ざんねんな内閣総理大臣事典/明治時代・大正時代
ナビゲーションに移動
検索に移動
- 編集される方は「Chakuwiki:お願い/ざんねんなモノ事典」をご覧ください。
- 新規追加は就任順でお願いいたします。
明治時代[編集 | ソースを編集]
伊藤博文[編集 | ソースを編集]
- 日本国初代内閣総理大臣であるがスケベすぎる。
- 掃いて捨てるほど女がいたので「箒」という仇名を持つ。
- 留学時代にもイギリスで女遊びしすぎて金を速攻で使い果たした。
- 広島銘菓「もみじ饅頭」は茶屋の娘の手を掴んで「このように赤く可愛い手を食べてみたい」と言ったことからできたらしい。
- 40度の高熱に魘されているときでも枕元に芸者を2人も呼んでいた。
- 遂には明治天皇直々に「もう少し女遊びを控えなさい」と言われた始末。こんな人はおそらく世界で彼だけであろう。
- 愛人にした女性の最年少者は13歳である。
- 豊臣秀吉もそうだが、若い頃身分が低かった人間が急激に出世すると環境の変化がストレスとなって性欲が強くなるらしい…。
- なお女好きの割には子供はそれ程多くなく、妻以外の他所でつくったのは三人だけである(十分多いけど)。特に子供ができない体質とかでもないようなので、そこら辺は意外とちゃんとしていたのだろうか。
- 実は伊藤博文の婚外子は4名います(三女・四女・次男・三男)。三女が現総務相・松本剛明氏の曾祖母。先妻との間に子供はなく、後妻との間に長女・次女・長男がいるが成人したのは末松謙澄に嫁いだ次女のみで長女と長男は夭折。なお伊藤家の家督を継いだのは実子ではなく養子(井上馨の甥で両親を早くに亡くしたため井上と同じ長州閥とはいえ血の繋がりはない伊藤が養子にして育てた)。
- 実は日本ではじめてカーセックスをした男と言われている。
- そのためカーセックスの父と呼ばれることもある。
- 掃いて捨てるほど女がいたので「箒」という仇名を持つ。
- 今の首相官邸は、伊藤が女遊びで金をはたき過ぎて家を追い出されたためにわざわざ新しく作った住まいが元となっている。
- 伊藤は女以外には割と適当にしか贅沢しなかったので、使用人は奉公先が伊藤家だと決まった途端に「きつく言われずに済む!」と大喜びしていたらしい。
- ちなみにアダルトゲーム『School Days』の主人公・伊藤誠は博文から苗字が取られている。つまりはそういうことである。
- 初代総理大臣の座を争った三条実美に最終的に競り勝てた理由は、三条に語学力が欠けていたことだけ。それ以外の要素はどれも不利だった。
- 最期は韓国人テロリストの安重根に暗殺されてしまうが、実は伊藤本人も若い頃はイギリス公使館に放火したことがあるテロリストだった。
- …が、後にイギリス留学を経て日本よりも遥かに先進的だったと現実を知り、考えを変えたのだという。
- 大日本帝国憲法発布の式典の日に、紫の袱紗に包まれた憲法の正本を首相官邸に置き忘れてしまうという大失敗をしている。
- 不平等条約の改正のために岩倉使節団のメンバーとしてアメリカに渡るが、明治天皇からの委任状をもらってこなかったため国の代表として認められず、交渉のテーブルにつくことすら出来なかった。
- 当時の日本では「国家元首の親書を示し、特使の身分を証明する」国際慣例を誰も知らなかったようであり、仕方ない面もある。
- もっとも、岩倉使節団が当時のアメリカ大統領(ユリシーズ・グラント)と面会できたのが最初の日本出発から約5カ月も後になったのはだいたいこの一件のせいである。
黒田清隆[編集 | ソースを編集]
- 第2代内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法が発布されたことで有名。
- しかし超がつくほどの酒乱。
- おまけに怪力の持ち主で、一度酔ったら周囲を破壊してしまうこともあったらしい。
- 北海道開拓長官だったころ、酔った勢いで大砲を撃ち、うっかり民間人を爆殺した。
- 遺族は「俺も金を払うから、黒田を爆殺させろ」と泣いて悔しがったらしい。当たり前である。
- 奥さんが病気で突然死した時も、「ああ、黒田さんなら(酔った勢いで)殺りかねんな」とか誤解されたらしい。どんだけだよ。
- 酔っていなくてもかなり苛烈な性格だったようで、大隈重信からは「あいつはいつも拳銃を隠し持ってるし、気に入らない奴にはすぐケンカを売る物騒な奴だった」と暴露されている。
- ちなみに榎本武揚は黒田のことを「コイツは福島正則に知恵を足した奴だ」と評している。黒田と黒田節をかけたシャレかもしれないが、要はそういう人であった。
- 19世紀に亡くなった唯一の首相経験者である。
- 1900年に亡くなった。死因はアルコールによる脳卒中。ちなみに歴代首相の中では2番目に若くして亡くなっている。
- 薩摩藩の重鎮の一人だったが晩年は人望の無さから同郷の人に見放されてしまった。
- そのため榎本武揚などの旧幕臣との付き合いが濃くなった。
- なお清隆が亡くなった際にも榎本が葬儀委員長を務めている。
- そのため榎本武揚などの旧幕臣との付き合いが濃くなった。
- 明治時代の首相経験者の中で唯一、一度辞めてからの再登板を果たせなかった人物である。
山縣有朋[編集 | ソースを編集]
- 「山県有朋」と書くことも。
- 元老の一人であり首相を2度(3代目、9代目)務め日本陸軍の発展にも貢献した重要人物。だが人気はきわめて低い…。
- 同郷の長州藩出身者を優遇しまくってそれ以外を冷遇しまくったために藩閥政治の元凶と言われている。
- そのため賊軍出身の原敬からはメチャクチャ嫌われていた。
- ただし東条英機と同じで一応部下に対しては優しかったらしく、部下が多少失敗した際にも見捨てることはしなかった。
- 陽気な伊藤博文(同郷)とは対照的に陰湿な性格をしている。そのため明治天皇からは嫌われていた。
- 名誉欲が非常に強く、勲章マニアと言われた男。
- これは有朋が足軽出身であり、身分が低いことがコンプレックスだったため。
- 一応最重要人物の一人だったため亡くなった際には国葬になったが、人気者だった大隈重信と違って参加した民衆はほとんどいなかった…。
- 当時新聞記者だった石橋湛山(後の首相)には「死もまた社会奉仕」と書かれた。
- 警戒心が非常に強く、他の維新の志士たちが御馳走のフグ鍋を楽しんでいた中で一人だけ(毒にあたるのを恐れて)フグを食べずに鯛を食べていたと言う。
- 後に4人の弟子(桂太郎、寺内正毅、清浦奎吾、田中義一)が総理大臣になるのだが、いずれも山県と同じ強硬派の人物だった。
- ちなみに清浦以外は山県と同郷でもあり、山県と同じ陸軍軍人でもあった。
- 民衆をあまり信用しておらず、日本に民主主義を根付かせるのを遅らせてしまったとも言われている。
- 政党政治にも反対していた。
- ただし原敬とは仲が良かったらしい。
- 皮肉にも山県が亡くなってから軍部の暴走を抑えられる者がいなくなってしまった。
- 一応山県の死後も元老は松方正義と西園寺公望が残っていたのだが、この2人に軍部をまとめられるだけの統率力は無かった。
- そのため現在は再評価する声も多い。
- 都道府県名と同じ読み方の苗字で唯一、内閣総理大臣になった人。
松方正義[編集 | ソースを編集]
- 元老の一人であり首相を2回(4代目、6代目)務めた明治時代の重要人物の一人。また高橋是清と並んで財政家としても有名で日本銀行を作ったり金本位制を導入したのもこの人。だがその割に評価はイマイチ…。
- 当時の日本はインフレに悩まされていたため松方はデフレ政策を実行したが、それが過激すぎたために農村経済は壊滅的な被害を受け、餓死する人まで出てしまった…。
- 伊藤博文以上の女好きであり、子供がめちゃくちゃ多かった。
- 明治天皇に「お前は何人子供がいるのだ?」と聞かれて即答することができず、「後で調べてから報告します!」と返した。
- 薩摩閥では中心となる人物だったが、これはあくまで他の人物に比べて相対的にマシだから(黒田清隆は酒乱で人望が無いし、西郷従道や大山巌は野心に乏しかったため)であり、財政面以外は特に期待されていたわけではなかった。
- ただし明治天皇からの信頼は厚かった。
- 薩長の元勲の中では唯一、勤王の志士としての活躍が無かった人物である。
大隈重信[編集 | ソースを編集]
- 早稲田大学(旧・東京専門学校)は息子(といっても養子)へのプレゼントであるということはあまり知られていない…。
- 大隈の実子は娘2人のみ。娘には2人とも婿養子を迎えたがうち1人は離婚している。
- 文化人としては非常に人気が高い人物だが、実は政治家としての評価はかなり低い…。
- 民衆を煽って暴動を起こさせる政治手法が非難されることが多い。ポピュリストの典型例である。
- 西南戦争後のインフレも大蔵卿だった大隈が元凶。ちなみにそれの収束を目指したのが松方正義。
- 2度首相を務めているが、第一次内閣(8代目)は近年でいう細川政権のような烏合の衆であり足並みが揃わず短期で崩壊。
- 第二次内閣(17代目)は対華21か条要求を中華民国に突き付けて国際的に非難を浴びている。
- これが日英同盟破棄の他、後の日中戦争や第二次世界大戦への遠因にもなったと言われている。
- 壊滅的に字が下手。
- 自分が書かなければならないもの以外は全て他人に書かせていた。
- 学生時代のライバルが達筆だったため、勝てる気がしないと悟って文字を書かなくなったらしい。
- 敵が多い。
- 政府の重要人物の中で数少ない佐賀藩出身者であったため、薩長の連中から敵視されていた。
- 渋沢栄一とはしばしば対立したが、親友と呼べる存在であった。
- 福沢諭吉や西郷隆盛からは嫌われていた。
- 一応大隈の方は西郷を尊敬していたらしいが、これはあくまで人格面を評価しているだけの話であり、政治家としての西郷のことはむしろ酷評していた。
- 庶民派と言われ国民人気は高かったが、実際には不動産事業によって財産を築いており優雅な生活を送っていた。
- だがマスコミに早稲田出身者が多かったためあまり知られることは無かった。
- 歴史学者・政治評論家の八幡和郎氏は自身の著書『歴代総理の通信簿』にて大隈に対し、最低得点の1点を与えている。(最高は10点)
- この本では首相では無かった時の功績については一切触れていない。八幡氏も「日本近代史における超重要人物である」ということを認めた上で、首相としては最低だったと評価している。
- あくまでこの本に限った話になるが、2点だった林銑十郎や近衛文麿、鳩山由紀夫より悪い首相だったということである。
- なお最低評価だった首相は大隈の他に東条英機がいる。
- 黒田内閣の外務大臣だった頃に右翼が持っていた爆弾による襲撃事件を受け、重傷を負ってしまう。
- 一命を取り留めたのは不幸中の幸いだったものの、右脚を失ってしまった。
- 国会開設を巡って伊藤博文と対立していた。
- 日本の鉄道を狭軌にしてしまった元凶と言われている。
桂太郎[編集 | ソースを編集]
- 第11・13・15代内閣総理大臣。安倍晋三氏に抜かされる前までは在職日数が歴代最長を誇っていた。
- 日露戦争に勝利した際の首相であり、歴代でも伊藤博文・吉田茂・池田勇人と並ぶクラスの名宰相だったが…、その割に人気は低い。
- 日露戦争に勝ったのは良いが同時に多くの犠牲も払っており、その割には権益が少なくロシアからの賠償金も全くもらえなかったため国民の不満がたまり、日比谷焼き討ち事件が起こった。
- 社会主義者への弾圧が酷かった。大逆事件の首謀者とされた幸徳秋水が死刑執行されたのも第二次桂内閣の頃である。
- が、のちに冤罪だったことが判明している…。
- 西園寺公望と交互に首相を務めたが、穏健派の西園寺と対照的に桂は陸軍出身で強硬派だったため国民からはあまり人気が無かった。
- 意外にもフレンドリーな性格らしく、部下を説得する際にニコッと笑って背中をポンと叩くという、優れた人心掌握術を持っていた。
- だから渾名はニコポン宰相。
- 実は桂小五郎(木戸孝允)は遠い親戚である。
- 在任期間が歴代最長の宰相として知られていたが、安倍晋三氏に抜かされてしまった。
- 第3次桂内閣は僅か2ヶ月で終わってしまった。
- というのも尾崎行雄や犬養毅らが藩閥政治に対して激しく抗議してきたため。
- その8ヶ月後に65歳の若さで亡くなった。
- というのも尾崎行雄や犬養毅らが藩閥政治に対して激しく抗議してきたため。
- 拓殖大学の前身である「台湾協会学校」の初代校長を務めた。拓殖大学キャンパスに銅像が立っている。
西園寺公望[編集 | ソースを編集]
- 第12・14代首相になった公家の政治家。
- 桂太郎と交互に首相を務めたことで有名だが、桂に比べるとリーダーシップが不足している感が否めなかった。
- 調整役としては有能だったかも知れないが。
- 山県や松方が亡くなった後は最後の元老になったが結局、軍部の暴走を止められないまま自身も亡くなってしまった。
- やがて大日本帝国は大東亜戦争に突入し破滅に向かうことに…。
- 同じ公家の近衛文麿を後継者にしようとしたが、失敗した。
- 近衛を首相として担ぎ上げたことを最後まで後悔しており、「あいつあかんわ…この国を何処へ持っていくんや…」と言い残し亡くなってしまった。
- 昭和天皇が田中義一を叱責した際には「天皇は政治に口出しするな」と天皇に注意したが、これが原因で天皇の決定権が大きく制限されてしまい、結局(天皇が軍部に逆らえなくなってしまい)大東亜戦争開戦への流れを止められなくなってしまったという評価もある。
- 和歌が苦手という、公家の人間としては致命的な弱点があった。
- 美食家で食べ物に関してはかなりうるさかった。
- 西園寺家で働いていた料理人の多くはすぐに辞めていったらしい。
- 政治的には穏健派の人間であり温厚だったと誤解されがちだが、私生活においては頑固者で非常に短気な性格だった。
- 同じ質問を2回するとブチ切れたらしい。
- 大学卒業の学歴を持つ初の総理大臣。
大正時代[編集 | ソースを編集]
山本権兵衛[編集 | ソースを編集]
- 桂太郎の退陣後と関東大震災直後の2度首相を務めているが、そのどちらも短期で政権が崩壊している…。
- 1回目はシーメンス事件の責任を、2回目は虎ノ門事件の責任を問われた。
- 一応、第一次桂内閣の海軍大臣であり、日露戦争を指揮した海軍のトップだったから、海軍軍人としての評価は高いんだけどね…。
- ただし近年は関東大震災の復興計画が再評価されている。少なくとも村山富市(阪神・淡路大震災)や菅直人(東日本大震災)よりはマシな評価をされている。
- 後に海軍と陸軍が対立することになる原因を作ってしまった人物と言われている。
- 元々は海軍は陸軍の中に含まれていたような状態だったが、日露戦争での功績から海軍の発言力が増し、陸軍から完全に分離独立してしまったのである。
寺内正毅[編集 | ソースを編集]
- 山口出身の陸軍軍人。第18代首相。
- 風貌がビリケン像に似ていたことからビリケン宰相と名付けられたと言われているが、実際には非立憲的な態度が批判されてこう言われているのである。
- 米騒動の対応に苦戦した。
- 宇多田ヒカルは正毅の兄の子孫である。
- 勿論、彼女の方が寺内首相よりも遥かに有名。
原敬[編集 | ソースを編集]
- 爵位をもらわなかったため「平民宰相」と呼ばれたが、実は(賊軍とはいえ)盛岡藩の家老の子供でありなかなかのボンボンである。
- 足軽出身でありながら名誉欲が非常に強かった山県有朋とは対照的。
- ちなみに爵位を拒否した理由は賊軍出身だったため。(原が首相になる前は薩長の連中が政府の中枢に沢山いた)
- 国民からの人気は高かったが、亡くなるまで普通選挙には反対していたなど結構腹黒い面もあった。
- また、小選挙区制を導入したのも原が所属する立憲政友会に有利になるようにという理由からである。
- 民衆をあまり信用していなかったのも理由らしい。
- 最期は東京駅で暗殺された。
- が、その理由が非常に「ざんねん」過ぎる…。原を暗殺した鉄道員の中岡艮一が上司の橋本栄五郎と政治の話(原批判が中心)をしており、その中で橋本が「腹を切れ」(責任を切れ)と言ったのだが、中岡が「腹」を「原」と勘違いしたために暗殺事件が起こった。
- 地方の鉄道網などの交通インフラ整備は大きな功績だが、同時に金権政治だとして批判も多かった。
- しばしば戦後の田中角栄と比較される。
- 良くも悪くもリーダーシップが高かったことから、同郷の小沢一郎氏が最も尊敬する政治家として名前を挙げている。
- 庶民からの人気は高かったが、実は富裕層を優遇するような政策をとりまくっていた。
高橋是清[編集 | ソースを編集]
- 財政家としては非常に評価の高い人物。しかし総理大臣としては並以下の評価である…。
- 元々、原敬が亡くなったことによるピンチヒッターとして首相に就任した人なので…。
- そのため原内閣の閣僚が全員そのまま続投している。
- 高橋内閣が評価できる点は政友会を潰さなかったこと、くらい?
- でも大蔵大臣を7回務めているのでむしろそちらの方が有名。第1次山本内閣、原内閣、高橋内閣(首相と兼務)、田中義一内閣、犬養毅内閣、斎藤実内閣、岡田啓介内閣である。
- 特に昭和金融恐慌を乗り越えたことから財政の神様として評価が高い人物である。
- 高橋が日本銀行の副総裁だった時にはイギリスで外債を募集し、戦費を調達した。日露戦争における真の英雄と言っても過言では無い。(高橋がいなかったら日露戦争で勝つことはできなかった…かも?)
- その功績が認められて日銀総裁にもなった。総理大臣と日銀総裁を両方経験した唯一の人物でもある。
- 元々、原敬が亡くなったことによるピンチヒッターとして首相に就任した人なので…。
- 横浜で英語を身に付けたのは良いが、英語以外の悪い習慣まで身に付けてしまった。10代のうちから酒を飲むようになっていたのである。
- アメリカに留学した際にある書類にサインしてしまったのだが、それが不幸なことに「奴隷契約書」だった。
- 奴隷として働かされる日々が続いたが、何とか脱出&帰国に成功した。
- ちなみに是清本人は自分が奴隷だと思っておらず、あくまで「将来のためのキツい勉強をさせてもらっている」と思っていたらしい。
- ペルーの鉱山を開発して一攫千金を狙ったが、その鉱山が既に掘り起こされており廃坑になっていた。そして借金まみれに…。
- 逆に言えばこの大失敗の経験があったからこそ、後に「財政の神様」と呼ばれるほどの功績を残すようになったのかもしれない…。
- 帰国後はホームレスになっていた時期もあったが、川田小一郎(第3代日銀総裁)にスカウトされて日銀に就職。
- ケインズよりも先に積極的財政政策を実行した人物であり本来ならば世界的偉人であってもおかしくないレベルなのだが、その割に海外での知名度が低い人物である…。
- ちなみにケインズも是清もノーベル経済学賞が創設される前に亡くなっている。
- 世界恐慌から日本経済を復活させたと言われるが恩恵を受けたのは都市部が中心であり、地方の農村にはあまり効果が無かったと言われている。
- それで地方出身者の怒りを買った。ちなみに陸軍軍人の殆どは地方の農家出身。
- 軍事費を削減したことによって軍人が実家に仕送りすることが難しくなったと言われている。
- それで地方出身者の怒りを買った。ちなみに陸軍軍人の殆どは地方の農家出身。
- 二・二六事件で暗殺されてしまったが、肥満だった上に亡くなった時点で82歳という高齢だったためにあまり同情されなかった。
- 是清が亡くなったことによって軍部の暴走がさらにエスカレートしてしまった。その意味でも「ざんねん」である…。
- 仙台藩士の養子として育てられたが、是清本人は江戸(東京)生まれ江戸育ちのため、宮城県出身の首相として数えられることはほとんど無い。
- 他人の顔や名前を覚えるのが苦手という、政治家としては致命的な欠点があった。
- お札の肖像画になった初の総理大臣。
- 肖像画に採用された50円紙幣は発行されていた期間が短く流通枚数も少ないため希少価値が高い。
加藤友三郎[編集 | ソースを編集]
- 広島出身の第21代首相。
- 海軍大臣を兼務し、ワシントン軍縮会議に出席した人物である。
- 海軍No.1の酒豪として知られており、お酒の飲み過ぎで大腸癌に罹ったと言われている。
- 在任中に病死してしまった最初の首相でもある。
- 友三郎の死後、内田康哉が臨時首相となったが後任の首相が決まる前に関東大震災が発生してしまった。
- 没後の1935年に広島市内の公園に銅像が建てられたが金属回収令により供出された。台座のみ現在も残っている
- そして2008年に上記とは別の広島市内の公園に改めて銅像が建てられた。
- 死後、元帥に列せられた。
清浦奎吾[編集 | ソースを編集]
- 熊本出身の第23代首相。
- 山本権兵衛が虎ノ門事件で失脚した後にピンチヒッターとして就任した人物。
- 山本権兵衛がシーメンス事件で失脚した時もピンチヒッターとして指名されたが海軍と対立し、海軍大臣の推薦を拒否されたため辞退した。
- この件を「鰻の匂いを嗅かされただけでうな丼にありつけなかった」となぞらえ「鰻香内閣」と揶揄された。
- 元祖お友達内閣。
- 閣僚のほぼ全員を貴族院議員で固めたため非常に人気の低い内閣であり、わずか5ヶ月で総辞職してしまった。
- 歌手・女優の清浦夏実は玄孫であり、今では彼女の方が有名になっている。
加藤高明[編集 | ソースを編集]
- 普通選挙を実現させた首相として日本史の教科書に載る人物だが、同時に悪名高い治安維持法も制定しているので人気が低い。
- 第2次大隈重信内閣で対華21か条の要求を出した外務大臣でもあり、批判の意見が多い。
- 高橋是清の後継の首相を決める際に友三郎と共に候補に挙がったが、高明が第2次大隈内閣に入閣した際に外交政策を巡って元老と対立したため見送られてしまっている。
- それで清浦内閣総辞職まで待つことになった。
- ちなみに友三郎との血縁関係は無い。
- 妻が三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の長女。そのため最期まで三菱の大番頭と呼ばれた。
- 弥太郎の四女はのちに首相と衆議院議長を歴任することになる幣原喜重郎と結婚したため弥太郎の娘婿には2人の首相がおり、高明と幣原は義兄弟の関係にある。
- 実は女優・タレントの團遥香と親戚にあたる。
- 團の曾祖母の姉が高明の次男・厚太郎(とはいっても長男が早世したため高明の嗣子となり高明没後伯爵位を襲爵した)に嫁いでいるため。但し姻戚関係で繋がっているだけなので幣原とその大甥で天文学者の古在由秀のように血が繋がっているわけではない(古在の母は幣原の姪)。
- かつて総合商社に勤務していたことや官僚として働いていたことなどエリートとしての経歴を鼻にかけていたため庶民からの人気は低かった。
若槻禮次郎[編集 | ソースを編集]
- 「若槻礼次郎」と書くこともあります。
- 島根出身の政治家。第25・28代首相を務めた人物。
- 満州事変での弱腰な対応で批判を浴びた。
- 軍部の暴走を許してしまい、後の日中戦争への遠因となった。
- 一応若槻本人は中国との協調を目指していた平和主義者だったらしいのだが…。
- 第一次内閣は昭和金融恐慌に上手く対処できずに失脚している。
- そして後継の田中義一内閣の高橋是清蔵相が解決した。
- 浜口雄幸内閣が倒れた後にも再登板している(第二次若槻内閣)が、先述の通り軍部に逆らえなくて失脚してしまった。
- 首相としての評価は低いが、一応No.2としては優秀だったらしい。
- 加藤高明内閣の政党政治を引き継ぎ、濱口内閣ではロンドン海軍軍縮会議に首席全権として出席した。