ざんねんな野球選手事典/日本人/あ・か行
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- 「選手」とありますが監督としてざんねんだった方も含みます。
あい[編集 | ソースを編集]
相川亮二[編集 | ソースを編集]
- 2006年のWBC優勝メンバーであるが、リーグ戦では優勝に縁がなかった。
- 最初に所属した横浜は1998年に優勝しているが、彼の1軍デビューはその翌年だった。
- 2009年にヤクルトに移籍するも、彼が巨人に移籍した翌年の2015年まで優勝から遠ざかっていた。
- そしてもっと優勝できそうな巨人に移籍したのに優勝を経験できず引退。
- 彼の人的補償でヤクルトに移籍したのが当時ルーキーだった奥村展征だったため、「ルーキーを放出して40代を獲った」と非難の声も上がった。
- ヤクルト時代の2013年、当時阪神に所属していたマートン選手のタックルに激怒して乱闘、両者退場となったが、実は横浜時代の2002年に相川自身が当時阪神の正捕手だった矢野選手にタックルし長期離脱の大けがを負わせていた。
綾部翔[編集 | ソースを編集]
- 高校時代には5回連続で決勝で敗退し続けていた霞ヶ浦高校を投手として悲願の甲子園出場に導いたことがある。
- 2015年にドラフト5位でDeNAに入団。その後2017年10月に一軍昇格。初戦で初勝利を挙げた。
- 翌2018年は、右肩のスクリーニング手術を行いシーズンをリハビリに費やす。その間に入籍をしていた。
- 復帰に向けて調整していた2019年の7月に過去に未成年の少女と関係を持っていたことを週刊誌の取材で判明、さらに翌日に発売された週刊文春には総勢18名の女性と関係を持っていたということが発覚。
- 球団からは謹慎が言い渡され、この年の10月に戦力外となってしまった。さらに12月には県青少年保護育成条例違反と児童買春・ポルノ禁止法違反で略式起訴された。
- 復帰に向けて調整していた2019年の7月に過去に未成年の少女と関係を持っていたことを週刊誌の取材で判明、さらに翌日に発売された週刊文春には総勢18名の女性と関係を持っていたということが発覚。
- 翌2018年は、右肩のスクリーニング手術を行いシーズンをリハビリに費やす。その間に入籍をしていた。
安楽智大[編集 | ソースを編集]
- 成美高校時代から部内で陰湿ないじめを行っていた。
- 楽天に入団後も改善されず2023年11月の発覚までの間に元選手を含め10人に対してのパワハラが判明。
- パワハラのほとんどがロッカールム内で起きていたこともあり公になるのが遅れた。
- 塩竈市とのパートナー契約や球団内部の納会が延期になるなど周囲に大きな迷惑をかける。
- 11月30日に自由契約という名の追放となった。
井川慶[編集 | ソースを編集]
- 日本では沢村賞を受賞するなど大活躍を見せた。
- その後、ヤンキースでもプレーしたが、「ヤンキース史上最悪のFA補強」に選ばれてしまった。
- 阪神時代、何年も虎風荘から出たがらなかった。
- 追い出されるように出て行った後もホテル暮らしだった。
- 阪神でバッテリーを組んでいた矢野輝弘から「言うことを聞いてくれない」と言われるほどワガママが強かった。
石井浩郎[編集 | ソースを編集]
- 巨人移籍もファーストが飽和状態、ロッテに放出、横浜であと一歩で全球団本塁打を逃す、優勝経験なし、岡村孝子夫人と離婚。
- その後地元秋田で参議院議員選挙に自民党から立候補し当選したが、党員獲得数でワースト10になったことがある。
石丸進一[編集 | ソースを編集]
- 戦時中に名古屋軍(現中日)に在籍し活躍した投手だったが昭和20年5月に神風特攻隊員として出撃しそのまま還らなかった。
- 招集後も野球への思いは止まなかったことが数々の逸話から分かる。
- 遺書には「もう一度後楽園球場で、投手板に立ちたいと思いますが…」と記されていた。
- 出撃の直前にも同僚の本田耕一少尉とキャッチボールをしてから飛び立った。
- 戦争を生き延びていたら同じ大正11年生まれの別所、大下、小鶴のように戦後の野球ファンを沸かせていたであろう。
- 招集後も野球への思いは止まなかったことが数々の逸話から分かる。
- 中学時代に甲子園出場まであと1勝という試合の前に疲労回復のため梅酒を飲んだら酔ってまともに投げられなかったというエピソードがある。
- この件もあり甲子園出場は一度も果たせなかった。
- 戦死したプロ野球選手としてはかなり有名な方だが沢村や景浦とは異なり野球殿堂入りはまだ果たせていない。
- 戦前最後のノーヒットノーラン達成投手(1943年10月12日、大和戦)なのだが、戦況の悪化で紙面が激減していた中日新聞ではスコアと投手名が記載されただけだった。
一場靖弘[編集 | ソースを編集]
- 入団前に巨人・阪神・横浜が栄養費を渡していた事で話題に。
- 結果としてナベツネに引導を渡したことは功績に値する。
- ↑の事情で楽天以外の球団が獲得を見送った結果楽天に入団したが、層が薄かったため1年目から先発ローテに入る。
- しかし、年々成績が悪化し、最終的には当時の野村克也監督が頼み込んでヤクルトにトレードされるも、そこでも活躍できなかった。
- 引退後、テレビ番組で自己破産していた事を明かす衝撃的な展開に。その後YouTuberに転身したが…。
伊藤敦規[編集 | ソースを編集]
- 幸運な野球事典にも載っているように成績面では比較的幸運だった。
- しかしオリックスはまだともかく横浜と阪神に所属したため野球人生後半のほとんどがBクラスだった。
- そして退団した次の年から前所属チームが強くなると言う不運があり、一度もリーグ優勝は経験できなかった。(オリックス:94年トレードで退団→95・96年リーグ優勝、96年日本一。横浜:96年自由契約→97年2位98年日本一、阪神:2002年自由契約→2003年リーグ優勝)
伊東勤[編集 | ソースを編集]
- 西武監督時代の2007年に怪我人が相次ぎ、交流戦で10連敗を喫し、26年ぶりのBクラス (5位) に終わったことにより監督を辞任。
- その後WBC日本代表総合コーチ→韓国・斗山ベアーズヘッドコーチを経て2013年に千葉ロッテの監督に就任。3位→4位→3位→3位と来て、最後の2017年は最下位で監督を辞任。
- 伊東自身にとって選手、監督通して31年目にして初の最下位だった。
伊良部秀輝[編集 | ソースを編集]
- ロッテで最優秀防御率、最多奪三振のタイトルを獲得し、ヤンキース時代もMLBでアジア人で初のワールドシリーズ制覇を果たしただけでなく2回も果たすなど輝かしい実績を残したが…。
- メジャー移籍時パドレスを拒否しピンストライプのユニフォームを着たいとヤンキース移籍に固執したことで騒動となる。
- ロッテのファン感謝デーで「ニューヨークに行ってくれ」と掲示されたが早く出てけという真意だったらしい。
- さらに俺はミケランジェロ発言で大顰蹙を買う。
- 「生き別れたアメリカ人の父親を探すため」らしいが、そのためにヤンキースにこだわったというのはいまいち理解できない。
- ヤンキース1年目はアジア人初の初登板初先発初勝利を達成したのだが…。
- その後調子を落としまくりブーイングするファンにツバを吐く愚行をしてしまう。
- 3年目のキャンプで「太ったヒキガエル」と酷評される。
- そのワールドシリーズでは登板が一切無かった。
- その後モントリオール・エクスポズに移籍したが「エクスポズもピンストライプで良かった」とマスコミに皮肉られる。
- 度重なる怪我で活躍できなかっただけでなく泥酔で意識不明になったのが原因で解雇されてしまう。
- レンジャーズを経て阪神と契約し日本球界に復帰してリーグ優勝に貢献したが翌年は不振で戦力外通告となり一度目の引退を表明。
- 引退の原因になった膝の痛みが消えたこともあって現役復帰し日米の独立リーグでプレーしたが腱鞘炎で2度目の引退。
- 2011年首吊り自殺してしまうが、その後もさらに悲惨なことになってしまった。
うえお[編集 | ソースを編集]
上田利治[編集 | ソースを編集]
- 選手時代は広島に在籍したものの、怪我で活躍できず早々と引退。
- ヤクルトとの1978日本シリーズ第7戦で6回裏一死からヤクルトの大杉勝男が左翼線に放った本塁打をファウルだと抗議し、そのためにシリーズ史上最長の1時間19分の中断を余儀なくされた。
- その後試合は再開したものの、マニエルと再度大杉に本塁打を打たれた結果、阪急はヤクルト初の日本一を献上する形になり、上田はこの日本シリーズでの混乱の責任を取るため退任した。
- 1988年10月23日、阪急ブレーブスとしての西宮球場最終戦終了後の挨拶で「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、最終的に福本の引退に繋がってしまった。
- 1996年にはオリックスと熾烈な優勝争いを繰り広げたものの、同年9月に家庭の事情により休養しチームを離脱、オリックスに逆転優勝を許す形になってしまった。
- 仮に優勝していたらこの年の日本シリーズは同じく東京ドームを本拠地とする巨人との対決になっていただろう。
宇野勝[編集 | ソースを編集]
- 例の「ヘディング事件」以来、珍プレー番組の常連となる。
- 中京ローカルのお米屋さんのCMに出たことがある。しかし、「ヘディング事件」をネタに、米袋をヘディングする内容だった。
- 運転中に、あの星野仙一の愛車に追突した事がある。
江川卓[編集 | ソースを編集]
- 度重なるドラフト拒否、空白の一日でアンチ巨人を増やし、阪神に入団からのトレードで厳密には生え抜きにはならない。
- それどころか巨人は江川の代わりに阪神へ放出した小林繁に8連勝された。
- 1973年のドラフトで巨人が江川を指名していればこんなことにはならなかったはず。(下記の若くして引退した原因の一つが大学時代の酷使)
- 数字だけなら安定していたが若くして引退。
- 肩を壊すのが早かったため、晩年は中国鍼を刺していたんだとか。
- 法政大学時代、明治大学の島岡吉郎監督に殴られたことがある。
- 現役時代から不動産やら株に手を出し、バブル崩壊で50億ともいわれる借金を抱えてしまった。
- 借金は返済したようだが、これが影響してか指導者にはなれなかった。
緒方孝市[編集 | ソースを編集]
- 詳しくはこちらを参照。
小川博[編集 | ソースを編集]
- 引退後の2004年に強盗殺人事件を起こし、無期懲役の判決を受けてしまった。
- この影響で、あの10.19の第1試合が半封印状態になってしまった。
- 小川は第1試合の先発投手だった。
- 現役時代に付けていた背番号の「26」も事実上の永久欠番に。その理由は「ベンチ入りの25人の選手に次ぐファンの番号」としているが、ファンもこんな曰く付き物件いらんだろう…。
奥浪鏡[編集 | ソースを編集]
- 岡山の創志学園から2013年のドラフトで6位指名でオリックスに入団。翌年のフレッシュオールスターで優秀選手賞に選ばれ、100キロ越えの体格ながら動きも良く、これからのオリックスの中軸を担う選手として期待されていた。
- ちなみにこの年のフレッシュオールスターの優秀選手賞に選ばれたのは山川穂高(西武)・井上晴哉(ロッテ)と全員体重100キロ越えの重量級選手である。
- その後山川・井上の2人はチームの主軸打者に成長。特に山川は2018年、2019年と2年連続で本塁打王を獲得する選手にまでなっただけに…
- ちなみにこの年のフレッシュオールスターの優秀選手賞に選ばれたのは山川穂高(西武)・井上晴哉(ロッテ)と全員体重100キロ越えの重量級選手である。
- しかし素行が悪いうえサボり癖が酷く、当時の監督に1時間の自主練をしていたと嘘を付いていたこともあった。
- 2017年、自家用車の運転中に速度違反を取られ免許停止の処分を受けてしまう、しかしそれを球団側へ報告せず、さらに5日後免許停止中の状態にも関わらず車を運転し事故を起こしてしまう。
- 球団からは無期限の謹慎処分が下されるが、地元の広島で新しい進路を探す準備をするとの本人の希望を汲み、この年の8月をもってオリックスとの契約を解除した。
- その後、トライアウトに参加するも無安打に終わり、NPB復帰を目指すため関メディベースボール学院に入学。しかしここでも本人のサボり癖が出てしまいわずか半年で退学してしまう。
- そして半年後、女子高生に対する買春行為で逮捕され、更に同年5月には警官を装って高齢男性からキャッシュカードと現金をだまし取るという詐欺と窃盗の容疑で再逮捕されてしまう。
- この年の9月に買春と特殊詐欺の罪で2年6か月(執行猶予なし)の実刑判決が言い渡された。
オコエ瑠偉[編集 | ソースを編集]
- ナイジェリア人の父と日本人の母を持つハーフ。2015年のドラフトで外れ1位指名で楽天に入団。
- アフリカ系ハーフの選手は万波中正(日ハム)がいるが真面目で侍ジャパンにも選出された万波と比べてはいけない。
- 楽天入団後は怪我が多く1軍では全く活躍できず、年俸以上の車を買うなど野球を真面目にやっていないと批判される。
- 石井一久からも暗に使えない奴というレッテルを貼られる。
- それ以前にも温厚なことで有名な梨田昌孝をも怒らせる
- 1月はキャンプに向けて自主トレに励む中で当時付き合っていた彼女と豪遊していたことを週刊誌にスクープされる。
- 入団3年目にブログを開設し、練習しろのコメントに対して×××××で逆ギレをかます。
- 石井一久からも暗に使えない奴というレッテルを貼られる。
- 2022年に現役ドラフトで巨人に移籍する。
- 早速反社との宴会に参加していたことを報じられる。
- 自分が甲子園で外国人差別を受けていたにも関わらず、外国人排斥を訴える某政党をリツイートして批判を浴びてしまった。
か[編集 | ソースを編集]
景浦將[編集 | ソースを編集]
- 日本プロ野球草創期の強打者として知られたがフィリピンに出征し命を落とした。
- しかも最期の状況がどのようなものであったか未だに判明していない。
- 戦陣に没するより前にも戦争のせいでかなり体を痛めていたという。
- 球界随一の強肩として知られたが手榴弾の投げすぎで肩を壊してしまった。
- 昭和19年時点ではガリガリにやせ細って強打者の面影もなかった模様。
- 性格が豪快すぎ気に入らないことがあるとしばしばプレイが怠慢になった。
- それでも実際は仲間思いだった。
- 同僚だった松木謙治郎は「景浦が復員していたら名監督になっていただろう」と評している。
- 終戦直後というカオスな時代にどのような伝説を残したかも見てみたかった。
- それでも実際は仲間思いだった。
- 最優秀防御率を獲得したこともある名投手でもあったが打者のイメージが強すぎて二刀流であったことが知られていない。
- パワプロユーザーには有名。なぜなら防御率0.79で、有名選手である3位の沢村栄治を超えて歴代防御率シーズン記録2位になっているため。
- パワプロのペナントでこれを越えるのを目標にしたユーザーも多いだろう。しかも内野外野の守備位置もついているため二刀流だったのかと思われレジェンド感が強い。
- …なのだが、戦前の無名選手だったためみんな名前しか知らない。どんな選手だったのか知ってる人はめったにいない。
- その実態にはカラクリがある。実は景浦のシーズン記録の時の投球回数は極端に少ない。当時は試合数が少ないから規定投球回数も低いようで、57イニング自責点5でランクインしてしまっているのだ。ちなみに2011年の浅尾は違反球とはいえ87イニング1アウトで自責点4であった。
- 同じ試合数が少ない戦前の投手でも、翌年の沢村のシーズン記録では244イニング投げている。1940年代に入ると300~400イニング投げて防御率0点台の投手が続出しており、シーズン防御率記録の価値は沢村や藤本にかなり劣ってしまっている。
- その実態にはカラクリがある。実は景浦のシーズン記録の時の投球回数は極端に少ない。当時は試合数が少ないから規定投球回数も低いようで、57イニング自責点5でランクインしてしまっているのだ。ちなみに2011年の浅尾は違反球とはいえ87イニング1アウトで自責点4であった。
- …なのだが、戦前の無名選手だったためみんな名前しか知らない。どんな選手だったのか知ってる人はめったにいない。
- いちおう、二刀流の野手としては、当時の投高打低を考えれば相当なもの。あのRun environmentでOPSは1をこえたことがあり、セイバー指標ではないが打点王になったこともあり、別の年だが本塁打王にもあと1本とせまったことがある。投手としてはイメージに比べると残念だが、二刀流トータルなら相当なWARを残しているだろう。
- パワプロのペナントでこれを越えるのを目標にしたユーザーも多いだろう。しかも内野外野の守備位置もついているため二刀流だったのかと思われレジェンド感が強い。
掛布雅之[編集 | ソースを編集]
- 言わずと知れた「ミスタータイガース」
- 引退後、日本テレビ(系列のよみうりテレビも兼務)の専属解説者として活躍。しかし···
- サイドビジネスの金銭問題で、日テレの解説者をクビになったことがある。
- 本人が阪神関係者に電話をした際に物まね芸人の松村邦洋からのいたずら電話だと誤解されたことがあった。
- 事実、掛布の物真似は松村の十八番の一つである。
香川伸行[編集 | ソースを編集]
- 浪商高校で「ドカベン」の愛称で甲子園のスターとなり、南海ホークスに2位指名され入団。
- なんといっても、その肥満体。
- MAXで体重が150kg近くまであったそうな。
- 球団からは減量命令を出され、オフの自主トレシーズンには、香川があの手この手で減量に努めているシーンが風物詩となっていた。
- あの時減量してれば、52歳で早世しなくて済んだのに・・・。
梶本隆夫[編集 | ソースを編集]
- 阪急ブレーブスの左腕エースとして、米田哲也と共に「ヨネカジ」として活躍するも、チームが長らく低迷していたこともあってか通算254勝255敗と通算200勝以上した投手の中で唯一の負け越し投手になってしまった。
- さらにルーキーイヤーには20勝を挙げるも、南海ホークスの宅和本司が26勝を挙げたため新人王を逃した。現在でも20勝して新人王になれなかったのは梶本だけ。
- 1957年7月23日の南海戦で9連続奪三振を達成したが、9人目を三振に奪った時に捕手の山下健に「カジ、これ新記録やで」と言われ急に記録を意識しだし、10人目の打者の皆川睦男(投手)にセンターフライを打たれ記録が途絶えた。
- 後に梶本は「皆川を三振に取っていたら20は行ったんじゃないかな」と語っている。
- 投手の主要タイトルを遂に獲得できなかった。
- あるシーズンの終盤、梶本に最多勝のタイトルを獲らせるために勝ち試合でのリリーフを監督から促されたことがあったが、梶本は「他人の勝ち星を奪うようなことは勘弁してください」と登板を断った。
加藤哲郎[編集 | ソースを編集]
- 1989年日本シリーズ第3戦終了後の例の失言により、近鉄悲願の日本一を逃したA級戦犯として大きな非難を浴びてしまった。
- 加藤は第3戦の試合後のヒーローインタビューで「別に、とりあえずフォアボールだけ出さなかったらね、まぁ、打たれそうな気ぃしなかったんで。ええ、たいしたことなかったですね。シーズンの方がよっぽどしんどかったですからね、相手も強いし」と発言したが、これがいつの間にか「巨人はロッテより弱い」という発言になってしまった。
- 加藤は第7戦に再び先発したが、2回表に駒田徳広に先制ソロホームランを打たれ、駒田に「バーカ!」と近鉄ベンチに向かって叫ばれるなど、3回3分の1を投げて3失点で降板。近鉄は悲願の日本一を逃してしまった。
- 該当のインタビューでは
当時のパ・リーグらしいまあまあ舐めた態度で受け答えをしていたので、むしろ被害者一辺倒の扱いになったのは幸せじゃないだろうか。
- 加藤は第3戦の試合後のヒーローインタビューで「別に、とりあえずフォアボールだけ出さなかったらね、まぁ、打たれそうな気ぃしなかったんで。ええ、たいしたことなかったですね。シーズンの方がよっぽどしんどかったですからね、相手も強いし」と発言したが、これがいつの間にか「巨人はロッテより弱い」という発言になってしまった。
- その後は右肩の故障で成績が低迷。1993年に近鉄を自由契約となり、1994年は広島、1995年はダイエーでプレーしたが、結局1995年限りで現役を引退。
- 引退後は朝日放送で解説者をしていたり、俳優をしたり、焼肉店をしていたが倒産。
- (2019年)現在は大阪の天満橋で麻雀教室を開いている。
金村義明[編集 | ソースを編集]
- 日本一に縁が無かった。
- 1989年(近鉄)、1997年・1998年(西武)と日本シリーズには3回出場したが…。
- 1989年はチームメイトの加藤哲郎の失言騒動もあり3連勝からの4連敗で日本一を逃す。
- 1998年は西武の最後のバッターとなってしまった。
- 1989年はチームメイトの加藤哲郎の失言騒動もあり3連勝からの4連敗で日本一を逃す。
- 1989年(近鉄)、1997年・1998年(西武)と日本シリーズには3回出場したが…。
- 引退試合(1999年9月30日・千葉ロッテ戦)もJCOの臨界事故・中日のリーグ優勝・山本和範の引退試合と被ってしまった。
- 金村は引退後にラジオ番組で「これまでの選手生活を思い出すと涙が溢れ、ボールが見えづらかった。にもかかわらず、先発の薮田(安彦)は容赦なくフォークを投げてきた。空気を読んで欲しかった。」と語っている。
- 1988年のシーズン終盤にスライディングで左手を骨折し、「10.19」のダブルヘッダーへの出場は叶わなかった。
- 第2試合には首脳陣の計らいでベンチには入っている。
- 結局この左手骨折の影響は翌1989年も続き、シーズン中盤に復帰したがその間に球団が獲得した新外国人(ハーマン・リベラ)にレギュラーを奪われてしまった。
金本知憲[編集 | ソースを編集]
- 連続試合出場の世界記録を更新するなど阪神の主力として活躍したものの、年齢には勝てずだんだんプレーにミスが出るようになった。
- そのため2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)では彼を揶揄する大量のあだ名がつけられてしまった。
- 試合中にベンチでタバコを吸っている姿がテレビに映ってしまったことがある。
- そのためファンからはアニキならぬ「ヤニキ」というあだ名がついてしまうことに。
- 引退後は阪神の監督になったものの謎采配や若手や投手陣の失速で2018年にはリーグ最下位に終わり、わずか2年でやめた。
亀山努[編集 | ソースを編集]
- 現役時代はヘッドスライディングの名手として新庄とともにフィーバーを巻き起こしたのだが・・・。
- そのヘッドスライディングが原因で怪我をしてしまう。
- その後ヘッドスライディング由来のけがは回復したのだが、今度は守備の際に別の選手とぶつかって頸椎を骨折し、結果1997年には戦力外通告を受けた。
- 戦力外通告後、当時の近鉄の監督だった佐々木恭介が獲得を考えたが、フロントから反対され引退を余儀なくされた。
- 引退後に激太りしてしまったのも残念。
- 一時期体重は135kgまで達していた。今はその頃よりは痩せてはいるもののそれでも100㎏を超えている。
- 努が選手だった時は弟の忍の方が太っていたが、忍はその後痩せたのに対し努は太ってしまったため今では逆転している。
- 目覚まし時計10個以上鳴らしても起きない寝坊・遅刻常習犯。(但し、これは睡眠時無呼吸症候群を患っていたこともあったそうだが…。)
川上哲治[編集 | ソースを編集]
- 1980年の巨人・長嶋茂雄監督の解任劇の際には「長嶋監督を解任させた陰の黒幕」とされ、全国の長嶋信者を敵に回してしまう。
- 湯口敏彦事件で「球団こそ大損害を受けた、女性を乗せての自動車事故でなくてよかった」と発言。バッシングを悪化させた。
- 1973年のドラフト会議でプロ入りを拒否していた小林秀一を1位で強行指名し、史上唯一となる「巨人のドラフト1位指名を拒否した男」にしてしまった。
- 上述の湯口事件の影響か、この年の巨人は1位の小林以外にも2位の黒坂幸夫や3位の中丸裕二、5位の尾西和夫にも入団を拒否されている。
- 軍隊時代、部下だった丹波哲郎に容赦なく暴力を振るっていた。終戦後に川上が「あの時は仕方なかった」と頭を下げて廻ったのを見た丹波は「川上の本性が分かった」と自著で述べ、以降も二人の関係は最悪だった。
き~こ[編集 | ソースを編集]
菊池雄星[編集 | ソースを編集]
- もの凄く、ソフトバンクに弱かった。初めて、ソフトバンクに勝ったのは2018年9月28日だった。
- 2018年は残念なことだらけ。5月は左肩の張りで一軍登録を抹消され、勝率は規定投球回以上では1位になったが、規定により最高勝率はロッテのボルシンガーに譲って、タイトルを逃し、完投が1回だけで完封は0だった。
- 当時のコーチであるデーブ大久保から体罰を受けていた事も有名に…。
清原和博[編集 | ソースを編集]
- 言わずと知れた無冠の帝王。素質・才能共に十分なはずだったのに…。
- 主要打撃タイトルが取れなかった代わりに、死球歴代一位という不本意な記録も打ち立ててしまう。
- 一説には当時西武オーナーだった堤義明が溺愛したせいで、清原本人が増長してしまったという噂も…。
- 2016年2月には覚醒剤所持で逮捕。
金城龍彦[編集 | ソースを編集]
- 横浜ベイスターズ優勝翌年に入団したがゆえに元同僚の相川と同じ年に巨人に移籍したにもかかわらず最後まで優勝に無縁で引退。
- 新人王を獲得した2000年のオフに東京電話のCMで共演した松坂慶子に「ここで1割打率が下がったら大事ね」と言われたが、その後2年にかけて本当に打率が1割ずつ下がってしまった。
- 2001年のシーズン開始前に球団が公式サイトにてファン公募で愛称を募集し、「ハマの龍神」という愛称がついたが定着しなかった。
栗原健太[編集 | ソースを編集]
- 2007年オフに阪神にFA移籍した新井貴浩に代わる4番打者として低迷していた広島を支えたスラッガー。
- 2009年の第2回WBCでは負傷離脱した村田修一の代わりではあったが世界一を経験した。
- しかし右肘の怪我の悪化により2012年以降成績を落とし、2015年オフに広島を退団することになる。
- その後楽天に移籍するが1軍に上がることなく翌2016年に引退、一方でこの年広島は25年ぶりのリーグ優勝を果たした。
- その広島の4番打者には2014年オフに阪神を退団し広島に復帰した新井貴浩が座り、シーズンMVPも受賞した。
神戸拓光[編集 | ソースを編集]
- 流通経済大学から2006年の大学・社会人ドラフトでロッテから3巡目で指名され入団。
- プロ4年目の2010年4月9日の対西武戦で、1回に負傷欠場した福浦和也の代打で出場。
- 西武のエース・涌井秀章から3ランホームランを放ったが、その際にはしゃぎ過ぎてしまい次の打席で涌井から報復気味のデッドボールを受けてしまった。
- その後、2013年10月にTwitterで「あんな画像が流出したのなら同情などできない」「なるべくしてなった」「自業自得」というツイートを投稿。
- このツイートが、直前に東京都三鷹市で発生した女子高生殺害事件の被害者に対する侮辱と解釈され(但し諸説あり)、ツイッターやロッテの球団事務所に避難が殺到。
- ロッテの一軍本拠地がある千葉市の熊谷市長もTwitter上で激怒し、フェニックスリーグ参加の為に宮崎へ滞在していた神戸も千葉に半ば強制送還される事態に…。
- この影響でフェニックスリーグのロッテの外野手の頭数が完全に不足し、一時は本職は捕手の川本良平が外野を守る羽目になってしまった。
- 最終的にはロッテの中村球団社長・神戸本人・神戸のTwitterの管理をしていた神戸の友人が謝罪会見を開いたが、結局神戸のブログとTwitterは閉鎖されてしまった。
- ロッテの一軍本拠地がある千葉市の熊谷市長もTwitter上で激怒し、フェニックスリーグ参加の為に宮崎へ滞在していた神戸も千葉に半ば強制送還される事態に…。
- ちなみにこの騒動が起きる前には自身のブログで日航機墜落事故について自分の想いを書いており、こちらの記事は絶賛されたため、急転直下の落差となった。
- このツイートが、直前に東京都三鷹市で発生した女子高生殺害事件の被害者に対する侮辱と解釈され(但し諸説あり)、ツイッターやロッテの球団事務所に避難が殺到。
- その翌年の2014年は一軍出場も無く、この年限りで現役を引退した。
小久保裕紀[編集 | ソースを編集]
- 1997年脱税騒動を起こしてしまう。
- 巨人への無償トレードが大騒動になった。
- 引退後2013年に日本代表監督を務めるがプレミア12、WBCで優勝を逃した。
- 特にプレミア12では激しく叩かれた。
- しかも監督退任後次のプレミア12で日本代表は優勝したため黒歴史扱いに。
- 引退試合でノーヒットノーランを達成させてしまった。
- しかしその時の相手の投手を日本代表に選出していて、良く言えば本人はそのノーノーを評価しているのが分かる。
- その後クライマックスシリーズに出場し、現役最終打席が2012年ソフトバンクの最後の打者となった。
小林繁[編集 | ソースを編集]
- 例の「江川事件」で、巨人から阪神にトレードされた為、「事件の最大の被害者」として有名になってしまう。
- 阪神移籍直後の1979年は22勝・防御率2.89というキャリアハイの成績を挙げ、沢村賞・ベストナインのタイトルを獲得したが…。
- 後に小林は「あの年に俺がやったことは野球選手として褒められたことじゃない」「自分のためだけの野球をやっていた」と否定的に振り返っている。
- 阪神移籍直後の1979年は22勝・防御率2.89というキャリアハイの成績を挙げ、沢村賞・ベストナインのタイトルを獲得したが…。
- 独特の投球フオームが、あの明石家さんまに物真似されたことは、あまりに有名。
- 開幕戦の9回に、よりによって暴投を投げてしまう。これで阪神がサヨナラ負けを喫した。
- 結局、この年限りで現役を引退。
- その後はいずれも当時の監督の梨田昌孝から誘いを受け近鉄・日本ハムでコーチを務め、日本ハムでは2軍で糸数敬作などを育て2009年の優勝に貢献し翌年には1軍コーチへの就任が決定していたものの、帰省先で突然倒れ、このままこの世を去ってしまった。
- 亡くなる前日には親会社の日本ハムの発表会に参加していたため、突然の死として衝撃を与えた。
小林雅英[編集 | ソースを編集]
- 千葉ロッテマリーンズのクローザーとして「幕張の防波堤」のニックネームを得る。
- しかし本人は「3点差なら2点まで取られていい」「何人ランナーを出そうが、最悪でも逆転されなければいい」というポリシーの持ち主だったため、ファンの寿命を縮めるピッチングで「劇場王」の異名を頂戴する。
- とはいえ防波堤が決壊することもしばしばあり、5点差・4点差を逆転されたこともある。
- 29Sでセーブ王のタイトルを獲得した2005年は日本シリーズ出場も果たし、33-4の胴上げ投手にもなった。
近藤貞雄[編集 | ソースを編集]
- 投手分業制を発明、試合の前半と後半で出場選手をガラッと入れ替える「アメフト野球」の提唱、横浜大洋監督時代には「スーパーカートリオ」を売り出すなどアイデアマンとして知られる。
- 1954年には選手として、1974年はコーチとして、そして1982年には監督として中日ドラゴンズの優勝に貢献するが・・・
- 1982年、主力層の若返りを図ってチームの大黒柱だった星野仙一・木俣達彦の2人を露骨に干してしまう。
- 木俣に代わって正捕手になった中尾孝義の活躍(セ・リーグMVPを獲得)もあって、世代交代としては一応成功と見なされる向きも強い。
- しかしこの2人が引退した翌1983年、まとめ役だった星野を失った中日投手陣は空中分解、さらに中尾の不振もあってチームは5位に低迷、近藤も監督を辞任することになった。
- 山内一弘が監督に就任した1984年も中尾はケガで戦線を離脱しており、主力野手だった田尾安志を放出してでも大石友好の獲得に動いたり、1987年の星野仙一監督就任後は中村武志の育成に舵を切ったりと無理矢理な正捕手の世代交代は後々まで中日に影を落とすことになった。
- 木俣に代わって正捕手になった中尾孝義の活躍(セ・リーグMVPを獲得)もあって、世代交代としては一応成功と見なされる向きも強い。
- 1982年、主力層の若返りを図ってチームの大黒柱だった星野仙一・木俣達彦の2人を露骨に干してしまう。
関連項目[編集 | ソースを編集]
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