江戸時代バカ殿伝説
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江戸時代三百藩の殿様のおバカな伝説、マヌケな素行、常軌を逸した噂話、迷言珍言などを集積する項目。
親藩[編集 | ソースを編集]
松平忠輝[編集 | ソースを編集]
- 家康の六男。兄の秀康同様、家康からは嫌われた。
- 赤ん坊の頃醜かったからという。家康はどうも、子供の美醜で扱いを変える癖があったらしい。
- 肖像画では美化されている。
- 伊達政宗の娘婿。
- 政宗の長女の五郎八姫と結婚する。
- 一時期、政宗が忠輝を担いで幕府転覆を謀っているのではないかという噂が流れた。そのため秀忠にも警戒された。
- 付け家老の大久保長安も、何やらあれこれ画策していた気配がある。
- その五郎八姫は伊達政宗から「なんで男子で生まれなかったのか」と嘆かれるほど頭もよい美人だったらしい。
- 結局、大阪夏の陣のあとに改易される。しかしそれから長い長い余生を送り、なんと92歳まで長生きした。
- 「信長の野望」でクリアしないように続けていると、最後まで生き残る武将となることが多い。
- 半ば強引に生かされた。
- 隆慶一郎の小説では超人的な武勇を備えたスーパーヒーローみたいになっているが、あんまり真に受けないように。
徳川頼宣[編集 | ソースを編集]
- 親藩、それも将軍を扶翼する御三家でありながら幕府転覆を目論んでいたらしい不逞者。
- 時代劇や小説とかだと大抵悪役。
- 由井正雪の乱の黒幕だったという噂もある。
- 紀州和歌山藩祖で、南竜公と呼ばれた。南海道の竜。
- 和歌山の前は駿府、その前は水戸が領地だった。
徳川頼房[編集 | ソースを編集]
- 義直、頼宣と違い家光とは仲が良かった。何故かと言うと、他の二人と違って、家光の言うなりに動くパシリだったからである。
- 夜な夜な家光と共に城を抜け出して江戸の街を徘徊。夜遊びに耽っていた。
松平忠直[編集 | ソースを編集]
- 結城秀康の息子。
- 親父が家康の長子(もっと上の信康は早死にしたので)だったのに跡を継げず、おかげで秀忠の家来みたいな扱いになったことに腹を立てて大荒れ。
- 大阪夏の陣では真田幸村を討ち取る大殊勲を立てたのに、そのわりに褒賞が少なく、またもや大荒れ。
- ついに隠居を命ぜられて豊後に流される。まだ28歳という若さだったんだが。
保科正之[編集 | ソースを編集]
- 頼房同様、家光のパシリ。
- 「何があっても会津藩は徳川宗家への忠勤に励むこと」と家訓を残した所為で会津藩は後年悲惨な事に。
- 2代将軍徳川秀忠の庶子。恐妻家の秀忠が生涯2度だけした浮気の、たった1度の大当たり。
- 正之に対する幕臣のコメント。「2代様はよくぞ浮気をしてくださった!」
- 家光臨終間際に枕頭に呼ばれた正之は感激。お触れとして「会津藩は江戸幕府を守護せよ」と書いた。それから数百年後・・・
徳川綱條[編集 | ソースを編集]
- 親父の水戸黄門と一緒に水戸藩の財政を悪化させた人。
- 厳密には実父ではなく養父。綱條は光圀の兄・松平頼重の子。
徳川宗春[編集 | ソースを編集]
- 大浪費家で尾張家の財政を圧迫させた一方、風俗王国名古屋の基礎を築いた殿様として、栄・錦一帯では崇拝されている。
- 今思うと市井にお金を流通させるいわば景気刺激策とも取れるが。
- 八代将軍になる目もなくはなかったとか。それと関係あるのかどうか、紀州出身の吉宗とは仲が悪かったらしい。吉宗は緊縮財政・重農主義だし。
- 尾張藩には将軍家になるべからず、みたいな家訓があったらしい。
- 奇抜なファッションでも有名だった。
- 初めてのお国入りの際は、大牛(馬ではない)にまたがり、地面まで届く長大なキセルをスパスパ吸っていたとか。
- 没後に幕府からお咎めが来る恐れがあったため関連史料がかなり処分されている。
- 墓は名古屋大空襲で焼夷弾の直撃を受け少し焦げている。
- 没後も罪人扱いされ墓に網が被せられていたらしい。
松平頼恭[編集 | ソースを編集]
- 平賀源内という天才を臣下に持っておきながら、それに気づかずあっさりのがしてしまったバカ殿。
- 長崎に留学させ、さらに江戸に送ったところ致仕されてしまった。ぶちきれた頼恭は、源内を終身仕官お構いにしてしまう。
- もっとも、学問はよくできたらしい。ひとかどの本草学者でもあり、殖産興業に務めた。大名としては一応名君の部類には入るようだ。
- それだからかえって源内とうまく行かなかったという噂もある。
松平定信[編集 | ソースを編集]
- 地方自治体でうまくやれたからと、国政に打って出て、極端な倹約を推進して景気をぶちこわしたバカ殿。
- 前任者の田沼意次が放漫財政すぎたので、ある程度の緊縮は仕方がなかったが、それにしても規制のやりすぎで、都市部は火が消えたようになってしまった。
- 当然下々からの評判は悪く、「白河の水の清きに住みかねて元の濁りの田沼恋しき」などと悪口を言われた。
- その辺、紀州藩から出てって同じように長期不況を招いた徳川吉宗と共通する(定信も模範としていた)。こっちは貨幣改革やったからあんま非難されないが。
- 政治姿勢が、左翼知識人っぽい。
- やたらと自分の名声を気にし、部下に自分を美化した本をたくさん書かせて広める事で、自己のイメージアップに腐心した。
- 近年では定信を批判する意見も珍しくないが、それでも何となく清いイメージがあるのは、上記の川柳とともに、豊富な定信顕彰本の内容に歴史家たちも無意識のうちに影響されてしまうためだろう。
- 老中時代の政策の特色は、「幕府の権力強化」という一点に尽きる。幕府のトップとしてはある意味正しい姿勢だろうが、日本全体のことを考えるという視点に欠ける。
- 出版物の統制もその一環。このお陰で著作権がある程度保護され、滝沢馬琴のような専業作家を生む契機にもなったが、定信は別に戯作者を保護するために法律を出したわけではない。
- 地方行政は成功したように言われるが、実際はあまり成果が上がらず、藩財政もあまり好転しなかった。
- 当時の記録類では、下級藩士や民衆は面従腹背で、定信の息子すら評判と実際は違うと愚痴をこぼすほど。
- その一方で、自分のために豪華な大名庭園を4つも造っている。庶民も入園可能など先進的な面もあり、当時の大名は庭園に凝るのがステータスだったから仕方がない面もあるが、部下の俸禄は削っておいて自分の庭園を作るのはどうなんだろう・・・。
- 晩年まで改革に邁進するが結局あまり成功せず、最後には老中時代の人脈に物をいわせ、豊かな桑名藩への替地を強引に実現させる。
- 自藩士たちは豊かで中央に近い温暖な土地に行けると大喜びだったが、変えられた方からすればたまったもんじゃない。
- これで財政が好転すればまだ救いがあるが、運動資金を賄うために作った膨大な借金のせいで、明治まで苦しい財政が続いた。意味ねえ!
- しかも京都に近くなり、あの定信の藩ということ幕府に目をつけられ、幕末には会津藩とともに京都の警備をするハメになる。
- やった政策が無意味どころかマイナスになり、関係ない人々にも多大な迷惑をかける。政治家失格どころか人としてどうなのってレベル。
- 『寛政重修諸家譜』や『集古十種』を編纂させるなど、文化人としては一見まともなのも左翼臭い。
- 老中引退後、大田南畝など寛政の改革で迷惑を被った知識人たちと交流し、自分の絵巻物の詞書を書かせたりする。
- 私人と公人としての顔を使い分けたと言えるかもしれないが、単に無神経なのか、文化的に名声ある人々と交流することで自己の評判を高めようとしたのか、正直解釈に困る。
- 老中引退後、大田南畝など寛政の改革で迷惑を被った知識人たちと交流し、自分の絵巻物の詞書を書かせたりする。
- やたらと自分の名声を気にし、部下に自分を美化した本をたくさん書かせて広める事で、自己のイメージアップに腐心した。
- 幕府中枢入りのため田沼意次にワイロを贈ったことがある。
- 12チャンネルの某時代劇では隠密同心を統率する立場で、いかにも善玉という昭和の設定であったが、平成も27年になるとこちらも再評価されたのか、逆に悪役に成り下がって最後は成敗されるという「物語のコンセプト」を完全破壊する結末となった。田沼の再評価を反映しての事なのだろうか。
松平容保[編集 | ソースを編集]
- 言わずとしれた会津松平家の最後の殿様。
- 京都所司代時代に、孝明天皇に気に入られた。
- 尊皇思想の強い佐幕派。
- 東北諸侯からは、忠孝の人と思われていたらしく、それが故に戊辰戦争のときには、義によって会津藩を助太刀いたすとばかりに奥羽越列藩同盟が結成される事態に。
- これが元で、東北諸藩は、高度成長期まで虐げられることになる。
- 東北人の、忠義・誠実というイメージはこの辺から来ていると思われる。
- 会津地方の人々からは神扱いされている。
- 疲弊する領民たちに対して、「藩財政はもっと厳しいから増税するけど、きちっと納税するように」という趣旨のお触れを出したこともあるらしい。
- でも実は当時の領民の多くが会津藩の強圧的な藩政に辟易していたため官軍に協力した、というのは内緒の話。領民と一体となって抵抗できた庄内藩とは対照的。
- 徳川宗家第18代当主恒和以降は、血筋的には松平容保の子孫だったりする。(恒和は会津松平家から入った養子)
譜代[編集 | ソースを編集]
本多正純[編集 | ソースを編集]
- 家康・秀忠の謀臣として活躍したので、当然頭は良かったが、やりすぎて改易されるはめに。「秀才バカ」とはまさに彼のことであろう。
- 親父の正信が口を酸っぱくして、「謀臣はただでさえ人に嫌われるんだから、大きな封地なんか絶対貰うんじゃないぞ」と教え諭していたのに、宇都宮藩で15万石も貰ってしまって、案の定ヒンシュクを買った。
- 「宇都宮釣り天井事件」は捏造だったようだが、その程度の罠を仕掛けられても仕方のない立場だということを理解していなかった。やはりバカである。
- 話の枝葉末節にこだわって、要点に目が行っていない逸話が複数残っている。やっぱり秀才バカ。
- 父の正信とともに、家康の側近として活躍した。
- しかし、秀忠からは「必要以上に権力を振りかざして威張り散らしまくる鬱陶しい男」などと言われ、散々な扱いをされることに…。
水野勝俊[編集 | ソースを編集]
- 武士の歴史の中で、この人にまさるバカは居ないであろうというほどのバカ。
- 福山城下が燃えてしまうと、町人に気を使って、彼らの負担が増えないように普請の速度を遅らせろと言ったり、鷹師が藩内の畑を荒らしたら百姓がソイツを処罰しろとか、度重なる飢饉の折には減税&貸付をやったりという名君ではある。
- 結果、財政難になるも今度は自分たちの服装を質素なものとしたりするなどしたが、そんなことするくらいなら沼名前神社の改修その他、領内の寺社への寄進をしないほうが……
- こんな人物だけど、パパが破天荒すぎて有名なあまり、そのことを、人々に認知されていない辺りが、悲しすぎてバカバカしくなってくる。
- 福山城下が燃えてしまうと、町人に気を使って、彼らの負担が増えないように普請の速度を遅らせろと言ったり、鷹師が藩内の畑を荒らしたら百姓がソイツを処罰しろとか、度重なる飢饉の折には減税&貸付をやったりという名君ではある。
- 上記の通りのあまりの名君ぶりに感動して、勝俊が死んだ時、一緒に腹切って殉死したバカも居る。
- しかしこのバカ主従が地元で取立ててよく扱われるわけではない辺りが、ますます持ってバカげている。
- 水野家が5代かそこらで途絶えたのがその原因だが、なんというか……
- しかしこのバカ主従が地元で取立ててよく扱われるわけではない辺りが、ますます持ってバカげている。
- 島原の乱の折、原城内へ、一番乗りを果たしている。
- 父親は大阪の陣の折に大阪城へ一番乗りを果たしているが、親子揃ってあんたのやるべきことはそれではなかろうと言いたくなってくる。
- おまけに父親の大坂城一番乗りは捏造宣伝。幕府認定公式一番乗りは越前松平軍。
- それが悔しい余り、水野の家伝では大坂の陣の越前松平を捏造disりまくり。
- おまけに父親の大坂城一番乗りは捏造宣伝。幕府認定公式一番乗りは越前松平軍。
- 父親は大阪の陣の折に大阪城へ一番乗りを果たしているが、親子揃ってあんたのやるべきことはそれではなかろうと言いたくなってくる。
- ホントは父親が嫌いだった(?)
土井利勝[編集 | ソースを編集]
- 初めて大老になった人。
- 「ヒゲは伸ばすより剃る方が紳士的」という考えを浸透させた。
- 顔つきが似ている、徳川政権下で異常なほど重用され、栄達した、という二つの理由だけで家康の落胤扱いされた気の毒な人。
- 前述のヒゲ剃りも、あんまり家康に似てると言われたので、イメチェンしようとしたのがきっかけらしい。
- 家康の母の兄、水野信元の子なので、多少似ていてもおかしくはない。
- 柔和で誠実なイメージがあるが、本多正純を追い落とした黒幕ではないかと言われていたり黒い噂も結構ある。人間誰しもが持つ二面性というやつである。
- 家光は親父の頃からの「負の遺産」である利勝を疎み謀反の濡れ衣を着せ弟忠長と一緒に始末しようと画策したが、一枚上手の利勝には上手い事逃げられてしまった。
- 実は利勝は忠長の傅人で、利勝の妹が乳母をしていた。春日局が戦ったのは、本当は秀忠夫婦ではなく利勝兄妹だったらしい。
- 現実に桃源郷を作ろうとして所領の古河で桃を沢山栽培した。
- 「人は見た目が9割」をわかりやすい言葉で説明した。
- いわく、「どれだけ優れた者でも、玄関先(第一印象)で終わっては意味がなかろう? 特に若者は心に留めよ」
柳沢吉保[編集 | ソースを編集]
- 綱吉の寵臣。
- 一生を綱吉に捧げ尽くし、綱吉の好みを知り尽くして先手先手を打ったために、大のお気に入りになっていた。
- ただし、綱吉を諫めたりすることはできず、綱吉が暴走すると一緒になって暴走していたイエスマン。本当の忠臣とは言えないかも。
- あまりに厚遇されたため「実は綱吉の御落胤ではないか」という俗説もある。
- 赤穂事件の裁きで、ワイロを貰って吉良上野介に有利な判決を出したというのは濡れ衣。吉保にそんな権限は無かった。
松平忠充[編集 | ソースを編集]
- 伊勢長島藩主。なかなかの暴君だった。
- 体調不良を理由に隠居した父・康尚の後を継ぐが家督を継いでからわずか2年後、些細な事で家臣3人を追放する等、早くも暴君としての片鱗を見せ始める。
- 上記の事件の15年後には重臣3人を切腹させるがそれだけでは飽き足らず、何の関係もない重臣の子供達まで死刑にするという無茶をやってのける。
- ただ、重臣の遺族達が幕府に訴えた事で事件が発覚、数日後に改易される。
- しかし忠充の生家である久松松平家の祖、松平康元は家康の異父弟。要するに忠充は将軍家の親族にあたるため、忠充の四男と五男が旗本として家の存続を許された。
- ただ、重臣の遺族達が幕府に訴えた事で事件が発覚、数日後に改易される。
松平忠章[編集 | ソースを編集]
- 上記の松平忠充の長男。しかし後述の事情により家督は継いでいないため、厳密には「殿様」ではない。
- 暴君だった父とは対照的に、かなり優秀な人物だったらしい。ただ、後述の事件のせいで、個人的には「ダメ親父に振り回された可哀相な息子」というイメージが強い。
- 「寝ぼけて切腹」という前代未聞の事件を起こす。
- ある日城内の一室でうたた寝をしていた所、寝ぼけて自分の刀で自分の腹を刺してしまう。父との関係悪化によってストレスが溜まっていたため、無意識の内にこのようなわけの分からない行動に出てしまったと推測される。
- 駆け付けた家臣達には「大丈夫だから!俺、正気だから!(意訳)」と伝えたらしい。
- 幸い傷は浅かったため大事には至らなかったが、この「寝ぼけて切腹事件」が引き金となり廃嫡。廃嫡されたという説と自ら廃嫡を申し出たという説がある。
- ある日城内の一室でうたた寝をしていた所、寝ぼけて自分の刀で自分の腹を刺してしまう。父との関係悪化によってストレスが溜まっていたため、無意識の内にこのようなわけの分からない行動に出てしまったと推測される。
井上正甫[編集 | ソースを編集]
- 浜松藩主だったが、江戸滞在中に高遠藩下屋敷(現在の新宿御苑)内に住む農婦を襲い、止めようとした旦那を切りつけたため、陸奥棚倉藩に懲罰的移封となる。
- そのためついたあだ名は「密夫大名」。
水野忠邦[編集 | ソースを編集]
- いわゆる江戸の三大改革「天保の改革」を主導した老中。しかし、あまりの現実と乖離した政策で、庶民はおろか大名や旗本まで怨嗟を一手に受けた現実を直視できなかったよく言えば頑固者で残念な人…というよりは、江戸時代屈指の極悪大名といって過言でない。
- 奢侈を禁止したのはいいものの、大奥の強烈な反対に遭い、大奥だけは除外したという。つまり弱い者いぢめ大好き。サディストの気が垣間見える。
- 水野が老中首座にまで立身できたのは、老害…もとい、大御所の徳川家斉が亡くなったお蔭。ただし、ご多分に漏れず賄賂を贈り続けたことで唐津藩から遠州・浜松藩主に立身が出来たという。
- 唐津藩主時代は、賄賂のために年貢の取り立てが厳しかったという話もあり、唐津の領民からはすこぶる評判は悪かったらしい。
- 唐津藩からは出世コースがないということで、実石25万石ほどの唐津藩を捨て浜松藩15万石への減封を行ってまでキャリア確保。諌死して止めようとした老中などガン無視という出世キチガイ。
- 案の定、封じられた浜松藩でも出世のための御用金取立て、倹約のために特産物であった野菜の栽培や藩の行事を禁止し、米の栽培と年貢の取り立てと領民をここでもいぢめまくった。やってることがリアルに時代劇の悪代官そのもので、浜松藩の暗黒の時代である。ここでの水野の振る舞いが後述の転封時の暴動に発展する。
- 家斉死去後は、将軍徳川家慶の信を得て、天保の改革を推進した。その手先となったのは、遠山景元、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門らであった。このうち、鳥居・渋川・後藤を「水野の三バカ」…もとい「水野の三羽烏」と呼ばれ、水野の手先となって改革実現のために暗躍した。
- つまりは、遠山の金さんも最初は悪の手先であった。
- こいつらの中でも、鳥居耀蔵は「妖怪」(耀蔵の「耀」+位階の「甲斐守」の造語)と呼ばれるほど、江戸のゲシュタポとしての役目を果たし、水野同様に庶民に蛇蝎の如く嫌われた。渋川敬直と共に蛮社の獄を起こした張本人でもある。
- しかしながら因果応報。庶民を綱紀粛正(寄席の閉鎖や歌舞伎の弾圧など)、奢侈禁止でいぢめたこともともかく、人返し令・株仲間の解散・貨幣の乱造など現実を見られない悪政を行ったのに加え、禁断の上知令(大名・旗本領地の幕領化)を企て、大名や旗本まで総スカンを食い、挙句の果てには腹心の鳥居まで寝返られ、老中失脚。
- まあ「悪政」というよりは、やり方が過激すぎて、出した政策の殆ど実績を上げることができなかった。
- 老中を失脚した際は、暴徒化した庶民に屋敷を襲撃された。そりゃ庶民の傷口に塩を塗るような綱紀粛正策じゃ… その一方で遠山は上手く庶民側に付いて行き過ぎた綱紀粛正策を牽制し、今日の「遠山の金さん」のイメージが出来た。勿論、水野と鳥居から一時冷や飯を食わされている。
- そんなボロカスのように捨てられた水野も再起のチャンスが到来。代わって老中首座になった土井利位が将軍の不興を買って更迭。代わって水野の再登板となったが、既に水野はやる気をなくしていて、いつも御用部屋でボーッとしていたといわれ、その後病気を理由に欠勤が相次ぐようになる。
- その割には裏切りは絶対に許さない質で、自らを裏切った鳥居に対して報復をしているという。人間のクズの本領発揮。
- 老中首座に復帰した水野であったが精彩を欠いた揚句、部下である鳥居や後藤の改革当時の悪業が暴露されて、減転封・強制隠居・謹慎の沙汰が下る。仲間の鳥居・渋川は蟄居、後藤は斬首。悪の枢軸はこれで崩壊した。水野自身は封じられた山形で58歳で死去。
- 転封で山形へ移る際、浜松の領民から借りた金を返さずに逃亡し、領民から一揆を起こされている。なんなんだこのオッサン。貧乏くじを引いたのが後任の元は浜松藩主だった井上氏(この時の藩主は井上正春)。28年ぶりの浜松復帰の初仕事は水野家と領民の仲裁に奔走することであった。
- 一方の鳥居は丸亀藩にお預けになり監禁生活となったが、何と明治維新を迎えることができ、東京に戻った明治6年に78歳で死去。悪役らしい最期ということではなかった。
井伊直弼[編集 | ソースを編集]
- 幕末に大老に就任し、独断でいろいろ進めた揚げ句に暗殺された。
- やったことが良かったとか悪かったとかいう以前に、独裁的であったのが殺された原因。
- いろんな問題が急を要することばかりで、衆議に諮っていてはらちがあかないと腹をくくり、覚悟の上で独裁をおこなっていたようだが、日本人の独裁者嫌いぶりを甘く見ていた。
- 井伊直弼はローマ帝国の皇帝にたとえたらネロのような男だからな。
- 暗殺はされたんだけど、それを公式記録に書くと藩が取り潰しになるため、「桜田門外で発病し、後日病死したこと」に記録上はなってるそうな。
- だが暗殺劇の一部始終を目撃されていたため江戸市民に「井伊様は首を落とされているのにどうやって見舞いの菓子を召し上がるのだろう」と揶揄された。
- やったことが良かったとか悪かったとかいう以前に、独裁的であったのが殺された原因。
- 個人的には温厚な教養人であり、やった政策も後から見れば別に悪くはなかった。そのためわりと早い時期から弁護者も現れたようだ。
- そのおかげで、NHK大河ドラマでは輝ける最初の主人公に。
- 前項のくりかえしになるが、政策が正しかろうが、性格が良かろうが、とにかく独裁ということを嫌うのが日本人。
- 茶道の世界においては、偉大な人。
- 自前の茶流を持っていることからもそれはうかがえる。
- 慶喜曰く「頭はそう切れるわけじゃないけど決断力のある人」。とにかく物事を決められるやつを据えるしかないという末期幕政の焦りが見える。
- 誰が言ったか「チャカポンくん」。(茶歌鼓でチャカポン)
- 水戸過激派の襲撃は予期されていたが「人間死ぬ時は死ぬし、護衛の数はルールで決まってるから大老が破っちゃダメ」という三河武士そのものな考えで特に増員しなかった。大老が殺されてはそれこそ幕府の面目丸つぶれとは考えなかったのだろうか。
外様[編集 | ソースを編集]
前田利常[編集 | ソースを編集]
- 鼻毛を伸ばし放題にしていただらしない殿様。
- 家臣に鏡を渡されたが、「これは国を守るための鼻毛じゃぞ」と答えたという。わざとバカ殿の振る舞いをしていた節がある。
- バカだと思ってもらって幕府から目を付けられないようにしてた、らしい。この当時は改易が多かったので、大名家の中でも最大の百万石は警戒されるもの。
- 家臣に鏡を渡されたが、「これは国を守るための鼻毛じゃぞ」と答えたという。わざとバカ殿の振る舞いをしていた節がある。
- 人前で男の勲章を晒した伝説あり。バカとしかいいようのない奇行。
- 実は明晰な人物で幕府に警戒されないための韜晦だったとか言われてるが、幕府の警戒の眼を逸らすために人前で○ンポを晒すという発想にいたる頭はバカ以外の何物でもない。
- 江戸城敷地内(もちろん屋外)で堂々と大小便したらしい…。
- そうは言っても、そこそこの名君であったらしい。
- 蛇責めという世にも恐ろしい処刑方法を実行したらしい。
- 千利休の妻子も蛇責めにさらされたそうな。
- 前田利家の妾の子。兄利長に子がいなかったから養子として跡を継いだ。
松倉勝家[編集 | ソースを編集]
- 親子(松倉重政)共々、島原の乱を原因を作ったバカ殿、というよりは常軌を逸した暴君。
- 元々、暴政の種をまいたのは親父の方で、島原城の新築、参勤交代の費用、ルソン遠征の準備と何かとつけて領民から年貢をふんだくり、年貢が払えない領民やキリスト教徒に対して苛烈な拷問を行うようになった。
- ただ、前の領地(大和五條)では諸役を免除して商業の振興を図るなど善政を行っている(実際に「松倉祭」というのがあったという)。外様のコンプレックスもあり幕府によいしょばかりした結果、島原での悪政につながったという説もある。
- 親父が急死(暗殺説もあり)して受け継いでからは、悪政をさらに加速させた。凶作や干ばつにもかかわらず、苛烈な年貢の取り立てや様々な税を新設して、年貢を納められない農民や、村の責任者である庄屋から妻や娘を人質に取って拷問にかけるという、ヤクザ顔負けの手段に出る。
- 人質の若い娘や子供に藁蓑を着せて火をつけ、もがきながら焼死させるという「蓑踊り」を発案させたり、また、ある村の庄屋の妊娠中の妻は人質として冷たい水牢に裸で入れ、6日間苦しんだ挙句水中で産んだ赤子と共に死亡させた。この所業自体、江戸時代でも屈指の悪逆非道の暴君と言える。
- 遂に怒り狂った領民が蜂起して、島原の乱が発生。幕府はこのバカの尻拭いのため、何とかメンツにかけて一揆軍を殲滅させたが、当然このバカにも厳しいお仕置きが待っていた。
- 所領没収は当然の事であったが、所業が問題視されたため、切腹ではなく斬首刑に処された。江戸時代の幕藩体制で大名が斬首されたのは後にも先にもこの一例のみという「不名誉刑」である。因果応報。
小堀政一[編集 | ソースを編集]
- ガーデニングが日課のような親爺。またの名を小堀遠州という。
- それでボロ儲けしたうえ大名にのし上がったってのが腹立たしい。
- 遠州流庭園が全国各地にあるが、意外とこういう庭園が、日本人には沁みる。
- 御茶や生花も趣味だったりする。おっさん、嫁入り修行でもしてんのか?
- 趣味のガーデンニングの技術が講じて、地味に築城の名手でもあったらしい。
- 現存天守があることでも知られる備中松山城の城割を今の形にしたのも小堀遠州だとか。
加藤明成[編集 | ソースを編集]
- 袂を分かち出奔した家老(堀主水)に激昂し、「奴を成敗できるなら会津40万石返上しても構わない!」と豪語、お望み通り幕府から堀を引き渡され意趣返しとばかりぶっ殺した(いわゆる「会津騒動」)のはいいものの、自身の会津の所領は没収された。
- ちなみにその家老の妻子を救ったのは、豊臣秀頼の娘の天秀尼。彼女が住持をしていた鎌倉東慶寺は、駆け込み寺として江戸期を通じ女性の救済機関になった。
- 改易後、倅のいる石見国(現在の島根県西部)に身を寄せた。
- お金、特に一分金がなぜか好きで、皮肉交じりに「加藤一分殿」と呼ばれた。
- きっと、夜中に「一分金がいちま~い、にま~い」と数えて喜んでいたに違いない。
- そんな性格に違わず、「家人の知行、民の年貢にも利息を掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割付け取りける」(「古今武家盛衰記」より)程の銭ゲバぶり。小説でも「暗君」「偏執狂」などとケチョンケチョンにされる低評価が殆ど。
- 某漫画では柳生十兵衛にイチモツを斬りおとされて悲惨なことに…
- 実は父嘉明から受け継いだ築城の名手とも言われている。
浅野長矩[編集 | ソースを編集]
- 後世の作家に物語のネタを提供してくれた偉大なバカ殿。
- 頭に血が昇りやすい
- 吉良上野介にイビられていたらしいが、被害妄想だったという説も
- 女癖も悪かったらしい
- 大名には珍しく側室を置かず、正室ひとすじだったという説もあるぞ。
- 本人は傍迷惑なバカ殿だったが、事後「仇討」して名誉を回復してくれた部下に恵まれたおかげでイメージはクリーン。
- 梶川与惣兵衛とか多門伝八郎とか、一部の方々はこの人のおかげで歴史に名を残すことが出来た。
- 吉良上野介の地元では大層嫌われてるのだろうと思いきや、それほどでもない。
- 緊張すると息苦しくなる「痞(つかえ)」という症状を持っていたとか。「不安神経症」あるいは「パニック障害」を患っていたとみられる。精神科医に見てもらえば刃傷沙汰は起こさなかったかもしれない。
- 叔父の内藤忠勝が乱心して、永井尚長に刃傷。長矩も連座で謹慎。永井の墓は吉良上野介と同じ中野の功運寺にある。
- はとこの稲葉正休も乱心して、江戸城で堀田正俊に刃傷に及ぶ。長矩も連座で謹慎。
- 江戸の赤穂藩邸が藩主時代に二回も火付けされ(1687年・1689年)、長矩も激おこで火病。義士討ち入り後にも度々火付けされ(1701年・1703年)、大名屋敷として使われなくなり、農民地になった。
上杉鷹山(治憲)[編集 | ソースを編集]
- 藩政改革成就のため二人の家老に腹を切らせ、他数名の家老を逼塞させて改革を断行したバカ殿。
- 結果的に成功したからよかったが、一歩間違えれば阿波徳島の蜂須賀重喜みたいになっていた。
- 聖人君主として語られているが、奥さんが××だったとかそういう都合の悪い点はスルーされている。
- というか、最後までおままごと遊びに付き合ったとかむしろ美談の扱いなのだが。
- 藩政改革が円滑に進捗したのは養父の重定が後ろ盾になってくれたからである。つまり本当にえらいのは鷹山ではなく重定ということになる。
- 実は上杉家と血縁はなく、九州の日向高鍋藩の秋月なんとかとかいう小大名の子。紆余曲折あって、上杉の養子となった。後に鷹山が藩政を立て直したことを耳にした高鍋藩の人達は地団駄踏んで悔しがったそうな。
- ジョン・F・ケネディが尊敬していた日本人として名前が挙がることもあるが真偽不明。
- ちなみに何で海外で知られているかというと、新渡戸稲造の「武士道」の中に取り上げられているからである。質問の内容は「日本人で尊敬する人はいるか」という内容なので、日本人に関する基本資料として読んだ上で名前が出ても不思議はない。
島津重豪[編集 | ソースを編集]
- 絶倫、浪費家、有能な家老や志士を大量粛清、これがバカ殿と言わずしてなんというのだろうか。
- しかし、シーボルトには、開明的で英明な君主と評されている。
- 行きすぎた蘭癖で、上記の通りの滅茶苦茶も確かにあったが、後々のためになった施策も多い。
島津久光[編集 | ソースを編集]
- 憂さ晴らしのため一日中花火を打ち上げたというエピソードがある。
- 藩士としてかわいがっていた西郷隆盛や大久保利通が廃藩置県で、300諸侯に版籍奉還させるとしたことを受けて、「裏切り者め」と怒るも、今更何も出来ないから、せめて持ってる火薬と財産をバンバン使ってやれと、やったらしい。
- 因循姑息な保守家というのが一般的なイメージ
- そういう人間だから、幕末の動乱期の立回りは上手かった。
孝明天皇時代:長州はけしからん!会津と組んで撃ち殺す。
明治天皇時代:徳川家はけしからん!長州と組んで殲滅する。会津藩は長州をいじめたから、壊滅させる!!
- そういう人間だから、幕末の動乱期の立回りは上手かった。
- 司馬遼太郎からは完全にバカ殿扱いされている。
- 時代劇や小説で西郷や大久保に上手い事出し抜かれて憤慨→部下に八つ当たり、というのはよくある光景。
- 母親お由羅の方が飛天御剣流の使い手だったお陰で白兵戦の腕は卓抜していたようで、単なる「お山の大将」ではなかったようだ。
- 国政に関して独特のビジョンを描いていたようだが西郷大久保ら藩士達からは鼻で笑われていた。
- 西郷には陰で「阿斗」と呼ばれていたとか。言うまでもなく三国志・蜀漢の後主劉禅の幼名で、「無能な二代目」の代名詞。
- 英国と薩摩の関係を大いに揺るがすこの事件はこの人が江戸から京都経由で鹿児島へ帰る途上で起きた。
- 「殿」のカテゴリに入れられてはいるがこの人、一度も藩主にはなったことがない。江戸参府の際には「藩父」というわけのわからん肩書きで江戸城に押し掛けた。
- 明治になっても側近に「で、わしはいつ将軍になれるのじゃ?」と聞いていたとか。
- 意外にも、開明的な異母兄斉彬との仲は良好。あれほど頭の切れる斉彬が遠ざけなかったところを見ると、通常の藩政などに携わっていれば普通に名君だったのではないかと思われる。
- 斉彬を嫌っていたのはあくまでお由羅だった。
島津忠義[編集 | ソースを編集]
- 島津久光の息子。
- 実は、ナポレオン三世に対して、勲章を送った。
- 実は、これ日本人が初めて送った勲章らしい。
- 一時期、薩摩藩領を日本から独立させようとした。
- パリで薩摩琉球国という独立国として外交をやろうとしたり、パリ万博に出店したりと、結構派手。
- そんなわけで、「公武合体でONE Teams!」が合言葉だった孝明天皇に嫌われていたとか。
毛利敬親[編集 | ソースを編集]
- 「無能な名君」という謎ジャンルに属する人。
- 「そうせい」としかいわない。ちゃんと考えてるのかどうかよく分からない。
- 木戸孝允が「あの殿様、あんなに考えているとは思わなかった、頭いいな」と言うくらいには物事は考えていたと思う。
山内容堂[編集 | ソースを編集]
- お酒大好き
- そのため、付いたあだ名が「鯨海酔侯」。
- ↑自称した、という説もある。
- そのため、付いたあだ名が「鯨海酔侯」。
- 酔えば勤皇、醒めれば佐幕と評された。つまり変節漢。
- 武市半平太の一派、土佐勤皇党を弾圧した。
- 歯槽膿漏で口臭がひどかったらしい。
- 度を過ぎた飲酒のせい。また高血圧のため、首から血抜きをやっていたそうな。(どうやってやっていたんだろう?)
- 幕藩体制が動揺する中でもお抱え力士を増加させたほどの相撲好きだった。
- 泥酔して御前会議に出た挙句「幼君を操ろうとしてるだろ」と失言。これが原因で徳川排除の方向に意見が流れたため、徳川中心の改革路線が潰れたのは大体こいつのせい。
- 優勢だったのに余計な一言で墓穴を掘った。口は禍の元の典型例である。
中川久清[編集 | ソースを編集]
- 中川清秀の孫で三代目岡城主。
- 足が悪いのに登山好き
- 輿みたいなのに乗って、家臣に担がせて登山してたらしい。
- 特に久住連山の大船山が好みらしく、この山の中腹あたりに墓を建てて入ってる。
- 彼にアルペン大名とか言うあだ名をつけた歴史関係の本がある。