中山道

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中山道の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 中山道と中仙道と二つ表記があるが、江戸時代に幕臣が中山道に決めたんでそっちを使うのが一般的なんだと。個人的には中仙道の字の方が好きだけどね。
  2. 京都~江戸は東海道の方が短く、一般的にはそちらを用いたらしいが、天下の険・箱根越えと増水で通行止めになりがちな大井川の渡しがあることから、こちらを通る場合も。特に女性はこっちを通ることが多かったとか。
    • もっとも中山道も碓氷峠と和田峠など山中の難所があるので、鈴鹿と伊勢湾を避けて東海道宮宿から美濃路に入り、岐阜から中山道を通るルートも一般的だった。
      • 東海道も中山道も直接は通らない名古屋が発展した要因である(名古屋は美濃路の通過点で善光寺街道、飯田街道の分岐点。尾張徳川家が置かれたというのも大きいが)。
  3. 浮世絵では歌川広重さんと渓斎英泉さんが「中山道六十九次」を描いている。
  4. 関東平野の高崎まではだいたい国道17号、塩尻から木曽路、恵那あたりまでが19号、御嶽から米原まで21号、そこからは8号。
    • 高崎から塩尻までが国道で辿ろうとすると小刻みにに繋ぐ。高崎から軽井沢、追分までが18号、その後県道クラスをわたりあるいて望月あたりからが142号、下諏訪からが20号。
      • 上田平の長和から峠を越えて一旦諏訪平へ出たかと思えばまた峠越えで松本平の塩尻に抜けたり、中津川に出てからも土岐川沿いに多治見あたりまで下れば割と平坦なルートになるし、もっと言えば内津峠越えりゃ楽なのに、わざわざ山の中を抜けたり。後述する木曾谷・伊那谷ネタもそうだけど、こうやって見ると見れば見るほどわざと険しいコースを選んでルートを設定したように見えてならない。
        • 馬車が悠々とすれ違える程度に円滑な交通を志向していれば、いわゆる中山道線に近いルートになってたろう。碓氷峠、和田峠、馬籠峠、琵琶峠などはスルーされていた。
  5. 旧街道沿いには庚申塔の石碑とかが結構残されている。
    • 長野県内なら馬頭観音の石碑も。馬の産地やったからね。
    • 一里塚もちょこちょこ残されていたりする。
  6. 長野県内は国交省国道事務所が中山道歩き用のマップを作成されている。電話したら送ってもらえる(料金か送料を切手で送ったかも。)。ただし残部があるかどうかは要確認。
  7. 宿場町の郷土資料館だと、だいたい扱われているのが幕末の皇女和宮様の降嫁の際の話。空前絶後の大行列でどこの宿場町でもてんやわんややったらしい。
  8. 江戸時代の中山道の難所は碓氷峠と和田峠。現代でも宿場町の間隔が離れていて鉄道が無いなど交通の便が悪く、やっぱり難所。
    • 現代の交通の便で言うとあとは中津川の先、大湫、細久手あたりか。
  9. 上州(群馬県)に入ったあたりから、信州(長野県)の岩村田宿あたりまでは浅間山がよく見える。
  10. 東西両京を結ぶ幹線鉄道としては中山道線が当初の予定だったが、碓氷峠と和田峠の難所がここでも影響し、東海道線に計画変更された。
    • そして中山道が通らない名古屋市が東西間の大都市として発展したこと、更には甲州街道に沿った中央本線中央自動車道が整備されたことで、岐阜以東の多くの区間は近代以降、交流ルートとしての地位を失った。
      • 諏訪から瑞浪までは中央本線になったが、高速道路は伊那谷経由、中央新幹線は赤石山脈貫通の予定…
      • ただし中山道線から東海道線に計画変更されるまでに建設された区間があったため、岐阜~草津は今日では「東海道線」の一部になっている。名神高速道路もこのルートを踏襲した。
      • また東京から高崎を経て軽井沢(信濃追分)までは、信越本線北陸新幹線上信越自動車道により主に南北間のルートとなっている。
        • 日本鉄道が上野から高崎までを「中山道線」の一部として建設したが、それに接続する官営鉄道が路線の性格を変容させたといえる。(もともと本州横断路線としての役割を担わせる支線を造る予定だったとはいえ)
          • 上越線と上越新幹線が更にその色合いを強めた。
          • 日本鉄道という社名が付いたのは、中山道幹線を敷設させるという役目を担わせるためだったとか(他に九州も)。現実には今日のJR東日本エリアの路線ばかりになったが。
          • もし中山道線が開通していたら、東北本線の日暮里-栗橋間は奥州街道沿いのルート(日暮里-北千住-春日部-栗橋、北千住で常磐線と分岐)で建設されていたかもしれない。
      • 鉄道で岐阜から諏訪までは高山線~太多線~中央線と辿ることができるが、和田峠は遂に鉄道が敷かれなかった。
        • 大正時代に小諸-諏訪を電車で結ぶ私鉄の構想は一応あったらしいが、実現しなかった。
    • 道路でも、東海道がほぼ=国道1号線(一部15号)なのに対し、国道17号18号142号19号21号8号などに細分化されてしまった。
  11. これ、天竜川のところにも書いたんだが、なぜ険しい道の続く木曽谷を経由して飯田以北は楽ができる伊那谷を避けたんだろう。
    • 飯田~中津川間をどうするかって話はあるだろうけど、清内路越をすればそれほどでもなかったり。瑞浪か釜戸辺りから恵那山の南側を行くルートならそれほど遠回りでもなかったり。
    • 昔々の東山道は木曽の入り口あたりから飯田方面に抜けて天竜川を遡上するルートだったっぽいよ。
      • まさにそれ。もともとの東山道が神坂越だったのになんでわざわざより険しい木曽路に切り替えたんだろうかと……  もしかすると敢えて木曽路周りにして、自然の関所にしていたのかもしれないけど。
    • なお、歴史上 木曽路を通らず伊那路を選んでいる人たちもたまにいる。武田征伐時の織田軍とか、幕末の天狗党とか。前者は木曾氏がすでに織田方のため南信の武田方勢力切り崩しのため、後者は木曾の関を避けるため。
  12. うちにある教科書だとここは中山道でなく東山道と書いてあった。最近呼ばれ方が変わったのか、それともうちの教科書が特殊なのか。でも東山道のほうが東海道って名前と対をなしてて好き。
    • 東山道というのは奈良時代からの律令国体制のときの五畿七道の区分けとその中心となった道の呼び名。中山道は東江戸時代に五街道の一つとしてとして整備された道。中山道は東山道を元にしているので全く別というわけではないが、一応 別物と考えて頂けるとよいかと。
  13. 旧中山道(きゅうなかせんどう)を1日中山道(いちにちじゅうやまみち)と読んだアナウンサーがいる。

各宿場・街並みの噂[編集 | ソースを編集]

武州路の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 本郷にある加賀の前田藩邸の真ん前を通る、11代将軍家斉の娘が前田家に嫁ぐ際に徳川家によって造られた「赤門」はこの中山道に面している。
  2. おばあちゃんの原宿として有名な巣鴨の商店街も旧中山道。特に宿場町とかではないけど。
  3. 板橋駅から北側に17号を越えたあたりの商店街が板橋宿跡。都内で唯一の宿場町。そう言われると宿場町っぽいかな。縁切り寺とかあるし。
    • 石神井川を「板橋」で渡る。赤羽線(埼京線)の板橋駅からはだいぶ距離がある。
  4. 板橋を過ぎて17号の志村のところ(志村坂上駅の上あたり)で一里塚が残されている。結構立派。都内唯一かな?
  5. 荒川を越えると戸田市内に入るが宿場は置かれなかった。
  6. 蕨宿( さいたま市 )は歩道の路面に中山道の各宿場町のイラストのタイルが埋め込まれている。
    • 蕨宿はさいたま市ではなく蕨市。実はさいたま市の2つの宿場(浦和・大宮)よりも大きな宿場だった。
    • 宿場と鉄道が離れていたことや浦和に県庁が置かれたことから、蕨駅の開業は鉄道開通の10年後まで待たなければならなかった。
  7. 浦和は他の宿場町より規模が小さかったが故に、天領や旗本領など旧幕府勢力の影響が強い埼玉において権力基盤がないことから県庁に選ばれたとする説がある。
    • この辺りより北に進むと鰻が手に入らなくなったらしい。
  8. さいたま新都心駅のすぐ東を通る。
  9. 大宮では大宮の地名の由来でもある氷川神社への南側の参道がそのまま旧街道。ケヤキ並木道。神社の直前でそれるけれど。
  10. 上尾は再開発が比較的早かったこともあり宿場らしさはあまり残っていないが、上尾村が宿場と別に存在したことから他の地域が「宿」を外して大字にしたのに対し宿を付けたまま大字として残った。
    • しかし現在かつての宿場町付近は地番整理で上尾宿ではなくなり、かなり離れたところにだけわずかに残っている状態である。
  11. 桶川宿の郷土資料館では中山道に関するあっちこっちのパンフレットやガイドブックを展示してある。
    • 桶川は紅花の栽培が有名だったのでそれについても記述あり。桶川臙脂(えんじ)といったんだと。
      • 桶川の中でベニバナ栽培が盛んだった上村や南村は現在の行政区画だと上尾市でこの地域を通る県道の愛称は「べにばな通り」だったりする。
  12. 北本には元々宿場町があったのに、鴻巣へ移ってしまったため間の休憩所の「立場」という位置づけに降格したらしい。
    • 江戸時代に入って宿駅整備で宿場が制度の中に組み込まれた際に、今の鴻巣が宿場になったものなので降格というわけではない。
    • 北本宿という地名は明治になって初めて登場した地名であり、北本という宿場は過去にも存在したことがない。
  13. 鴻巣宿では街道筋らしさより、「人形の町」感を感じる。やっぱりひな人形の店とか多い。
  14. 鴻巣熊谷間は距離が長く、間にある吹上は立場の中でも特に規模が大きく城下町忍への入り口として栄えた。
  15. 熊谷では中山道八木橋デパートの中を斜めに通るが、デパート内に道筋を残してくれているらしい。
  16. 深谷宿の本陣跡の近く、資料館でもないけれど、煉瓦の工場跡を利用したギャラリーやらが入った変わった施設あり。深谷本陣とかなんとか表示があった気がするけれど、内容に中山道とか関係なかったような。
    • 深谷宿自体は江戸時代よりも明治とかの古い建物が残る。これはこれで良い気がする。
  17. 深谷を過ぎて本庄まで、国道17号から少し外れるが、この辺が中山道で高崎まで、下手したら関東平野部で少なくともで一番寂しい気がする。畑の中とか、町中でもなく真っ直ぐでもなく道筋に街道っぽさが皆無のところがある。
  18. 岡部は岡部藩の陣屋がおかれた陣屋町であるが、肝心の陣屋は跡形もなく消え去っていて石碑が残るのみ。
  19. 本庄宿は倉があっちこっちに残っているのが宿場町、とまでは言わんけれど昔からの街並みっぽい。
    • 本庄駅から延びる道は電線が地中化されているけれど、旧街道の方は別にそんなことされてない。

上州路の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 埼玉・群馬県境の神流川では戦国時代、本能寺の変で織田信長が討たれたあと、織田配下の滝川一益らが撤退の際に追いかける小田原北条氏との合戦になった。旧中山道・17号の神流川ところに古戦場の碑がある。けれど、一般の人たちはその向かいにあるガトーフェスタハラダの工場しか気にしない。
  2. 倉賀野宿には民間の資料館がある。金土日の12:30~15:30が開館時間らしいが、開館時間でも閉まってたりする。ひょっとして閉館している?
  3. 高崎・安中は宿場町と言うよりも城下街色が強いかも。
  4. 東京方面からくると安中、松井田あたりでやっと旧宿場町っぽさが出てくる気がする。道も田畑のなかを緩やかに曲がりながら、とかでも何となく旧街道と言われたらそんな気がしてくるのもこのへんからか。
    • 安中には武家屋敷が公開されている。新島襄関連のものもあるよ、旧宅とか。
  5. 安中から碓氷峠まで、毎年 安政遠足(とおあし)というわれるマラソンが行われる。碓氷峠のあの坂を走って登るとか、狂気の沙汰だな。
    安政の遠足(とおあし)のイラスト入り建物
  6. 松井田宿は現在では商店街になっている。アーケードとかがあるヤツじゃなくて、2車線の車道の両側が店、というやつ。まぁこれも旧宿場町の一形態。
  7. 松井田宿と横川宿の間、西松井田駅からちょっと西に行ったところに宿場町ではないが、五料茶屋本陣が2軒残っており、見学できる。江戸時代後期に2軒とも火事にやられ、建て替えた。その時期に建て替えたからかえって残されたんだろうな。
    • 確か中山道六十九次の浮世絵のコピーを展示してあったように思う。
  8. 横川宿、一応道筋は残っている。名物は横川駅前で売られているおぎのやの峠の釜飯、になるのかなぁ。旧街道関係ないけど。
  9. 坂本宿も旧街道っぽい街並みを残す。2車線道路の両側に水路があって、古い感じの建物が並ぶ。屋号とかも書かれている。
    • ただし明治時代に鉄道ができてしまって早々に宿屋はなくなってしまったらしい。
  10. 坂本宿から登る碓氷峠が中山道の難所、当然未舗装、山道と思ったほうがいい。頑張れ。
    • こんなところをチャリで下ってくるヤツが居るって言うね。
    • 山道の道中には石碑とかもいっぱい。あと、上記 安政遠足の頃だとそれ用に道しるべがいっぱいあるかも。
    • 山道は碓氷峠の直前、傾斜が緩くなったところで2つにわかれる。どっちも旧街道らしいので、お好みで。北側の方がゆるやからしい。
    • 蛭が多いらしいのでお気をつけて。立ち止まるな、とのこと。

信濃路の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 碓氷峠~軽井沢宿間はかつての中山道の跡はなくなっている。車道の方が元の道なりに近いらしいが、歩く方は遊歩道を通られるのも良いかと(ガイドブックなんかではそちらを推奨しているものも)。
  2. 軽井沢宿はひょっとしたら観光客数的には中山道の旧宿場町としては一番の賑わいかも知れない。ただし、旧宿場町としてではなく、完全に明治以降の避暑地・観光地としての賑わい。
    • 古い建物もあって、良いところもあるんだが避暑地として開けた明治期のものだったりして。宿場町情緒ではない。
      • そして駅に近づくにつれ観光客向けの店だらけになり情緒は失われ喧噪の度合いを増してくる。碓氷峠を越えて疲れた人にはこたえるかも。
    • 明治に入ってからは駅から離れていたため他の宿場よりもむしろ寂れてしまったが、外国人が目を付けて避暑地として大発展。
  3. 沓掛宿はすっかり近所の駅も「中軽井沢」になってしまい、地名の知名度がなくなってしまった。
    • 沓掛ってあっちこっちにある地名だが、わらじだか草履だかをかけて履き替えたことに由来するらしい。そう言われると宿場らしい地名。
    • 旧本陣は最近まで旅館を営んでいたっぽいんだが、2013時点では廃業してた様子。ちょっと前の地図では名前が出ていたんだが。
    • 駅への曲がり角にある「かぎもとや」さんは宿場時代からの伝統ある蕎麦屋さん。さすがに建物自体は建て替えてはるけれど。芸能人も多数訪れる名店。
  4. 追分宿は名前そのまま、中山道と北国街道との分岐点。宿場町の西端からちょっと行ったところに今でも分岐がある。30度くらいの角度で分岐し、分岐の間に道祖神や石灯籠なんかがあるから見るとそれと分かる。
    • 追分宿は街並みが旧街道というのが分かる良い街並み。建物も良いし、舗装もアスファルトじゃなくて石畳だし、電線地中化しているし。
      • 旧宿場にしては珍しく、庭があったり家の1軒1軒の間隔が広いように思う。
    • 郷土資料館もあるが、それ以外に「風立ちぬ」を書いた堀辰雄の資料館もある。そっちの方がメジャーかもな。
    • 全国に伝播した追分節はここが発祥。博労(馬売り)が広めたそうです。
    • 追分宿が終わったところで国道18号と合流、100m弱行くと北国街道が右側へそれて分岐。更に200m行くと今度は中山道が18号から左にそれる。そして200m先で北国街道の方がまた18号に合流。
    • 北国街道との分岐より少し西側、国道18号との分岐付近には中仙道六十九宿史料館がある。開館日は不明。行ったときは休館でした。
      • 庭には日本橋から京までの道のりをミニチュア化した庭園路(?)がある。峠道は少し盛り上がっていたり、大河川を渡るところには水路(水は流れてなかったけれど)と橋があったり、諏訪湖を模した池があったり、結構芸が細かい。
    • 中山道の宿場では一番標高が高い。次点は奈良井宿。
  5. 小田井(おたい)宿は普通の県道になっているが、本陣跡に倉や屋根瓦付き漆喰の塀があったり、道の横に水路が流れていたりするあたりも街道沿いっぽくて良い。
    • 脇本陣だったか忘れたが、他の家にも倉が残されていたり塀がそういう感じだったり。
  6. 岩村田宿は普通の商店街になっている。真ん中は車道で交通量も多いが、歩道には屋根がついている。
    • 商店街の外れで街道は直角に曲がっている。
    • ここも高崎と同じく宿場町にして城下街。
  7. 塩名田宿も少しだが古い感じの建物が残る。さすがに江戸時代までは遡らないにしても、昭和そこらでもやっぱり宿場町の様式の古い建物がそれなりに残っていると宿場町っぽい。2階建てで道に面して長くて1階屋根が短くあるとか、そういうの。
    • 屋号を出しているところもあった。
    • ここで千曲川を渡るわけだが、川沿いには船を繋いだ石が残る。縄を通した穴が空いている。
  8. 八幡(やわた)宿は地味だが、街並みは良い。ただ車道自体に情緒はないけど、建物がね。
    • 名前の由来は勿論 八幡神社。
  9. 望月宿の手前(東側)はうねうねした下り坂。未舗装の古い道がちらほら残されている。
    • 望月宿もこれまたよい街並み。古い旅館もあり、軒下に屋号を出してある店が何軒かある。履物屋さんがでっかいゲタの形の看板とか。
    • 本陣跡地は郷土資料館になっている。
    • 昔はちょっと離れたところにあったらしいが、出水があったため少し高い現在の位置に移転したそう。
    • 望月の名の由来は、律令制のころ満月の日に馬を都へ出荷したからだそう。この辺、馬の産地。
  10. 茂田井宿は望月-芦田間に間(あい)の宿として存在した。街並みは他の宿場町に勝るとも劣らない良い感じ。
    • 街道筋が県道にならなかったため、良い雰囲気の街並みが残る。正直、妻籠馬籠や奈良井のような著名なところはともかく、他の宿場町より良いかも。
    • 茂田井宿には大沢酒造という酒屋さんが「しなの山林美術館」という美術館と書道の展示と郷土資料館をやっている。入場無料。酒屋さんなので試飲もさせてもらえる。
      • なぜか歴代総理大臣の揮毫したものが何枚もある。
      • 入場無料の分、つい酒を買ってしまいますが、中仙道歩きやサイクリングの方は試飲しすぎない・荷物になるので買いすぎないよう注意は必要。
      • なぜかこの酒屋さん、こんなところに位置するのに「善光寺秘蔵酒」なる銘柄のお酒を造っている。一応 ご縁はあるらしく、善光寺さんからも許可を得ているらしい。旨かった。
  11. 芦田宿だって結構よい街並みが残る。
    • 資料館ではないけれど、観光案内所というかふれあいセンター的なものが2013年だか14年かにできた。
  12. 芦田宿から笠取峠へ登る道には松並木が残される。元は国道なので二車線の幅があるが、車は進入禁止で石畳にされている。
    • 浮世絵の中山道六十九次(歌川広重と渓斎英泉の作)では芦田宿の風景としてこの笠取峠の松並木が描かれているが、間違えて「望月」とされている。で、「芦田」の絵には望月宿近くの「瓜生坂」が描かれており、間違って逆になったらしい。
  13. 長久保宿も古い建物が残されており、良い町並み。
    • 宿場町はL字型に折れており、現在の町名も「竪町」「横町」。
    • 明治初期あたりに旅館にする予定で建てた建物が交通事情の変化により使われなくなり、現在では休憩スペース・郷土の資料展示スペースとして活用されている。
    • 地名の由来は長細い窪地だったからだろうな、川沿いだし。
  14. 和田宿はいまでも何件か建物が残っていたり、町並みは旧宿場町らしい良い感じである。
    • 本陣跡は建物を見学できる。入館券は近所にある旅館だった建物2つと、黒曜石の資料館とセット。かなりお得である。
      • 幕末の頃に和宮様が泊まられたところは残念ながら建物はなく道路になっている。
    • 京都方面へは難所・和田峠を控え、次の下諏訪宿までの距離が20kmほどと離れていた。さらに冬場は雪も積もるので大変(現在でも近隣の宿の人なんかは積雪期の峠越えはそれなりの山の格好をしていない人にはお断りをするっぽい)。
    • 現在は和田宿では旅館を営んでいるところはなく、泊まるなら近隣集落の民宿なんかから迎えに来てもらう。交通の便も上田からバスを乗り継いで、と不便。中仙道歩きをする人にとって宿泊・交通面でもかなりの難所。
  15. 和田宿~下諏訪宿の間は中山道屈指の難所・和田峠が控えている。距離も長い。
    • 昔はその間に何カ所か茶店があった。いまでもその後が史跡として案内板は出ている。
      • 現在では、ビーナスラインのドライブインが峠手前から少し寄り道したところにあるくらい。和田宿~下諏訪宿を歩く方は食料・飲み物の補給はどちらかの宿場町で。
    • 江戸から来たら和田峠で始めて御嶽山を拝める。そのため、遙拝所があった。
      • 峠から少し南東側の山まで5分10分歩けば、槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳、御岳、木曽駒ヶ岳、空木岳、甲斐駒ヶ岳、仙丈岳、(多分 鳳凰三山、北岳、)八ヶ岳が見渡せる。
    • 和田峠の北西側はビーナスラインなどの車道と何度か交差する。見通しが悪く、またドライバーは横断者がいるなんて全く思っていないような場所なので横断される際は充分ご注意を。
  16. 和田宿と下諏訪宿の間では、幕末に天狗党と松本・塩尻藩の間での合戦があった。中山道沿いに水戸浪士の慰霊碑がある。
  17. 下諏訪宿は諏訪大社下社の春宮と秋宮の間に位置する。
    • 中山道と甲州街道との交点でもある。中山道を江戸から来ると秋宮のところで直角に折れるが、南の方にまっすぐ行くのが甲州街道。
    • 下諏訪宿は中山道唯一の温泉のある宿場町。
      • 公共の湯も3軒ほどあるはず。観光客にはわたの湯さんを勧めているみたいだが。
      • 家の前に水を流しているところがあるが、熱い温泉の水である。
    • 昔の旅籠を利用した資料館がある。また、本陣も公開されている。さらに伏見屋という商家も公開されている。
      • 本陣には仙台伊達氏の宿泊時の本陣を示すでっかい札なんかがある。
      • 伏見屋さんは地元ボランティアの方がおられるが、行ったときは地元の歴史の詳しいお話を聞かせていただいた上におやつも分けていただけたし至れり尽くせりでした。
    • 街並みも良い。さらに「時の科学館儀象堂」「オルゴール博物館」みたいな観光施設もちらほら。
    • 江戸からここまでどっちの道を使う人が多かったんだろうか?
  18. 塩尻峠は和田峠ほどではないにせよ、一応峠。舗装道路ばっかだけどね。
    • 昔の人は和田峠→塩尻峠→鳥居峠と3日連続で峠越えしていたんだろうな。
    • 下諏訪宿側から行くと、高速道路のインターチェンジ付近は地形が変わりすぎてどっちに進むと昔の中山道の方に行くのかよくわからん。
  19. 塩尻宿も一応は宿場町っぽい雰囲気はなくはない。
    • この辺りの旧家は本棟造という緩い角度の切り妻造りの家に、屋根の上のところに雀踊りと言われる飾りがついた家がちらほらあって風情がある。
    • 20号でも19号でもなく、153号だった。
  20. 洗馬宿では善光寺街道が合流する。昔はここから善光寺さんへ行って、追分宿で中山道に戻る人もいたのかもね。
  21. 本山宿もうだつのある家があり、いかにも宿場町。家の正面が隣の家とちょっとづつずらしていたりする。
    • そば切り(麺状の蕎麦)発祥の地らしいが現在では線路沿いの「本山そばの里」しか営業していないようだ。味は美味しかった。

木曽路の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 「木曽路は全て山の中である。」
    • 島崎藤村「夜明け前」の出だしで有名だが、実はこれ、秋里離島って江戸時代のひとの「木曽路名所図会」の記述を元にしてるんだってさ。
    • まぁでも実際、木曽路は全て山の中だね。
    • おかげで塩尻~中津川~大田まで難所続きだったようである。それならもっと平坦な伊那谷経由で飯田辺りまで下るルートのほうが良かったんじゃないかと思わないでもない。恵那山越? トンネルでも掘っとけば大丈夫だろ。
  2. 一般に木曽地方というと塩尻市は含まれず、鳥井峠より西側の木曽川流域のイメージだが、中山道で木曽路というと贄川宿から含まれる。
    • 贄川、奈良井、薮原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三土野、妻籠、馬籠であわせて木曽十一宿。
    • 本山宿から贄川宿への道中に「是より南木曽路」の碑がある。
      • 「これより南 木曽路」だが、「これより 南木曾(なぎそ)路」と誤読して「南木曾なんてまだまだ先やん!」とか恥ずかしい誤解をしたバカは私だけではないと信じたい。
      • この碑、昔っからある由緒正しいものに思えるが、昭和にできたものだとさ。ついでに「是より南木曽路」の碑も馬籠宿~落合宿にあるそうな。
        • 南じゃ名古屋方面じゃんよ()
  3. 贄川には関所跡が見学できる。
    • なお、昔の関所の位置は現在ではJR中央線と国道19号があるので、場所を移して再現。地下一階部分(?)も別途資料館的な施設になっている。
  4. 平沢は贄川と奈良井の間の間(あい)の宿。奈良井が宿場町として発展してしまったので移住した漆塗り工芸の人たちが集まったところ。漆塗りの店が並び街並みが残っており、こちらもとても良い雰囲気です。
  5. 奈良井宿は馬籠・妻籠ほど有名ではないかも知れんが、昔風の良い街並み。電線も地中化、店も昔風の構えにしてる。
    奈良井宿の街並み
    • 連ドラの舞台にもなった。
    • 街並みがほぼ一直線に長く連なっている。
    • 意外とこの街並みを車が行きかってた。
    • 道の駅にある木曽の大橋は木製のアーチ型の凝った造りだが、特に旧街道というわけではない。
  6. 鳥井峠もそれなりの峠で、現在でも未舗装道路だけなんだが(車道はトンネルでショートカット)、碓氷峠・和田峠ほども難所という話しは聞かない。
    • 獲得標高(アップダウンの合計)は笠取峠や塩尻峠と大差なさそうだ。
  7. 薮原だって少しは宿場町の雰囲気を残していなくはないんだが、この辺りは良い街並みの場所が多すぎるので目立たない。
  8. 藪原-宮ノ越間の追分を東進すると権兵衛峠にたどり着く。神谷の権兵衛さんが開削したのでこの名がついた。伊那谷から木曽へ米を運ぶルートになってたとか。
  9. 宮ノ越は宿場町と言うよりは木曾義仲の出身地として売り出し中。
  10. 道の駅日吉木曽駒高原に「中山道の真ん中」の碑がある。この辺でやっと江戸-京都の半分。
  11. 昔、それこそ江戸時代には福島-上松間には木曽路の桟があった。日本三奇橋の一つ。桟というのは橋の片側が斜面にくっついている状態のヤツ。当時は木曽路の難所の一つ。
    • 断崖絶壁で足の踏み場がなかった。そこで断崖沿いに柱を立てて、その上に木の板を乗せて足場にして通行していたという…
    • 木曽川を渡河するわけではない。
  12. 木曽福島には関所があった。現在でも関所跡の近くで資料館がある。
  13. 上松では寝覚めの床が古来よりの名所。
  14. 須原宿も旧宿場町っぽい街並み。観光客がくるとかそう言うのではなけれど。
  15. 須原宿の定勝寺というお寺、庭園が変わっている。わかりやすく鶴と亀を模した庭石の配置だった記憶が。
  16. 妻籠宿、古い街並みがしっかり残り、観光客がいっぱい。
    • 隣の馬籠宿ほどではないかも知れんが、いや、いい勝負。
    • ここから東進すると清内路峠にたどり着く。ここも伊那谷から木曽へ米を運ぶルートになっていた。
      • 宝暦年間に飯田までの短絡線である大平峠越えのルート(r8)が開通する。大平宿まで新たに作られた。
  17. 馬籠宿、古い街並みがしっかり残っている上に明治の文豪・島崎藤村の生まれ故郷で代表作・夜明け前の舞台なので観光客がいっぱい。
    • 実際、街並みの良さは妻籠・馬籠が中山道随一だとは思う。建物自体もたくさん残されているし、高札場もある(復元?)だし。
    • 信州路の良い宿場町に共通するが、現在の道路が宿場町から外れたことが建物等が残されるのに功を奏したのだと思う。地元の人は多少不便かも知れないが。
    • 馬籠は宿場町のくせにけっこうな坂道。女性の方、ヒールでくるのはあんまりおすすめしない。
  18. 島崎藤村は馬籠宿の本陣の家に生まれた。夜明け前の主人公が藤村の父で最後の馬籠宿本陣当主、母親は隣の妻籠宿本陣から嫁いできた。
    • 馬籠宿の本陣跡は現在では島崎藤村の資料館になっている。
  19. 馬籠は信濃国・木曽路だが岐阜県である。

美濃路の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 馬籠~落合間に国境(十曲峠)があり、現在は「これより北、木曽路」の碑が立っている(島崎藤村が書いた字だとか)。その後さらに京方面に進む先の下り斜面は数百メートルにわたって石畳になっている。
    • なお峠とは言うものの、実質はただの下り坂である、馬籠宿のほうが十曲峠より標高が高い(馬籠:約610m、十曲峠:約500m、落合:約330m)。
  2. 落合川にかかる細い橋を超えると落合宿。美濃17宿では唯一、現存本陣があるらしいが、長らく非公開だった。
  3. 落合~中津川間は距離は短いが激坂の連続である。道も細いのでドライブやサイクリングはおすすめしない。
    • 大井宿まで全般的にアップダウンは多いほうだ。
  4. 中津区間は山や川を越えるというよりも、断層を横切るときに激坂(茶屋坂、こでの木坂など)があってそれ以外はおおむね平坦な地形になっている。中山道に沿って進む限りは。
  5. 茄子川の庄屋を務めた篠原家の先にある交差点で秋葉道(遠州秋葉神社へ繋がる道。現代だと国道257号に相当か)を分ける。
  6. 大井宿は東美濃では一番の大宿だったらしい、卯建や犬矢来のある建物が残っている。なおここ大井村の庄屋は古屋家で、現代では典型的な地元の名望政治家となっている。
    • 城下町でもないのに枡形がいっぱい。
    • 中山道が明知鉄道をくぐってるけど高さ制限がきつい(たしか1.6m)ので注意。
  7. 大井宿を過ぎたところにある槙ヶ根追分で下街道を分ける。下街道は現在の国道19号に概ね沿うような形で名古屋・伊勢に向かう。
    • ここから御嶽(みたけ)宿までの30kmは、鉄道空白地帯でまともに休憩宿泊できる施設がなく、アップダウンもきついので和田峠なみの準備をして挑もう。
  8. 大湫、細久手あたりは公共交通の便悪し。そのかわりのどかでハイキング、サイクリングには良い。
    • もし国道21号線が瑞浪起点でなく恵那起点の大井宿~御嵩宿を通るルートだったらどうなっていただろうか。
      • その場合日吉(ここがR21とR19の分岐になる)辺りから瑞浪市街に抜けるルートが開かれるも、槙ヶ根までのバイパスが後の時代に作られたか。
    • 落合の石畳以来のダート区間である。特に車両通行止めにはなってないようだが。。
  9. 武並の道沿いに首のない地蔵がある。
  10. 大井~大湫間の十三峠はその名の通り幾多の小さなアップダウンを越えていく難所となっている。
  11. 大湫宿は寒村の割にはしっかりと町並みが整備されているようだ。
  12. 大湫~細久手間の美濃路の最高地点でもある琵琶峠(約550m)は石畳になっており、長さは730mほどで中山道最大級らしい。なお、峠からは白山や伊吹山が眺望できたとか。また、和宮が詠んだとされる和歌の碑がある。
  13. 細久手宿本陣は今では「大黒屋」という旅館になっている。
    • 大井~御嶽間の30kmで宿泊できるのはここだけ。
  14. 牛の鼻欠け坂を下り終えると濃尾平野に出る。
  15. 御嶽宿手前の井尻が和泉式部が亡くなった場所らしく、お墓が立っている。
  16. 伏見宿で上街道を分ける。上街道は概ね現在の名鉄広見線・小牧線や国道41号に沿っている。これが木曽から名古屋までの公式なルートである。なお、木曽川の流路変更で伏見宿が設置される前はより西の土田まで中山道であり、宿場も置かれていた。
    • しかしながら江戸時代の段階で下街道(善光寺道)の方が主流になっており、上街道の宿場町の人がしばしば嘆願を出していたとかなんとか。
      • 明治以降は当然のように国道19号、中央道、中央線など善光寺道ルートが幹線となり、上街道はおろか中山道も忘れさられた。
      • 東美濃が美濃の中心である岐阜よりも尾張の中心、名古屋との結びつきが強くなった要因がこれかと思われる。
  17. 伏見~太田間には木曽川が流れており、渡し船で木曽川を超えていた。碓氷峠、木曽の棧と並んで中山道三大難所だったとか。なお、伏見宿設置前は土田~太田間を渡し船で超えていた。

江州路の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 寝物語の里で国境をあっさりと越え、長久寺の懐かしい感じの町並みを抜けて、少し下ると柏原
    • 柏原宿歴史館があるなど、木曽路ほどではないけど、古い宿場町の面影が残る。
  2. 醒ヶ井辺りは銘水の宝庫。古来より関ヶ原を越え濃州へ向う者の口を潤し続けていた。
    • 醒井宿は、町並みが少しずつ復元されてきており、良い景観を楽しめる。
      • もともとは、南にある霊仙山への巡拝拠点としても栄えたそうな。
    • 水温は年間通して14度程度。非常に美味い。
      • 夏の時期には、醒井の街を街道沿いに流れる川面に、梅花藻の白い花が浮かぶ。足をつけると冷たくて、またよい。
    • 旅人の口を潤し続けた居醒の清水は、環境省選定「平成の名水百選」の1つ。
      居醒の清水
      • 古事記や日本書紀にも出てくる名水。今は石垣の奥から、ぶくぶくと水が湧く。
        • その昔、東国から戻ってきた日本武尊が熱病に倒れた時、体毒を洗い流した霊水と伝わる。
      • 今でもすぐ近くに水汲み場があるが、すぐ近くの地蔵尊の境内で、地中からぶくぶくと水が湧いており、そこで汲む。
        • 土管も何もないところなので、抵抗感を示す人もおるかもしれんけど、安全性だけで言うたら、イトヨが泳ぐほどやさかい、まあ大丈夫やろ。
  3. 番場宿は番場の忠太郎で知られる宿場町。今はのどかな山里という感じがする。
  4. 鳥居本は北国街道・北陸道との分岐点に位置したとされている。でも番場宿でも分岐があったとか言われており……
  5. 彦根城下を通過していると思いきや、そこには目もくれず、多賀大社も無視し、近江八幡へ寄ることもなく、鳥居本を過ぎると高宮、愛知川、武佐とひたすら京都目指して進んでいく。
    • 愛知川宿付近は、今でも本陣跡を中心に町並みが残っており往時を偲ぶことができなくもない。この辺り、今でいう街灯にあたる常夜燈も残っている。
    • その先、武佐までは割と史跡も多く街道旅という感じがする。五個荘付近では宿場町ではないが町並み保存地区もある。
    • 痛車を多く見かけるスポットを通過する。
  6. 武佐の次は守山まで宿場がなかった。距離にして約16km。この間、なぜか源義経関連の史跡が多い。
  7. 守山~草津はまんま県道2号線。草津駅付近まできて漸く県道と離れて市街地へ入る。
  8. 草津宿で東海道に合流。そこから京都へは1日足らずで着く。