もしあの大名家があの地域を治め続けていたら
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改易・転封・跡継ぎ不在による断絶などがなく、あの大名家があの地域を治め続けていたら?
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東北[編集 | ソースを編集]
最上家(山形)[編集 | ソースを編集]
- 独眼竜政宗での最上義光の描かれ方は現実よりマシになっていた。
- 仙台との関係は現実より対立的になっていた。
- 奥羽越列藩同盟には参加せずに伊達と交戦する。
- 庄内も領地だったので内陸と庄内は現実より親密になっていた。
- 秋田県由利も領地だったので由利も山形県になっていた。
- そのかわり上杉領である米沢との県内対立が顕在化。
- 山形にも庄内にも譜代大名が来ないので会津藩と越後村上藩が奥羽の要として重要視される。
- 山形は仙台ほどではないにしても、現在でも史実の金沢クラス(50万人規模)の都市にはなっていた。
- 戸沢・六郷家が出羽に戻ることもなかった。
鳥居家(山形)[編集 | ソースを編集]
- 何度か大老を輩出していたかも知れない
- 庄内の酒井家と共に東北地方の要所として重要視される
- 山形藩の財政が悪化することもなかった
- 史実の山形藩は改易、転封の際に縮小していった歴史があるので
- 戊辰戦争が更に激しい戦いとなっていた
- 明治期に成立した山形県はどうなっていたのやら
- 仮に史実通り「山形県」のまま成立していたら宮武外骨の説は有名にならなかった
- 「村山県」になっていたか。それとも格下の藩に県庁所在地をとられるか
蒲生家(会津)[編集 | ソースを編集]
- おそらく忠郷の弟、忠知への相続が認められたということになる。
- そして忠知の死後、別の家からの養子が認められたということに。
- 加藤嘉明は伊予松山藩主のままだった。
- 外様なので当然京都守護職は受けない。
- 当然会津戦争は起こらないので幕末の東北は平和なまま。
- 会津若松市は若松県の県庁所在地として栄えていた。
- 東蒲原郡も若松県(仮)のままだった。
- その場合京都守護職になりそうなのは福井か松山。
- 保科正之が最終的にどこの地に落ち着くかによるかも。その家訓を守った藩がやはり京都守護職になるのでは。
- 当然会津戦争は起こらないので幕末の東北は平和なまま。
関東[編集 | ソースを編集]
佐竹家(水戸)[編集 | ソースを編集]
- 水戸黄門がドラマ化されることはなかった。
- 確実に佐竹家が東軍に付いていたことが条件となる。
- 東軍に付いていたとしても、そのままだとしたら福島やW加藤らとともに何らかのイチャモンを付けられて改易されているだろう。うまく立ち回らないと、江戸にほど近い水戸で勢力を維持していくのは難しいだろう。
- 徳川と縁戚関係を結んでいただろう。場合によっては断絶したタイミングで徳川から養子を受けていた。
- 岩城や相馬などは確実に切り離されていた。
本多家(宇都宮)[編集 | ソースを編集]
- 宇都宮城釣天井事件はない。
- 土井利勝の立場が危なくなる。
- 本多家からも大老が出たかもしれない。
- 栃木県と宇都宮県の合併当初から県庁所在地だった。
真田家(沼田)[編集 | ソースを編集]
- 沼田城が破却されることはなかった。
- 群馬県の観光名所になっている。
- 新幹線が停まってるかもしれない。
里見家(館山)[編集 | ソースを編集]
- 館山城の痕跡がしっかりと残っていた。
- 南総里見八犬伝はなかった。
- 理由は里見家からウチを題材に書かないでほしいという苦情が来たから。
- 幕末に関東の混乱に巻き込まれる可能性あり。
- 房総半島の沿岸警備のため多額の出費を強いられていた。
- 関東に散った旧幕府軍を攻撃していた。
甲信越・北陸[編集 | ソースを編集]
長沢松平家(高田)[編集 | ソースを編集]
- 新潟県の県庁所在地が上越市になっている。
- 県名は「高田県」となり、直江津と合併後も「高田市」なのはいうまでもない。
- 高田城はかなり立派な形で残っていた。
- 幕末に高田藩主が京都守護職の候補になるかもしれない。
東海[編集 | ソースを編集]
徳川家(駿府)[編集 | ソースを編集]
- 秀忠の血統が残ったかもしれない。
- この場合、家継の死後に駿府徳川家から将軍が出されていた可能性がある。
- 忠長の評判はそれほど悪くならなかった。
- 南條範夫は福井城(松平忠直)あたりを舞台に凄惨な御前試合の小説を描く。
- 忠長が幼い嫡男を残して家光の将軍就任直後あたりで早死にしていたら残ったかもしれませんね。
- 静岡の地位は史実よりやや向上するが、のぞみが通過する事に代わりはない。
- 少なくとも人口が浜松に抜かれることはなかった。
- 松平長七郎の伝説は生まれるが、松平忠輝あたりの忘れ形見として語られる。
- 水戸家は御三家として扱われない。
金森家(高山)[編集 | ソースを編集]
- 豊富な資源で、そこそこ発展する。
- 高山陣屋はなかった。
- なので高山の観光名所が一つ減る。
- 高山県が出来るかも。
近畿[編集 | ソースを編集]
浅野家(和歌山)[編集 | ソースを編集]
- 史実で浅野家の後に和歌山を治めた徳川頼宣(紀州徳川家初代)は、そのまま駿府を治めていた。
- 駿府藩が御三家になっていた。
- 福島正則改易後の広島は十万数千石程度の中規模の藩。竹原・西条・大竹・安芸高田・尾道に数万石程度の小藩ができるほか、幕府直轄領も広島各地に点在。
- 江戸時代に発展せず。
- 中国地方の中心は岡山に。
- 明治になった後、鎮台は広島ではなく山口県に置かれる。
- 赤穂ではなく三重・和歌山県内に支藩があった。
- 幕末には倒幕運動に参加した。
浅野家(赤穂)[編集 | ソースを編集]
- 関連項目:もし赤穂事件が○○だったら
- 浅野内匠頭が史実通りに刃傷沙汰を起こしていても、弟の浅野大学を立ててお家再興をしていた可能性があります。
- すると、半分くらいの藩士はそこに吸収されるため、吉良邸へ討ち入るモチベーションが無くなり、忠臣蔵の事件は起こらない。
- その場合、歌舞伎のベストヒットは何になるだろう?
- 「曾我兄弟の仇討ち」でしょう。そもそも江戸時代で一番人気があった人物は曾我五郎だし。
- 泉岳寺の知名度が史実より低かった。
- せいぜい京急ファンや沿線住民に京急終着駅として知られる程度。
- そもそも「泉岳寺駅」にならず「高輪駅」あたりだったのでは。
- せいぜい京急ファンや沿線住民に京急終着駅として知られる程度。
中国[編集 | ソースを編集]
中村家(米子)[編集 | ソースを編集]
- 鳥取との対立がより深いものになっていた。
- 米子城が破却されることもなかった。
堀尾家(松江)[編集 | ソースを編集]
- 堀尾家が残っていれば小山評定で山内一豊が忠氏の案を盗んだが、一豊がそれほど悪くいわれることもなかった。
小早川家(岡山)[編集 | ソースを編集]
- 幕末までずっと監視されている。
- 豊臣一門ということもあって、秀秋が長生きしていたとしてもなんかしらでイチャモン付けられる。
- 戊辰戦争で裏切る。
- 幕府軍から「その行い藩祖に似たり」と呆れられる。
- 池田家は鳥取が本家。
- 姫路にも池田家の分家がある。
- 戊辰戦争で姫路藩は官軍側につく。で、明治以降は播磨一円が姫路県となる。
- 播磨が兵庫県に組み込まれたのは神戸港の財源を確保するためなのでそれはない。
- 戊辰戦争で姫路藩は官軍側につく。で、明治以降は播磨一円が姫路県となる。
- 秀秋が長生きしていた場合、家光から度々呼び出されて関ヶ原の戦いの昔話をせがまれていた。
- 熊沢蕃山はどこか別の藩に仕官していた。
- 閑谷学校は存在しなかった。
福島家(広島)[編集 | ソースを編集]
- 徳川家から幕末まで冷遇される。
- 幕末には長州藩以上に過激な倒幕勢力となる。
- 浅野家は和歌山のまま。
- となると、御三家は福井あたりかな?
- それとも姫路とか?
- たぶん駿府だろ。
- 甲府も有り得る。
- 茶道上田宗箇流の本拠地は違う場所になっていた。
- 「浅野四十二万石」という菓子は存在しなかった。
- むしろ和歌山銘菓として売られていた(石高は変わるだろうが)。
- 福山藩は支藩扱いになっていた。
- 福山城の規模がかなり小さくなっていた。
四国[編集 | ソースを編集]
生駒家(高松)[編集 | ソースを編集]
- 徳川光圀の息子・松平頼常は別の藩の藩主になっていた。
長曾我部家(高知)[編集 | ソースを編集]
- 上士・郷士の区分がなく下級武士の不満がたまらないため、土佐藩は幕末に活躍できなかった。
九州[編集 | ソースを編集]
田中家(柳川)[編集 | ソースを編集]
- 久留米の代わりに柳川が発展している。
- 鹿児島本線は柳川経由だったかもしれない。
- 立花宗茂は一生元の領地に帰れなかった。
- 幕末で立花家は戊辰戦争で激しく戦う。
- 田中吉政はそこまで影が薄くなることはなかった。
- 大河ドラマの主人公になれたかもしれない。
- こうなっていた。
- 支藩として八女藩と久留米藩ができた。
立花家(柳川)[編集 | ソースを編集]
- 条件は立花宗茂が東軍につくことだったので、後世での宗茂の評価は下がった。
- 50万石に加増されていたかもしれない。
- 田中吉政が別の所に行ったために、水郷柳川はなかった。
- 宗茂が余所に加増されて、その後に田中が入ってくることになると思う。
高橋(立花直次)家(三池)[編集 | ソースを編集]
- 三池藩の財政が少しだけ良くなる。
- 旧高田町が大牟田市と合併していた。
- 直次は立花を名乗ることなく、高橋の名が続いていた。
寺沢家(唐津)[編集 | ソースを編集]
- 寺沢家の評価が少しだけ上がっていた。
- 理由が天草でのキリシタン弾圧だからなあ・・・。
- 唐津城には本物の天守が建てられた。
有馬家(島原)[編集 | ソースを編集]
- 島原の乱はそれほど酷いものにはならなかったかもしれない。
- 前提的にキリシタン弾圧や圧政が無かったらだろうし。
- 島原市ではなく、有馬市が誕生していた。
- 「有馬温泉は有馬市にありません」と言われる。
加藤家(熊本)[編集 | ソースを編集]
- 西南戦争の時、史実よりも酷い戦いになっていた。
- 細川家は幕末まで小倉藩の藩主。
- 幕末で長州藩と互角の戦いをしていた。
- 細川家は外様なので戦わないかもしれない。
- 戦後になって熊本県知事ではなく北九州市長を輩出。
- もしかしたら小倉県が存続して、小倉県知事を輩出したかもしれない。
- 清正の末裔が熊本県知事になるかも。
- 幕末で長州藩と互角の戦いをしていた。
- 幕末には薩長と並ぶ西南雄藩として台頭する。