もしあの万国博覧会が○○だったら

ナビゲーションに移動 検索に移動

独立項目[編集 | ソースを編集]

開催されていたら[編集 | ソースを編集]

東京万博(1940年)[編集 | ソースを編集]

  1. 東京オリンピックも開催されていた。
  2. 入場券が大阪花博や愛知万博で使われることはなかった。
  3. 世界都市博覧会は開かれたとしても別の形になっていた。
  4. 東京都中央区晴海一帯は万博記念公園になっていた。
    • 太平洋戦争を挟んでいるため普通に市街地になっている気がする。
  5. 大阪万博が開催されたかどうか怪しい。
    • 東京五輪決定時点で「西日本にも同じような国際的なイベントが必要」という声が上がっていたので開催されているのでは。
    • ただし東京が開催地候補として名乗りを上げることはなかった。
    • 博覧会の正式名が40年のものと同じ「日本万国博覧会」になっていなかった可能性あり。
    • 1964年の五輪が大阪だった場合、1970年の万博は名古屋だった可能性がある。
      • つまりこれが35年早く実現していた。
      • この場合2005年の万博開催地は愛知県ではなかった。
  6. 戦災や乱開発のせいで建造物の遺構はほぼ残っていない。
  7. 日本の衛星国ではない国で出展したのはドイツ、イタリア、ブラジルくらいと寂しい博覧会になっていた。
  8. この博覧会を記念した歌が当時の国民的ヒット曲になっていた。
  9. 会場への大量輸送の為市電5000形の増備が再開され合計100両以上製造されたかも。
    • 5000形は1系統・11系統(会場近くを通る)を中心に運用。

失敗していたら[編集 | ソースを編集]

ロンドン万博(1851年)[編集 | ソースを編集]

  1. 1855年の第1回パリ万博が最初の万国博覧会とされていたかもしれない。
    • 下手をするとロンドンの失敗が原因で万国博自体広まらなかった可能性も。
  2. 水晶宮は忌まわしい失敗のシンボルとして会期終了後にとっとと解体されていた。
    • 「クリスタル・パレス」という地名もない。
    • 設計者のジョセフ・パクストンは世論の激しい非難を浴び残りの生涯を名もない失敗者として過ごしていた。
  3. ヴィクトリア朝時代の後世におけるイメージにも影響があった。

パリ万博(1855年)[編集 | ソースを編集]

  1. その後パリで万博が開かれることは二度となかった。
    • それどころかフランスが万博に参加すること自体しばらくなかった。
    • 1867年の博覧会もないため「獅子の時代」の内容もかなり変わっている。
    • 1900年の万博に合わせて建てられたエッフェル塔もない。
  2. パリっ子には「イギリスの猿真似なんかするから・・・」と陰口をたたかれていた。

パリ万博(1867年)[編集 | ソースを編集]

  1. 完全にナポレオン3世の道楽呼ばわりされていた。
  2. その後の万博はさらに教育色を強めていた。
    • 遅くとも第2次大戦までには人々に飽きられ消滅していた。
  3. 薩摩藩が幕府と別にパビリオンを出していたこともこの博覧会のまずい運営を象徴する事柄として批判的に取り上げられていた。

フィラデルフィア万博(1876年)[編集 | ソースを編集]

  1. その後の万博もヨーロッパ中心で進んでいた。
    • 少なくともシカゴ(1893)やセントルイス(1904)の万博はなかった。
  2. 史実ではこの博覧会で国際的に注目されたベルの電話の普及がやや遅れていた。

セントルイス万博(1904年)[編集 | ソースを編集]

  1. 「人間動物園」の展示が識者に激しく批判された。
    • この手の先住民の「展示」はこの時点でタブー化された。
    • 現在ではアメリカに強烈な人種差別がはびこっていた時代の象徴の一つとされている。
  2. 会場が広すぎたことが史実以上に問題視された。
  3. 同時開催の五輪も後世になってもっと叩かれていた。
    • 「万博とオリンピックを同時に行うとろくなことにならない」というジンクスはより確固たるものになっていた。
    • 「人間動物園」同様「人類学の日」も「かつてのアメリカにおける大きな人種差別の象徴」として扱われていた。

シカゴ万博(1933年)[編集 | ソースを編集]

  1. アンコール開催などされるわけがない。
  2. 場合によってはテーマ付きの万博はこれが最初で最後になっていた。
  3. 現在のような体験や芸術などを通した複合演出のスタイルがあったかどうか怪しい。
    • あったとしても次のニューヨーク万博が起源とされていた。
  4. 史実では大人気だったフォード館も「単に工場を見せただけ」と酷評されていた。

パリ万博(1937年)[編集 | ソースを編集]

  1. 「国際情勢の緊迫化に翻弄された悲劇の万博」と称されていた。
  2. 特に展示内容がイデオロギー全開だったドイツとソ連が失敗の元凶呼ばわりされている。
    • 歴史書などでドイツ館とソ連館がにらみ合う構図の写真が「万博にふさわしからぬ国家間対立を象徴していた」などの否定的なキャプションで紹介される。
  3. 戦後長い間パリで万博が行われなかった理由は間違いなくこの博覧会の失敗。
  4. 出展された「ゲルニカ」(ピカソ)の評価にも影響があったかもしれない。

ニューヨーク万博(1939年)[編集 | ソースを編集]

  1. 原因は間違いなく会期中に勃発した第2次大戦。
    • 英仏など有力国の大量閉館もありえた。
      • 最悪の場合博覧会が続行不能になっていた。
    • 「明日の世界の建設と平和」というテーマもさんざん皮肉られていた。
  2. 見た目に統一方針のないパビリオンの集まりがごみ溜め呼ばわりされていた。
  3. その後も万博では企業パビリオンはあまり大きな顔ができなかった。

ブリュッセル万博(1958年)[編集 | ソースを編集]

  1. 「科学文明とヒューマニズム」というテーマが中途半端だと叩かれていた。
  2. 「戦後世界に万博は不要ではないか」という議論が起こっていた。
    • アメリカのBIE脱退がかなり早まっていた恐れもある。
  3. シンボルタワーのアトミウムはブリュッセルのシンボルどころか負の遺産扱い。
    • 口の悪い人からは「寄生体」「有害物質の分子」などとも呼ばれていた。

モントリオール万博(1967年)[編集 | ソースを編集]

  1. モントリオール・エクスポズ(現・ワシントン・ナショナルズ)の球団名が変わっていた。
  2. 当然ながらモントリオールオリンピックは開催構想すら無かった。
  3. 当初開催予定だったソ連は「わが国で行えばこんなことにはならなかった」と言い放っていた。
    • 70年代後半あたりに万国博覧会を行っていた可能性あり。
  4. 失敗原因はおそらく支持率の低さ。
  5. その後もテーマはメイン1つだけ。
    • ゴチャゴチャとサブテーマを設けるのは邪道とされた。
  6. 大阪万博関係者は史実とは異なりこの博覧会を反面教師にしていた。

大阪万博(1970年)[編集 | ソースを編集]

  1. その後大阪花博や愛知万博が開かれていなかったかも。
    • 愛知万博については名古屋オリンピック招致失敗なら現実と変わらないかもしれない。
    • むしろポートピア81に始まる地方博への影響の方が大きい。
    • 2025年万博が大阪に誘致されることもなかった。
  2. 北大阪急行の運賃があんなに安かったか怪しい。
  3. 太陽の塔は取り壊されていた。
    • 当初の予定通りエキスポタワーが永久保存されていたかもしれない。
  4. 跡地に国立産業技術史博物館の建設が検討される…も結局実現しなさそう。
    • というより当初検討されていたように跡地を都市センターとして再開発する案が実行に移されていた。
  5. 原因は間違いなく70年安保。
    • あるいは史実のように若いクリエーターを起用できず退屈な内容になったから。
  6. 『ひなろじ』の京橋万博の名前が変わっていた。
  7. 日本人は現実ほど万博好きにはならなかっただろう。
    • オリンピックや世界遺産に対しての愛着を考慮するといつかは万博にも強い関心を向けていたのでは。
  8. この万博が後々まで語り継がれることもなかった。
  9. 堺屋太一がこの博覧会に関わっていたことは黒歴史と化していた。
    • もちろん愛知や上海の万博にも絡まなかった。
    • 小松左京にとっても黒歴史となっていただろう。『大阪万博奮闘記』は執筆されなかった。
      • 筒井康隆も『人類の大不調和』『国境線は遠かった』『深夜の万国博』などの大阪万博をネタにした作品を執筆することはなかった。

つくば科学万博(1985年)[編集 | ソースを編集]

  1. つくばの学術都市としての発展はなかった。
    • 民間企業ではなく公的機関ばかりが目についていた。
  2. つくばエキスプレスは名前が変わっていた。
  3. つくば市は誕生しなかった。
    • 漢字表記の「筑波市」になっていたかもしれない。
  4. 日本の科学技術は史実より低いレベルにとどまっていた。
    • 史実より文高理低の傾向が強く、ChakuwikiやWikipedia日本語版では科学技術系の記事は貧弱なままだった(史実におけるWikipedia日本語版のチェスの記事レベル)。
    • 現実では科学万博を機に定着した新技術など特に思いつかないが・・・。
  5. 「つくば」と言うと筑波山を思い浮かべる人が大半だった。
  6. 入場者数は下手をすると1000万人を切っていた。
  7. 国内向けと国外向けでテーマにずれがあったことが激しく批判されていた。
  8. ビジネスモデルを確立できなかったため地方博ブームはそれほど大きくならなかった。
  9. それでも「ポストカプセル2001」で投函された手紙は21世紀初日に無事届けられた。

国際花と緑の博覧会(1990年)[編集 | ソースを編集]

  1. バブル崩壊が少し早まっていた。
  2. 鶴見緑地の知名度が現実よりも低くなっている。
    • 少なくとも関西意外で知っている人はほとんどいなかった。
    • 園内にあるいのちの塔と国際庭園は老朽化により解体されていた。
  3. 大阪が2025年の万博を誘致することはなかった。
  4. 京阪の利用客数は現実よりも早く減少に転じていた。
    • 1970年代後半が利用客数のピークだった。
    • 特急の停車駅増加は20世紀のうちに行われていた。
  5. その後全国各地で「○○花博」と名の付くイベントは開催されなかった。
  6. 会期中のウォーターライドの事故が史実以上にセンセーショナルに取り上げられていた。
    • 他のアトラクションも閉幕後の引き取り手が現れずそのまま廃棄されていた。
    • 風神雷神IIが設置されず事故が起きないのでエキスポランドの閉園が遅れていた。(元の風神雷神は花博で運行後、荒尾市のグリーンランドに移設されて名前を変えて営業中)

セビリア万博(1992年)[編集 | ソースを編集]

  1. 「冷戦の時代とともに万博の時代も終わった」と言われていた。
    • 愛知県の万博招致構想はこの時点で引っ込められた。
    • 最悪これが最後の万博になっていたかもしれない。
    • アメリカ館が恐ろしく貧弱だったことが「万博終焉の象徴」とみなされていた。
  2. 現在では「遺産はAVEと安土城天主の復元だけ」と低評価を下されている。
  3. この博覧会のテーマを「西欧中心的すぎる」と批判していた人々は「それみたことか」と大喜び。
  4. 現在も「万博とオリンピックを一つの国が同じ年に開催するとろくなことにならない」というジンクスが健在だった。

愛・地球博(2005年)[編集 | ソースを編集]

  1. 愛知はハノーバー万博並みの赤字を被った。
  2. 海上の森の知名度が上がることはなかった。
  3. モリゾーとキッコロの番組をNHKが制作することはなかったかもしれない。
  4. 2005年の今年の漢字は「愛」ではなくなっていた。
    • 同年は福知山線脱線事故があったことから、それに関連する字になっていたかも。
  5. 東部丘陵線リニモが、長久手市の人気向上までしばらく無駄路線と揶揄されたかもしれない。
    • リニモは建設されず、地下鉄東山線が長久手市内に延伸されていたか、もしくは藤が丘-八草間に第三軌条式の路線を第三セクター方式で建設して地下鉄東山線と相互直通運転を実施していたかもしれない。
    • 下手したらピーチライナーの二の舞いになっていた。
  6. 会場となった公園の現在の名称は開催前と同じ「愛知青少年公園」。
  7. この失敗を機に万博制度の根幹に関わる何らかの大改革が実行されていた。
    • 例:国単位の出展の禁止、パビリオン以外の出展形態の導入など
  8. 大阪の2025年万博誘致構想は出たとしても維新系の反発により正式立候補に至らなかった。
    • 私たちは愛知のように失敗しないと主張するのでは。ただしBIEの心象が悪くなるので落選した可能性もあるが。
  9. 名古屋の88年五輪誘致失敗とともに「中京地区と国際的イベントは相性が悪い」という説の根拠にされていた。
    • 2026年のアジア大会(史実では名古屋市・愛知県だけ立候補)は立候補都市がなく開催そのものが危ぶまれていた。

上海万博(2010年)[編集 | ソースを編集]

  1. 大阪万博の最多入場数記録は今も破られていない。
  2. 中国当局は「西側メディアがネガティブキャンペーンを繰り広げたせいだ」と非難していた。
  3. PRソングの盗作問題がもっと騒がれていた。
  4. この失敗が原因で中国経済にも悪影響があった恐れあり。
    • そもそも博覧会の失敗の原因をリーマン・ショックに始まる国際的不況に求める人もいる。
  5. 次回のミラノ万博(2015年)への反対運動がさらに拡大していた。
  6. 新興国開催でも失敗となり「21世紀に万博の存在意義はない」という見方が支配的になっていた。
    • 2010年代中頃からBIEを脱退する国が出始めていた。
    • 登録博は2020年ドバイ万博で最後になっていた。
    • 大阪は2025年の万博開催地に立候補しなかった。

成功していたら[編集 | ソースを編集]

沖縄国際海洋博覧会(1975年)[編集 | ソースを編集]

  1. 「海洋博後遺症」という言葉は生まれなかった。
  2. アクアポリスは解体されなかった。
  3. その後の地方博ブームに合わせ沖縄でも何らかの博覧会が行われていた。
    • 本土復帰20年の92年あたりが有力。
  4. この博覧会の演出に関わった金城哲夫にとっては輝かしい実績になっていた。
  5. 海洋博公園の入場者数は史実より多かった。
    • 沖縄縦貫鉄道計画が史実よりも進んでいた。
      • 「ゆいレール」も1990年前後に開業していたかも。
  6. 沖縄へ旅行する人が史実よりも早く増えていた。
    • 1980年代には沖縄への修学旅行も定番になっていた。
    • 航空需要も高まっていたため、関西国際空港や中部国際空港の開港が早まっていたかも。
      • 羽田空港の沖合展開→拡張も。

ハノーバー万博(2000年)[編集 | ソースを編集]

  1. もちろん目標入場者数は達成している。
  2. これまでの万博のように前向きな内容なら本当に実現できていたとしても不思議ではない。
  3. 次回の愛・地球博の内容にも少なからず影響があった。
    • 史実のハノーバーばりの大赤字に悩まされた恐れもある。
  4. この成功を機に先進国の博覧会では既存の見本市会場などの転用が定石になった。
    • この場合、日本は博覧会に対応できる程度の規模の見本市会場がごくわずかしかないため、愛知万博の形態が変更される。
      • ポートメッセなごやを拡張して万博対応のものにする。
      • 名古屋市の反発がなければ、愛知県国際展示場が中部国際空港と同時に開業し、そこが万博会場になったかもしれない。↑と二か所での開催かもしれない。
    • 2025年大阪万博では梅田北地区に東京ビックサイト以上の広さを持つ国際展示場が建設され、これ以降コミックマーケットが大阪開催に変更されていた。
  5. クラフトワークの「Expo 2000」は本万博のテーマソングとして有名になり、後に「Planet der Visionen(独題)」「Planet of Visions(英題)」として改作されることはなかったかもしれない。

麗水万博(2012年)[編集 | ソースを編集]

  1. マスコミがこぞって取り上げ、ロンドン五輪開幕まで話題の中心となっていた。
  2. 連呼リアンがこれをネタに煽っていた。
  3. 日本のネット右翼がこの博覧会へのテロ予告を掲示板に書き込み国際問題になっていた。
  4. 同年の大統領選挙では朴槿恵(与党)がさらに大差をつけて当選していた。
  5. 日本政府はこの博覧会同様にミラノ万博でも震災ネタを持ち出していた。
  6. 革新的な試みにより成功できた場合韓国は「万博の救世主」と持ち上げられていた。
    • 将来的な登録博開催を期待する声も上がっている。

開催されなかったら[編集 | ソースを編集]

愛・地球博(2005年)[編集 | ソースを編集]

  1. カナダのカルガリーで開催されていた。
  2. リトルワールドは閉鎖に追い込まれていた。
    • あるいは2000年代に名鉄の手を完全に離れる。
  3. 近鉄の名阪特急が増発されることはなかった。
  4. 中部国際空港は建設されなかったか、開港が遅れていた。
    • 名古屋空港の移転扱いで2010年代後半に開港したかもしれない。
  5. リニモは開業しなかった。
    • その代わり東山線の延長としてそれと同規格の普通鉄道が開業。第三セクター「愛知高速鉄道」が運営。大株主は愛知県・名鉄。それが開業しても長久手町の市制施行は2010年代後半位になる。
  6. 2005年の「今年の漢字」は福知山線脱線事故に関連する「事」か「命」になっていた。
  7. 名城線の環状化は2009年頃。桜通線野並-徳重間も同時期に開業。
  8. 今度こそ名古屋オリンピック誘致を成功させた。
    • そうなれば名古屋の知名度が上がる。
    • 2020年の夏季五輪開催地は名古屋になっていた。
  9. 2006年アジア競技大会の誘致に成功したかもしれない。

上海万博(2010年)[編集 | ソースを編集]

  1. 1970年の大阪万博の記録を破ることはなかった。
  2. 上海ディズニーランドは開業しなかったかもしれない。

あの年の万博誘致が○○だったら[編集 | ソースを編集]

1940年[編集 | ソースを編集]

立候補していたら[編集 | ソースを編集]

大阪
  1. 紀元二千六百年記念行事の一つとして誘致したとされた。
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 省線(→国鉄→JR)大阪環状線は開幕前に全通していた。
    • 旧西成線の電化時期によるがガソリンカー事故はなかった。
    • 今宮で関西線と分岐した。
      • 当初から環状線ホームがあった。
      • 関西線奈良以西電化が早まった可能性も。
      • 戸籍上の環状線は天王寺~大阪~今宮だった。
  2. 「「大大阪」にふさわしく万博が開かれた」とよく言われた。
    • 「大大阪地下鉄行進曲」のように「大大阪万博行進曲」が開催記念としてつくられたかも。
  3. 大阪が舞台の連続テレビでこの万博が登場した。
  4. 戦争に巻き込まれなかったら開幕前に弾丸列車が開通したかも。
  5. 東京五輪と札幌五輪も開催された。
  6. 昭和恐慌がなかったらこうなっていたかも。
  7. 大阪は1970年の万博に立候補しなかった。
上海
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 清朝が近代化に成功していたらこうなったかもしれない。

1970年[編集 | ソースを編集]

立候補していたら[編集 | ソースを編集]

上海
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. ≒「国共内戦で国民党が勝っていたら」である。
和歌山
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 関西空港が同年に開港していた
    • 阪和線と関西本線及び大阪環状線の連絡線も同時に完成し、「くろしお」は同時に新大阪・京都発着となっていた。
    • 紀勢線西部電化も同時に行われた。
      • 南海本線との直通は打ち切られ大阪方面~紀勢線直通の新快速が運行開始していた。
    • 阪和線(直通)8連快速系が開幕前に運行開始された。
    • 阪和線の旧型国電は万博を前に全廃されていた。
  2. 大阪市営地下鉄堺筋線は南海と直通していた。
    • 逆に泉北高速線地下鉄御堂筋線と直通していた。
    • 南海の昇圧時期が阪急阪神山陽の約2年後になっていた。
    • 南海6000系の製造数が少ない代わり6100系が史実以上に製造された。
    • 現実の7100系が堺筋線乗入れ対応車となり8000系を名乗った。
      • その旧8000系は別番になっていた。
    • 南海線(直通)8連が開幕前に運行開始された。
  3. 和歌山県及び和歌山市は現実ほど衰退しなかっただろう。
  4. 南海和歌山軌道線の廃止が数年早まっていた。
  5. 泉南の開発が史実より進んでいた。
  6. WBSは開幕前にテレビへ進出していた。
  7. 一部パビリオンが翌年の黒潮国体競技場に改造された。
  8. ホークスの優勝回数が増えていた。
  9. 国鉄が小松島航路に参入していたかも。
  10. 和歌山ラーメンは万博を機に知られていた。
岡山
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 山陽新幹線の岡山開業が万博に間に合うよう早まっていた。
  2. 倉吉線が勝山まで延長されていた。
  3. 山陽電鉄が岡山まで延びていた。
    • 開幕前に阪急阪神との直通特急が運行開始していた。
  4. 開幕前に関西~岡山間の新快速が運行開始していた。
  5. 会場は旧山陽町
  6. 山陽道瀬戸大橋の開通が開幕前だった。
広島
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 原爆投下からの復興をアピールしていた。
  2. 山陽新幹線は1970年の時点で広島まで開業していた。
    • 博多までの全線開業も1972~73年あたりに早まっていたかもしれない。
  3. 広島東洋カープのセ・リーグ初優勝が現実より早まっていた。
    • その分巨人のV9が短くなっていた。
  4. 広島市の政令指定都市昇格も早まり、札幌市・川崎市・福岡市と同じ1972年に行われていた。
  5. 修学旅行で広島に行く学校が増えるのが史実より早まっていた。
    • 特に1970年は万博を行程に組み入れる学校も多かった。
  6. 可部線が浜田まで延長されていた。
  7. 国鉄が松山への連絡船を運航していた。
佐賀
  1. 佐賀空港国管理の国際空港になっていたかも。
  2. 山陽新幹線は1970年の時点で博多までの全線が開業していた。
  3. 西鉄が佐賀まで延長される。
  4. 長崎線の電化が早まった。
  5. 「福岡ハイエナイズム」は緩和された。
  6. ライオンズの身売りはなかった。
京都
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 京阪線の昇圧が1968年鴨東線の開業は開幕前だった。
  2. 湖西線の開業が5年ほど早まった。
  3. 地下鉄烏丸線の開業が11年ほど早まった。
    • 市電全廃が10年ほど早まった。
  4. 関西空港が同年に開港していた。
  5. 山陰線の園部電化は開幕前だった。
  6. 会場は恐らく巨椋池の干拓地だろうか?
京阪奈丘陵
  1. 学研都市の都市びらきが25年早かった。
  2. バファローズの本拠地が移転してきた。
  3. 近鉄けいはんな線の開業は開幕前だった。
  4. 関西線電化が4年ほど早まった。
  5. 片町線全線電化が20年ほど早まった。
  6. 京阪交野線が会場に乗り入れていたかも。
  7. 交野市四條畷市生駒市の市制施行が数年早まっていた。

1985年[編集 | ソースを編集]

立候補していたら[編集 | ソースを編集]

仁川
  1. 光復(日本からの統治解放)40年記念事業の一環で立候補したとされた。
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 中華人民共和国との国交樹立のきっかけになっていたかも。
バンコク
  1. 遷都200年記念の関連行事一環で立候補とされる。
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 本当に「ばんこく博覧会」だった。
    • 「クルンテープ・マハーナコーン…」と正式に言える外国人が増えていた。
  2. 会場の立地区が日本吹田市と姉妹都市になっていた。
  3. 1980年頃から「天使の奇跡」と呼ばれる高度成長に入った。
  4. 「タイ航空機爆破事件」が前年に起きていた。

1990年[編集 | ソースを編集]

立候補していたら[編集 | ソースを編集]

上海
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 文化大革命がなかったらこうなったかもしれない。
名古屋
  1. 名古屋市の市制100周年記念事業の一つとして立候補したとされた。
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 史実で'89年に開催されたデザイン博は海外か日本の別の都市で開催された。
  2. 中部空港開幕前年に名古屋空港の移転扱いで開港した。
  3. '05年の万博は海外で開催された。
    • 同年開催された大阪花博も。
    • むしろ05年の万博が大阪開催になっていたかもしれない。
      • その場合、同年の阪神リーグ優勝は万博と合わせて語り継がれていた。場合によっては日本一になっていたかも。
      • 2025年の万博は国内だったら福岡あたりで行われていた。
  4. 2年前に登場した近鉄のアーバンライナーが万博輸送に大活躍していた。
    • 一部8連化は万博に合わせて行われていた。
  5. 2年前の夏季五輪招致失敗の雪辱を果たしていた。
  6. 名古屋めしは万博がきっかけで全国に知られていた。

2000年[編集 | ソースを編集]

立候補していたら[編集 | ソースを編集]

リバプール
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 「ケルトの虎」は史実より注目された。

2025年[編集 | ソースを編集]

立候補していたら[編集 | ソースを編集]

仙台
  1. 東日本大震災からの復興をアピールするため、仙台市と東北6県が共同で誘致を行っていた。
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 上記の仙台市と東北6県が共同で誘致を行っていた場合、「仙台・東北万博」になっていた。
福岡
  1. 福岡市と九州7県が共同で誘致を行っていた。
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 上記の福岡市と九州7県が共同で誘致を行っていた場合、「福岡・九州万博」になっていた。
  2. アイランドシティに福岡市営地下鉄が乗り入れていた。
    • 場合によっては西鉄貝塚線と地下鉄の乗り入れが実現していた。
  3. 佐賀空港九州国際空港になっていたかも
    • 佐賀県の態度次第だが、西九州新幹線が万博を前に新鳥栖まで全通していた可能性もある。
  4. 天神ビッグバンは万博を見越したものとなり、もっと大規模に行われていた。
  5. 西鉄天神大牟田線では万博を前に有料座席指定車両の導入が行われるだろう。
    • 貝塚線の600形も万博開催までに置き換えられるだろう。
  6. 九州(沖縄除く)では初めての万博開催となるので、現実の大阪よりも盛り上がりは大きかった。
熊本
  1. もし熊本市が今も九州の中心だったらありえた。
    • 熊本地震からの復興アピールのため(上記の福岡市のように)熊本市と九州7県が共同で誘致を実施。
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 上記のように熊本市と九州7県が共同で誘致を実施した場合「熊本・九州万博」になっていた。
  2. 熊本城はこの万博に合わせて復旧していた。
  3. 森高千里が万博のテーマソングを担当していた。
  4. くまモンも万博開催を祝福していただろう。
    • 万博バージョンのくまモンも誕生していた。
八尾
  1. 招致には大阪市ではなく大阪府が主体になっていた。
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 同じ大阪府内での開催であることから名称は現実通り「大阪・関西万博」となっていた。
  2. 会場に関しては八尾空港を夢洲あたりに移転し、その跡地になっていた。
  3. メインアクセスは大阪メトロ谷町線が担っていた。
    • 400系は谷町線に投入され、30000A系も当初から谷町線に投入されていた。
    • 谷町線は梅田(東梅田)や天王寺を通っているため、その点でも利便性は高くなっていた。
      • 八尾南から先、藤井寺や富田林方面への延伸計画が出ていたかも。
    • JRのアクセスでは大和路線の志紀駅が活用され、万博期間中に限り大和路快速が停車するほか、新大阪駅からおおさか東線経由のアクセス列車も運転される。
      • 近鉄も万博会期中には近鉄八尾に特急や急行が臨時停車し、会場までシャトルバスを運行していた。
      • 会期中に限り「万博東口(志紀)」駅を名乗っていた。
      • 京都駅からも奈良駅経由で臨時快速が運行されていた。
      • 大和路線に225系が投入されていた。
  4. 内陸部にあるので、津波や高潮の心配はなくなっていた。
札幌
  • 開催地に選ばれた場合
  1. 名称は「北海道万博」。
  2. 北海道新幹線は万博を前に札幌まで延伸されていた。
  3. 3月開幕だった場合、雪や寒さ対策が課題だった。
  4. 札幌市は2030年の冬季五輪に立候補しなかった。
彩都
  1. この場合も招致は大阪市ではなく大阪府が中心になっていた。
  • 開催地に選ばれた場合
  1. やはり「大阪・関西万博」と呼ばれていた。
  2. 会場アクセスは北大阪急行電鉄を千里中央から箕面萱野経由で彩都まで延伸していた。
    • 北急にとっては2度目の万博輸送だった。
      • 大阪メトロ400系は御堂筋線に投入されていた。
        • 北急も同型車両を導入している。
    • 他に大阪モノレールも万博輸送に活用される。
      • 東大阪市内延伸も万博に合わせて行われていた。
      • 万博期間中は大阪空港・瓜生堂から会場への直通列車も運行され、大阪空港や阪急・京阪・近鉄沿線からのアクセスとして機能していた。
  3. 新大阪・梅田・難波・天王寺・大阪空港から乗り換え無しの鉄道アクセスがあるため、現実の夢洲よりはるかにアクセスは良かった。
  4. 近くを新名神高速道路が通っているため、会場近くの空き地に来場者向けの大規模な駐車場が開設されていた。
横浜
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 名称は「横浜万博」。
  2. 上瀬谷通信施設跡地が会場となっていた(史実では2027年の横浜国際園芸博覧会がここで開催される)。
    • 逆に2027年の園芸博覧会の開催地が横浜以外になっていた。
  3. 東急・相鉄の新横浜線は万博を見越して開業したことになっていた。
  4. 1985年のつくば科学万博以来40年ぶりに関東地方で開催される万博となっていた。
奈良
  • 開催地に選ばられていた場合
  1. 名称は「奈良・関西万博」となっていた。
  2. 会場は近鉄けいはんな線沿線の山林を切り開いて作られた。
    • 恐らく白庭台~学研奈良登美ヶ丘の間にある駅が万博アクセス駅として整備されるか、会場最寄りに新駅が設置されていた。
    • 近鉄は万博輸送のため新車両を投入していた。
      • 大阪メトロも現実通り中央線に新車両を投入していただろう。万博会場は路線の反対側だったが。
      • 近鉄の財政状況を考えると大阪メトロの新車投入で余った20系を臨時に借り入れていた可能性も否定できない。
  3. 万博を機に宿泊施設が不足していた奈良県内でホテル建設が加速していた。
  4. シャトルバスは大阪市内や奈良県内からの他京阪沿線や高の原駅からも運行されるだろう。
    • 立地上京阪沿線からはバスでショートカットできるので。
    • あるいは近鉄けいはんな線が万博を前に高の原まで延伸されていた。
金沢
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. 名称は「北陸万博」となっていた。
  2. 北陸新幹線の敦賀延伸はこの万博に間に合わせたことになっていた。
    • ただ万博期間中は乗換駅となる敦賀駅の大混雑が予想されるため、「サンダーバード」「しらさぎ」の一部列車については金沢直通が存置される。
      • あるいは新大阪までの全線が一気に開通していた。
  3. 2024年元日の能登半島地震で開催が危ぶまれていた。
東大阪
  • 開催地に選ばれていた場合
  1. この場合も名称は「大阪・関西万博」となっていた。
  2. 開催地は花園中央公園を整備して会場になっていた。
  3. 地元出身のゆうちゃみがイメージキャラクターを務めていた。
  4. 1970年万博の候補地にここが挙がったことがマスコミに取り上げられていた。
  5. メインアクセスは近鉄奈良線が担っていた。
    • 東花園車庫への引込線を臨時に客扱いしていた。場合によっては万博終了後も恒久的に客扱いすることが決まっていた。
    • それ以外に近鉄けいはんな線の吉田~新石切間に臨時駅が設置される。
    • 直通先の阪神や山陽電鉄から臨時の直通列車も運行されていた。