もしあのプロ野球選手があの球団に入団していたら
ここでは
- 日本人選手は、最初にプロ入りした球団が史実と異なっていた場合、もしくは入団テストを受けられなかった・受けたものの不採用となり入団できなかった場合
- 外国人選手は、史実では日本でプレーしなかった選手が入団していた場合、もしくは日本でプレー経験はあるが、史実でプレーしていない球団に入団した場合、及び最初に入団した球団が史実と異なっていた場合(プレー経験の有無は問わない)
を取り上げます。
ドラフト会議以降では、主に逆指名や自由枠で入団した選手を取り上げます。
- 史実で指名していない球団が指名していた場合はもしあのプロ野球選手があの球団にドラフト指名されていたらへ
- 実際に入団した球団と指名が競合していた球団に指名されていた場合はもしプロ野球ドラフトで抽選に勝ったのがあの球団だったらへ
- ドラフト拒否により入団しなかった場合はもしあの選手がドラフト指名を拒否しなかったらへ
- 史実ではプロ入りしていない選手はもしあの選手が日本プロ野球入りしていたらへ
ドラフト制度以前[編集 | ソースを編集]
王貞治→阪神[編集 | ソースを編集]
早稲田実業3年生当時、熱心だった阪神のスカウトに「阪神に入ってもいい」と言い、両親も阪神入団を勧めていました。が、本人が川上哲治のファンだと知っていた兄が本心を聞き出し、最終的に巨人を選んだという経緯があります。
- 打者には転向せず、投手として入団する。これは巨人の場合と同じ。
- ただ、打者への転向が遅れてしまうのは間違いない。下手したら現役引退まで投手だったかもしれない。
- 打者に転向した場合、阪神の当時の打撃コーチだった青田昇と蜜月の関係になっていたかどうかは未知数。
- 史実では荒川博コーチの元、1本足打法を編み出している。
- 長嶋茂雄が他球団のケース同様、ON砲は存在しないことに。
- やっぱり巨人はV9を果たせない。
- 長打力に頼らず守りや機動力を重視した中日のようなプレースタイルに現在巨人がなっているのかもしれない。(V9時代で20本塁打以上の選手はON除き柴田と末次のみ。その分柴田勲、高田繁を筆頭に守備、走塁に優れた人物が非常に多かった)
- 巨人の背番号「1」は誰が付けていただろう…。
- 柴田勲か高田繁辺りが付けていたかも。
- 巨人のV9がなく、逆に阪神が黄金時代を築いていたかも。
- ホークスには関与しなかった。
長嶋茂雄→南海 or 中日[編集 | ソースを編集]
- 南海
長嶋茂雄は南海ホークスが決まりかけていたにも関わらず、読売ジャイアンツに入団しました。もしすんなり南海に入団していたらどうなっていたか?
- おそらく南海の人気が巨人に迫り、身売りされることはなかったかもしれない。
- 逆に巨人がナベツネがオーナーになった後に身売り。
- オリックス・ジャイアンツになっていたか。
- そして阪神がダイエータイガースに・・・
- そして福岡に移転。
- 関西を代表する人気球団は阪神ではなく南海となっていた。
- 阪神が近畿地区に残留した場合、近鉄の合併相手は阪神だったかも。
- 西鉄・阪急・東映など当時のパリーグ各球団の身売りが早まった。
- 南海戦が収入源になるので、身売りは史実よりも遅かったかも。阪急は身売りしなかったかもしれない。
- 史実でも一時期はパリーグの看板だった南海‐西鉄戦は更に盛り上がっていた。
- 逆に巨人がナベツネがオーナーになった後に身売り。
- 巨人のV9もたぶんなかった。
- ただ、長嶋が不振のシーズンでも日本一になっているのでV9時代に巨人が日本一5、6回していたかもしれない。
- 少なくとも王の前後のバッターに悩むことになるだろう。(史実でも5番バッターは末次が台頭するまで固定はできていない。)
- 史実のV9時代に巨人がリーグ優勝できなかった年が2、3回あったかもしれない。
- 背番号「3」は永久欠番にならず清原和博が着用していた。
- 栄養費問題でバッシングを受けていた可能性あり。
- 徳光和夫は日テレでなく南海電鉄に入社していた。
- 07年現在のソフトバンクの監督は長島
- 逆に現在の巨人の監督は王
- 生卵事件の王の部分が長島になっていた
- 「長島」じゃなくて「長嶋」
- 野村克也は長嶋を嫌う事はなく、普通にチームメイトとして付き合っていた。
- 野村は「あいつとはどうも合わん」と思っているが長嶋は意に介さず、という感じかも。
- 立教の同期である杉浦忠とKKばりの名コンビとなっていた。
- 杉浦は巨人に入る予定だった
- 亜希子夫人と出会わず、一茂らも生まれなかった。
- 「熱闘甲子園」のアシスタントは、朝日放送の女子アナが務めていた。
- 難波昭二郎は史実以上に活躍していた。
- 何故?
- 難波昭二郎を参照。
- 何故?
- ミスタージャイアンツは王のことを指すようになっていた。
- 王は後ろに長嶋が居ないためマークが集中し本塁打の数が減少、逆に野村はマークが緩くなり本塁打の日本記録は野村になっていた。
- 中日
立教大学時代に「練習がきつい」という理由で寮を抜けだして、中日ドラゴンズの入団テストを受けようとしたこともありました。その時に球団職員から「大学を卒業してから来なさい」と断られましたが、もしテストを受けて合格していたら・・・
- 江藤慎一と強力な打線の「EN砲」を形成していた。
- 中日は何度かリーグ優勝を経験し、日本一になっていた可能性もあった。
- 引退後は中日の監督になっていた。星野が監督になるのは2000年代になってからだと思われる。
- それまで星野は投手コーチ、ヘッドコーチ、2軍監督あたりを歴任していた。
- 徳光和夫は中部日本放送のアナウンサーになっていた。
- のちに部下となる久野誠に大きな影響を与えていた。
- 久野よりも先に同局アナとして「燃えよドラゴンズ!」をリリースしていた。
- 長嶋の中日の監督在任中なら尚更。
野村克也→巨人 or 広島[編集 | ソースを編集]
- 巨人
野村克也は巨人ファンゆえに読売ジャイアンツ入団を希望していたが、当時の捕手層の厚さから断念し、南海ホークスに入団しました。もし巨人に入団していたらどうなっていただろう?
- 入団3年は二軍暮らしが続いていたが、めきめき力をつけたため藤尾茂の外野手転向が早まったかもしれない。
- 沙知代夫人と出会う事もなかっただろう。
- よって「生涯現役」を実現できたかも。
- 森昌彦(祇晶)が世に出なかった。
- または野村が外野手へコンバートされた。
- 監督にも就任し、他球団から戦力外となった選手を掻き集める。
- そして彼らによって新たな黄金時代が築かれたであろう。
- 巨人で「野村再生工場」が機能していた。
- 1981年・1989年に巨人の監督に就任したのは藤田元司ではなくノムさんだっただろう。
- 長嶋・王・野村で「NON砲」と呼ばれていた。
- 長嶋が南海に入団していたら「ON砲」の「N」は野村のこと。
- V9時代の巨人の成績はすごいことになっていた。当時のセ・リーグは1強5弱状態となっていた。
- 才能を見出してもらえず。ずっと二軍暮らしで5年以内で引退。
- 投手分業制やデータ野球の導入が遅れ江本・江夏は早くに引退し古田も名捕手になり得なかった。
- 阪神監督への就任もなかった。
- 南海は1960年代半ばには成績が低迷していた。
- 最悪の場合、西鉄と同時期に身売りされていた。
- その場合身売り先はダイエーではなかった。
- 最悪の場合、西鉄と同時期に身売りされていた。
- 広島
入団テストを受ける球団として、捕手が高齢である南海と広島を候補としました。もし、広島を受験して合格していたら・・・
- 当時の南海ほど選手層が厚くないので、一年目から試合に出られた。
- 長谷川良平とバッテリーを組んでいた。
- 球団発のAクラス入りは史実(1968)よりも早かった。リーグ優勝も史実より早かったかも知れない。
- 引退後は広島の監督あるいは広島のTV局の解説者になっていた。
- 広島の監督として成功していた場合、同姓の野村謙二郎が監督に就任することはなかったかもしれない。
- 南海の正捕手は田中尊が務めていた(史実では野村の台頭により広島に移籍して正捕手に)。
張本勲→巨人[編集 | ソースを編集]
- ここでは高校を出てすぐに巨人に入団していたらということを考えます。
- 実史ではⅤ9巨人スタメン唯一の泣き所だった5番バッターに定着し、長島や王と共に「ONH砲」の3人のクリーンナップで打撃タイトルを独占。見事V10を達成していた。
- 王の巨人監督辞任後、藤田が復帰せず張本が後任に就任、長島の監督復帰まで指揮を執っていた。
- 背番号「10」は巨人の永久欠番になっていた。
- 大杉勝男は東映に目をつけられてもらえず、プロになれなかった。
- 1975年の巨人最下位は無かった。
- 2008年現在は日テレ専属の野球解説者になっていた
- そうなれば、当然日曜日朝放送のTBS系「サンデーモーニング」のスポーツコーナーで「喝」を入れる事も無かった。もしかして、そのコーナー自体無かったか…。
- 「ザ・サンデー」で似たようなコーナーを持ってたと思う。
- そうなれば、当然日曜日朝放送のTBS系「サンデーモーニング」のスポーツコーナーで「喝」を入れる事も無かった。もしかして、そのコーナー自体無かったか…。
- 松木謙治郎と出会う事はなかったので、史実ほどの成績は残せない。少なくともクワトロスリー(生涯成績3割300本塁打300盗塁3000本安打)は達成していない。
- 荒川博の指導で榎本喜八のような打者になっていたか
- 王は三冠王を一度も取れなかった。
- 3番張本4番長嶋のコンビで巨人打線は十分なので、王は1本足打法を採りいれることなく、それなりの成績の5番打者で終わったかも知れない。
別所毅彦→巨人[編集 | ソースを編集]
別所毅彦(別所昭)は1942年に南海に入団しましたが、南海球団との待遇に不満を持ち、移籍騒動の末に巨人に移籍しました。
この移籍の陰には、本来は巨人入りを熱望していたこともあったそうですが(史実では南海入りしたのは実家が彼を関西圏に置いておきたいと判断した為)、もし別所が1942年から巨人に在籍していたら?
- 1946年と1948年のグレートリング→南海の優勝はなかった。
- 代わりに巨人が優勝していたかも。
- 巨人VS南海が遺恨化することはなかった。
- 長嶋茂雄のようなこと(南海入りが決まりかけながら巨人入りした)があれば別だが(別所の時代は長嶋の時代より前だが)。
米田哲也→阪神[編集 | ソースを編集]
米田哲也は阪急と阪神の二重契約の末に阪急へ入団しましたが、もしこのとき阪神に入団していたら?
- 巨人の優勝回数が減っていた可能性も。
- 当然V9もない。
- 阪急は60年代後半以降も暗黒時代のままだった。
- 場合によっては1970年代、西鉄と同時期に球団が売却されていた可能性がある。
- 1973年のセ・リーグは阪神が優勝していた可能性がある。
- 1967年、1969年の日本シリーズは阪神が制覇していた。
- 阪神OBとして解説や評論家の仕事を多く貰っていたため、万引き事件を起こすこともなかった。
吉田義男→阪急[編集 | ソースを編集]
阪急は吉田義男をスカウト候補に挙げていたものの小柄であるとの理由から獲得を断念することになり、その後阪神に入団することになりました。
- ロベルト・チコ・バルボンと共に盗塁王を分け合っていた。
- 河野旭輝は阪神に入団していた。
- 現役引退後、コーチを経て西本幸雄の後任として阪急の監督に就任。
- 上田利治は広島の監督に就任していたかも。
- その後、西本幸雄の要請で近鉄の監督に就任。
- 近鉄は日本一を経験していたかもしれない。
- 鈴木啓示の後任として再び近鉄の監督に就任。
- 平成9年4月1日に近鉄の優勝会見を開いていた。
- 丑年で大阪ドーム1年目として現実以上に盛り上げていた。
- 平成9年4月1日に近鉄の優勝会見を開いていた。
- 仰木彬の後任としてオリックスの監督に就任。
- オリックス・バファローズの初代監督、あるいは仰木彬の後任として2代目監督に就任。
- 負広やコリンズが監督に就任しなかったのでオリックスバファローズの成績がもう少しマシだった。
- 阪神の監督に就任することはなかったため、1985年のリーグ優勝・日本一はなかったかも。
- 江夏豊氏は彼と確執を起こすことがなかったので、阪神で史実よりも長くプレーしていたかもしれない。
山内一弘→中日[編集 | ソースを編集]
高校卒業後に入団テストで合格したものの、諸事情により、入団できませんでした。
- 地元の星として、活躍していた。
- 「ミスター・ドラゴンズ」になっていた。
- 1960年の大毎の優勝はなかった。
- 阪神の小山正明との交換トレードもなかった。
- 中日監督の就任は史実通り。
- 代わりに、ロッテ監督の就任はなかったかもしれない。
- 日本テレビではなく、中部日本放送と東海テレビ放送で解説者をやっていた。
- TBSテレビかフジテレビジョンと掛け持ちでやっていた。
- 近鉄のミケンズから死球を受けることもなかった。
張本勲→中日[編集 | ソースを編集]
中日と東映の一騎打ちになったが、史実では、東映に入団しました。もし、中日に入団したら
- 立浪和義氏と同様に、「ミスター・ドラゴンズ」と呼ばれた。
- 巨人への移籍は怪しい。
- 引退後は、中部日本放送との掛け持ちで、史実通り、TBSテレビの解説者になっていた。
- 無論、サンデーモーニングのスポーツコーナーに出演していた。
稲尾和久→南海[編集 | ソースを編集]
- 南海ホークスとは一旦契約寸前までに話が進んでいました。
- 杉浦忠氏ともにエースとして、活躍していた。
- 南海ホークスはV3を達成していた。
- 西鉄は史実よりも弱体化していた。
- 場合によっては、史実よりも早く身売りをしていたかもしれない。
- 中日のコーチとロッテの監督に就任するのは史実通り。
- ロッテの監督の就任の際は、鶴岡一人氏の推薦を受けていた可能性が高い。
山本一義→南海[編集 | ソースを編集]
- 当初は、鶴岡一人氏からの誘いを受けて、南海ホークスに入団する予定でしたが、池田勇人氏の説得により、広島に入団しました。
- 監督の鶴岡一人氏から可愛がられていた。
- 城野勝博氏と古葉竹識氏とのトレードで、広島に移籍していた可能性が高い。
ドラフト制度以後[編集 | ソースを編集]
落合博満→ロッテ[編集 | ソースを編集]
- ここでは大学を卒業あるいは中退してすぐロッテに入団していたらということを考えます。
- 金田監督とは因縁を持っている実史とは対照的に良い師弟関係を築き、名球会にも加入していた。
- ロッテは黄金時代までとはいかなくとも常勝チームとなり、70年代後半のパは阪急とロッテの2強だった。
- 1977年は阪急ではなくロッテが優勝していたかもしれない。
- ロッテは黄金時代までとはいかなくとも常勝チームとなり、70年代後半のパは阪急とロッテの2強だった。
金本知憲→ヤクルト[編集 | ソースを編集]
浪人時代、ヤクルトの入団テストを受けましたが不合格。 もし合格して入団していたら・・・
- ドラフト外入団となっていた。
- 数年間二軍で下積みした後、レギュラーを獲得。
- 活躍していた場合、稲葉と真中、どちらかは入団しなかった可能性あり。
- 左打者なので、稲葉が他球団に入団してた可能性大。
- ポジションがレフトで被るアレックス・ラミレスも獲得しなかった。
- その場合、史実とは逆にラミレスが阪神に入団していたかもしれない。そして、現役晩年に横浜DeNAに移籍していたかもしれないが、少なくとも巨人に移籍することはなかった。
- 活躍していた場合、稲葉と真中、どちらかは入団しなかった可能性あり。
- 連続フルイニング出場は更新しなかった可能性大。
- だろうな。あのヤ戦病院じゃもっと怪我が多くなっていただろうしな。
- FA宣言した時、阪神に移籍したかどうか怪しい。
- そもそも移籍したのは当時阪神の監督だった星野監督からのオファーがあったため、宣言したのが2001年以前の場合、別の球団に移籍していた。
- その場合、2003年以降の阪神の成績は史実より下だった。
- ただし、前述の通りラミレスを獲得していた場合は、史実通り2003年・2005年に優勝できていた。また、巨人に移籍することがなかったので、2008年・2010年も優勝できていた可能性がある。
- 逆に2004年はヤクルトが優勝していたかもしれない。
- その場合、2003年以降の阪神の成績は史実より下だった。
- 無論阪神の監督には就任しなかった。和田豊の後任は掛布雅之になり、代わりに真中満の後任として金本がヤクルトの監督になっていた。
- そもそもFA宣言せずに、ヤクルトに残留していた可能性がある。
- その場合、新井貴浩もヤクルトにFA移籍していた。現役晩年の広島復帰もなくヤクルトで現役を終え、2015年はヤクルトがソフトバンクを破って日本一になっていた。
- そもそも移籍したのは当時阪神の監督だった星野監督からのオファーがあったため、宣言したのが2001年以前の場合、別の球団に移籍していた。
岸孝之→楽天or巨人[編集 | ソースを編集]
岸孝之投手については、西武と地元の楽天、そしてドラフト直前に大隣憲司の獲得を断念した巨人が交渉しましたが、尊敬する西口文也投手がいることを理由に希望枠で西武に入団しました。 もし楽天か巨人に入団していたら・・・
- 楽天の場合
- 2007年は3位に入り、チームは悲願のCS出場を果たした。
- FA行使はせず楽天に残留していた。
- 背番号が11だったかどうか怪しい。
- 巨人の場合
- 新人王を獲得していた。
- 2008年は日本一になれていた。
- 西武のその後
- 2007年は最下位に。
- 2008年はなんとか優勝するが、日本一にはなれず。
城島健司→巨人[編集 | ソースを編集]
城島は巨人入りを見据えて駒澤大学を進学を決めていましたが、ドラフトで強行指名したダイエーの監督に憧れの王貞治が就任するということで入団することになりました。もし、入団拒否して大学進学した後巨人入りしていたら・・・。
- 1998年のドラフトで巨人に逆指名で入団する。
- その場合、上原は逆指名で巨人に入団せず、別の球団に入団していた。
- メジャー球団も獲得に名乗りを上げていたのがいたので、もしかしたらメジャー入りしていたかもしれない。
- その場合、上原は逆指名で巨人に入団せず、別の球団に入団していた。
- 阿部も巨人に逆指名入団しなかった。
- メジャーへ行かず巨人一筋で現役を終えていただろう。
- ダイエーのその後
- ダイエーの優勝回数が史実より減っていた。
- 王は史実より監督在任年数が少なかった。
- ダイエーがソフトバンクにホークスの球団売却と同時に辞任していたかもしれない。
- 王は史実より監督在任年数が少なかった。
- 吉永幸一郎はコンバートされず正捕手を史実より長く務めていた。
- 巨人にトレードされることもなくホークス一筋で現役生活を終えていたかもしれない。
高橋由伸→ヤクルトor西武[編集 | ソースを編集]
- 共通
- 巨人の監督になることはなかった。
- 2016年以降も原がそのまま継続していた。
- その場合は2016年のペナントレースで広島に大差を付けられることはなかった。
- 原が2015年限りで監督を勇退していたら、斎藤雅樹が監督になっていたかも知れない。
- 2016年以降も原がそのまま継続していた。
- ヤクルト
- 背番号は3か9になっていた。
- 二岡は広島に入団していた。
- 小野寺麻衣と結婚することはなかった。
- フジのアナウンサーと結婚していたかも。
- ヤクルトはその後も慶應の選手を多数獲得。
- 藤井、青木、田中浩康ら早稲田の選手は他球団へ・・・?
- 現実より活躍していたと思われる。
- その場合稲葉は史実より早く日ハムへと移籍していた可能性も。
- 日ハムではなくイチローが抜けた後のオリックスあたりに移籍していたかも知れない。
- その場合稲葉は史実より早く日ハムへと移籍していた可能性も。
- 松井が抜けた後の巨人の成績は史実よりも低迷していた。
- 日本テレビも史実より早く巨人戦の中継を縮小していた可能性もある。
- ラミレスは入団していなかったかもしれない。
- 守備位置が被る稲葉がファーストに回されれば、ペタジーニはヤクルトに来てない可能性が濃厚。(実際、稲葉は高橋巨人入団初年度の1998年には20試合一塁を守っている)
- 西武
- 背番号は9になっていたか?
- その後も西武は慶応出身の選手を優先的に取っていただろう。
- 松坂と同時期辺りにメジャーリーグに挑戦していたかもしれない。
二岡智宏→広島or阪神[編集 | ソースを編集]
- 広島
- 広島県民から嫌われることは無かった。
- 野村謙二郎は2000本安打を打つことなく引退していた。
- 背番号7は預かり番号になることなく、二岡が継承していた(史実では2013年から堂林が付けている)。
- 背番号が2か4になっていた可能性もある。
- セカンドに固定された東出が2000安打達成
- シーツが2003年に入団する可能性も低くなり、下手すると2005年の阪神優勝が無かった。
- 山本モナと出会うこともなかったかも。
- 1998年のドラフトでは東出輝裕を指名していない、もしくは指名していても3、4位前後だった。
- 東出は背番号46の時代が長く続いたかも。
- 金本や新井と同様結局FAで他球団移籍していた可能性大。ただし日ハムに行くことはなかったと思う。
- 阪神に移籍していた可能性もある。その場合学生時代の同級生である福原投手とチームメイトとして再会していた。
- 移籍時の記者会見にて新井の「辛いです」のような発言をしてその後叩かれたり、あるいはネット上でネタにされていたかも知れない。
- 新井のように最後は広島に復帰して現役引退、となっていたかも。
- 阪神
- 広島県民から嫌われたにしても、その度合いは巨人より少なかったかも。
- 金本・新井・シーツは阪神入りしなかった。
- 学生時代の同級生である福原投手とチームメイトとして再会していた。
- ABCのアナウンサーだった山本モナと出会い、その後結婚していた。
- 鳥谷は阪神に入団しなかったかも知れない(早稲田の同級生の青木と一緒にヤクルトへ?)
- その場合、鳥谷は巨人に入団していた。
- 巨人のその後
- 川相がもう1、2年ショートのレギュラーを務めた後はしばらくレギュラーが固定出来ない状況になっていた可能性が高い。
- とりあえず元木や川中あたりで数年やりくりした後、史実通りロッテから小坂を獲得してようやく固定、と言った感じになっていたか?
- 松井稼頭央がメジャーに行かずFAで移籍して来た可能性もあり得そう。
福留孝介→巨人[編集 | ソースを編集]
日本では中日でプレーした福留孝介ですが、1995年時点では中日のほかに巨人も希望していたほか、FAでは巨人移籍も最初は視野にあったそうです。もし巨人に入団していたら…
- 入団1年目でクリーンアップの座についていたかも。
- 1999年と2004年は巨人が優勝。
- 1995年のドラフトで入団した場合、メークドラマの96年も日本一になれていた。
- 2001年も。
- 2007年CSで大惨敗することもなかった。
- 2007年後半の福留は故障で出場できなかったから関係ない。
- 巨人は高橋由伸と二岡智宏のいずれかを獲得しなかった。
- 福留は当初ショート。外野に転向したとしても松井秀喜と清水隆行がいて、ポジションがかぶるため。
- 2007年のFAで入団していたら、高橋・二岡はトレードに出されていた可能性もある。
- やっぱり年俸で揉める。
- そして史実どおりMLBへ。
- 税金を払うのが嫌だと言ってメリケンに行くであろう。
- 2013年に日本球界復帰するも阪神には入団しなかったかもしれない。
- そして史実どおりMLBへ。
- 背番号は1995年のドラフトで入団するとしたら原辰徳から引き継いだ8、史実と同じ98年のドラフトの場合は二岡智宏の代わりに7をつけていたかも。
山口鉄也→横浜or楽天[編集 | ソースを編集]
読売ジャイアンツの山口鉄也は、実は出身地の球団である横浜ベイスターズのファンで、横浜の入団テストを受け、当時在籍していた佐々木主浩も獲得を進言していましたが、結局不採用になりました。その後楽天の入団テストも不採用になり、3球団目の巨人の入団テストでようやく合格になり入団。現在に至ります。
もし、山口がこれらの球団のテストに合格していたら、どうなっていたのでしょうか?
- 横浜
- 大魔神佐々木の引退後の評価が、若干変わっていたかも。
- 親会社がDeNAになったと共に監督・コーチではなく、GMとして復帰していたかもしれない。
- 「第2の大魔神」として横浜のストッパーに君臨する。
- 山口俊とともに「W山口」と呼ばれていた。
- そもそも、テストの段階ではストレートが130km程度しか出ないレベルの投手。横浜が取っても、打てない吉見が一人増えただけな気が・・・
- 楽天
- 2007年はAクラス、2008年も4位は狙えていたかも。
- 巨人で残している通りの成績なら、星野監督就任前後から抑えに定着していた。
- 2013年の日本シリーズで則本とマー君は先発オンリーだった。
- 巨人のその後
- 越智、西村の台頭や、久保のリリーフ転向まで巨人のリリーフ投手不足はしばらく続いていた。
- 当然ながら2007年以降の巨人の成績にも影響を及ぼしている。
- その間のリーグ優勝、日本一が無かった場合、原監督が巨人の監督を続けられたかも不透明。
長嶋一茂→巨人[編集 | ソースを編集]
- ここでは大学を卒業してすぐ巨人に入団していたらということを考えます。
- 背番号は「36」になっただろうか?
- 入団当初は33番で、父親の監督就任時に36番に変えていたかも。
- あるいは引退した江川卓から30番を引き継いでいたかも。
- 入団一年目はファームでじっくりと育てられた。
- イースタンリーグがテレビ中継されるようになっていた。
- 原の外野か一塁へのコンバート時に一軍に定着。
- 長嶋氏が巨人監督就任以降の野村氏との仲違いはなかった。
- 藤田監督なら一茂をほめてやる気にさせて、実力を発揮することが出来る選手に出来たかも。
- その場合、大久保博元が西武から移籍してくることは無かった。
- いずれにせよ、史実よりは成績はマシになっていたかもしれない。
- もう少し長く現役を続けていたかもしれないが、引退後はどっちみちタレントになっていたかも。
- ルーキーイヤーが東京ドーム1年目でもあるため、現実以上に盛り上がった。
ダルビッシュ有→楽天[編集 | ソースを編集]
高校3年時、参入を目指していた楽天もラブコールを送っており、自由枠で一場ではなくダルビッシュを選択した可能性もありますが、もし一場ではなくダルビッシュを獲得していたら?
- 日本ハムはドラフトで一場を指名していた。
- 楽天は2007年頃からダルビッシュ退団までAクラスを続けた可能性がある。
- 史実通り田中将大も獲得できていたら野村監督時代に1度はリーグ優勝していたかも知れない。
- 高校時代を過ごした仙台、という意味でも地元ファンは大歓迎だったはず。
村田修一→巨人[編集 | ソースを編集]
巨人から多額の契約金を用意されて獲得の意思が伝えられていたが、巨人側の「指名してやるから来てくれ」の態度に不満だったらしく横浜に入団した。
- 日大の監督が巨人側と金銭面で揉めたせいじゃなかったっけ?
- 矢野の引退試合で矢野が出られなくなると言う事は起きない。
- 佐々岡真司のときも含め、現実通り「引退試合キラー」になればなったで彼へのブーイングが現実以上になった。
- 阿部や坂本と共に巨人の主砲として活躍していた。
- 横浜は2001年以降一度もAクラスに行けていない。
- 身売りが早まったかもしれない。
- ↑いや内野の枠が空いてかつ内川のブレークが3年早ければ2005年は史実通りAクラス入りしたりして…
- 入団即レギュラー、ということにはならなかったかも知れない。
- もし1年目からレギュラーで活躍していたら小笠原がFAで移籍してくることはなかったかも。
- ↑それ以前にダイエーから小久保を無償トレードで獲得する事は無かったかもしれない…
- その場合によっては04~05もソフトバンクが日本一になり21世紀初の日本シリーズ連覇が史実より早く実現していた。
- 江藤に衰えが出ていて、清原も故障がちだった当時の現状を考えると、2003年シーズン中に一軍デビューは果たしていたと思う。
- 横浜は自由枠で久保を指名していた。
- その場合は巨人の投手崩壊に拍車がかかり、もう少し成績を落としていた可能性も。
- 小川博文は史実よりもう2~3年ぐらいは現役を続けていた。
- 2017年オフに自由契約になる事はなかった。
- その代わりフリーエージェント権を行使していた可能性大。
- 代打に回されて「ヒマー」というのは史実通り?
松中信彦→ヤクルト[編集 | ソースを編集]
1996年ヤクルトが逆指名1位での獲得を目指しましたが、これを拒否し地元九州のダイエーに2位指名で入団しました。
- 同じ一塁手のペタジーニがヤクルト入りすることはなかった。
- 中日が獲得を検討していたらしいので、遅ればせながら日本には来てたかもしれない。
- ヤクルトが巨人を自由契約になった落合獲得に乗り出すこともなかった。(ヤクルトより好条件を提示した日本ハムへ)
- 2004年の三冠王は、タイロン・ウッズとタフィ・ローズに本塁打王を阻まれていたかもしれない。(ともに45本/松中44本)
- 神宮球場の広さを考えたら、45本以上打っていた可能性も考えられる。
- 畠山の
パチンコ二軍生活はさらに長引いていた。- 他球団に移籍してブレイクしていたかも知れない。
- 2013年ヤクルトは低迷したため、交流戦優勝セレモニーをボイコットするという事態にはならなかった。
- ヤクルトのAクラス入りも増え、上手く行けば優勝回数も増えていたかも。
- しかしプレーオフや日本シリーズでブレーキになりネット上で『秋の風物詩』と呼ばれるのは史実通り。
- FAでホークスへ移籍→その後は史実通りに、という可能性もありそう。
久保裕也→横浜[編集 | ソースを編集]
当初、自由獲得枠で久保を指名する予定でした。
- 横浜と東海大学の関係は悪化していなかった。
- 長谷川スカウトも退団していない。
- 当時のマシンガン継投で巨人に行った時よりも活躍できてない可能性も。
- 加藤武治を先発で起用したままでも木塚・川村・クルーン・久保で「クアトロK」を結成する事が出来た。
- その為、2006年の最優秀中継ぎ投手は藤川球児の単独受賞だったかも。
- 加藤武治を先発で起用したままでも木塚・川村・クルーン・久保で「クアトロK」を結成する事が出来た。
- しかし2015年のオフ、十数年越しの悲願達成(巨人から戦力外となったところを獲得)。
- 2008年以降クローザーを務める。
- 寺原は抑えに回されることなくずっと先発ができたので、2008年は2桁勝利できた。
- 逆に那須野は中継ぎに回るので、12敗もしなくて済んだ。
- 2009年以降は山口俊が抑えになることはなかったので、史実で山口俊で負けた試合は勝つことができた。
- 山口俊は早い段階で先発としての才能を発揮できた。
- 寺原は抑えに回されることなくずっと先発ができたので、2008年は2桁勝利できた。
鈴木哲→巨人or中日[編集 | ソースを編集]
1987年のドラフト会議で巨人か中日が1位指名する予定でした。
- 中日
- 1988年の新人王を獲得していた。
- 1988年のリーグ優勝に貢献していた。
- 北村照史氏とのトレードで、鈴木康友氏とともに西武へ移籍していた。
- 立浪和義は南海が単独1位指名していた。
- 巨人
- 大学の先輩である藤田元司氏から可愛がられていた。
- 1989年の日本一と1990年のリーグ優勝に貢献していた。
- 1992年のシーズン途中で、大久保博元氏とのトレードで、西武に移籍していた。
- 1988年のドラフト会議で後輩の志村亮氏が1位指名されていた可能性が高い。
多田野数人→横浜[編集 | ソースを編集]
久保の次は多田野を自由獲得枠で獲得する予定でした。
- 例のアレが表沙汰にならなかったor強行指名したことが前提になる。
石井大智→巨人[編集 | ソースを編集]
2019年のオフに巨人の入団テストを受けたが不合格、翌年のオフに阪神に8位指名されました。もし巨人の入団テストに合格して入団していたら…。
- 果たして巨人の抑えになってたのだろうか…。
- 巨人は石井を育成できず消えていた可能性もある。
- 巨人で成功していた場合、令和に入ってからの巨人の成績は現実よりも良かったかもしれない。
- 恐らく阪神と互角に戦っていただろう。
他リーグから日本プロ野球への復帰[編集 | ソースを編集]
城島健司→ソフトバンク[編集 | ソースを編集]
日本球界への復帰の際、ソフトバンクも獲得を検討していたものの年俸の高騰により断念している。
- 細川亨の獲得はなかった。
- 今宮健太が背番号2を背負う事はなかった。
- 本人の意向も考えると引退は史実と同時期の可能性が高い。
- 引退してすぐにホークスのバッテリーコーチを務めたかも。
- 晩年はDHでの出場が主になっていた。
- 阪神のスタメン捕手は2010年以降も狩野恵輔がマスクを被ることが多く、そのまま狩野が正捕手になっていた可能性もある。
- 2010年の阪神が優勝争い出来ていたかどうか怪しい。
- その場合、矢野の引退試合があんなことにはならなかっただろう。
- 2010年の阪神が優勝争い出来ていたかどうか怪しい。
福留孝介→横浜DeNA[編集 | ソースを編集]
- ナイジャー・モーガンの獲得はなかった。
- 逆に阪神が獲得していた可能性も十分考えられる。
- 若返りを目指すチームの方針や本人の性格を考えると、2015年オフに戦力外or年俸交渉決裂による退団となっていた可能性が高い。
- ただしそれを乗り越えられていれば、史実でも本人が得意とする横浜スタジアムで大活躍していたのは間違いない。
- 2018~19年の横浜は福留・ソト・筒香・ロペス・宮崎の超重量打線に…
- ただしそれを乗り越えられていれば、史実でも本人が得意とする横浜スタジアムで大活躍していたのは間違いない。
- 2014年のゴールデングラブ賞の外野手部門は大和ではなく梶谷隆幸が受賞していたかも(大和曰く福留の助言によるところが大きかったらしい)。
イチロー→オリックスor中日[編集 | ソースを編集]
FA権取得した2012年オフとマイアミ・マーリンズを自由契約となった2017年オフに日本球界復帰説が噂されました。
- オリックス
- 2012年オフの場合、トレードの糸井嘉男かFAの平野恵一のどちらかが移籍してこなかったかも。
- 2014年に優勝に導いていた。
- 2015年以降もまともな成績を残せた。
- 2014年に優勝に導いていた。
- 2017年オフの場合も含め、ブルーウェーブ時代のチームメイトだった福良淳一がもう少し長く監督を務めていた。
- 西村徳文が監督就任することはなかった。
- 同じくブルーウェーブ時代のチームメイトだった中嶋聡が監督就任する頃に外野守備走塁コーチを兼任する。
- 目標通り50歳まで現役を続けられていた。
- その場合、2021年のリーグ優勝にも貢献していた。
- 「オリックス・ブルーウェーブ」と「オリックス・バファローズ」の両方の優勝を現役選手として経験した唯一の選手となった。
- 日本シリーズの相手が史実通りヤクルトでそれを破った場合、26年越しの因縁を解決したと言われた。
- 2018年に怪我がなければ引退が遅れていた。
- その場合、2021年のリーグ優勝にも貢献していた。
- 彼(イチロー)の要望で、ほっともっとフィールド神戸での主催試合を増やしていた。
- それ以前に2004年に近鉄との合併が撤回されていれば、神戸からの移転がなかったかも。
- もしかしたら神戸での主催試合全てでブルーウェーブ時代の復刻ユニフォームを着用していたかも。
- ブルーウェーブ時代からのマスコット「ネッピー」と「リプシー」も神戸での主催試合全てで復活している。
- 引退セレモニーもほっともっとフィールド神戸での主催試合で行われた。
- 坂口智隆や後藤駿太や宗佑磨や吉田正尚が影響を受けていた。
- 中日
- 「地元の星だ」と大歓迎される。
- 2013年以降の成績がもう少しまともになっていた。
- 高木守道がもう少し長く監督を務めていた。
- 谷繁元信が選手兼任監督にならず、監督就任が遅れていた。
- 2013年以降も巨人や阪神と優勝を争っていた。
- 高木守道がもう少し長く監督を務めていた。
- リカルド・ナニータやソイロ・アルモンテの獲得はなかった。
- 川崎貴弘と山本雅士と京田陽太の背番号が異なっていた。
- 目標通り50歳まで現役を続けられていた。
- 2018年に怪我がなければ引退が遅れていた。
- 晩年はコーチ兼任かも。
- もちろん最低一回は「燃えよドラゴンズ!」の歌詞になっていた。
外国人選手[編集 | ソースを編集]
モーリー・ウィルス→南海[編集 | ソースを編集]
実際に南海は獲得を検討していたそうです。
- 引退後は、野村克也氏のもとでコーチをやっていた。
- 阪急でコーチをやることはなかったかもしれない。
- 野村克也氏が退団した後に、阪急でコーチをやっていた可能性がある。
- 阪急でコーチをやることはなかったかもしれない。
- 息子のバンプ・ウィルスも南海入りしていた可能性が高い。
シャーマン・オバンドー→中日[編集 | ソースを編集]
中日ドラゴンズから獲得のオファーがあったが、「もう日本には戻りたくない」と断っているがもし入団していたら?
- イバン・クルーズが再来日することはなかった。
- 主に、一塁を守っていた。
- オマール・リナレスは退団していた。
金炳賢→ロッテ[編集 | ソースを編集]
2004年オフにロッテ移籍がささやかれていましたが…
- クローザーとして起用されたと思われるが、ロッテが期待するほどの成績を残せていたかは微妙と思われる。
- 流石にミセリみたいなことにはならなかったと思うが…
- その後の楽天入りもなかったかもしれない。
デーブ・スチュワート→巨人[編集 | ソースを編集]
1985年、巨人はデーブ・スチュワートを獲得する計画がありましたが、買春の疑いがあったとして巨人移籍は取りやめとなりました。もし巨人に移籍していたら…
- 1986年は巨人が優勝していた。
- 日本でまともな成績を残せなかった場合、メジャー復帰後に才能開花しその後は実史とあまり変わらなかったかも。
- 王監督がミッチェル獲得に動くこともなかったかも。
- サンチェの巨人入団もなかった。
- 通訳として担当していたボビー・マルカーノ氏が入団することはなく、古巣の阪急でスカウトかコーチを務めていた。
オレステス・デストラーデ→阪神[編集 | ソースを編集]
西武入団前年に阪神が獲得する計画がありましたが、当時の外国人枠の問題から断念しました。もし入団していたら?
- タイ・ゲイニーは西武入りしていた。
- この頃西武はデストラーデとゲイニーのどちらを獲得するか悩んでいた。
- ラリー・パリッシュの阪神入りもなかったかもしれない。
- 史実通りの活躍なら1992年の阪神はリーグ優勝、それ以外の年も何回かはAクラス入りしていた。
- 逆に西武の黄金時代は史実よりも早く終わっていた。
- 爆上戦隊ブンブンジャーに登場するデコトラーデは口調が関西弁になっていた。
- 鈴木健のブレイクも早まっていた
- ジム・パチョレックは横浜大洋・横浜で現役を全うした。
- 史実通り活躍できなかった場合、爆上戦隊ブンブンジャーに登場するデコトラーデは違う名前になっていた。
- DHがなく、守備面の負担があるため、西武在籍時ほどの成績は残せなかった可能性も。
ロベルト・ペタジーニ→中日[編集 | ソースを編集]
ヤクルト入団前年に中日が獲得する計画がありましたが、星野仙一監督の「守り勝つ野球」の意向を唱えていたため獲得を断念しました。もし入団していたら?
- 1998年に本塁打王を獲得していた。
- 松井秀喜の本塁打王の回数が1回減っていた。
- いや、逆に1999年はペタジーニは他球団からの対策で本塁打が減って、松井はその年に本塁打王を獲得していただろう。
- 1998年終盤に松井との本塁打王争いで、星野監督は1996年同様、松井を全打席敬遠させ、巨人ファンから再び罵声を浴びていた。
- 松井秀喜の本塁打王の回数が1回減っていた。
- 李鐘範は入団しなかった。
- 山崎武司は史実より早くトレードに出されていた。
- ゴメスは史実より早く退団していたかもしれない。
- ヤクルトは2001年優勝できなかったかもしれない。
ケビン・ミラー→中日[編集 | ソースを編集]
ケビン・ミラーは02年オフに中日ドラゴンズと契約を一度結んでいたが、実史ではそれを破棄しボストン・レッドソックスに移籍しました。
ではもしミラーがレッドソックスでは無く中日に移籍していたら
- アレックス・オチョアの来日はなかった
- うまく当たれば03年にはリーグ優勝を果たし、04年との連覇にも貢献
- それはない。下手したら落合の招聘、タイロン・和田の移籍は実現しなかっただろう。
- 好成績を残せなかった場合、暗黒時代突入もありえた。(守備ではアレックスの方が上だった)
- オマール・リナレスは史実より2年早くキューバに強制送還された。
- その後、広島に移籍していた。
- 毎年三割20本塁打近く打って四球率も悪くない現役バリバリのメジャーリーガーなので好成績をのこしていた。BABIP運にもよるが首位打者と本塁打王の二冠を狙えた可能性が高い。
- それでもナゴヤドームということを考えると本塁打王は無理だったかも。
- 当時の日本人強打者が松井秀喜以外はメジャーに移籍して軒並み10本塁打程度に落ちていたことを考えると、トップレベルの長打があっただろう。
- それでもナゴヤドームということを考えると本塁打王は無理だったかも。
- アレックスはいなかったが、当時の外野手陣はアレックスがいなくても割と充実しており、特に強肩好守タイプは多かったので、いなくてもあまり変わらない。2003年の中日は固定できない穴だった一塁手を固定し独走優勝していた。
- しかし、落合監督の招聘とウッズ獲得に失敗していたし、代打と一塁手守備固めを兼ねるスーパーサブとしての渡辺の発掘もなかっただろう。
- 長期的に見ると獲得できなくてよかったのかもしれない。
- しかし、落合監督の招聘とウッズ獲得に失敗していたし、代打と一塁手守備固めを兼ねるスーパーサブとしての渡辺の発掘もなかっただろう。
ラルフ・ブライアント→近鉄[編集 | ソースを編集]
近鉄で活躍したブライアントも、最初は中日にいました。では最初(1988年5月)から近鉄に入団していたらどうなっていたでしょうか?
- デービス退団後すぐに1軍登録され、HRも史実より5~6本ぐらい多く打っていた。
- 1988年の近鉄は優勝できていた。
デーブ・ジョンソン→近鉄[編集 | ソースを編集]
巨人退団時に近鉄が獲得意思を見せるも、巨人の横やりで実現せず。
- 近鉄が1979年か1980年の何れかに、日本一になれていた可能性がある。
カール・ヤストレムスキー→ヤクルト[編集 | ソースを編集]
ペピトーンがダメすぎた為に、交渉を持ちかけたことがあったそうです。
- マニエルの入団はなかったか、ヤストレムスキー退団後に持ち越されていた。
- マニエルはヤクルトではなく、近鉄(史実ではヤクルト退団後に入団)へ入団した可能性がある。
与那嶺要→中日[編集 | ソースを編集]
戦力強化を急いでいた読売ジャイアンツのスカウトを受け、シーズン途中に来日したがもし中日へ入団していたら?
- 1950年代はチームが3,4回優勝していた。
- 長嶋茂雄は巨人へ入団していなかったかもしれない。
ケーシー・マギー→巨人[編集 | ソースを編集]
楽天と契約を結ぶ前に、巨人と交渉するも契約を結ぶには至らず。
- 2013年楽天の成績が若干下がっていた。
- サードには村田がいるのでファーストを守っていた。
- ロペスの獲得は恐らくなかった。
- 2016年以降の横浜の躍進がなかった。
- 成績次第ではのちに史実で入団する2017年ごろまで在籍し続けていた。
郭泰源→巨人[編集 | ソースを編集]
巨人も獲得に熱心だったそうです。
- 1987年、1990年の日本シリーズで巨人が日本一になっていた可能性があった。
- 桑田の獲得はなかったかも知れない。
- 桑田は大学進学、清原を指名した可能性も
- 郭投手同士(中日:郭源治)の投げ合いが実施していた。
ランディ・バース→阪急[編集 | ソースを編集]
当初、阪急ブレーブスも着目し、契約面で、阪神タイガースと競り合いました。
- ブーマー・ウェルズorバンプ・ウィルスのどちらかを獲得しなかった。
- 代わりに阪神にブーマーが入団していた。その場合本名の「グレゴリー・ウェルズ」として登録されていた。
- バース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発のバースの部分がグレゴリー(ブーマー)になっていた。
- 「グレゴリー・ウェルズ」で登録されていた場合、この年のクリーンナップを表す略語が「GKO」になっていた。「G=ジャイアンツをKOする」という意味にも取れるので、アンチ巨人にとっては2重に縁起のいい言葉になっていた。
- 代わりに阪神にブーマーが入団していた。その場合本名の「グレゴリー・ウェルズ」として登録されていた。
- 1984年に三冠王になっていた可能性が高い。
- 1984年の日本シリーズでは、阪急が日本一になっていた。
- 阪神は1985年のリーグ優勝と日本一はなかったかもしれない。
- ブーマーが代わりに入団していれば史実通りかもしれない。
- 長男の病気を巡って、球団と対立することはなかった。
ドン・ベイラー→西武[編集 | ソースを編集]
- 西武の監督である広岡達朗氏から獲得の進言を受けていました。
- 郭泰源氏が入団することはなかった。
- 巨人に入団していた可能性が高い。
- 1985年の日本シリーズに出場していた。
宣銅烈→巨人[編集 | ソースを編集]
- 日本球界入りにあたり、巨人と中日の争奪戦の末、中日に入団。もし巨人に入団していたら
- 槙原寛己のストッパー転向はなかった。
- 岩瀬は1年目からストッパーに定着していた。
- 1年目は成績が悪かったため、優勝出来ていないかもしれない。
- 李鍾範、サムソン・リーも巨人に入団していた。史実での中日での成績並みに活躍していれば、1999年は巨人が優勝していたかも。
- 1年目の不調が史実通りなら、渡辺恒雄氏が韓国野球を見下す発言をし、韓国球界関係者を激怒させていた。
マイク・グリーンウェル→中日[編集 | ソースを編集]
- 最初は中日が獲得することも検討していましたが、当時の星野監督がメジャー関係者から入手した素行情報等を元に獲得を断りました。もし中日が獲得していたら
- レオ・ゴメスの入団はなかった。
- ゴメスが阪神に入団していた。
- この場合野村監督時代の成績が3年連続最下位ということはなく、Aクラス入りも達成できていたかも。
- ゴメスが阪神に入団していた。
- もし、怪我等が発生し、「神のお告げ」で引退していたら、星野がキレまくっていた。
- この場合、1999年の中日の優勝はなかったかも。
フィル・ハイアット[編集 | ソースを編集]
- 小久保選手の代役としてダイエーが獲得を検討していました。もしダイエーが獲得していたら
- ズレータの入団はなかった。