もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら/関東
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独立項目[編集 | ソースを編集]
地下鉄[編集 | ソースを編集]
東京メトロ副都心線[編集 | ソースを編集]
- 1960年代
- 西武の乗り入れはなかった。
- 箱根や軽井沢の開発競争を見ると絶対にあり得ない。
- さらに渋谷駅周辺の西武百貨店は西武鉄道とは全くの別会社のため。
- 東武の電車は全て渋谷止まり。東急の電車は全て池袋止まり。
- 史実通りのルートなら後者は和光市まで行くのでは。
- 東急の主張で車両は18m。
- 日比谷線同様東急の先見のなさとして語り継がれる。
- でも日比谷線ほどカーブがキツい訳ではないからあっさり20m化対応をしていたと思う。
- この場合東武は有楽町線開業時に直通を打ち切ったか。
- 東武2000系が東上線にも投入されていた。
- 日比谷線同様東急の先見のなさとして語り継がれる。
- 池袋東急が現存している。池袋東武が史実通りならば東急ハンズの位置に移転かもしれない。池袋丸物は池袋近鉄ではなく史実通りパルコになる。
- 1990年代
- ちなみに有楽町新線(現副都心線小竹向原-池袋間)の開業は1994年である。
- 東急9000系の乗り入れがあった。
- 当初から東武・西武両線乗り入れを考慮している。
- 発車音はブザーのみ。
- 池袋以南の壁面デザインも営団タイプのものになっていた。
- 初期の駅名標は南北線と同様のデザインになっていた。
- 池袋以南の壁面デザインも営団タイプのものになっていた。
- 池袋駅が「新線池袋」と呼ばれることはなかった。
- 要町・千川では最初から客扱いを行っていた。
- 埼京線の渋谷駅が山手線ホームに隣接していた。
- 森林公園始発や飯能始発などの桜木町行きが存在した。
- 当時の東急東横線のホーム有効長を考慮し、東武9050系(現実より多く製作されたと思われる)と西武6000系前期車に、8両固定編成が存在していた。
- 東武東上線の地上車完全10両編成化は行われない。
- E231系500番代の6ドア車は存在しなかった。
- 無論600・4600番代も同様。
- 山手線は2005年頃に全駅ホームゲート設置を完了している。
- 2000年代前半
- みなとみらい線開業と同時期に開業していた。
- 同時に東急東横線・みなとみらい線に直通運転していた。
- ダイヤに関しては現実とあまり変わらない。
- 営団地下鉄としては最後の新規路線となった。
- 1990年代と同じ東急9000系の乗り入れがあった。
- 時期によっては東急3000系も。
- この頃になると発車メロディもそれぞれの駅につけられるようになった。
- Fライナーも2006年頃には存在した。
東京メトロ丸ノ内線[編集 | ソースを編集]
- 昭和10年代
- 車両の大きさは銀座線と全く同じ。
- 池袋ではなく大塚が終点になっていたかもしれない。
- 営業列車でも銀座線直通があった。
- 車両は史実ほど派手な塗装ではない。
- 一部区間は防空壕としての使用も想定される。
- 東京高速鉄道の計画通りにこちらが「新宿線」を名乗った可能性もある。
東京メトロ南北線[編集 | ソースを編集]
- 1980年代
- 当初の答申通りなら有楽町線や半蔵門線より先に開業していた。
- ホームドア設置、ワンマン運転はなかった。
- 21世紀に入ってゲートタイプのホームドアが設置されワンマン化していた。
- 1984年以降開業なら最初からあったかもしれない。
- 開業時の車両は千代田線の6000系に準じた7000系だった。
- 21世紀に入って07系が導入される。
- 有楽町線車両は8000系・08系、半蔵門線車両は9000系・09系になっていた。
- 埼玉高速鉄道ももっと早く開業していた。
都営地下鉄大江戸線[編集 | ソースを編集]
- 1980年代
- 20m車8両編成で運転されていた。
- その分東京都交通局への負債も増加する。
- 浅草線ではなく三田線と規格を共通化していたかもしれない。
- 放射部よりも環状部が優先的に建設される。
- 下手をすると新宿以西は別路線か浅草線の泉岳寺-西馬込間のような状態になっていた。
- もしかしたら江古田から地上に出て西武池袋線に乗り入れをしていたのかもしれない。
- 下手をすると新宿以西は別路線か浅草線の泉岳寺-西馬込間のような状態になっていた。
- ほぼ間違いなく「大江戸線」という路線名にはなっていない。
- 「内都心線」だったりして。
- 1989年に練馬~光が丘間が開業した場合、当路線が日本初の鉄輪式リニアモーターミニ地下鉄になっていた。
- 1996年末までに練馬~新宿間が開業していた。
- 1990年代前半
- 1991年に練馬〜光が丘間で12号線として開業しましたが、もし同時期に全線開通していたら…
- 12-000形の白い塗装車は現実より遥かに多くなっていた。
- 1990年代後半ぐらいに増発された場合、非塗装車が製造されても現実より非塗装車の影は薄かった。
- 2008〜2009年頃には既に12-600形が存在し、2019年度内に12-000形は全部廃車になっていた。
- あるいは12-000形を大規模改造していた。
- 汐留駅も遅くとも1998〜1999年頃には開業していた。
- その場合、東新橋駅とかになっていたかもしれない。
- そのため、ゆりかもめの汐留駅も現実よりも早く開業していた。
- 浅草線のエアポート快特も最初から大門も停車していた。
- 「大江戸線」という名前になっていたかどうかは微妙。
- 一部の駅の名前が違ってたかもしれない。
埼玉高速鉄道[編集 | ソースを編集]
- 関連項目:もし武州鉄道が廃止されなかったら
- 1980年代
- バブル時代なので一気に蓮田駅まで開業していた。
- 今頃、羽生駅延長も計画していただろう。
- 浦和美園の開発も早まる。
- 浦和美園ではなく新浦和と名乗っていた可能性もゼロではない。
- ゼロでしょ。浦和から遠すぎるし・・・
- むしろ浦和市内に浦和が付かない駅が出来ていた可能性が高い。
- 浦和美園ではなく新浦和と名乗っていた可能性もゼロではない。
- 赤羽岩淵ではなく王子か池袋あたりが起点となっていた。
- 後者の場合は副都心線との直通を行っていた。
- 逆に営団が東川口まで造り、以北が埼玉高速鉄道という可能性もある。
- 1990年代
- 早くても、1992年頃に開業していた。
- 1991年11月に営団南北線(駒込~赤羽岩淵間)と同時に開業していた可能性が高い。
- 2001年に岩槻まで延伸開業していたかもしれない。
- 2002年のFIFAワールドカップに控え、埼玉スタジアム付近までに開業していた可能性もあり得る。
- 浦和美園駅周辺の開発は史実よりも進んでいた。
- 開業を機に、営団南北線は6両編成で運行されていた。
- 埼玉高速鉄道2000系電車は史実よりも多く製造されていた。
東葉高速鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1960年代
- 営団地下鉄(東京メトロ)東西線と同時期に開通していたら?
- 営団地下鉄(東京メトロ)勝田台線として開通を果たし、今のような高額運賃になることはなかった。
- 京成電鉄のバイパス線としての役割を果たせていただろう。
- 1970年代後半
- 開業当時の車両は営団7000系の車体構造・走行機器類、京成3500形の内装を組み合わせた車両だった。
- 運賃は現実よりわずかに安い。
- 1990年代前半
- 当初の開業予定は1993年春に開業する予定でした。
- バブル期と重なっていたので、沿線における開発が史実よりも進んでいた。
- 東葉高速鉄道1000形電車の運用が史実よりも若干長く運用されていた。
横浜高速鉄道みなとみらい線[編集 | ソースを編集]
- 1980年代
- 1985年以降に開業していた。
- 1989年に開催された横浜博覧会を機に、臨時列車が運行されていた。
- 駅名は開業当時に「高島駅」「みなとみらい中央駅」「北仲駅」「県庁前駅」「元町駅」になっていた。
- 各駅のホームは、20m車10両分設置可能な空間が、建設時から確保される。
- みなとみらい中央以南は横浜ベイブリッジ開通後に建設。
- 横浜市営地下鉄3号線関内~山下町間建設(史実では中止)は、'73年9月に変更された予定ルートの本町通りが、横浜港へのトラックが多く通行し、3号線建設工事による渋滞が懸念され、ベイブリッジ開通まで着工が延期されたため。
- 遅くても1999年(横浜開港140周年)までに本牧まで延伸。
- 東急東横線菊名~横浜間は、みなとみらい線の開業と同時に保安装置がATCに移行。
- みなとみらい線の保安装置は開業当初からATC。
- 東急8090系は当初から先頭車に貫通扉が設置された(当初からATCの搭載を考慮)、8590系は存在しない。
- 8500系の後期車は8090系と同じ構造に。
- 開業当初自社保有の車両はそれと同型だった。
- 東急東横線ではなく、JR横浜線と直通運転をしていたかもしれない。
- もしくはJR京浜東北線。
- 1990年代
- 駅名と路線名は史実通り。
- 横浜高速鉄道Y500系電車と東急5000系電車の登場が史実より早まっていた。
- 田園都市線への5000系電車の投入は予定通り250両となっていた。
- 田園都市線には、5050系電車が投入していた。
- その代わりに、2020系電車の投入はなかったか、もしくは、史実より遅れていた。
- 東急3000系は史実の300系が名乗った。
- 田園都市線への5000系電車の投入は予定通り250両となっていた。
- 1998年までに開業した場合、横浜ベイスターズの日本一で祝賀列車が運行されていた。
- みなとみらい線の各駅は、当初からユニバーサルデザインを考慮している。
- 横浜駅の横須賀線、湘南新宿ラインホームの拡張工事の完成が史実よりも早まっていた。
- 東急東横線の跡地に遊歩道が史実よりも早く出来上がっていた。
- 2001年
- 横浜高速鉄道Y500系電車と東急5000系電車の登場が2001年に早まっていた。
- 5000系電車は東横線で運用され、5050系電車は5050系電車で運用されていた。
- 時期的に埼玉高速鉄道の開業と重なった。
- 開業と同時に東横線の特急の運行が開始されたか、開業に見越して、1997年3月か1999年3月のダイヤ改正で運行が開始されていた。
横浜市営地下鉄ブルーライン[編集 | ソースを編集]
- あざみ野~新百合ヶ丘間が別の時期に開業していたら
史実では、2030年度に開業予定。
- 2000年代
- 3000S形が史実よりも多く製造されていた。
- 場合によっては、3000N形電車と3000R形電車が史実よりも多く製造されていた可能性もあり得る。
- 2008年に開業した場合、グリーンラインの開業と同時になっていた。
- グリーンラインの開業が2001年~2006年頃に早まっていた可能性もある。
- 快速運転の開始が史実よりも早まっていた可能性もあり得る。
- 2010年代
- 3000V形の登場が史実よりも早まっていた。
- ヨネッティー王禅寺付近を通る「東側ルート」で開業していた。
- 東急田園都市線の混雑がさらに激しくなっていたかもしれない。
- 1990年代
- 新横浜~あざみ野間の開業が史実よりも早まっていた。
- 横浜~新横浜間or上永谷~戸塚間の開業が史実よりも早まっていたかもしれない。
- 港北ニュータウンは史実よりも発展していた。
- モザイクモール港北、港北 TOKYU S.C.の開業が史実よりも早まっていた。
- 2002年におけるFIFAワールドカップ応援の企画はどうなっていたのであろうか?
- 上大岡~伊勢佐木長者町間が別の時期に開業していたら
1949年、横浜市が発表した「横浜市建設計画概要」の高速鉄道の建設で、横浜~高島町~桜木町~磯子~杉田~金沢~鎌倉~大船~戸塚~中山~綱島~市場町~生麦~横浜間の環状線と、桜木町~弘明寺間の分岐線の計画が盛り込まれた。
- 1959年
- 同年の横浜開港100周年・横浜市政70周年を機に、開業した。
- 市政ではなく市制。
- 当初の車両は営団(のちの東京メトロ)300・400・500形と似たもの。形式名は「2000形」辺り<既存の市電との兼ね合い,2000年(当時の近未来)を目指す意味合い>。
- 郊外私鉄との乗り入れは一切考えない。
- 1964年に新横浜~伊勢佐木長者町間、1960年代後半に上大岡~上永谷間が延伸開業する。
- 港北ニュータウンの開発が多摩ニュータウンと同時期になり、(あざみ野ではなく)たまプラーザ~新横浜間が1970年代前半に延伸開業。
- 上永谷~戸塚間は1970年代後半、新百合ヶ丘~たまプラーザ間は1980年代前半に延伸開業。
- 戸塚~湘南台間は1989年(横浜市制100周年、横浜開港130周年)に延伸開業(下飯田~湘南台間は当初から、相鉄いずみ野線の乗り入れを想定した構造)。
- グリーンラインは2000年頃に開通した。
横浜市営地下鉄グリーンライン[編集 | ソースを編集]
構想自体は1960年代からありました。
- 1970年代
- 他社線乗り入れ対応規格かブルーラインと同一規格だった。
- 後者だったら地下鉄車両が史実より多く導入され元町ではなく関内まで延伸された。
- 港北ニュータウンの開発が早まった。
- 1980年代
- 2000形電車と同じタイプが運行されていた。
- 上記のようにブルーラインと同一規格だった可能性も。
- 2000年代には、中山~元町・中華街間が開業していた。
- 1990年代
- 港北ニュータウン計画の一環として、実施されていた。
- 東急目黒線の武蔵小杉~日吉間の開業が史実よりも早まっていた。
- 2000年代前半
- 無論、東急目黒線の武蔵小杉~日吉間の開業が史実よりも早まっていた。
- センター北駅とセンター南駅周辺にある商業施設の開業が史実よりも早まっていた。
- 2002年までに開業した場合、FIFAワールドカップの開催によって、ラッピング列車が運行されていた。
- 2004年以降にブルーラインのあざみ野~新百合ヶ丘間が開業していた。
東京メトロ半蔵門線[編集 | ソースを編集]
当初の予定では、1975年9月に渋谷~三越前間が完成する予定でしたが、沿線の地権者による反対運動により、予定が大幅に遅れました。
- 渋谷~三越前が1970年代に開通していたら
- 営団08系電車が開通時に登場していた。
- 営団8000系では。東急8500系借り入れはなかった。
- 水天宮前までの延伸が1980年代に、押上までの延伸が1990年代に実現していた。
- 押上延伸と同時に東武伊勢崎線館林まで・日光線南栗橋までの相互直通運転が開始されていた。
- 半蔵門~三越前間の開業が1988年頃までに開業していたら
- 1987年までに開業していたら、営団車両による10両編成の運転が開業時に実施されていた。
- 当路線が平成で初めての鉄道路線の延伸となることはなかった。
- 押上までの延伸は1990年代に実現し、同時に東武伊勢崎線館林まで・日光線南栗橋までの相互直通運転が開始されていた。
- 水天宮前~押上間の開業が1990年代に開業していたら
- 北千住駅の改良工事が完成した1997年かそれ以降に開業していた。
- 営団08系電車と東武50000系電車の登場が史実よりも早まっていた。
- 場合によっては、50000系電車は東上線ではなく、本線に投入されていたかもしれない。
- 2000年代前半には、相互直通運転区間が久喜駅までに延長されていた。
- うまくいけば当初から伊勢崎線館林までの直通が実現していた可能性も。
- その場合久喜~館林間の沿線開発が史実以上に進行していた。
- うまくいけば当初から伊勢崎線館林までの直通が実現していた可能性も。
- 急行「しもつけ」、「ゆのさと」、「きりふり」への特急格上が史実よりも早まっていた。
- 水天宮前~押上間の開業が2000年か2001年に開業していたら
- 営団08系電車が2000年1月か2001年1月に運用開始していた。
- 2001年に開業した場合、東武伊勢崎線越谷~北越谷間高架複々線化の完成と同時期であった。
- 久喜駅までの乗り入れが2003年3月に早まっていたかもしれない。
- 開業と同時に乗り入れていたかしれない。
- 当時の久喜駅の配線の都合で開業と同時に館林まで直通していたか(館林分断も同時に)。
- そうなると久喜~館林間の沿線開発の進行が現実以上だった。
都営地下鉄三田線[編集 | ソースを編集]
目黒-三田[編集 | ソースを編集]
- 1973年
- 都営6000形が東急に乗り入れていた。
- 現実以上に導入されていた。
- 10-000形試作車はどうなっていたか?
- 東急8000系が現実以上に導入されていた。
- その前に目蒲線が分離されていた。
- 1980年代
- 都営6000形が東急に乗り入れていた。
- 6300形登場が早まっていた。
- 恐らく時期によっては5300形類似箇所が多かったかも。
- 6300形登場が早まっていた。
- 東急8500系が現実以上に導入されていた。
- 9000系の地下鉄乗り入れが実現していたかも。
- もしかすると現実以上に導入されていたかも。
- 9000系の地下鉄乗り入れが実現していたかも。
- 目蒲線分離が10-20年ほど早まっていた。
- 1995年
- 当初は10月開業予定
- 東急9000系の地下鉄乗り入れが実現していたかも。
- あるいは2000系派生車が多く導入されていたかも。
- 新3000系は増発用で導入か。
- 都営6000形が延命され東急乗り入れが実現していたかも。
- 6300形登場が早まっていたかも。
- 目蒲線分離が5年ほど早まっていた。
都営地下鉄浅草線[編集 | ソースを編集]
西馬込-泉岳寺[編集 | ソースを編集]
- 1960年
- 史実とは異なり北上する形で延伸されていた。
- 向島の車庫は存在しなかった。
- 京急旧1000形の先頭車は最初から貫通構造だった。
- 京成の改軌は史実通りだった。
- 「赤電」の塗装登場は1964年の東京五輪前だったか。
泉岳寺-新橋[編集 | ソースを編集]
- 1930年代後半
東京メトロ東西線[編集 | ソースを編集]
- 1980年代
その他[編集 | ソースを編集]
つくばエクスプレス[編集 | ソースを編集]
- 1890年代
- 日本鉄道運営。
- 終点駅は秋葉原駅ではなく上野駅か日暮里駅。
- つくば(「竹園」?)から先は現実の筑波鉄道のルートで岩瀬まで伸びていた。
- 東京上野ラインの計画はこの列車も含まれていた。
- 要するに北千住-土浦付近の海岸線(現常磐線)のルートが変わっただけ。
- 当時はまだ平行線を走らせるほどの需要はなかったはず。
- 常総線と竜ヶ崎線は守谷が起点だった。
- 我孫子、取手、牛久あたりに鉄道忌避伝説が生まれる。
- 全区間踏切なし・全駅ホームドア付きの近代的な路線にならず、130km運転もなかったかも。
- 1970年代
- 車両は415系だったか?
- 直流区間はなぜか70系。
- むしろ101系や401系の溜まり場に。
- さすがに廃止対象にはなっていない(はず)。
- 常磐線と接続され特急や急行も走っていた。
- 上野駅などでは誤乗防止のため「筑波経由」「取手経由」などという案内がされていた。
- 筑波鉄道は史実より数年早く廃止された。
- 筑波以北は残っている気がする。
- 1980年代
- 車両は415系(といっても顔が211系のほう)。
- 113系を改造したものは無いだろう。
- 西日本旅客鉄道じゃあるまいし。
- 113系を改造したものは無いだろう。
- 国鉄の緊縮財政で北千住止まり。
- 秋葉原延伸は民営化後。
- むしろ南千住まで複々線化用地を確保して打ち止めになる。
- 地下化するにしても史実のようなルートにはならないと思う。
- むしろ南千住まで複々線化用地を確保して打ち止めになる。
- 国鉄ではなく地元などが出資した3セク会社だった可能性もある。
- 秋葉原延伸は民営化後。
- 開業はつくば科学万博の直前。
- つくば科学万博のメインアクセス路線として大活躍し、入場者数も現実以上に多かった。
- 常磐線の万博中央駅は開設されなかった。
- 史実の万博記念公園駅が「万博中央」として開業し、閉幕後に改称。
- 2000年代前半(2000年も含む)
当初の計画では2000年に開業予定でした。
- TX-1000系電車、TX-2000系電車の登場は史実通り。
- 2004年に放映された大河ドラマ「新選組」をきっかけに、流山市に訪れる人が史実より多かった。
- これを機にラッピング列車が運行されていたかもしれない。
- 2003年に開業した場合、圏央道の一部開通と同時期であった。
りんかい線[編集 | ソースを編集]
- 1960年代
- 東京オリンピックの開発になっていたか怪しい。
- 当時は何もないので明らかに貨物列車向けなので。
- トンネルはそんなに長くないような気がする。
- 京葉線の開業も早まる。(とは言っても貨物列車での開業)
- 臨海副都心は貨物駅跡地の再開発名目で建設されていた。
- というわけで史実通り旅客化される。
- 当然ながら国鉄線としての開業。
- 京葉線の一部になっていたか、そうでなければ「東京臨海線」といった名前になっていた。
- 1980年代
- 東京臨海高速鉄道として開業か、JRで開業する理由で揉めるのか?
- JRで開業していたら、埼京線か京葉線の路線になっていた。
- 開業当初は貨物列車が中心になる。
- 駅名も「13号地」などの無味乾燥としたものがメインになる(後に改称)。
- 南八潮→品川シーサイド、東品川→天王洲アイル、13号地→東京テレポート、10号地→国際展示場、11号地→東雲、新木場(当初から)か。
- 駅名も「13号地」などの無味乾燥としたものがメインになる(後に改称)。
- 埼京線は開業初期からりんかい線と直通運転してた。
- 車両は1980年代前半の場合は201系、1980年代半ばか後半の場合は205系をベースにして製造してた。
箱根登山鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1870年代
- 東海道本線の支線になっていた。
- 1879年末の時点でも開業区間は新橋-横浜、京都-神戸しかなかったのでそれはない。
- 省線が箱根を直接経由しようとした準備云々としてならまだ可能性はあるんじゃないの?
- 1879年末の時点でも開業区間は新橋-横浜、京都-神戸しかなかったのでそれはない。
- 箱根の観光開発は史実よりも早く行っていたか。
- 当時の技術では建設できなかった公算が大きい。
- ヨーロッパの似たような地理的条件の登山鉄道ができたのは古くても19世紀末から20世紀初頭くらい。
- 本当に開業していたら「19世紀後半の特筆すべき鉄道技術の金字塔」などとして世界遺産に登録されるのは確実。
- 少なくとも箱根湯本までは作れると思うんだが・・・。
- ラックレール式鉄道の確立前になるから、箱根湯本から先はケーブルカーになっていた可能性が高い。
- 1930年代
- 小田原急行電鉄が建設していた。
- 場合によっては社名が「箱根急行電鉄」になっていた。
- 箱根湯本までは最初から狭軌の線路しか敷かれていない。
- 逆に小田急が標準軌で建設されていた場合は千代田線の直通相手が変わっていただろう。
鹿島臨海鉄道大洗鹿島線[編集 | ソースを編集]
- 1880年代
- 大洗が開港場に指定されていたらありえた。
- 1930年代
- 史実の鹿島線に相当する区間も同時に開業。
- 水戸-香取が1本の省線となっていた。
- 鉾田では鹿島参宮鉄道(のち鹿島鉄道)と乗り換えられた。
- 参宮鉄道が国有化され「鉾田線」になっていたかも。
- 茨城交通水浜線の寿命は確実に縮まっている。
- 東京か両国-千葉-佐倉-鹿島神宮-水戸のルートに急行(のち特急)が運転された。
- 名称は「かしまなだ」か。
- 鹿島臨海工業地帯の計画内容が大きく変わっている。
- 神栖線も旅客化されていた。さらに銚子方面への延伸も検討される。
- 智頭線は国鉄時代に開業していた。
- 高架区間はほぼ存在せず、踏切が水戸駅付近にとどまらず複数箇所にあった。
- 東日本大震災で路盤崩壊が多発して復旧が遅れていた。
- 茨城県初の本格的な高架駅の誕生はTXの開業を待つことに。
- 1970年代
- 水と緑のまごころ国体が開催された1974年に開業していた可能性が高い。
- 鹿島臨海工業地帯の完成と同時期であったので、工場の通勤客で賑わっていた。
- 鹿嶋市の成立が早まっていた。
- 非電化のままの場合、キハ40系気動車、キハ110系気動車、キハE130系気動車が運行されていた。
- 1971年以降に開業していた場合、鹿島線(香取~鹿島神宮間)の延伸として、開業していた。
- 民営化後は、潮来~水戸間はJR東日本水戸支社の管轄になっていた。
- 大洗駅に鹿島線営業所が設置されていた。
北総鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1930年代
- ニュータウンがない変わりに印旛沼あたりに大浴場や野球場が存在した。
- イメージとしては西武が開発した多摩湖・狭山湖周辺と似たような状況に?
- 京成グループじゃなかったかもしれない。
- 自力で都心や山武方面に延伸していたかもしれない。
- さらに自力で成田まで延伸し、空港直通の輸送にも携わっていた。
- 下記同様、運賃はそこまで高くない。
- 要するに東京成芝電気鉄道が開業した場合か。
- 1970年代前半
- 開業当初はリース車両のみの保有だった。
- 千葉ニュータウンへのアクセスが重要視されたため史実とは異なり京成高砂から開業していた。
- よって新京成との乗り入れはなかった。
- 最初から東京方面に直通していたため、運賃があそこまで高額になることはなかった。
- 成田空港への延伸は約20年後に実現。都営5200形は大量増備。地下鉄1号線の8両化が10年程早く進んだ。京浜急行を含む4社局乗り入れが70年代後半に実現。但し暫くは朝時間帯が殆ど。
- 成田空港まで延伸されても北総線のまま。空港第2ビル・成田空港両駅の中間改札は(京成グループ内)別会社のためにある,とされる。後に撤去されない。
- AE100形以降のスカイライナー車両は北総鉄道が所有。大規模な検査は宗吾工場で。
千葉急行電鉄[編集 | ソースを編集]
- 1890年代
- 片貝が開港場に指定されていたらありえた。
- 1930年代
- 京成が「両総(上総と下総を結ぶ)急行鉄道」の様な子会社をつくり、そこが建設した。
- 開業当初の車両は京成200・210形と同型車両だった。
- 戦時統合で京成に吸収された、その際に路線名称が千葉線に統一。
- 途中白井村(現在の千葉市若葉区)を経由、旧白里町辺りが終点だった。
- 京成は海水浴輸送に注力した、戦前から京成上野~京成津田沼~京成千葉(現在の千葉中央駅)~白里間に急行が走った。
- 海士有木方面へは白井村で分岐していたかも。
- '30年代中に開業できていたら袖ヶ浦自動車と千葉郊外自動車の合併が実現している。
- 1960年代
- 小湊鉄道の路線として開業していた。
- 千葉駅まで乗り入れていた場合、史実の車両は一掃されている可能性が高い。
- 1970年代前半
- 市原ニュータウンの開発は進んでいた。
- 破綻することもなかったかもしれない。
- 1980年代
- 中断することなく、真面目に工事を行っていたら、開通することができた。
- 1980年代後半に千葉中央~大森台間が開業し、1990年代前半に大森台~ちはら台間が開業していた可能性もあった。
- 大森台~ちはら台間が1991年3月に開業していたら、京成電鉄にとって、大規模なダイヤ改正になっていた。
- 京成3600形電車と京成3700形電車と京成3400形電車の投入が史実よりも早まっていた。
- 京成3700形電車と京成3400形電車が史実よりも多く製造されていたかもしれない。
- 開業が1988年以降になったら、京急から旧1000形電車をリリースしていた。
- 予定通りに、1997年4月に千葉中央~大森台間が複線化されて、2000年4月に大森台~ちはら台間が複線化されていたかもしれない。
- 千葉急行電鉄の経営状態は若干マシになっていたのかもしれないが、それでも、1998年10月に京成電鉄に譲渡されていた。
- それでも、海士有木への延伸計画は難航していたであろう。
- 辰巳台までの延伸は実現していたかもしれない。
ドリーム交通[編集 | ソースを編集]
- 1980年
- 日本跨座式モノレールの企画で開業されていた。
- ドリームランド周辺がドリームハイツ以外もニュータウン化されていた。
- ダイエーグループではなくかなちゅう、相鉄、小田急が出資していた。
- 大船〜ドリームランド間は小雀駅、相模原宿駅、相模深谷駅もできていた。
- 開業から数年後、長後や綾瀬市を経由したルートにて延伸開業が進んでいた。
- そうなれば並行する神奈中バスの路線も再編されていた。
- DeNA傘下になっている。
- 時を同じくしてドーム型の新球場がドリームランド跡地に開設される。
- ベイスターズ選手らによるマナー啓発放送が流れている。
- 路線拡充が行われていれば大船、ドリームランド、六会日大前でも選手らによる案内放送が流れているかもしれない。
- 言うまでもなくDeNA傘下になるのは2010年代に入ってからの話。
多摩都市モノレール[編集 | ソースを編集]
上北台~箱根ヶ崎間[編集 | ソースを編集]
- 2019年
- 念願の鉄道が開業したことにより、武蔵村山市にとって、喜ばしい年であった。
- 遅くても、10月頃までに開業していた。
- 町田方面の延伸計画に力を注いでいた。
立川北~上北台間[編集 | ソースを編集]
- 1990年代前半
- 当初の開業予定でした。
- 時期的にファーレ立川の開業と重なっていた。
- 立川駅周辺における開発も史実よりも進んでいた。
- 2000年までに上北台~箱根ヶ崎間が開業していた。
立川南~多摩センター間[編集 | ソースを編集]
- 1970年代前半
- 多摩ニュータウン周辺の交通整備事業として建設された。
- 史実通り日本跨座式が採用された。
- 「東京都地下鉄建設」に相当する東京都系の企業が約20年早く設立され、社名が「東京都交通開発」辺りになる。
- 1970年代以降に建設された都営地下鉄の区間(新宿・大江戸線の全線)と日暮里・舎人ライナーはそこが建設主体に。
- 姫路モノレールのように東京都交通局の直営となった。
- おそらく「東京都交通局のモノレール構想」、「環5モノレール線」も実現していた。
- 東京都交通局は跨座式と懸垂式のモノレールを保有する珍しい交通事業者となった。
- 「立川南」駅は開業当初「立川」駅を名乗った。
- 現実より運賃は安くなっていたか。
千葉都市モノレール[編集 | ソースを編集]
- 1910年代
- 普通鉄道だった。
- 当初鉄道連隊が演習も兼ね建設と運営をしていた。
- 1970年代
- 当初の車両は湘南モノレール300形ベースだった。
- 最初の開通区間はどうなっただろうか。
- 1号線は現実の千葉急行電鉄の代わりに、県庁前駅から千葉寺駅を経由、以降現実の千葉急行電鉄のルートで延長されていた。
- 株主に千葉中央バス・小湊鐵道(両社共に京成系列)も加わっている。
日暮里・舎人ライナー[編集 | ソースを編集]
※当初の予定では、1999年度、2002年度に開業する予定でしたが、諸事情により、2008年3月に伸びました。
- 1910年代
- 王子電軌が建設。
- 1970年代
- 1990年代
- 当初から建設と運営主体は東京都になっていた。
- 都営バス里48系統は廃止されていた。
- 330形電車は300形電車の置き換えとして、投入されていた。
- 2010年代末には埼玉県への延伸が実現していたかも。
- 2003年
- 300形電車が史実よりも多く製造されて、混雑が若干緩和されていた。
- 場合によっては、330形電車と320形電車が投入されることはなかったかもしれない。
宇都宮ライトレール[編集 | ソースを編集]
- 全般
- 開業時期によっては宇都宮市などの沿線自治体は経営に関わらなかった。
- 軌道ではなく鉄道扱いだったかも。
- 1900年代
- 開業当初の社名は「芳賀軌道」。
- 「日本鉄道(→省線)宇都宮駅と芳賀地域の連絡」が建設目的とされた。
- 当初は非電化だったが、昭和に入った頃に電化。
- のちに宝積寺と烏山を経由して大子まで延伸していたかも。
- この場合省線(現在のJR東日本)烏山線は存在しなかった。
- 真岡にも延伸されたかも。
- 戦時統合で関東自動車と合併し、合併会社が「栃木交通」を名乗った。
- この場合史実の「栃木交通バス」は別の社名を名乗る。
- 1930年代
- 1940年頃
- 国が上記の陸軍飛行場連絡の為建設。
- 1960年代後半
- 全線普通鉄道で開業。
- 当初京葉臨海などのように旅客輸送はなかった。
- 工業団地への貨物輸送が重視された為。
- 1970年代前半
- 1980年
- 栃の葉国体に合わせ開業。
- 開業が1979年に早まった可能性も。
- モノレールで開業。
- ホンダ・キヤノン・カルビーなどの工団進出企業が主要株主になっていたかも。
- 栃木SCラッピング車が走っていたかも。
- 宇都宮駅は新幹線駅と一体整備され駅中央部2階に発着している。
- 自由通路や新幹線駅との構造上4階に発着しているのでは?
- 現駅舎とも一体化。
- 2000年頃までに大谷や真岡へ延伸された。
- 平成期
- 富山ライトレールと比較されていた。
- HU300はTLR0600の3連接版だったかも。
- 2連接だったらTLRの丸パクリ呼びされるかも。
- 2020年頃に旧東武日光軌道線の復刻塗装車が走ったかも。
- HU300はTLR0600の3連接版だったかも。
- 2010年代に開業した場合、東日本大震災の影響で工期が伸びていたかもしれない。
- 2022年か2023年頃に宇都宮駅~大谷間が開業していたかもしれない。
- 2014年以降に開業した場合、栃木県のマスコットキャラクターである「とちまるくん」と芳賀町のマスコットキャラクターである「はがまるくん」が開通式に参加していた。
- 宇都宮駅東西の再開発が早まったかも。
- 上記同様工団進出企業が主要株主になっていたかも。
- 時期次第で上記の栃木SCラッピング車が走っていたかも。
- 2000年代前半より前だったらモノレールで開業。
- 2020年
- 2020年東京五輪を見越し開業。
- 開業が前年に早まったかも。
- カンセキスタジアム開設と重なったかも。
- おそらく富山の影響を史実より受けた形か。
- HU300の登場が早まる。
- 開業から間もない頃に旧東武日光軌道線の復刻塗装車が走ったかも。
- 早ければ2030年頃に大谷や真岡へ延伸されたかも。
- 上記同様宇都宮駅東西の再開発が早まったかも。
- 2022年
- 当初の開業予定年
- とちぎ国体に合わせ開業。
- 当然HU300の登場が早まる。
- 2020年五輪が東京以外だったかCOVID-19がなかったらありえた。
- 上記のように宇都宮駅東西の再開発が早まったかも。
秩父鉄道秩父本線[編集 | ソースを編集]
羽生-熊谷[編集 | ソースを編集]
- 1903年
- 上武が建設していた。
- 1943年
- 東武熊谷線の一部になっていた。
関東鉄道関連[編集 | ソースを編集]
鹿島鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1930年代前半
- 省線で開業。
- はやいうちに香取-鉾田-水戸が省線で繋がった。
関東鉄道竜ヶ崎線[編集 | ソースを編集]
- 1970年代
- 東京への通勤者向けの住宅開発目的で建設された。
- それでも電化されない。
常南電気鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1900年代
- 1940年頃
- 国が上記の海軍飛行場連絡の為建設。
筑波鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1985年
- つくば万博が開業のきっかけ。
茨城交通関連[編集 | ソースを編集]
ひたちなか海浜鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1970年代
- 鹿島臨海の路線に。
- 1990年
- 上記の通り鹿島臨海の路線に。
- 翌年のひたち海浜公園開園を見越し開業。
茨城交通茨城線[編集 | ソースを編集]
- 1930年代
- 水浜電車が袴塚から延長する形で開業。
東野鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1910年代
- 那須人車軌道が大田原から延伸する形だった。
- 1930年代までに大子まで延伸したかも。
真岡鐵道[編集 | ソースを編集]
- 1920年代
- 常総鉄道の延長で開業。
上信電鉄[編集 | ソースを編集]
- 1930年代
上毛電気鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1880年代
- 開業当初の社名は「渡良瀬軌道」。
成田鉄道[編集 | ソースを編集]
多古線[編集 | ソースを編集]
- 1970年代
- 空港建設の見返りだった。
赤城登山鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1930年代
本庄電気軌道[編集 | ソースを編集]
- 1890年代
- 当初「電気」は社名になかった。
わたらせ渓谷鐵道[編集 | ソースを編集]
- 1890年代
- 両毛線の支線で開業。
ディズニーリゾートライン[編集 | ソースを編集]
- 1960年代
- 1970年代
- 上記同様普通鉄道だった。
- 1980年代
- モノレールなのは史実通りか。
三峰ロープウェイ[編集 | ソースを編集]
- 1950年代
東京モノレール[編集 | ソースを編集]
- 1920年代
- 日本のモノレール普及が早まったかも。
九十九里鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1880年代
- 片貝が開港場に指定されていたらありえた。
川崎市電[編集 | ソースを編集]
- 1900年代
- 京急の前身会社が建設。
ニューシャトル[編集 | ソースを編集]
- 1880年代
- 当然普通鉄道だった。
芝山鉄道[編集 | ソースを編集]
- 1970年代
- 成田空港の開港に合わせる形で開業した。
- 1991年までは成田空港(現在の東成田)発着の一般列車がそのまま直通運転するダイヤだった。
- 芝山千代田駅は単に「芝山」という駅名だった。
- 1980年代
- 1989年に開館した航空科学博物館の入館者が増えていた。
- リース車両は当時の京成標準色だったファイヤーオレンジを緑に変えただけの塗装だった。
- 1990年代
- 京成本線(とJR成田線)の成田空港ターミナル直下乗り入れの見返りと言われた。
- 計画にあった初代3050形のリースが実現していた。
- 千葉急行同様、90年代後半には3100形・3150形(いずれも初代)に置き換えられる。
- 芝山鉄道所属車両が博物館動物園駅に停車する光景が見られた。
新京成電鉄[編集 | ソースを編集]
- 1880年代
- 1873年に明治天皇が習志野原で軍事演習を観覧したことが建設のきっかけだった。
- 日本鉄道もしくはその子会社が運営した。
- 松戸在住の徳川昭武が出資者に名を連ねていた。
- いずれにせよ鉄道国有法により国有化される。
- 現実よりカーブは多くなかった。