当は感謝しているので、そこは誤解しないでくださいね」と語っている。
        • 近年、イチローの素質を見い出せなかったのは一軍の打撃コーチだった山内一弘と言われている。
  3. 一応フォローしておくが、選手・巨人のコーチとしては決してざんねんではない。
    • ただし、一度バント練習で長嶋一茂から「何様なんだよ」とキレられた事はある。

堂上隼人[編集 | ソースを編集]

  1. オリックスの奥浪鏡とならぶパリーグの性犯罪王。
  2. 社会人から独立を経由して2008年のドラフトでソフトバンクに育成契約で入団した捕手で2009年春に支配下登録。
  3. 社会人時代に性犯罪の前歴があったがソフトバンクは反省しているので問題ないとして入団したが、2012年8月に性犯罪で逮捕され間もなく契約解除。そのまま引退。
    • 当時の報道で3件の強制わいせつ罪で逮捕されていた。その中には未成年者もいた。
  4. その後何をしていたかはわかっていなかったが、2025年6月にわいせつ行為で逮捕された犯罪者が堂上であると報じられた。
  5. ソフトバンクはこの前後のドラフトで2025年現在前科6犯の伊奈龍哉とコカイン所持で逮捕された山下斐紹を獲っている

富田勝[編集 | ソースを編集]

  1. 法政大学時代、山本浩二・田淵幸一とともに「法政三羽ガラス」と呼ばれた三塁手。
  2. プロ野球でも通算1087安打と山本や田淵には及ばないまでもそれなりの実績を残しているが、南海~巨人~日本ハム~中日と4球団を渡り歩いたためか、いまいち印象が薄い。
    • 全球団から本塁打を達成しているが、達成した試合は宇野ヘディング事件が起こった試合である。
  3. 引退後に、ビートたけし率いるたけし軍団の草野球チームの助っ人に入るが、そのイメージが強くなってしまう。

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中島宏之[編集 | ソースを編集]

  1. メジャーリーグに挑戦したが、日本のグラウンドとアメリカのグラウンドの差に翻弄されて、メジャー入り出来なかった。
    • 更に3Aでも低空飛行を続けた結果、2Aまで落ちることに。
  2. このことでwikipediaの略歴欄が揉めに揉めて、結局マイナーリーガーの2年間は記載されず、そこだけ見ると2年間無職に見えてしまう(ちゃんと本文にはこの2年間が記載されている)。
  3. その後何故か古巣西武ではなくオリックスに出戻り、しかし怪我がちで登録を抹消されたり戻ったりの繰り返し。
    • 体のケア云々ではなく、外野席からパイプが落ちてきて当たるという不運にも見舞われた。
    • 食事中にぎっくり腰になったこともある。
  4. その後巨人に移籍したが、ここでも二軍に落ちた。
  5. 割と血の気が高く、乱闘騒ぎを数回起こしている。
  6. 引退式をやることもなくひっそりと引退。

中田翔[編集 | ソースを編集]

  1. 地元広島で色々やりすぎたために引き取ってくれる高校はどこにもなく、大阪桐蔭が目を瞑って入れてくれなかったら中卒で社会に出ていた可能性が非常に高かった。
    • 2025年に史上初の暴力沙汰発覚による甲子園2回戦を不戦敗で辞退したあの広陵高校ですら受け入れなかった。
  2. 当然ながら日ハムに入団してもそれは変わらなかった。
  3. 2021年に暴力事件を起こし、即時出場禁止となったが巨人に無償トレードで放出されたこともあり9日間の謹慎だけで済まされてしまった。
  4. 巨人でも居場所がなくなって中日に行くが、結局そこでも居場所はない模様。
  5. 2025年に引退を発表。日ハムと巨人の所属選手はコメントを残したが中日は…

中村勝広[編集 | ソースを編集]

  1. 現役時代はしぶとい打撃と堅実な守備でセカンドとして活躍。
  2. しかし阪神の監督としては暗黒時代の代名詞的な存在で、名前とひっかけて「負広」と呼ばれていた。
    • フォローしておくと、暗黒時代の阪神で6年間も監督を務めたのはこの人だけ。
      • 1992年は亀山・新庄といった若虎たちの活躍もあり、暗黒時代では唯一のAクラス(2位)を記録している。
    • 結局、1995年に久万オーナー(当時)から「彼の采配はスカタン」と批判され、監督業を休養(その後退任)。
  3. その後2003年からオリックスのGMに就任。2005年には仰木監督の勇退に伴い監督に就任したが…。
    • 清原・中村を中心としたミックスモダン打線構想は両者の怪我などで呆気なく崩壊。
    • 主力選手(谷佳知・北川博敏)の故障もあり、最下位転落の危機を迎えたところで退任。
    • その後はオリックスのシニアディレクターや球団本部長を歴任したが、2009年に最下位の責任を取って退任。
  4. 2013年から阪神のGMに就任。掛布雅之のコーチとしての復帰や西岡・福留・外国人選手の獲得などGMとして奮闘したが、2015年に脳出血で66歳で死去。
  5. ドラフト会議での籤運が異常に悪く、野茂や松井などの抽選には悉く負け続けた。
    • 一応、阪神のGM就任直後の2012年のドラフト会議では大阪桐蔭の藤浪の当たり籤を引いたが…。
  6. トレード・FAでの失敗もかなり多い。
    • 阪神GM時代は現在に繋がる基礎を作ったので、そこまで悪くなかったと思う。中軸を担える人間はほとんどいなかったが。
  7. 暗黒阪神と暗黒オリックスで監督を努めたことで評価を下げたが、10年単位で誰も立て直せなかった事実を鑑みると、無能という評価は行きすぎな気も。

永井武雄[編集 | ソースを編集]

  1. 慶應義塾大学時代は投手や外野手として活躍。卒業後はキリンビールに勤務しながら野球を続け、都市対抗野球にも8回出場。
  2. 1936年の大東京軍の結成に伴い監督に就任したが、開幕前の東京ガスとの練習試合での惨敗(8回まで7-6だったが、9回にエラー絡みで9点取られた)の責任を問われ、監督を解任されてしまう。
    • 公式戦で1試合も指揮を取らずに監督を辞任したのはこの時の永井と、1965年の蔭山和夫(南海)、1976年のレオ・ドローチャー(太平洋)の3人しかいない。
  3. 永井本人も2年後の1938年に陸軍の召集を受け、4月に中国北部で戦死。

長嶋茂雄[編集 | ソースを編集]

  1. 初めて監督に就任した年(1975)は後述に書かれているようにセリーグ最下位、その後の1976年と1977年はリーグ優勝を果たすも、日本シリーズではいずれも阪急に敗れている。
    • 1996年も当時リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝(いわゆる「メークドラマ」)を果たすも、今度は阪急から改名したオリックスに敗れている。
      • なお、長嶋監督時代に日本一になったのは第2次監督時代の1994年・2000年の2回である。
  2. 2004年アテネ五輪を目指す日本代表監督にも就任したが、脳梗塞を患い五輪本番では指揮を執れず。
  3. また、日常生活での残念エピソードの宝庫でもある。
    • 球場に、息子の一茂を置き忘れたことは伝説。
    • 1990年代に日テレで放送された『たけし・さんま世紀末特別番組!! 世界超偉人100人伝説』という番組で数々の長嶋伝説が紹介され、明石家さんまが放送されなかった他のエピソードを話している時も、当時さんまのことを「嘘つき」と弄っていたビートたけしでさえ「これは本当なんだから!!」とフォローに入るくらい数多のエピソードがある。
    • そんなたけしも長嶋との親交があり、フジテレビの「北野ファンクラブ」のトークで度々、長嶋エピソードを披露することがあり、その度に相棒の高田文夫が大笑いするのがお約束となっていた。

長嶋一茂[編集 | ソースを編集]

  1. ミスタープロ野球・長嶋茂雄の長男として、鳴り物入りでヤクルトスワローズにドラフト1位で入団。
    • プロ初安打をホームランで飾り、『ミスター二世』として注目を集めた。
  2. しかし、プロ3年目に就任した野村克也監督の「ID野球」に全くなじむことができず、シーズン中に目立った活躍はなく、池山などにいじられる光景などがオフの番組を飾るくらい。
  3. 1993年、父・茂雄が監督に就任した読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍。
    • しかし、そこでも目立った活躍はなく、3年後に父の介錯を受ける形で巨人をクビとなりそのまま引退した。
    • その巨人時代、当時の総合守備コーチ・土井正三から2時間のバント練習をさせられたことに対して「いらねぇよ!あんな奴!!」と暴言を吐き、罰金50万円と二軍降格に加え、しばらくの出場停止処分を受けたことがある。
  4. 引退後、巨人のフロント入りしたこともあるが、何故か1年程で退任してしまう。
    • その為、世間は一茂が巨人のフロントだったことはあまり知られていない。
  5. 水島新司が主人公のライバルに一茂を据えた「虹を呼ぶ男」という漫画を連載したが、ライバルであるはずの一茂がリアルで伸び悩んだため相撲漫画に路線変更する元凶となってしまった。

中村剛也[編集 | ソースを編集]

  1. 日本を代表するスラッガーのひとりだが、怪我が多いため侍ジャパンには2015年プレミア12の1回しか選ばれていない。

中山裕章[編集 | ソースを編集]

  1. KKコンビを擁するPL学園との名勝負を演じた高知商業高校時代から剛腕投手として活躍し、大洋ホエールズでも若くしてエース級投手として活躍していたが…。
    • 1991年オフに横浜市内で幼女への連続わいせつ事件を起こして逮捕。球団も解雇された。
  2. その後はなんやかんやあって中日で球界復帰し1999年のリーグ優勝にも貢献したが、あの事件がなければもっと良い成績&印象を残せていただろう…。

に~の[編集 | ソースを編集]

二岡智宏[編集 | ソースを編集]

  1. 2008年に巨人軍の選手会長に指名されたが、その年の開幕戦の試合中にふくらはぎの肉離れを起こして二軍調整、7月11日に一軍復帰の予定だったが直前に某女性アナとの五反田の9800円のホテルでの不倫が発覚し延期となってしまう。
    • 7月20日に復帰するも正遊撃手の座を坂本勇人に取られ三塁手に。
      • さらに打席に立つたびに不倫相手をもじった名前や「五反田」「9800円」とヤジられる始末であった。
  2. 追い打ちをかけるように9月に足首の捻挫で二軍落ち。そのままシーズンを終え、その年の11月に日本ハムへトレードされてしまう。
    • 選手会長になってわずか1年の解任と選手会長がトレードされるというのは異例のケースであり、不倫騒動が原因でトレードされたのではと言われていた。

西口文也[編集 | ソースを編集]

  1. 完全試合orノーヒットノーランを続けながら、28人目の打者に阻止されるという悲劇を3回も経験した西武ライオンズ不運のエース。
    • 2002年8月26日対千葉ロッテ戦→四球1つで9回ツーアウトまでこぎつけ、28人目の打者は対西口の打率が.000と絶対有利な小坂だったが、セカンド後ろへポテンヒットを打たれノーノーが消える(完封勝利)。
    • 2005年5月13日対読売ジャイアンツ戦(交流戦)→元チームメイトだった清原に対する死球1つで28人目は清水だったが、ライトスタンドへ運ばれ完封すら消えた(完投勝利)。
    • 2005年8月27日対楽天イーグルス戦→27人の打者に対し被安打0・与四死球0で9回を終えたが、この日は西武打線も沈黙し0-0のまま延長戦に突入、10回の先頭打者沖原にヒットを許し、完全試合・ノーヒットノーランともに達成できず(10回裏にサヨナラ打が出て完封勝利、完全試合は参考記録)。
    • なお上記の3試合はすべて西武ドームでの試合だった。
  2. このため「寸止め」「28人目の悲劇」などと称される。
  3. 上記の他に「初回2番打者にヒットを許すも、それ以外は無安打無四死球での打者28人完封勝利」という試合も経験している。
  4. 先輩の高橋直樹同様日本シリーズでは1勝もできなかった。(通算0勝5敗)東尾監督時代の西武が1度も日本一になれなかったのはこれが原因とも言われている。

西本幸雄[編集 | ソースを編集]

  1. 監督として日本シリーズに8度出場しながらも優勝できなかった 「悲運の名将」 。
    • このうち5回は巨人のV9時代 (1967~1969・1971・1972) に重なっている。
      • 但し西本本人は「もし私が本当に悲運なら戦争で死んでいるし、復員してから野球に再会できたり、大毎・阪急・近鉄の3チームで素晴らしい選手に巡り合えて、8度も日本シリーズに出場などできない。『悲運の名将』なんておこがましい。敢えて言うなら『幸運な凡将』ですね」と1980年のインタビューで語っている。
    • 日本シリーズでは2回(1960年と1979年)もスクイズに泣き、1979年の日本シリーズのスクイズ失敗直後にはポツリと「俺はスクイズの神様に見放されているのかなぁ…」と呟いた。

根本陸夫[編集 | ソースを編集]

  1. 広島・西武・ダイエーのフロントを歴任し、黄金期の土台を築いたが、監督としてはAクラスが広島時代に1回(1968年)のみで、それ以外はすべてBクラスである。
    • 一応1970年・1971年(広島)、1981年(西武)、1994年(ダイエー)は勝率5割を記録している。
      • 1994年は同率2位のオリックス・近鉄とゲーム差無し、勝率は僅か6毛差でAクラス入りを逃してしまった。
  2. そしてダイエー(として)の初優勝を見ることなく、1999年4月にこの世を去った。
    • ダイエーのリーグ優勝時の胴上げでは選手達が代わる代わる根本の遺影を掲げていた。
  3. 球団の項目のダイエーホークスにも書いたが、フロントとしての手腕がエグい。強くなったチームにとっては残念も何もないだろうが、西武が裏金でドラフト指名権を剥奪された土壌を作った原因かもしれない。
  4. かなり慎重な性格ということもあり、西武の監督時代にはほとんどマスコミには姿を現さず、その行動が水面下に潜り把握できないことから特殊潜航艇とも呼ばれた。
    • 更に取材してもほとんど抽象的な話しかせず「管理部長の通訳が要る」と言われたこともあった。
    • ダイエーの監督時代は西武時代とは違って取材にも積極的に応じたが、話術が抽象的なのは相変わらずで地元マスコミからは「言語大量、意味不明」と揶揄されていた。
  5. 旧制茨城中を素行不良で放校処分となり、転校した旧制日大三中時代からの親友であった関根潤三から「僕も根本も売られたケンカは買った」と言われたり、法政大時代に知り合った元暴力団組長で俳優の安藤昇とよくつるんでいた等武勇伝を多数持っている。

野川拓斗[編集 | ソースを編集]

  1. 横浜DeNAベイスターズに在籍していたがわずか2年で戦力外通告を受けた投手。
    • 最終年は背番号を変えられてしまったが挽回できなかった。
  2. なんと言っても「おたくと」と呼ばれるほどのアニメ、ゲーム好きであることが有名だった。
    • DeNA繋がりということでハッカドールの刺繍を入れたグラブを使用していた。
      • 因果関係は不明だが戦力外通告の翌年にハッカドールはサービスを終了した。
    • 最初の登場曲は自身がこよなく愛するらしいあるアニメの主題歌だった。
      • そのアニメはベイスターズの先代親会社である某局で放送されたのだが、作画崩壊で有名でセールスでも結果が出なかった。
      • 2018年のみ使用した登場曲もヒットとは言い難いアニメの主題歌だった…。

野村克也[編集 | ソースを編集]

  1. 大阪スタヂアムの跡地に建てられたなんばパークスの「南海ホークスメモリアルギャラリー」では様々な理由で野村本人に関する展示が全く行われていない。
    • ようやく展示されたのは野村の死後の2021年。
  2. 妻・サッチーのおかげで、監督をクビになったことがある。それも二回。
    • 1回目は1977年(南海)。当時まだ愛人関係だったサッチーの「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で、野村を大事にしていた南海の川勝傳オーナーの耳に入り解任。
      • 野村の解任に反対していた柏原純一と江夏豊はそれぞれ日本ハム、広島に移籍。打撃コーチの高畠康真(78年からは導宏)も南海を退団し、野村と共にロッテに移籍した。
        • この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年にダイエーに身売りされた。
          • また、ホークスの連続Bクラスも1997年まで20年続いた。
    • 2回目は2001年(阪神)。一度は留任も発表され秋季キャンプも指揮を執ったが、サッチーが脱税容疑で逮捕された日に辞任。
      • 野村本人はサッチーが逮捕されるまで、脱税行為をしているとは知らなかったという。
  3. 阪神の監督を務めていた1999-2001年はすべて最下位。その結果、吉田義男監督時代(第3次)の1998年も含め阪神史上ワーストとなる4年連続最下位に終わる。

関連項目[編集 | ソースを編集]

ざんねんな野球選手事典
日本人 あ~こ/さ~の/は~わ
外国人 あ~こ/さ~の/は~わ