コンテンツにスキップ

もしあの万国博覧会が○○だったら

独立項目

[編集 | ソースを編集]

開催されていたら

[編集 | ソースを編集]

東京万博(1940年)

[編集 | ソースを編集]
  1. 東京オリンピックも開催されていた。
  2. 入場券が大阪花博や愛知万博で使われることはなかった。
  3. 世界都市博覧会は開かれたとしても別の形になっていた。
  4. 東京都中央区晴海一帯は万博記念公園になっていた。
    • 太平洋戦争を挟んでいるため普通に市街地になっている気がする。
  5. 大阪万博が開催されたかどうか怪しい。
    • 東京五輪決定時点で「西日本にも同じような国際的なイベントが必要」という声が上がっていたので開催されているのでは。
    • ただし東京が開催地候補として名乗りを上げることはなかった。
    • 博覧会の正式名が40年のものと同じ「日本万国博覧会」になっていなかった可能性あり。
    • 1964年の五輪が大阪だった場合、1970年の万博は名古屋だった可能性がある。
      • つまりこれが35年早く実現していた。
      • この場合2005年の万博開催地は愛知県ではなかった。
        • むしろこの時点で2回目の大阪万博が開催され、2025年は福岡で開催されていた。
    • むしろ東京一極集中が30年早く進行し、大阪は'70年時点では開催地候補にも名前が挙がらないほど衰退していた。
  6. 戦災や乱開発のせいで建造物の遺構はほぼ残っていない。
  7. 日本の衛星国ではない国で出展したのはドイツ、イタリア、ブラジルくらいと寂しい博覧会になっていた。
  8. この博覧会を記念した歌が当時の国民的ヒット曲になっていた。
  9. 会場への大量輸送の為市電5000形の増備が再開され合計100両以上製造されたかも。
    • 5000形は1系統・11系統(会場近くを通る)を中心に運用。
    • むしろ東京市営地下鉄として晴海に地下鉄が開通していた。
      • 有楽町線より一筋南の晴海通り直下を東進し、晴海を目指した。
      • その後、1941年に東京地下鉄道と東京高速鉄道も市営化された。

失敗していたら

[編集 | ソースを編集]

ロンドン万博(1851年)

[編集 | ソースを編集]
  1. 1855年の第1回パリ万博が最初の万国博覧会とされていたかもしれない。
    • 下手をするとロンドンの失敗が原因で万国博自体広まらなかった可能性も。
  2. 水晶宮は忌まわしい失敗のシンボルとして会期終了後にとっとと解体されていた。
    • 「クリスタル・パレス」という地名もない。
    • 設計者のジョセフ・パクストンは世論の激しい非難を浴び残りの生涯を名もない失敗者として過ごしていた。
  3. ヴィクトリア朝時代の後世におけるイメージにも影響があった。

パリ万博(1855年)

[編集 | ソースを編集]
  1. その後パリで万博が開かれることは二度となかった。
    • それどころかフランスが万博に参加すること自体しばらくなかった。
    • 1867年の博覧会もないため「獅子の時代」の内容もかなり変わっている。
    • 1900年の万博に合わせて建てられたエッフェル塔もない。
  2. パリっ子には「イギリスの猿真似なんかするから・・・」と陰口をたたかれていた。

パリ万博(1867年)

[編集 | ソースを編集]
  1. 完全にナポレオン3世の道楽呼ばわりされていた。
  2. その後の万博はさらに教育色を強めていた。
    • 遅くとも第2次大戦までには人々に飽きられ消滅していた。
  3. 薩摩藩が幕府と別にパビリオンを出していたこともこの博覧会のまずい運営を象徴する事柄として批判的に取り上げられていた。

フィラデルフィア万博(1876年)

[編集 | ソースを編集]
  1. その後の万博もヨーロッパ中心で進んでいた。
    • 少なくともシカゴ(1893)やセントルイス(1904)の万博はなかった。
  2. 史実ではこの博覧会で国際的に注目されたベルの電話の普及がやや遅れていた。

セントルイス万博(1904年)

[編集 | ソースを編集]
  1. 「人間動物園」の展示が識者に激しく批判された。
    • この手の先住民の「展示」はこの時点でタブー化された。
    • 現在ではアメリカに強烈な人種差別がはびこっていた時代の象徴の一つとされている。
  2. 会場が広すぎたことが史実以上に問題視された。
  3. 同時開催の五輪も後世になってもっと叩かれていた。
    • 「万博とオリンピックを同時に行うとろくなことにならない」というジンクスはより確固たるものになっていた。
    • 「人間動物園」同様「人類学の日」も「かつてのアメリカにおける大きな人種差別の象徴」として扱われていた。

シカゴ万博(1933年)

[編集 | ソースを編集]
  1. アンコール開催などされるわけがない。
  2. 場合によってはテーマ付きの万博はこれが最初で最後になっていた。
  3. 現在のような体験や芸術などを通した複合演出のスタイルがあったかどうか怪しい。
    • あったとしても次のニューヨーク万博が起源とされていた。
  4. 史実では大人気だったフォード館も「単に工場を見せただけ」と酷評されていた。

パリ万博(1937年)

[編集 | ソースを編集]
  1. 「国際情勢の緊迫化に翻弄された悲劇の万博」と称されていた。
  2. 特に展示内容がイデオロギー全開だったドイツとソ連が失敗の元凶呼ばわりされている。
    • 歴史書などでドイツ館とソ連館がにらみ合う構図の写真が「万博にふさわしからぬ国家間対立を象徴していた」などの否定的なキャプションで紹介される。
  3. 戦後長い間パリで万博が行われなかった理由は間違いなくこの博覧会の失敗。
  4. 出展された「ゲルニカ」(ピカソ)の評価にも影響があったかもしれない。

ニューヨーク万博(1939年)

[編集 | ソースを編集]
  1. 原因は間違いなく会期中に勃発した第2次大戦。
    • 英仏など有力国の大量閉館もありえた。
      • 最悪の場合博覧会が続行不能になっていた。
    • 「明日の世界の建設と平和」というテーマもさんざん皮肉られていた。
  2. 見た目に統一方針のないパビリオンの集まりがごみ溜め呼ばわりされていた。
  3. その後も万博では企業パビリオンはあまり大きな顔ができなかった。

ブリュッセル万博(1958年)

[編集 | ソースを編集]
  1. 「科学文明とヒューマニズム」というテーマが中途半端だと叩かれていた。
  2. 「戦後世界に万博は不要ではないか」という議論が起こっていた。
    • アメリカのBIE脱退がかなり早まっていた恐れもある。
  3. シンボルタワーのアトミウムはブリュッセルのシンボルどころか負の遺産扱い。
    • 口の悪い人からは「寄生体」「有害物質の分子」などとも呼ばれていた。

モントリオール万博(1967年)

[編集 | ソースを編集]
  1. モントリオール・エクスポズ(現・ワシントン・ナショナルズ)の球団名が変わっていた。
  2. 当然ながらモントリオールオリンピックは開催構想すら無かった。
  3. 当初開催予定だったソ連は「わが国で行えばこんなことにはならなかった」と言い放っていた。
    • 70年代後半あたりに万国博覧会を行っていた可能性あり。
  4. 失敗原因はおそらく支持率の低さ。
  5. その後もテーマはメイン1つだけ。
    • ゴチャゴチャとサブテーマを設けるのは邪道とされた。
  6. 大阪万博関係者は史実とは異なりこの博覧会を反面教師にしていた。

大阪万博(1970年)

[編集 | ソースを編集]

もし1970年の大阪万博が○○だったら#失敗していたら

つくば科学万博(1985年)

[編集 | ソースを編集]
  1. つくばの学術都市としての発展はなかった。
    • 民間企業ではなく公的機関ばかりが目についていた。
  2. つくばエキスプレスは名前が変わっていた。
    • 国鉄→JRか京成電鉄の運用になっていたかも。
    • おそらく関鉄系の第三セクターとして設立され、ほどなく京成に身売りされて京成千原線のような扱いをされていた。
  3. つくば市は誕生しなかった。
    • 漢字表記の「筑波市」になっていたかもしれない。
  4. 日本の科学技術は史実より低いレベルにとどまっていた。
    • 史実より文高理低の傾向が強く、ChakuwikiやWikipedia日本語版では科学技術系の記事は貧弱なままだった(史実におけるWikipedia日本語版のチェスの記事レベル)。
    • 現実では科学万博を機に定着した新技術など特に思いつかないが・・・。
      • いや、茨城県は万博を機に県民性が一変したことは事実。
    • 今でも「茨城」と言うと教育県ではなくヤンキーのイメージだった。
  5. 「つくば」と言うと筑波山を思い浮かべる人が大半だった。
    • そもそも、ひらがなで「つくば」と書くことは稀だった。
  6. 入場者数は下手をすると1000万人を切っていた。
  7. 国内向けと国外向けでテーマにずれがあったことが激しく批判されていた。
  8. ビジネスモデルを確立できなかったため地方博ブームはそれほど大きくならなかった。
  9. それでも「ポストカプセル2001」で投函された手紙は21世紀初日に無事届けられた。
  10. 連接バスの存在感が史実より低かった。

国際花と緑の博覧会(1990年)

[編集 | ソースを編集]
  1. バブル崩壊が少し早まっていた。
  2. 鶴見緑地の知名度が現実よりも低くなっている。
    • 少なくとも関西意外で知っている人はほとんどいなかった。
    • 園内にあるいのちの塔と国際庭園は老朽化により解体されていた。
      • 咲くやこの花館も令和になるまでに閉館していた。
    • 大阪市営地下鉄鶴見緑地線は路線延伸に伴い路線名が「長堀線」に変更されていた。
  3. 大阪が2025年の万博を誘致することはなかった。
    • 同年の万博は日本国内でやる場合福岡あたりになっていた。
      • 2020年の万博開催地が東京でなかった場合は東京、あるいは首都圏で開催されていたかもしれない。
  4. 京阪の利用客数は現実よりも早く減少に転じていた。
    • 1970年代後半が利用客数のピークだった。
    • 特急の停車駅増加は20世紀のうちに行われていた。
  5. その後全国各地で「○○花博」と名の付くイベントは開催されなかった。
    • 2027年の横浜花博(これは正式な万博である)も開催されなかった。
  6. 会期中のウォーターライドの事故が史実以上にセンセーショナルに取り上げられていた。
    • 他のアトラクションも閉幕後の引き取り手が現れずそのまま廃棄されていた。
    • 風神雷神IIが設置されず事故が起きないのでエキスポランドの閉園が遅れていた。(元の風神雷神は花博で運行後、荒尾市のグリーンランドに移設されて名前を変えて営業中)
    • 花博と関係ないが開幕の少し前に尼崎市であった長崎屋火災も史実よりも大きく扱われていた。

セビリア万博(1992年)

[編集 | ソースを編集]
  1. 「冷戦の時代とともに万博の時代も終わった」と言われていた。
    • 愛知県の万博招致構想はこの時点で引っ込められた。
    • 最悪これが最後の万博になっていたかもしれない。
    • アメリカ館が恐ろしく貧弱だったことが「万博終焉の象徴」とみなされていた。
    • 2025年の大阪・関西万博もなかった。
  2. 現在では「遺産はAVEと安土城天主の復元だけ」と低評価を下されている。
  3. この博覧会のテーマを「西欧中心的すぎる」と批判していた人々は「それみたことか」と大喜び。
  4. 現在も「万博とオリンピックを一つの国が同じ年に開催するとろくなことにならない」というジンクスが健在だった。

愛・地球博(2005年)

[編集 | ソースを編集]
  1. 愛知はハノーバー万博並みの赤字を被った。
  2. 海上の森の知名度が上がることはなかった。
  3. モリゾーとキッコロの番組をNHKが制作することはなかったかもしれない。
  4. 2005年の今年の漢字は「愛」ではなくなっていた。
    • 同年は福知山線脱線事故があったことから、それに関連する字になっていたかも。
  5. 東部丘陵線リニモが、長久手市の人気向上までしばらく無駄路線と揶揄されたかもしれない。
    • リニモは建設されず、地下鉄東山線が長久手市内に延伸されていたか、もしくは藤が丘-八草間に第三軌条式の路線を第三セクター方式で建設して地下鉄東山線と相互直通運転を実施していたかもしれない。
    • 下手したらピーチライナーの二の舞いになっていた。
  6. 会場となった公園の現在の名称は開催前と同じ「愛知青少年公園」。
    • 最寄り駅の名前は愛知県立大学前駅に変わっていた。
  7. この失敗を機に万博制度の根幹に関わる何らかの大改革が実行されていた。
    • 例:国単位の出展の禁止、パビリオン以外の出展形態の導入など
    • 「会期は6週間以上6ヶ月以内」というBIEの条約が改定あるいは撤廃されていたかもしれない。
      • 場合によっては開催期間が短縮、延長されていた。
  8. 大阪の2025年万博誘致構想は出たとしても維新系の反発により正式立候補に至らなかった。
    • 私たちは愛知のように失敗しないと主張するのでは。ただしBIEの心象が悪くなるので落選した可能性もあるが。
    • 仮に誘致成功したとしても現実以上に逆風に晒され、開幕しても入場者は増えなかったかもしれない。
      • そのため、入場やパビリオンの予約制は会期途中で廃止されていた。
        • 気軽に入場できるようになっていたため、却って現実よりも入場者を集める結果になっていたかも。
    • もう日本で万博は開催できなかったかもしれない。
      • その場合、2027年の横浜花博もなかった。
  9. 名古屋の88年五輪誘致失敗とともに「中京地区と国際的イベントは相性が悪い」という説の根拠にされていた。
    • 2026年のアジア大会(史実では名古屋市・愛知県だけ立候補)は立候補都市がなく開催そのものが危ぶまれていた。
      • 大阪はむしろこちらに立候補していたかも。もし開催決定していたらやはり舞洲か夢洲あたりがメイン会場になっていた。

上海万博(2010年)

[編集 | ソースを編集]
  1. 大阪万博の最多入場数記録は今も破られていない。
  2. 中国当局は「西側メディアがネガティブキャンペーンを繰り広げたせいだ」と非難していた。
  3. PRソングの盗作問題がもっと騒がれていた。
  4. この失敗が原因で中国経済にも悪影響があった恐れあり。
    • そもそも博覧会の失敗の原因をリーマン・ショックに始まる国際的不況に求める人もいる。
  5. 次回のミラノ万博(2015年)への反対運動がさらに拡大していた。
  6. 新興国開催でも失敗となり「21世紀に万博の存在意義はない」という見方が支配的になっていた。
    • 2010年代中頃からBIEを脱退する国が出始めていた。
    • 登録博は2020年ドバイ万博で最後になっていた。
    • 大阪は2025年の万博開催地に立候補しなかった。

成功していたら

[編集 | ソースを編集]

沖縄国際海洋博覧会(1975年)

[編集 | ソースを編集]
  1. 「海洋博後遺症」という言葉は生まれなかった。
  2. アクアポリスは解体されなかった。
  3. その後の地方博ブームに合わせ沖縄でも何らかの博覧会が行われていた。
    • 本土復帰20年の92年あたりが有力。
    • 海洋博から50年となる2025年にも何らかのイベントが行われるだろう。
  4. この博覧会の演出に関わった金城哲夫にとっては輝かしい実績になっていた。
  5. 海洋博公園の入場者数は史実より多かった。
    • 沖縄縦貫鉄道計画が史実よりも進んでいた。
      • 「ゆいレール」も1990年前後に開業していたかも。
  6. 沖縄へ旅行する人が史実よりも早く増えていた。
    • 1980年代には沖縄への修学旅行も定番になっていた。
      • 1990年頃には公立学校でも沖縄へ修学旅行へ行くケースが増えていた。
        • その分伊勢や広島に行く学校が減っていた。
          • JR西日本キハ189系の製造両数が減っていた(史実では伊勢への修学旅行臨への運用を考えていた)。そのため「はなあかり」への改造もなかった。
        • その頃には公立学校でも修学旅行に飛行機を使うのが当たり前となっていた。
    • 航空需要も高まっていたため、関西国際空港や中部国際空港の開港が早まっていたかも。
      • 羽田空港の沖合展開→拡張も。
      • 関空は大阪花博に合わせて1989~90年に開港していた。
  7. 沖縄にUSJができていたかも。
    • 現実には大阪のUSJを復活させた森岡毅氏がプロデュースした「ジャングリア」ができた。
    • もちろん大阪のUSJも史実通りオープンし、沖縄は国内2つ目のUSJとなっていた。
  8. 候補地の1つだった糸満市を始め那覇市に近い場所だったら成功していたかもしれない。

ハノーバー万博(2000年)

[編集 | ソースを編集]
  1. もちろん目標入場者数は達成している。
  2. これまでの万博のように前向きな内容なら本当に実現できていたとしても不思議ではない。
  3. 次回の愛・地球博の内容にも少なからず影響があった。
    • 史実のハノーバーばりの大赤字に悩まされた恐れもある。
  4. この成功を機に先進国の博覧会では既存の見本市会場などの転用が定石になった。
    • この場合、日本は博覧会に対応できる程度の規模の見本市会場がごくわずかしかないため、愛知万博の形態が変更される。
      • ポートメッセなごやを拡張して万博対応のものにする。
      • 名古屋市の反発がなければ、愛知県国際展示場が中部国際空港と同時に開業し、そこが万博会場になったかもしれない。↑と二か所での開催かもしれない。
    • 2025年大阪万博では梅田北地区に東京ビックサイト以上の広さを持つ国際展示場が建設され、これ以降コミックマーケットが大阪開催に変更されていた。
  5. クラフトワークの「Expo 2000」は本万博のテーマソングとして有名になり、後に「Planet der Visionen(独題)」「Planet of Visions(英題)」として改作されることはなかったかもしれない。

麗水万博(2012年)

[編集 | ソースを編集]
  1. マスコミがこぞって取り上げ、ロンドン五輪開幕まで話題の中心となっていた。
  2. 連呼リアンがこれをネタに煽っていた。
  3. 日本のネット右翼がこの博覧会へのテロ予告を掲示板に書き込み国際問題になっていた。
  4. 同年の大統領選挙では朴槿恵(与党)がさらに大差をつけて当選していた。
  5. 日本政府はこの博覧会同様にミラノ万博でも震災ネタを持ち出していた。
  6. 革新的な試みにより成功できた場合韓国は「万博の救世主」と持ち上げられていた。
    • 将来的な登録博開催を期待する声も上がっている。
      • 2025年の万博は大阪ではなく韓国の釜山になっていたかも。
  7. 日本からの来場者も多かっただろう。

開催されなかったら

[編集 | ソースを編集]

愛・地球博(2005年)

[編集 | ソースを編集]
  1. カナダのカルガリーで開催されていた。
  2. リトルワールドは閉鎖に追い込まれていた。
    • あるいは2000年代に名鉄の手を完全に離れる。
  3. 近鉄の名阪特急が増発されることはなかった。
  4. 中部国際空港は建設されなかったか、開港が遅れていた。
    • 名古屋空港の移転扱いで2010年代後半に開港したかもしれない。
  5. リニモは開業しなかった。
    • その代わり東山線の延長としてそれと同規格の普通鉄道が開業。第三セクター「愛知高速鉄道」が運営。大株主は愛知県・名鉄。それが開業しても長久手町の市制施行は2010年代後半位になる。
  6. 2005年の「今年の漢字」は福知山線脱線事故に関連する「事」か「命」になっていた。
    • 後者だったら2006年と史上初めて2年連続で同じ漢字が選出されていた。
  7. 名城線の環状化は2009年頃。桜通線野並-徳重間も同時期に開業。
  8. 今度こそ名古屋オリンピック誘致を成功させた。
    • そうなれば名古屋の知名度が上がる。
    • 2020年の夏季五輪開催地は名古屋になっていた。
    • あるいは2020年五輪は史実通り東京で、2025年の万博が名古屋圏になっていた。
  9. 2006年アジア競技大会の誘致に成功したかもしれない。

上海万博(2010年)

[編集 | ソースを編集]
  1. 1970年の大阪万博の記録を破ることはなかった。
  2. 上海ディズニーランドは開業しなかったかもしれない。

あの年の万博誘致が○○だったら

[編集 | ソースを編集]

もしあの年の万博招致が○○だったら

開催形式が違っていたら

[編集 | ソースを編集]

つくば科学万博

[編集 | ソースを編集]
一般博だったら
  1. 首都圏と言うこともあり、入場者数は3000万人を超えていただろう。
  2. つくばエクスプレスは万博前に開通していた。
    • 万博で稼ぎまくったため、運賃は現実よりも安かった。
  3. つくば市の誕生が早まっていた。
  4. 1985年8月に発生した日航機墜落事故でも万博帰りの人がかなり巻き込まれていた。
    • マスコミで彼らのエピソードも取り上げられていただろう。
  5. 5年後に大阪で行われる花博への期待も高まっていた。
    • それとともに開催のハードルも上がっていただろう。
  6. 茨城県の存在感が現実よりも上がっていた。
    • 県内にある観光地である袋田の滝や鹿島神宮の知名度も上がっていただろう。

国際花と緑の博覧会

[編集 | ソースを編集]
一般博だったら
  1. 開催規模は現実よりも大きかった。
    • 現実よりもパビリオンが多かったかもしれない。
    • 会場は鶴見緑地ではなかったかも。
      • 恐らく彩都が史実よりも早く開発されるか、この時点で舞洲が使われていた。
        • アクセスとしては前者だったら北急が、後者だったらJR桜島線か大阪市営地下鉄中央線が会場まで延伸されていた。
          • 後者だった場合、万博を前に大阪環状線に205系が投入されていた。あと東北や北海道、新潟から万博最寄駅直通の臨時夜行列車も運転されていた。
            • 大阪市営地下鉄(現大阪メトロ)新20系もいち早く中央線に投入されていた。
        • 場合によっては夢洲の埋め立てが史実よりも早く進み、舞洲とW会場となっていた。その場合現実の2025年大阪・関西万博よりも会場が広かっただろう。
          • 両会場の間は海上ロープウェイで結ばれていた。
      • ダイエーがパビリオンを出展していたかもしれない。
        • 任天堂も。もしかしたらスーパーファミコンは花博でデビューしていたかもしれない。
        • 松下電器はもちろん、三洋電機シャープと言った在阪3大家電メーカーもパビリオンを出展し、全盛期を迎えた日本の家電産業の見本市となっていた。
          • 松下の「画王」はこの万博で初披露されていた(史実では同年10月発売)。
        • 日清食品もパビリオンを出展し、生タイプカップ麺である「日清ラ王」は史実より2年早くここで披露されていた。名称は異なっていたかもしれないが(日清ラ王の商品名は上の「画王」をもじったため)。
  2. 入場者数は少なくとも3000万人を超え、場合によっては5000万人くらいになっていた。
    • 更に言うとバブルの波に乗って7000万人を超え、1970年万博の記録を早くも更新していたかもしれない。
  3. 関空はこれに合わせて1989~90年に開港が早まっていた。
    • 阪神なんば線や京阪中之島線などの開通も万博に間に合うよう早まっていた。
      • JR東西線も。
      • 会場が舞洲だった場合、中之島線は当初から西九条あるいは九条まで建設され、万博アクセス路線に接続していた。
        • 現実ほど低迷しなかっただろう。
    • USJの開園も1990年までに前倒しされていたかもしれない。その場合JR桜島線の線路移設も早まっていた。
  4. 2025年の万博は小規模な認定博になっていた。
    • あるいは登録博だったとしても大阪以外の関東とか福岡で開催されていた。
      • 関東の場合、史実で2027年開催の横浜花博が登録博になった上2年早まっていた。
    • その場合現実より早く2023年頃の開催になっていたかも。
      • もしそうなってたら同年の阪神タイガースの18年ぶりリーグ優勝→38年ぶり日本一と合わせて語り継がれていた。
    • むしろこちらが鶴見緑地で開催されていた。
      • 大泉緑地や服部緑地、久宝寺緑地もありうる。
  5. テーマソングであるTHE ALFEEの「FLOWER REVOLUTION」はもっと広く知られていた。
  6. 東海道・山陽新幹線「のぞみ」のデビューが早まっていたかもしれない。
    • 1989年3月ダイヤ改正で朝晩のみ運行でデビューし、万博開幕を前にした1990年3月改正で毎時1本の運行になった。
    • それに伴い300系の試作車も1988年頃に登場していた。
      • この場合100系「グランドひかり」は登場しなかったかもしれない。
        • 食堂車の衰退も早く、新幹線からは20世紀中に全廃になっていた。
  7. 名称はこの時点で「大阪・関西万博」が使われていた。
BIE認定博じゃなかったら
  1. もしバブルがなかったらである。
  2. 単なる地方博覧会の1つだった。
    • 開催規模も現実ほど大きくなかっただろう。企業のパビリオンはほとんどなかったかもしれない。
    • 入場者数も史実(2300万人)の半分もいかなかったかもしれない。
  3. 閉幕後の知名度は現実よりも低かったかもしれない。
  4. 2025年の大阪・関西万博は文字通り大阪では2度目の万博になっていた。

愛・地球博

[編集 | ソースを編集]
当初計画通りの規模で開催されていたら
  1. 会場面積は約540haとなり、1970年大阪万博を抜いて史上最大規模になっていた。
    • 当初から一般博としての開催になっていただろう。
  2. 総入場者数も現実より多く、3000万人を超えていただろう。
  3. 長久手会場はなく、瀬戸会場だけだった。
    • リニモや愛知環状鉄道が会場ゲート前まで延伸されていただろう。
      • 史実とは逆に愛環がメインアクセスとなっていた。
  4. 2025年の大阪・関西万博についても史実よりも大規模なものが要求されていた。
    • 場合によっては会場は夢洲ではなかったかもしれない。

別の時代に開催されていたら

[編集 | ソースを編集]

沖縄海洋博

[編集 | ソースを編集]
1980年
  1. 1975年と比べて国民が豊かになっているので来場者数は史実より多かった。
    • 恐らく1000万人近くになっていた。
  2. 沖縄の交通ルールが本土と同じになってからの開催となっていた。
  3. 開催決定は日本復帰後だった。
    • それを記念して開催が決定していた。

国際花と緑の博覧会

[編集 | ソースを編集]
1985年
  1. ≒1970年の万博開催地が大阪ではなかったら、である。
  2. 逆につくば科学万博が1990年に開催されていた。
    • 世界都市博は企画自体がなかっただろう。
    • 科学万博はむしろ茨城以外の関東地方(特に首都圏)で開催されていたかも。
      • 埼玉だった場合、同年の西武日本一は万博と合わせて語り継がれていた。
  3. 人口の多い団塊ジュニア世代は小中学生時代に花博を経験していた(特に関西在住)。
    • 彼らにおける思い出話に花博がよく出てくるようになっていた。
  4. 同年8月に発生した日航123便墜落事故の犠牲者の中にも花博に向かう人が含まれていた。
    • マスコミで彼らのエピソードも取り上げられていただろう。
  5. 同年には阪神タイガースのリーグ優勝・日本一もあったので、それと合わせて語り継がれていた。
    • 場合によっては関西の街の盛り上がりが現実以上のものとなっていたかもしれない。
  6. 会場におニャン子クラブのメンバー達が招待されていた。
    • そのおニャン子クラブが出演していた当時の人気番組「夕やけニャンニャン」が花博の会場から生中継されていた可能性も有り得る。
  7. 地下鉄鶴見緑地線(現長堀鶴見緑地線)はリニア方式ではなく、通常の第三軌条路線となっていた。
    • 都心延伸後は森ノ宮に中央線との連絡線が設置されていた。
    • 場合によっては今里筋線も第三軌条式となっていた。
    • 日本初のリニア地下鉄は都営12号線(現大江戸線)となっていた。
1988年
  1. ≒1970年の万博開催地が大阪ではなかった尚且つ1985年の科学万博開催地がつくば市ではなかったら、である。
  2. 昭和天皇の吐血に伴う自粛ムードの影響がどこかで出ていた。
    • 4月ではなく10月開幕だった場合、場合によっては開催中止になっていた。
      • 仮に開催されたとしても、派手な催しは自粛されていた。
  3. この年の近鉄バファローズの10.19(ロッテとのダブルヘッダー)が花博と結び付けられて語られることもある。
  4. 近鉄アーバンライナーのデビューや近鉄百貨店阿倍野店の増床は花博に合わせたものとなっていた。
1992年
  1. 逆にセビリア万博が1990年に開催されていた。
  2. 当時は既にバブルは崩壊していたとはいえ、1992年まで関西経済は好調だった。
    • もしかしたら阪神・淡路大震災までバブルの余韻が残っていたかもしれない。
  3. 阪神タイガースの優勝争いが花博と合わせて語り継がれていた。
    • もし優勝していた場合、花博と二重で大盛り上がりだっただろう。
    • 「日本国内で万博が開催されたら阪神がAクラスに入れる」というジンクスが生まれていた。
      • 事実、1970年(大阪万博の開催年)は2位、1985年(つくば科学万博の開催年)と2005年(愛・地球博の開催年)はリーグ優勝、1975年(沖縄海洋博の開催年)は3位になっている。
      • 史実通りヤクルトに優勝を献上した場合、「大阪府内で万博が開催されたら阪神がリーグ2位になる」というジンクスも生まれていた。
  4. 会場にきんさん・ぎんさんが招待されていた。
  5. 遊園地ゾーンで使われていた遊具の一部が1994年に開業の志摩スペイン村に移設されていたかもしれない。
  6. 「日清ラ王」は花博でデビューしていたかもしれない。
    • その場合、会場内でも食べられていた。
  7. 場合によっては関西国際空港の開港が早まっていたかもしれない。
  8. 1996年の東京における世界都市博覧会は企画そのものが存在しなかった(1993~1995年に開催されていた場合も同様)。
1993年
  1. 関空の開港が史実より1年早まっていた。
    • 遅くとも1993年3月までに開業していた。
  2. 同年はJリーグ発足やドーハの悲劇、皇太子(当時。現天皇陛下)ご成婚などもあり忘れられない年になっていた。
    • 会場内でご成婚の祝賀イベントもあっただろう。
  3. 新幹線の「のぞみ」が毎時1本になったのは花博がきっかけだった。
  4. 阪神タイガースは昨年に続き、Aクラスを堅持していたかも。
    • 場合によってはリーグ優勝し、前年の雪辱を果たしていた。
  5. 遊園地ゾーンで使われていた遊具の一部が翌年に開業を控えている志摩スペイン村に移設されていたかもしれない。
  6. 7月には北海道南西沖地震があったことから、会場内に募金箱が設置されていた。
1994年
  • 花博が関西国際空港の開港年に当たる1994年に開催されていたら?
  1. 花博が関西国際空港の開港記念イベントとなっていたことと、花博の入場者数が現実より増えていたことは同じ。
    • ただし、愛知万博よりずっと多かったかどうかはわからない。
      • すでにバブル経済が崩壊していたため。
      • 花博自体の規模が縮小して開催された事は間違いない。花博は民活万博と呼ばれ、その運営の大部分を民間企業に託していた為。
        • バブル期の恩恵をふんだんに受けて開催されたのが花博だから、その時期がずれると開催自体されなかったのかもしれない。国際博ではなく極小の地方博になっていた可能性も。
          • その場合入場者数も史実(愛・地球博にも匹敵する2300万人)よりかなり少なくなっていた。
  2. JR東西線や阪神なんば線は1993~1994年頃に開業。
  3. 1994年前後に大阪市内の交通インフラ整備が飛躍的に進んだ。
  4. 開港そのものも半年早まっていたかも?
  5. 地下鉄長堀鶴見緑地線の開業も1994年頃にずれ込んでいた。
    • 日本最初のリニア地下鉄は都営地下鉄大江戸線(当時は都営12号線)となっていた。
    • 大阪市営地下鉄70系電車はローレル賞を受賞できなかった。
    • 場合によっては長堀鶴見緑地線の京橋-鶴見緑地間ではなく大正-門真南間の全線が一気に開業していた可能性がある。
      • この場合路線名は「長堀線」となっていた。
  6. 1994年まで関西経済は好調だった。(もっともバブルは崩壊していたが)
    • しかし翌年発生した阪神・淡路大震災による打撃が現実以上に大きかった。(大震災よりも、やはりバブル崩壊のほうが関西にとってはダメージ大だったと思う。だから94年まで好調なんて事はない筈。)
      • でも1994年頃まではまだバブルの余韻が残っていたように思う。阪神・淡路大震災の起こった1995年ごろが日本経済の1つの転機だったと思われる。
        • 94年頃なんてバブルの余韻残ってなかったよ(笑)。当時の雰囲気だけで話進めちゃ駄目じゃない。関西にバブルの余韻が残ってたのは92年頃までかな。
        • 確かに93年頃から景気が悪くなっていったが、より深刻になっていったのは1995年頃から。その前後から学生の就職状況が一気に悪くなった。(もっとも関西に限った話ではないが)
  7. 世界都市博は企画自体なかった
  8. 京阪8000系のデビューは1994年にずれ込み、当初から2階建て車を組み込んで登場していた。
    • 京阪8000系の登場は鴨東線開通に伴う運用本数増がきっかけだから史実通りだと思う。
      • その場合2階建て車の登場は1994年に前倒しされ、全ての編成に組み込まれていた。
1995年
  1. 開幕直前に起こった阪神・淡路大震災の影響を大きく受けていた。
    • 場合によっては中止になっていた。
    • 開催されていたとしても震災に加え不況の深刻化で入場者数はかなり少なかった。
      • 最悪1000万人を切っていただろう。
    • 発生時間が会期中かつ昼間だった場合、花博に来ていた観客や関係者が地震に巻き込まれていた。
      • マスコミで彼らのエピソードも取り上げられていただろう。
  2. 京阪旧3000系のダブルデッカーのデビューが早まり、花博開幕直前の1995年3月となっていた。
  3. オウム真理教によるテロの標的にされた恐れあり。
    • 少し前に地下鉄サリン事件が起こったこともあり、現実よりも警備が厳しくなっていた。
      • ゴミ箱が会場内に一つも設置されなかったほか、入口で手荷物チェックが行われていた。
1997年
  1. この年はなみはや国体もあり、大阪で2つの大イベントがあった年になっていた。
  2. JR東西線は花博開幕に合わせて開業していた。
  3. アジア通算危機の影響がどこかで出ていた。
1998年
  1. 2000年の淡路花博、および2005年の愛・地球博は開催されなかった。
    • むしろ2025年の万博が愛知県開催になっていた。
  2. 同年は長野オリンピック、明石海峡大橋開通、和歌山毒カレー事件などもあり、良くも悪くも忘れられない年になっていた。
    • 和歌山毒カレー事件後しばらくは会場内のフードコートやレストランでカレーの提供が止められていた。
  3. 当時の日本は戦後最悪の経済状態に陥ったため、かなり地味なものになっており、入場者数はかなり少なかった。
    • 下手すれば国際博ではなく極小の地方博になっていた可能性も。

愛・地球博

[編集 | ソースを編集]
1980年
  1. 日本国内では1970年大阪万博から1990年大阪花博まで5年毎に万博が開催されていた。
  2. 会場が現実通りだった場合、アクセス鉄道としては名古屋市営地下鉄東山線が藤が丘から延伸されていた。
    • 名古屋市外だったため大阪の北大阪急行と同様別会社での建設になっていた。
  3. 近鉄30000系ビスタカーや12410系は万博がきっかけで登場していた。
    • 名阪ノンストップ特急の利用客回復が早くなり、万博期間中は連日6~8両で運転されていた。12410系は当初から4両編成で登場していた。
    • 名鉄も万博を前にリクライニングシート装備の新型特急車両を投入していた。
  4. きしめんや味噌カツ、味噌煮込みうどんと言った名古屋めしは万博がきっかけで全国に知られていた。
  5. 日本の3大都市圏における中京圏の地位が現実より早く上がっていた。
    • 中部国際空港の開港も万博には間に合わなかったものの、現実よりも早まっていた。
  6. 引退直前の山口百恵やデビュー直後の松田聖子が会場でライブを行っていた。
  7. 2005年の万博は国内だったら大阪で、2025年のそれは福岡で開催されていた。
    • 2005年の万博はむしろ首都圏(東京か千葉あたり)で開催されていたかも。
      • 千葉だった場合、同年のロッテ日本一は万博と合わせて語り継がれていた。
  8. テレビ愛知の開局が早まり、万博を前に開局していたかも。
1992年
  1. ≒もし1990年の花博開催地が大阪ではなかったら、である。
  2. 世界都市博は企画自体がなかった。
  3. 当時は既にバブルは崩壊していたとはいえ、1992年まで名古屋経済は好調だった。
  4. 中部国際空港の開港は万博に間に合わせるように開港していた。
    • 万博に間に合わなかったとしても、20世紀中には開港していただろう。
  5. 2005年の万博は大阪かカルガリーで開催されていた。
    • 2025年の万博は史実通り大阪(ただし、2005年のそれがカルガリーで開催されていた場合に限る)か福岡で開催されていた。
  6. 会場にきんさん・ぎんさん(ともに愛知県出身)が招待されていた。
  7. 遊園地ゾーンで使われていた遊具の一部が1994年に開業の志摩スペイン村に移設されていたかもしれない。
  8. 名古屋市営地下鉄桜通線の野並延伸や鶴舞線の上小田井延伸並びに名鉄犬山線との相互直通運転開始は万博前に早まっていた。
    • 近鉄22000系は万博に合わせたタイミングで登場していた。
      • 登場自体が1~2年早まっていたかも。
    • JRのキハ75系登場も。
  9. 新幹線のぞみの名古屋飛ばしは最初からなかったか?
1994年
  1. ≒もし1990年の花博開催地が大阪ではなかったら、である。
  2. 世界都市博は企画自体がなかった。
  3. 同年の中日×巨人のいわゆる「10.8」が万博と結び付けられていた。
    • 10.8で勝利し日本シリーズに進めたのは巨人ではなく中日だったかもしれない。
      • 万博の盛り上がりが後押ししていただろう。
  4. 同年4月には中華航空機墜落事故もあり、1994年は愛知にとって良くも悪くも忘れられない年になっていた。
    • その中華航空機墜落事故の犠牲者にも万博に行く人が含まれていた。
      • マスコミで彼らのエピソードも取り上げられていただろう。
    • 会場内でも黙祷が行われていた。
    • 会場内に航空関連の展示施設があった場合、事故を機に閉鎖か一時休業に追い込まれていた。
  5. 当時はポケモンがまだなかったので、マリオかドラクエあたりを題材とした遊園地がサテライト会場に設けられていた(ちなみにドラクエのキャラデザ担当の鳥山明は愛知県出身)。
  6. 同年の夏は記録的な猛暑だったので、熱中症などの問題が出ていた。
    • 加えて少雨による水不足の影響もあった。
  7. アメリカ同時多発テロ事件前だったので、入場の際の手荷物検査は行われなかった。
2010年
  1. 1970年に大阪万博、1990年に花博が開催されていたことから、「日本国内では20年周期で万博が開催される」というジンクスができていた。
    • 2度目の大阪万博は史実より5年遅れて2030年に開催されていた。
  2. 2005年の万博は逆に上海で開催されていた。
    • 逆にこちらが特別博止まりだったかも。
  3. 同年のプロ野球セ・リーグは中日が優勝し、Jリーグの名古屋グランパスもJ1リーグ初制覇を果たしていたので、「2010年は名古屋の年」と言われるようになっていた。
    • 場合によってはロッテに36年前の雪辱を果たし、日本一にもなっていた。
  4. 中部国際空港の開業は2010年にずれ込んでいた。イタリア村はそもそも開村していたかどうか怪しいところ。
  5. 史実通りポケパークが設けられた場合、DP期のポケモンを題材としたアトラクションがいくつか存在していた。
    • 最新作のポケモンBWがポケパーク内のトイザらスで先行販売されていたかも。
    • テーマ曲はベッキーではなく、中川翔子が歌唱していた。
  6. それでも2008年のリーマンショックの影響は避けられなかっただろう。
  7. 同年の夏はかつてない猛暑だったので、真夏には会場内で熱中症で倒れる人などが出ていたかもしれない。
    • その教訓から、2度目の大阪万博は真夏を避けて秋開幕になっていたかもしれない。
  8. 同年の「今年の漢字」は史実通り「暑」か、愛知にちなんだ「愛」になっていただろう。
    • 「球」も大いに有り得た(愛・地「球」博に加え、地「球」温暖化、はやぶさの地「球」帰還、大相撲による野「球」賭博問題、「球」技関連ではサッカーW杯の南アフリカ大会や高校野球における興南の春夏連覇や中日のセ・リーグ優勝やグランパスのJ1優勝やロッテのリーグ3位からの下剋上日本一もあったので)。
    • その一方で2005年の「今年の漢字」は「命」か「福」のいずれかが選ばれていただろう(「福」はJR福知山線脱線事故と福岡県西方沖地震から)。
  9. 前年に阪神なんば線が開業していたので、近鉄の特急車両を使った神戸三宮発着の万博ツアーがあったかもしれない。
  10. 当初から登録博という扱いになり、開催規模も史実よりも大きかった。
    • 入場者数も3000万人を超えていた。
  11. リニア・鉄道館の開館が1年早まり、万博開幕に間に合わせていた。
2011年
  1. リニア・鉄道館は万博を前にオープンしていた。
    • 場合によってはオープン自体が少し早まっていた。
  2. 3月に発生した東日本大震災の影響で、史実より盛り上がりに欠けたものになっていた(特に名古屋以外では)。
    • 被災者に配慮して、派手なことは自粛されていた。
    • 原発事故もあったことから、原子力関連のパビリオンは幹並み公開中止に。
    • 場合によっては開幕日が4月上旬に延期していたかもしれない。
    • 万博の会場内に募金箱が置かれていた。
      • 万博の収益の一部を被災地に寄付していたかもしれない。
  3. 史実通りポケパークが設けられた場合、開幕日がBW発売後であることもあり、BW期のポケモンを題材としたアトラクションがいくつか存在していた。
    • こちらの場合でもテーマ曲は中川翔子が歌唱していた。
  4. 同年の漢字は史実通り「絆」になっているが、これには「万博を通して世界各地の絆を深めた」という意味も込められていた。
  5. 九州新幹線の全通は万博に合わせたものとなっていた。
    • 万博期間中は九州新幹線直通の「さくら」「みずほ」に名古屋発着が設定されていたかもしれない。好評だったら万博終了後も継続された。
  6. 同年のプロ野球セ・リーグでは中日ドラゴンズが球団史上初の2連覇を果たしたので、それと合わせて語り継がれていた。
    • 場合によってはソフトバンクを下して日本一にもなっていた。
2025年
  1. 2005年の万博開催地が大阪だった。
  2. 中部国際空港は名古屋空港の移転扱いで2010年代に開港していた。
    • 名古屋市営地下鉄名城線の環状化、上飯田線やあおなみ線なども万博と無関係に平成のうちに開業していた。
    • リニモは万博開催と同時に開業。
  3. バス業界の運転士不足に伴い、シャトルバスの運賃は現実よりも高くなっていた。
    • なおかつ予約制になっていた。
    • 入場券も原則ネット予約となっていた。そのため入場者は史実(約2200万人)よりも少なかったかもしれない。
  4. JRの万博輸送に315系が大活躍していた。
    • 311系は万博までに完全引退していた。
      • 名鉄6000系4連も。
  5. 名鉄500系は万博を前に登場していた。
  6. アンバサダーにスピードワゴンが選ばれていた。
    • スペシャルサポーターには生見愛瑠が選ばれている。
  7. 史実と異なり当初から登録博(旧基準における一般博)だった。
    • 開催規模も現実よりも大きかった。
  8. やはり死に券(未使用券)が問題になっていた。
  9. 名鉄百貨店をはじめとする名古屋駅前の再開発も万博までに完成していた。
    • 人手不足その他で工事が凍結されることもなかった。

別の場所で開催されていたら

[編集 | ソースを編集]

沖縄海洋博

[編集 | ソースを編集]
北海道
  1. 北海道海洋博になっていた。
  2. 会場は苫小牧市。
  3. 1972年の札幌オリンピックに続く北海道でのビッグイベントになっていた。
  4. 石勝線の開業や千歳線と室蘭本線(室蘭~苫小牧)の電化はこの万博に合わせて行われた。
鹿児島県
  1. 鹿児島海洋博になっていた。
  2. 会場は隼人町の鹿児島湾沿い。
  3. 1972年の国体に続く鹿児島でのビッグイベントになっていた。
  4. 日豊本線・南宮崎~鹿児島の電化は幸崎~南宮崎と同じ1974年に行われた。
  5. 鹿児島空港の現在地への移転理由に海洋博もあった。
  6. 日本館では西郷隆盛や明治維新に関する展示もあった。
福岡県
  1. 名称は「福岡海洋博」。
  2. 同年3月の山陽新幹線全通に伴う記念イベントだった。
  3. 会場は博多湾沿い。
    • 場所にもよるが、福岡市営地下鉄の開業及び筑肥線の電化が早まっていた可能性がある。
  4. 入場者数は現実よりも多くなっていただろう。
  5. 名古屋並びに愛知県もこれがきっかけで万博誘致熱が高まっていた。
    • 早ければ1985年に愛知県での万博が実現していたかもしれない。
三重県
  1. 名称は「伊勢志摩海洋博」。
  2. 会場は志摩半島のどこか。
    • 会場跡地が志摩スペイン村になっていた可能性もある。
      • 場合によっては昭和時代のうちに開業していたかもしれない。
  3. 近鉄大阪線と鳥羽線の全線複線化が早まり、海洋博開幕直前の1975年3月になっていた。
    • 志摩線の部分複線化も海洋博開幕前に早まっていた。
  4. 近鉄の3代目ビスタカーこと10100系は海洋博に合わせて登場していた。
和歌山県
  1. 会場は白浜あたり。
    • 名称は「南紀白浜海洋博」になっていた。
  2. 紀勢本線の和歌山~新宮間は海洋博を前にした1975年3月に電化され、それと同時に381系電車が「くろしお」に投入されていた。
    • 381系投入当初はヘッドマークが文字だけだった。
    • 南紀白浜空港も海洋博と同時に拡張され、ジェット機が発着可能になっていた。
  3. アドベンチャーワールドの開園も海洋博開催前に早まっていた。
    • パンダがここに来るのも海洋博がきっかけだった。
神戸市
  1. 名称は「神戸海洋博」になっていた。
  2. 史実で1981年に開催された「ポートピア博覧会」が6年早く開催され、なおかつBIE認定博となっていた。
  3. ポートアイランドの埋め立てや開発も早まっていた。
  4. 会場アクセスは新交通システムは時期尚早のためモノレールになっていた可能性が高い。
    • 通常営業路線としては全国初の日本跨座式モノレールになっていた(期間限定も含めると1970年の大阪万博モノレールが初)。
    • その場合、神戸新交通2番目の路線である六甲ライナーもモノレールになっていた。
    • 日本初の新交通システムは大阪のニュートラムだった。
  5. ≒1970年の万博開催地が大阪および関西でなかったら、である。
  6. 京阪神大都市圏ということもなり、入場者は史実よりも多かっただろう。
    • イベントそのものも大成功だった。
大阪
  • 実際に1972年に開催する計画があったようです。
  1. 会場は千里の万博会場跡地が再利用されていた。
    • 日本館をはじめ一部のパビリオンは再利用されていた。
    • 上記の通り1975年ではなく1972年に開催されていた。
      • 開催期間は1972年7月~1973年1月だった。
  2. 北大阪急行会場線は海洋博終了まで残されていた。
    • 阪急千里線の万国博西口駅も。
  3. 山陽新幹線岡山開業と新快速の運転開始は海洋博開催に合わせたタイミングだった。
    • 海洋博会期中は会場への玄関口となる茨木駅に新快速が臨時停車していた。
  4. 一部で「海のない千里で海洋博開催?」という意見も出ていた。